たとえ傷ついても 同日 一九二二時
リチャードは何者かが自分の肩をつかみ、何度も揺さぶっているのに気が付いた。
「うっ……んん……」
彼は寝返りをうつと、おもわずうめき声をあげた。薄目で真っ暗な空を見上げながら、吹きつける風の強さにその体を震わせる。何か燃えているらしく、焦げ臭いにおいがやたらと鼻についた。
(俺はなぜ、こんな寒い場所で寝ていたのだろう?)
ぼんやりとした意識のなかで、リチャードはそんな事を考えた。周囲では女性たちの――ほとんど絶叫のような――声がいくつも響いている。そのひとつが自分への呼びかけである事を、彼はしばらくの間理解する事ができなかった。
「副長、大丈夫ですか!」
リチャードはようやく状況を思い出し、両目を大きく見開いた。慌てて上体を引き起こすと、呼びかけていた水兵がおどろく横で周囲に視線を巡らせる。
〈リヴィングストン〉の羅針艦橋は、地獄のごとき様相を呈していた。右舷側後方の壁に大きな穴があいており、床には幾人かの将兵が倒れている。聞こえていた声は負傷して泣き叫ぶ彼女らと、それを看護し――あるいは既にこと切れた者たちを運ぶ別の乗組員たちが発していた。
リチャードは負傷の有無を確かめながら、このような惨状に至った経緯を思いおこした。
『敵重巡、本艦へ探照灯を照射!』
そう報告があったのは、眩しさで彼が目を閉じた直後のことであった。ほかの乗組員も同様で、艦橋はたちまちパニックに陥っていく。
混乱の隙をついて敵重巡は左舷に旋回し、右舷副砲と前部主砲による一斉射撃を開始した。駆逐艦とは比べ物にならない火力が〈リヴィングストン〉めがけて降り注ぎ、ホレイシアはあわてて回避を命じる。だが前甲板で爆発が生じ、その衝撃波が艦橋へ襲い掛かるまでにさして時間はかからなかった。
リチャードは怪我がない事を確認すると、傍の水兵に礼を言う。そのとき直後、彼は上官の声を耳にした。
「副長、無事だったようね」
「はい」リチャードはゆっくりと立ち上がる。「しかし艦長、その腕は……」
彼の目の前にいる上官は、右腕を三角巾で吊るしていた。
「ああ、これ?」
おそらく痛みを堪えているのだろう、ホレイシアは口元をひきつらせてそう答える。爆風で座席から吹き飛ばされ、そのとき肩を脱臼したのだと彼女は説明した。
「これくらい平気よ。死ななかっただけでも十分だわ」
「確かに、その通りですね」
リチャードは頷くと、艦橋の前へ歩いていった。まだ回収されていない遺体をよけながら進み――その中にはシモンズ大尉とおぼしき、肩から上が吹き飛んだ士官のそれも含まれていた――、壁から身を乗り出して外を覗きみる。速度を落としたのか、艦首にぶつかる波の勢いが幾分弱くなっていた。
「ひどい有り様だな」
彼は前甲板の惨状を一瞥して、思わずそう呟いた。
艦首の一〇・二センチ連装砲はその姿を消しており、砲座の跡からは煙が立ち上っていた。リチャードを失神させ、艦橋に大きな被害を与えた爆風の原因はこれであろう。真下にある弾薬庫へ引火しなかったのは、不幸中の幸いである。
しばらくすると、〈リヴィングストン〉では珍しい男の声が聞こえてきた。
「艦長、被害状況の集計おわりました」
そう言って敬礼したのは、ウィリアム・コックス兵曹であった。対潜科のメンバーは各部署の応援にまわされており、応急班へ送られた彼のコートは、油などですっかり汚れている。コックスが報告した艦の損傷は、次の通りであった。
・艦首をはじめ被弾多数
・前部主砲が消失
・艦尾四〇ミリ機関砲および二〇ミリ機関砲も損傷、使用不能
・レーダー故障、ただいま修理中
・船体数か所で浸水発生、応急処置を実施中
・機関室異常なし、全速発揮可能
・これまでの人的被害は戦死一二、重傷一〇、軽傷二五
ありていに言えば、中破と称すべき状態であった。艦橋要員も半数ちかくが犠牲になり、その中にはふたりの士官――シモンズ大尉と部下の航海士が含まれている。また水雷長のエリカ・ハワード大尉は現在、医務室で治療を受けているとの事だ。
リチャードは尋ねた。
「レーダーの修理に必要な時間は?」
「回線が断裂しただけなので、すぐに完了するとのことでした」
コックス兵曹が答えたとき、艦長席にある艦内電話のベルが鳴った。ホレイシアが自ら手に取ると、レーダー室から修理が無事おわったとの知らせが届く。同時に、敵の位置情報ももたらされた。
彼女は受話器を置いていった。
「敵重巡は五時方向、約四海里にいるわ。北西へ向かいつつあるそうよ」
「〈ローレンス〉と〈レックス〉がいるほうですね」リチャードが応じた。「おそらく、こちらを無力化できたと判断したのでしょう」
「そのようね」
ホレイシアは溜息をつき、一瞬おいてから言葉をつづけた。
「けれども、それに従う道理なんて私たちにはないわ。そうでしょう?」
「おっしゃる通りです、艦長」
リチャードが力強く答えると、ホレイシアは微笑んでコックスのほうを見た。
「兵曹、艦橋要員の補充を集めてちょうだい。最低でも五人は用意してほしいわ」
「了解です」
「副長は各部署の状況確認を。それと、ジェシーの代わりに操艦を頼むわ」
「分かりました、お任せください」
作業は直ちに開始され、リチャードたちは再び戦闘態勢を整えるべく奮闘した。作業がひと段落ついたのは、一九三五時のことである、〈リヴィングストン〉は北に針路をむけて、ふたたび駆け出していった。
それから一〇分が経過した。
「レーダー室より報告。敵重巡は一二時方向、や、約一三海里にあり。北東……いえ、北西の方角に変針後、二一ノットに舷側した模様」
「了解、ありがとう」
新しい電話員の報告に、座席にすわるホレイシアは微笑んで応じた。補充要員として慣れない任務につかされた、女性水兵の口調はどこかぎこちない。
「艦長。このまま進みますと、本艦は目標の後方に出てしまいます」
海図台のそばに立つリチャードは、振り向くとホレイシアへそう伝えた。隣には治療を終えたハワード大尉がおり、羅針盤にはコックス兵曹が取りついて、戦死した航海士の代役をつとめている。
ホレイシアが返答を思案していると、正面遠方でなにかが光った。見張り員のひとりが――今では数少ない、正規の艦橋要員だ――照明弾らしいと知らせてくる。〈ローレンス〉と〈レックス〉を視認するため、敵重巡が放ったものだろう。
リチャードがそう説明すると、ホレイシアは負傷した腕をさすりながら呟いた。
「つまり、敵は我々の存在を脅威と考えているのかしら?」
「その通りです」リチャードは頷いた。「おそらく船団を襲撃する前に、ここで殲滅するつもりなのでしょう」
「おかげで、船団が逃げる時間を稼ぐことができるわ」
ホレイシアは笑いながらそう言うと、リチャードへ針路を右に修正するよう命じた。リチャードは面舵の号令をかけ、コックス兵曹により伝声管で操舵室へと伝達される。時計の針は、一九四九時を指し示していた。
〈リヴィングストン〉が変針している間も、状況は変化しつづけた。照明弾の光が見える方角から、敵重巡の砲声とおぼしき音がかすかに聞こえてくる。
「変針おわりました。方位二九五で定針中」
リチャードがふたたび振り向いてそう告げると、ホレイシアは敵重巡までの距離をレーダー室へ確認する。一二海里との返答を得たあと、彼女はリチャードのほうへ目をやった。
「副長、敵重巡へ射撃可能になるまで、あとどれ位かしら?」
リチャードは海図を注視し、上官の疑問に答えるべく思案した。
「三〇分、もしくはそれ以上です」
「遅すぎるわ」ホレイシアは首を横に振った。「もっとスピードを上げてちょうだい」
上官が発した言葉に、リチャードは驚いて答えた。
「お言葉ですが、既に本艦は最大速力を発揮中です。これ以上となりますと……」
「構わないわ」
「……よろしいのですね?」
リチャードが念押しすると、ホレイシアはこくりと頷いた。
「いいわ、かっ飛ばして行きましょう!」
「分かりました」リチャードは正面を向き、羅針盤のほうを見た。「操舵室へ伝達、前進一杯!」
「ヨーソロー、前進いっぱーい!」
コックス兵曹の声が、艦橋全体に響きわたった。故障や暴発をいとわない――それゆえ本来は厳禁とされている、文字通りの全力運転がまもなく機関室で開始される。
〈リヴィングストン〉は船体をガタガタと震わせながら、速度をどんどん上げていった。艦首にぶつかる波の勢いも増していき、降り注ぐ飛沫が既にずぶ濡れの将兵たちを更に水浸しにしていった。
しばらくして、通信室からの伝令がメモを一枚もって来た。ホレイシアはそれを受け取り、一瞥すると小さくうめき声をあげる。
メモに書かれていたのは、〈ローレンス〉からの悲鳴じみた現状報告であった。敵重巡の西方七海里に位置する同艦は、〈レックス〉とともに二〇・三センチ砲の砲撃に晒されているとの事である。反対側から敵駆逐艦群も盛んに撃ちかけており、両艦はまさしく挟み撃ちにされていた。
「操舵室より、速力ただいま三〇ノット」
合成風力の作用で風が強まったなか、ホレイシアは先任下士官の言葉に頷いた。
「針路、速力そのまま。前進を続けてちょうだい!」
彼女の号令にこたえて、〈リヴィングストン〉はかつてないスピードで洋上を駆け抜けていった。目標が減速したこともあって、敵重巡との距離は時を追うごとに狭まってくる。
そして増速開始から一二分――二〇〇四時のことである。
「敵重巡は一一時方向、約六海里。徐々に速力を上げつつあり」
「こちらに気づいたようね」
レーダー室からの報告を聞いて、ホレイシアはそう呟いた。目標との距離は、発砲時の閃光を視認できる程度にまで迫っている。
彼女は海図台を見やり、リチャードの隣にいる水雷長へ命じた。
「エリカ、左魚雷戦用意。配置について」
「偽装雷撃ではなく、ですか?」
負傷した際に制帽を吹き飛ばされ、血まみれの包帯を頭に巻きつけた姿でエリカ・ハワード大尉は尋ねた。
「ええ」ホレイシアは頷いた。「この状況では、いつ沈んでもおかしくないわ。その前に一矢報いるわよ」
それを聞いたハワード大尉は、了解ですと答えて海図台から離れていった。彼女は艦橋の左舷側に設けられた、雷撃指揮装置――照準用の計算機を備えた、固定式の大型双眼鏡だと思えばいいだろう――の前に立つ。その時、電話員がふたたび報告の声をあげた。
「敵重巡、現在速力三〇ノット」
ホレイシアは更に増速を命じ、しばらくして敵重巡が照明弾をこちらに放ってきた。右舷側からの光に〈リヴィングストン〉が照らされるなか、コックスが大声で知らせてくる。
「ただいま三三ノット、これが限界です!」
直後に見張り員のひとりが、敵重巡で主砲とは異なる発砲炎を確認した。さほど間を置かずに、はるか後方で水柱が次々あがるのを艦橋要員たちは目撃する。こちらが予想外の高速で進んでいるため、狙いがずれてしまったのだろう。
ホレイシアは針路を右舷よりに修正するようリチャードへ命じ、そのあと電話員を通じて、砲術長に準備ができ次第砲撃をおこなうよう指示した。艦橋や煙突などの艦上構造物が邪魔して、唯一稼働する後部主砲が目標に狙いを定められないからだ。
〈リヴィングストン〉が発砲を開始したのは、それから二分後の事であった。それまで沈黙していた分の遅れを取り戻そうと、後部主砲が猛烈な勢いで敵重巡めがけて射撃をつづける。だが連装砲ひとつで、大型艦と撃ち合うのはあきらかに分が悪い。
敵の狙いは徐々に正確になり、〈リヴィングストン〉はいくつもの水柱に囲まれた。艦橋へ水しぶきが降り注ぎ、既にずぶ濡れとなっている将兵たちへ襲い掛かる。
「エリカ、準備はどう?」
轟音が周囲でこだまするなか、水雷長は発射指揮装置のスコープを覗きこんだまま答えた。
「魚雷の調整は完了、敵針路も計算機に……」
ハワード大尉がそこまで言うと、前方で爆発が生じた。
「ヒッ!」
爆音を聞いた大尉は、おもわず身をすくませた。リチャードとホレイシアは咄嗟に、音のしたほうへ目をむける。艦首の左舷側に敵弾が命中し、舷側と甲板の一部が吹き飛んでしまっていた。
(果たして雷撃をおこなうまで、艦が浮いていられるのか?)
リチャードはおもわず、内心でそう呟いた。
魚雷の命中率は大砲のそれと比べてかなり低く――その速度はフネよりもはやい程度であるうえに、波の影響をうけて弾道がしばしば逸れてしまうためだ――必中を期するなら、できる限り接近する必要がある。
(そもそも現状だと、敵艦の斜め後方から魚雷を放つことになる。正面や横の場合と違って、目標を追いかける形になるから目標地点にたどり着くまでの時間もその分ながくなる。これじゃあ、命中率が更に落ちてしまうじゃないか)
リチャードがそんな事を考えていると、電話員が報告の声をあげた。〈ローレンス〉と〈レックス〉が先んじて雷撃を敢行したとの事である。
リチャードは僚艦たちの敢闘精神に感心しつつ、〈リヴィングストン〉の左舷前方へ目線をやった。時おり発砲の閃光をまたたかせる、敵重巡のシルエットが闇のなかから浮かび上がっている。
「……ん?」
しばらくして、彼はそのシルエットに違和感をおぼえた。敵艦の姿が大きく――艦首から艦尾までの長さが、先ほどまでより長くなったように見える。
「……っ!」
その理由に気づいて、リチャードは喉奥から絞り出すようなうめき声をあげた。
「敵重巡は右舷へ、大きく変針しつつあります!」
見張り員がそう知らせてきたとき、艦橋で大きなどよめきが生じた。
目標は〈ローレンス〉たちが放った魚雷にたいし、回避行動をとるべく針路を転じていた。狙い撃つべき敵艦の横腹がいま、〈リヴィングストン〉の目前でさらけ出されようとしている。
「エリカ!」
ホレイシアが叫ぶと、ハワード大尉も大きな声でこたえた。
「……発射管の旋回範囲外です! これでは撃てません!」
ホレイシアは頷くと、つづいてリチャードがいる海図台のほうを見た。
「針路修正! 右に四〇度、急いでちょうだい!」
「ヨーソロー。おもかぁーじ、いっぱい!」
〈リヴィングストン〉は右舷に舵をきり、大きく船体をかたむけていった。リチャードは両足を踏ん張り、転倒しないよう注意しながら目標の様子を注視する。
敵重巡はそれまで進んでいた方角から、ほぼ直角に針路を転じたようである。急な変針に、照準が追いついてないのだろう。それまで〈リヴィングストン〉をとり囲んでいた砲撃による水柱が、いまは左舷に大きく外れた位置で生じている。
その時、敵重巡の艦首で閃光がまたたいた。
「敵艦、主砲を発射!」
見張り員の絶叫じみた声に、艦橋要員たちはさっと身を硬くした。さほど間をあけずに、砲弾が空気を切り裂く甲高い音が聞こえてくる。正面の洋上で轟音とともに、水柱が立て続けに噴き上がった。
突然できた大きな壁を、〈リヴィングストン〉は速度を落とすことなく突き破っていった。ずぶ濡れになった将兵たちが、衣服のあちこちから大粒の水滴をしたたらせた。
「水雷長!」リチャードが後ろを向いて叫ぶ。
「もう少しです!」
ハワード大尉は発射指揮装置の前で、身構えたまま大声でそう答えた。その姿勢をたもったまま、スコープを覗いて敵重巡を狙いつづける。しばらくして、再び彼女の声が聞こえてきた。
「ヨーソロー、ヨーソロー……」
一拍の間を置いて、大尉は力強い口調で言った。
「てぇーっ!」
若干のタイムラグを経て、魚雷発射管の操作員から発射完了の報告が届いた。圧縮空気によって打ち出された、二本の五三・三センチ魚雷が水中を駆けはじめたのだ。ホレイシアは直進をつづけ、目標の前方を通りぬけるようリチャードにむけて命じた。
正直なところ、〈リヴィングストン〉の雷撃は決して褒められたものではなかった。狙いをつけたハワード大尉の技量は不十分であるうえに、冬の荒れ海に揉まれて針路が左に逸れてしまったのだ。
だが結果的に、それが〈リヴィングストン〉には吉となる。こちらの動きを知ってか知らずか、敵重巡は更なる右舷への旋回をおこなったのだ。
帝国軍重巡の艦首に高々と水柱があがったのは、雷撃実施から二分後――二〇二四時のことであった。
「敵重巡に魚雷一発命中! 命中しました!」
見張り員がそう報告すると、〈リヴィングストン〉の羅針艦橋は沸き返った。将兵たちは階級の別なく歓声をあげ、互いに抱き合ってその喜びを表現している。
ホレイシアはその様子をみて一瞬だけ微笑むと、艦内放送を通じて雷撃が成功した事を全乗組員に告げた。その後は周囲に向けて、気を引き締めていくよう大声で告げる。戦闘は、まだ終わっていないのだ。
「〈ローレンス〉〈レックス〉の両艦と合流するわ」
彼女の命令に従って、〈リヴィングストン〉は北に針路をとって敵重巡の前方を駆け抜けた。敵重巡は被雷しつつも砲撃を続けるが、左右に舵をきることでこれを回避し進んでいく。敵駆逐艦群は重巡の救援を優先したため、二〇五〇時ごろに戦隊各艦はぶじ合流することが出来た。
砲声が鳴りやんだ闇の中で、ホレイシアは電話員に尋ねた。
「敵艦隊の動きは?」
電話員はレーダー室に確認をとってから答える。
「南方、約一〇海里の海域に集結中とのことです。今のところ、こちらに向かう様子はありません」
ホレイシアが頷いていると、今度はリチャードが言った。
「戦闘開始から、すでに二時間が経過しております。船団本隊の位置は、ここから概ね五〇海里といったところでしょうね」
「このまま、敵艦隊が退いてくれれば有り難いわね」
ホレイシアはそう呟くと、ふうと大きく溜息をついた。これほど距離が空いていれば、見通しのきかない夜間に船団が見つかる可能性は低いだろう。敵は少なからぬ手傷を負っているため、なおさら困難であるはずだ。
彼女は続けて言った。
「といっても残念ながら、船団が発見される可能性はゼロじゃないわ」
「つまり、まだ任務が完了したとは言い切れない。そういうことですね」
「そういう事ね」
「なんとも楽しくなってきますな」
リチャードは本当に面白がっているかの如く、唇の端を吊り上げながらそう答える。
実際、各艦はある意味笑いたくなるような状況にあった。〈ローレンス〉は〈リヴィングストン〉と同様、主砲塔のひとつを失っており、〈レックス〉に至っては敵弾が艦橋を直撃。艦長ほかの主だった幹部が戦死し、その場にいなかった対潜長が現在指揮をとっていた。
リチャードは表情を硬くした。「それで、どうされますか?」
「とりあえず様子見ね。連中が前進を続けるようなら……」
「敵艦隊に動きあり!」
ホレイシアが答えていると、電話員が割り込んでそう報告してきた。駆逐艦二隻を前衛に立てて、こちらへ進み始めたとのことである。雷撃により速力が低下した重巡に合わせているのか、その歩みは二〇ノット程度となっていた。
「諦めが悪いわね」ホレイシアは呆れた表情をして呟いた。「もっとも、それは私たちも同様だけれど」
「では?」
そう尋ねたリチャードへ、彼女は頷くと力強い口調で言った・。
「ええ、やるわ。全艦戦闘準備!」
「全艦戦闘準備、了解です」
リチャードはにやりとして答えると、部下たちへすぐさま号令をかけた。通信室を介して、戦隊の各艦にも命令を伝えていく。
その時であった。
「レーダー室より。敵艦隊は右舷へ変針、東へ向かいつつあり」
「なんですって?」
突然の知らせに、ホレイシアやリチャードは困惑した。連絡を伝えた当の電話員も、それは同様のようである。彼女はそのまま報告を続けた。
「更に後方、本艦から見て東南東一七海里に別集団の反応を確認。少なくとも大型二隻。北東へ針路をとっているとのことです」
報告を耳にしたホレイシアは少し考えてから、電話員のほうを向いて指示をだした。
「……識別符牒を発信して」
「了解、通信室へ伝達します」
電話員はそう答えると、通信室と連絡を取り始めた。結果を待つ間に戦闘態勢が着々と整えられ、艦内の各部署、そして第一〇一戦隊の各艦から用意よしとの知らせが次々に寄せられていく。最終的な報告者は、旗艦副長であるリチャードが務めた。
「艦長、戦闘準備が完了しました。いつでもいけます」
「少し待ってちょうだい」
ホレイシアはそう答えると、通信室からの返答を待った。しばらくして、その結果が艦橋へもたらされる。
「識別符牒に応答ありました! 第一〇戦隊です!」
報告を知らせる電話員の声は、喜びにあふれたものであった。識別符牒とは、敵味方を識別するための合言葉である。あらたに表れた集団は、別働隊に所属する友軍であった。
「第一〇戦隊ということは、重巡が二隻いるはずです」リチャードが嬉しそうに呟いた。「これで、戦力差はこちらが優位となりました」
「まさに、救世主の登場というわけね」
そう答えたホレイシアは、座席の背もたれに体を預けた。動かせるほうの腕で制帽をぬぎ、膝に置くと上空を見やって息をつく。周りにいる将兵たちも、大同小異のしぐさで&の気持ちを表現していた。
「終わったわね……」
彼女はそう呟くと、制帽を被りなおして副長のほうを見た。
「副長、友軍と協同して敵艦隊を追撃する。いいわね」
「了解しました。各艦へ通達後、ただちに移動を開始します」
頷いたリチャードは通信室へ指示をだし、操艦をおこなうべく海図台へ目を向けた。
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