面舵、針路三五〇  同日 〇九〇七時

 羅針艦橋には相変わらず強い風が吹き付けており、その勢いはむしろ増しているように感じられる。引き続き当直を務めている砲術長――サリー・フーバー大尉によれば、風のほかは特に異常なしとのことだ。リチャードは報告を聞き終えると、左舷側に置かれた海図台の前に立って乗組員たちの様子を観察した。

 現在配置についているのは、当直一、副直二の士官三名に下士官が同じく三名、そして水兵九名の一五名だ。様々な防寒着に身を包んだ彼女らは、見張り員や電話員、信号員といったそれぞれの職務を遂行している。

 リチャードは部下たちの勤務ぶりに満足すると、傍らに立つフーバー大尉へ尋ねた。

「当直、次の変針角はどれくらいだ?」

 フーバー大尉はお待ちくださいと答えると、慌てて海図台の上にある冊子に目を通した。波風に揺さぶられる艦上で、苦労して内容を確認している。

「えーっと…………。予定では、右に二〇度となっています」

「分かった」

 正面に目を向けたまま頷いたリチャードは、ちらりと大尉のほうを見た。彼女は定期変針の手引書らしい冊子を、不安そうな顔つきで読んでいる。

(まあ、仕方がないだろうな)

 心の中でそう呟いたリチャードは、誰にも気づかれないように小さく溜息をついた。砲術長であるフーバー大尉は、火砲の取り扱いが専門である。大尉とはいえ新人同然の経験しかもたない彼女が、操艦に手間取るのは無理からぬ話であった。慣れるには、まだ時間がかかるだろう。

 その時であった。

「船団指揮船、運動旗あげました!」

 報告の声をあげたのは、艦橋付き見張り員のひとりであった。右舷のうしろ半分を担当する彼女はいま、固定式の双眼鏡に両目をあてて後方を注視している。振り向いたリチャードが双眼鏡を構えると、船団本隊の商船群が彼の視界にはいってきた。

 どのフネも吹き荒れる風と押し寄せる高波で、船体を激しく上下させながら洋上を走り続けていた。その振れ幅はあまりに極端で、波に乗って船首を天たかく持ち上げられ、次の瞬間に波のいただきから落下し、スクリューを露出させながら海面に叩きつけられる貨物船やタンカーがあちこちに見受けられる。さすがに沈む事はないだろうが、中にいる船員たちは大変な目に遭っているだろう。

 船団司令官座乗の指揮船も、その中の一隻に含まれている。最前列の中央を走る中型貨客船で、そのマストから伸びるケーブルに何枚かの旗が結び付けられていた。

 赤や青、黄色といった、様々な色によって飾られたこれらの旗は、『旗旒信号』と呼ばれている。一枚一枚がアルファベットや数字に対応した符牒となっており、単独、あるいは複数を組み合わせて掲揚することで意思疎通を図るのだ。手旗通信や信号灯の点滅によるモールス信号の発信と共に、主として現在のような無線封止下でのやりとりに用いられている。

 指揮船がいま掲げている組み合わせは『右へ二〇度』、つまり間もなく行われる変針の角度を表していた。事前の打ち合わせで開始五分前から掲揚し、下ろされた瞬間に船団は針路を変更するよう定められている。

 リチャードは双眼鏡を下ろすと、船団のほうに視線を向けたまま、その時がくるのを待った。


「運動旗、おろされました!」

「面舵二〇度、針路三五〇」

 見張り員の声が再び聞こえた後、指示をくだしたのはフーバー大尉であった。現状の操艦指揮は、当直士官たる彼女が担当しているためである。

「ヨーソロー。おもかぁーじ、二〇!」

 号令を復唱したのは、中央の羅針盤の前に立つ副直士官――航海士であった。その声は備え付けの伝声管に向けられており、真下にある操舵室へと伝わっていく。そこでは操舵員が舵輪をまわしているはずだ。

 しばらくすると舵が効きはじめ、〈リヴィングストン〉は船体を左に傾けながら、その舳先をすこしずつ右側に寄せていった。

「舵戻せ」

 指定された方角に近づくと、航海士は舵をもとに戻すよう操舵室に伝えた。ただし船体は惰性で動き続けるため、予定通りの向きでピタリと止まる訳ではない。その勢いを相殺するため、航海士はわずかに左へ舵を切るよう指示を出す。

「……もどせ、舵中央……。ヨーソロー、舵よろし。現在針路三五〇」

 合わせて四回ほどの修正を経て、針路変更はようやく完了した。航海士から知らせを聞いて、フーバー大尉は隣に立つリチャードに報告した。

「副長、定期変針完了しました。現在針路は三五〇度、北北東の方角です」

「了解した」

 リチャードは頷くと、当直士官のほうを見た。問題なく変針を終えたため、彼女はほっとしたような顔をしている。

 今のところ〈リヴィングストン〉に乗る女性たちは、もたつきつつだが艦を操り続けている。フネに乗ったことすらない者が大半を占める、素人集団であった事を考えれば驚くしかない。ただ進むだけでよいのなら、なんの問題もなく目的地へたどり着けるだろう。

 だが、彼女たちが乗っているのは軍艦で、そして今は戦争中である。敵が襲い掛かってきたとき、彼女たちは戦わねばならないのだ。

(大丈夫だ。きっと、大丈夫)

 体を正面に向けながら、リチャードは心の中でそう強く思った。配属されてからの一ヶ月を思い起こし、自分の努力は決して無駄ではなかった筈だと言い聞かせる。しばらくして、彼の脳裏にふとした疑問が湧きおこった。

(そういえば、艦長はほとんどの部下を名前で呼んでいるな)

 軍隊内の人間関係は階級に基づいた厳格さが有名だが、何事も時と場合によるのであっていくつか例外が存在する。海軍では駆逐艦をはじめとする小型艦がその典型で、――あくまで他と比べれば、だが――家族的な雰囲気で部下と上司が接する所が少なくない。乗組員の数が二〇〇人前後で、双方の距離感が近いためであった。(逆に戦艦や空母など、乗員数が四ケタに及ぶ大型艦では、かなり厳しい上下関係が形成される傾向にある)

 ホレイシアもどちらかといえば、親や姉のような態度で将兵たちに接することが多かった。名前で呼びかけるのも、おそらくその一環である。だがリチャードは今のところ、役職名から『副長』と言われていた。

(なんだか、艦の一員と思われてないような気がするな)

 リチャードは一抹の寂しさを感じたが、「こんな時に何を考えている」と頭を振り、気持ちを切り替えようとした。

 その時、彼の視界の隅に船団本隊の様子が小さく映った。〈リヴィングストン〉が回頭したことにより、それまで後方にあったその姿が右舷側から見えるようになったのだ。本隊ではいま、先頭集団以降のフネが変針を開始したようである。

 双眼鏡を構えてよく観察してみると、右旋回中である商船の群れは混乱のさなかにあった。集団行動に不慣れな船長の指示と、おなじく不慣れな船員による操船。そして性能差から生じる船舶間の微妙な動きの差など、様々な要因が重なって隊列が大きく乱れてしまったのだ。とある穀物輸送船は舵を切り過ぎて隣の列へと突っ込んでおり、別のところでは重油タンカーが旋回のタイミングを誤り、直進を続けて旋回中の僚船にぶつかりそうになっている。機関の調子が悪いのか、スピードが上がりきらずに後続と衝突寸前の距離にまで近づいてしまったモノもいた。

「各員、船団から目を離さないで」

 リチャードの横で、フーバー大尉が乗組員たちへ指示をとばした。おそらく回頭が終わり次第、船団指揮船から隊列を修正すべく各所に号令が発せられるだろう。ほぼ確実に、第一〇一戦隊にも支援要請が出されるに違いない。リチャードは双眼鏡を船団本隊のほうへ向け続け、いつでも動けるよう状況の把握に努めた。

 彼の不安は、残念ながら的中した。

変針開始から三〇分後、船団指揮船は〈リヴィングストン〉にむけて発光信号を送った。隊列を整理するので、艦艇を貸してほしいとのことである。

 見張り員から知らせを受けて、リチャードは艦長室へ電話をつないだ。即興で考えついた対策案とあわせて、事の次第をホレイシアに説明する。許可をもらうとすぐさま信号員へ指示を出し、船団指揮船と同様に発光信号を用いて、遠方の僚艦たちにリレー形式で命令を伝達していった。

 列の修正がいちおう完了したのは、それから更に四〇分後のことである。

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