戦況概略      同日 〇八一五時

 リチャードはコックスと別れて自室に戻り、食事をとりつつ報告書を書きあげていった。作業を終えて部屋を出ると、報告書を手渡すべく艦長のもとへ向かう。彼女がいるのは艦橋構造物の最上部――いわゆる『羅針艦橋』だ。

 羅針艦橋の広さはおおむね七メートル四方で、段差と仕切りによって前後が隔てられている。前方は艦長ほか幹部士官が配置につく指揮区画で、後方は夜間用の探照灯や双眼鏡が置かれた、見張り員用のスペースだ。奥には対水上レーダーと光学測定機材を組み合わせた、円筒形の射撃指揮装置が設けられている。屋根が無い露天式のため、将兵たち――その多くは航海科の面々だ――は寒さを堪えて配置についていた。

「副長、参られました!」

 中央にあるラッタルから顔を出すと、リチャードの来訪を告げる甲高い声が艦橋に響いた。水兵たちの敬礼へ返礼を済ませると、彼は上官の居場所を求めて視線をめぐらせた。ホレイシア・ヒース中佐の姿を仕切りの向こう、艦首側に認めたリチャードはそちらへ歩いていった。

「艦長、おはようございます」

「おはよう、副長」

 ホレイシアは海図台の傍で、正面に双眼鏡を向けて立っていた。彼女は紺色のダッフルコートに身を包んでおり、マフラーで覆った口元からは、白い吐息が漏れ出している。

「艦内巡回が終わりましたので、報告書をお持ちしました。確認ねがいます」

 リチャードは書類鞄に手を伸ばすと、三枚綴りの報告書を取り出した。ホレイシアはそれを受け取り、目を通すといくつか質問を投げかける。乗組員の健康状態と、除氷作業の進捗に関するものだ。副長の回答に頷いた彼女は手袋を片方はずし、懐からペンを取り出して報告書に署名した。

「はい、ご苦労さま」

「ありがとうございます」報告書を鞄に戻すと、リチャードは上官を見て言った。「艦長、よろしければお休みになられませんか?」

 軍艦において全乗組員が配置につくのは、交戦中か、その可能性が高い時などに限定される。通常はローテーションを組んで交代しながら勤務する事になっており、戦闘時には三〇名ちかくになる羅針艦橋の人員も、現在はその半分ほどだ。艦橋では幹部士官一名が当直士官として操艦指揮などを担当するため、本来ならば艦長が居る必要は無い。

 ただしこれは制度上の話であり、航海中――とくに戦闘任務に従事している艦艇の長は、『指揮官率先』の精神に基づき可能な限り艦橋にあるべきだとされている。ホレイシアもそれに倣っており、昨夜も寝ずに艦橋で部下たちの様子を見ていた。

 彼女は腕時計にちらりと目をやると、リチャードのほうを見て答えた。

「そうね。朝食もまだだし、少しゆっくりさせてもらうわ」

「承知しました。では艦橋のほうは、しばらく自分が……」

「いえ、副長も私の部屋に来てちょうだい」

「……自分も、ですか?」

 リチャードが思わず尋ねると、ホレイシアはそうよといって頷いた。今後の事について、色々と相談したいことがあるそうだ。

「そういう事でしたら、お供させていただきます」

「決まりね。サリー、後は頼むわよ」

 頷いたホレイシアは当直士官へそう言うと、仕切りの向こうにあるラッタルを目指して歩き始めた。当直士官は分かりましたと間延びした口調で答え、他の将兵たちも艦橋を去ろうとしている上官に、敬礼しつつお疲れ様ですと声をかける。

(なんだか、女学校にいるような気分になるな)

 軍艦には場違いな女性の声を聞いて、リチャードはそんな事を思いながら上官の後をついていった。


 艦長室に入ったホレイシアは、備え付けの艦内電話で烹炊室に連絡した。朝食は後でとるので、先に紅茶を持ってくるよう頼んでいる。受話器を元の位置にもどすと、彼女はリチャードのほうを見た。

「楽にしてちょうだい。コートを脱いでも構わないわ」

 リチャードは上官の勧めに従い、制帽と手袋をはずしてコートのボタンに手をかけた。湿気を帯びたそれを脱ぐと体が軽くなり、暖房から運ばれてくるあたたかい風が眠気を誘ってくる。

 彼がコートをハンガーにかけ終える頃には、ホレイシアも防寒着を脱いで安楽椅子に腰かけていた。どうやら眠くなったらしく、あくびを噛み殺しながら背筋を伸ばしている。

 ホレイシアが着ている制服は、バトルドレスと呼ばれるものだ。茶色のウール生地で作られた裾なしジャケットで、両胸に蓋付きの大きなポケットが縫い付けられている。陸軍の野戦服だが丈が短く動きやすいため、海軍においても(制服規定を無視して)愛用する者が多い。彼女のそれは寸法がややタイトなのか、持ち主の豊満な体格を強く主張していた。

「あら、アーサー君は私の美貌に見とれてしまっているようね」

 リチャードが無意識に上官のほうへ目をやっていると、ホレイシアは背伸びをやめてそう言った。団子状にまとめた金髪がわずかに揺れ、茶色の瞳が悪戯っぽく笑っている。

「茶化さないでください。これ見よがしにポーズをとっておいて、いったい何を言っているんですか」

 リチャードが苦言を呈すると、ホレイシアは悪びれる様子もなく答えた。

「あら失礼。お疲れらしい副長へ目の保養を、と思ったのに」

 彼女は事あるごとにこういった態度をとり、副長をしばしば困らせていた。リチャードは毎回かるく受け流すが、その度に内心では冷や汗をかいている。

(教師がこんな調子では、教え子も相当苦労しただろうな)

 リチャードがそんなことを考えていると、ホレイシアがソファへ腰かけるように促した。部下をからかって、とりあえずは満足したようである。彼が座るのとほぼ同時に、ドアをノックする音が聞こえた。

 ホレイシアがどうぞと言うと、赤毛の三つ編みとそばかすが目立つ若い水兵が入ってきた。艦長の世話役である従兵だ。両手で持った盆には大きめのマグカップが二つに、ティーポットと角砂糖の入った小瓶が載せられている。

 盆を受け取って従兵を退出させると、ホレイシアは熱い紅茶をカップへ注ぎはじめた。角砂糖をいくつか放り込んでから、片方をリチャードのほうに渡す。

 ふたりはカップに口をつけ、体中に沁みわたる熱と甘味をしばし楽しんだ。

「さて。色々ありつつも、ここまでは無傷で到着できたわね」

 カップを手にしたまま、ホレイシアは感慨深げに言った。

 護衛対象であるNA一七船団と合流したのは出港翌日、すなわち一一月六日のことであった。

 NA一七輸送船団は排水量二〇〇〇トンから四〇〇〇トンクラスの、貨物船やタンカー四〇隻からなる大集団である。積荷は武器弾薬に食料、各種の工業原料などが一八万トンに、戦車三〇〇両、その他車両四〇〇両、そして各種航空機三〇〇機とこれまた膨大である。

 船団は第一〇一戦隊と邂逅した後、次のような陣形を形成して目的地――連邦への航海をスタートさせた。旧式船が少なからず参加しているため、速力は九ノット(時速約一六・五キロ)と低速である。

〇前衛: 駆逐艦〈リヴィングストン〉

 船団本隊の前方三海里(約五・六キロ)を先行。

〇中央:船団本隊

 各八隻の五列縦隊を形成。幅四海里(約七・四キロ)、奥行き三・五海里(約六・五キロ)の範囲に展開する。

〇右翼:駆逐艦〈ローレンス〉、コルベット〈ゲール〉

 本隊の右端から三海里離れて展開。駆逐艦は船団先頭、コルベットは船団後尾に沿うように配置につく。

〇左翼:駆逐艦〈レスリー〉、コルベット〈ガーリー〉

 本隊の左端に展開する他は、右翼と略同。

〇後衛:駆逐艦〈レックス〉、コルベット〈ゴート〉

 船団本隊の後方二・五海里(約四・六キロ)に展開。〈レックス〉が右翼、〈ゴート〉が左翼の配置につく。

※一海里はメートル法では一八五二メートル、また一ノットは毎時一海里に相当。

「そうですね。ただ、艦長の言われた『色々』も、なかなか大変でしたよ」

 リチャードが苦笑しつつそう返すと、ホレイシアも同じような顔つきになった。


 彼女らに課せられた任務はNA一七船団の護衛であり、その本分は襲いくる敵を排除、撃退することだ。非武装の商船を守り、その積荷を目的地へ届けるためだ。ただ船団運行の手助けも任務には含まれており、これに伴って発生する『色々』な問題が、リチャードやホレイシアにとって悩みの種となっていた。

 そもそも船団に参加する船舶は、所属会社も性能も異なっている。船長たちは互いに殆ど面識はなく、寸法や速力、操船時の癖などが多種多様なため、これらが集まってうごくのは決して簡単ではない。船長たちのなかで軍役経験者は少なく、集団行動の経験が皆無なためなおさら困難であった。

 そのためNA一七船団の航海は順調といえず、事あるごとにトラブルが頻発した。出港前に取り決められた隊列はしばしば乱れ、夜になると僚船を見失って、迷子になるフネまで現れている。船団には運行管理のための司令官が置かれているが、彼による指示はさしたる効果をあげていない。帝国側に傍受されぬよう無線使用が制限されており、手旗やサーチライトによる信号では、伝達に時間がかかるからであった。

 この事態に対処するため、しばしば活用されるのが護衛隊の各艦だ。商船に比べて機動力に富む軍艦を現場へ素早く派遣し、針路修正や遭難船の捜索を行わせるのである。その度にホレイシアは戦力を割く必要に迫られるため、彼女たちにとっては迷惑このうえなかった。

 幸いなのはホレイシアが言ったように、ここまで無傷でたどり着けたことだろう。偵察機らしきものに何度か遭遇したが、敵との接触は今のところそれだけである。スケジュールに多少の遅れは出ているものの、あと三日で連邦の港にたどり着けるはずだ。

「とはいえ、帝国海軍が港の中に引き籠っているとも思えません。早ければ今日中にでも、なんらかのアプローチがあると考えるべきでしょう」

「いよいよ、私たちが戦うときが来るわけね」

 リチャードの言葉に、ホレイシアは表情を固くして頷いた。

「むしろ、今まで何もなかったことが不思議です」リチャードは話を続けた。「出港四日め(一一月八日)の時点で我々は偵察機に発見されており、その後も断続的にですが接触を受けています。少なくとも彼らに船団の存在は察知されましたし、数度にわたる偵察でこちらの針路も予想しているでしょう。連邦にたどり着くまでの間、こちらは襲撃に備えて気を引き締め続ける必要があります」

「気を引き締めて、ね」

 ホレイシアは小さく溜息をつくと、小さな声でそう呟いた。表情はいまだ固いままである。その様子を見て、リチャードは彼女に尋ねた。

「やはり、不安がおありですか?」

「勿論よ。これが初の実戦だし、今までこんな大人数を指揮したこともなかったから」ホレイシアは肩をすくめつつ答えた。

 彼女の軍における前職は、ノースポートの近海をパトロールする哨戒艇部隊の隊長であった。九人乗りの小型高速艇五隻からなる小所帯であり、隊員数は五〇人にも満たない。乗員一六二名の駆逐艦に加えて、僚艦六隻を指揮している現状と比較すると、責任の重さは段違いだ。

「けど、だからといって仕事を投げ出す訳にはいかないわ。やれるだけの事は、勿論やるつもりよ」

「微力ではありますが、自分もお手伝いさせていただきます」

「頼むわね、副長」

 リチャードの言葉に安堵の表情で応じると、ホレイシアはカップに残る紅茶を飲み干した。

「ポットの中身はまだあるけれど、お代わりはいかがかしら?」


 再び紅茶を注いだカップを手に、二人は話をつづけた。リチャードが講師役となって、対潜戦闘時の注意点を丁寧に説明する。ホレイシアのほうは、時おり頷きながら熱心に耳を傾けた。

 ひと通りの講義が終わった後、ホレイシアは空になったカップを机に置いてリチャードに尋ねた。

「ところで、潜水艦以外にも注意すべき存在はあるわよね?」

「航空機による爆撃と、あとは通常艦艇による襲撃ですね」

「それらについて、何か対策はあるのかしら」

「そうですね……」

 僅かに考え込んだリチャードは、専門外ですがと前置きして説明した。

「空爆への対処は空母の搭載機に任せるのがベストですが、あいにく当船団にそんなモノはありません。普段から周囲に目を配り、いざという時は対空砲火で牽制しつつ、逃げまわるしかないでしょう」

「まあ、そうなるわよね」

 ホレイシアは溜息をつき、「空母がいてくれたら」と小さく呟いた。

王国海軍では商船を改造、あるいはその設計を流用した小型・低価格の護衛空母を何隻か建造している。リチャードたちが乗るL級と同様の、戦時急造艦艇だ。そのうちの一隻がNA一七船団に加わる筈であったが、直前に座礁事故を起こしたため予定はキャンセルされてしまっている。

「無いものに文句を言ってもしょうがないですよ」

「それくらい、分かっているわ」

 部下の言葉にすねた口調で答えると、ホレイシアは上着のポケットから銀色のシガレットケースを取りだした。リチャードがすかさずライターを手にし、彼女が咥えた高級品らしい、細身の葉巻に点火する。紫煙をくゆらせて香りを楽しむと、ホレイシアは新たな質問を投げかけた。

「じゃあ、もう一つのほうはどうかしら?」

「水上艦艇については、気にしなくてよいと思います。というより、現状ではこちらも打つ手がありません」

 自らも紙巻き煙草に火をつけたリチャードは、ひと吸いしてからそう答えた。

 当たり前の話だが、軍艦とは敵側のそれと交戦すべく設計、建造されるものだ。だが通商破壊戦を展開する帝国海軍は、戦艦や巡洋艦といった水上艦艇もしばしば商船狩りに投じている。既述のように王国との戦力差が大きいため、直接戦火を交えるよりは潜水艦と同様に扱うべきと判断したのだ。喪失を恐れてさほど積極的には動かないが、王国側は無視できない脅威と捉えていた。

 ただし、今回は帝国軍も本気であるらしい。情報部からの通達によれば、船団へ襲い掛かるべく艦隊が出撃しているとのことである。その陣容は以下の通りだ。

○戦艦:一隻

 排水量五万トン、三八センチ砲八門装備

○重巡洋艦:二隻

 排水量一万四千トン、二〇・三センチ砲八門、魚雷発射管一二基装備

○駆逐艦:四隻以上

 排水量二二〇〇トン、一二・七センチ砲五門、魚雷発射管八基装備

 総兵力は最低でも七隻、うち三隻が大型艦であり、商船の群れを殲滅するには十分すぎる数である。一方でこちらの隻数も七隻だが、その中で対艦戦に対応できるのはL級駆逐艦四隻だけだ。交戦すればかなりの苦戦を強いられ、ろくな抵抗も叶わず全滅する可能性すらある。

「別働隊に任せるしかないのかしら?」

「当面は、そうなりますね」

 ホレイシアの諦めが混じった言葉に、リチャードは頷いた。

 別働隊は戦艦二隻と正規空母一隻を中核に、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦一隻、駆逐艦一四隻によって構成されている。本国艦隊司令長官が直接指揮して船団とは別行動をとっており、敵を発見し次第ただちにこれを追撃、撃破するのが任務だ。現在は帝国軍艦隊と砲火を交えるべく、四方に捜索の手を伸ばしているはずである。

「ただし、敵が別働隊の追撃を振り切る可能性はあります」リチャードは話を続けた。「その際にはあらゆる手を講じ、犠牲を顧みることなく船団を死守する必要があります。その点は、肝に銘じておいてください」

「……指揮官は部下を駒と見做し、その死を許容して任務を果たさねばならない」

 ホレイシアがそう呟いたとき、葉巻の灰がこぼれ落ちた。

「訓練中に繰り返しそう言われて、覚悟していたつもりだったけれど。いざそういう立場になると、怖くなってしまうわね」

「指揮官というものは、決断をくだすのが仕事です」

 リチャードは厳しい表情で断言した。

「そして極論をいえば、部下というのはその決断を実行に移すための道具にすぎません。ある程度の手助けは出来ますが、最終的にはご自身で決める必要があります。そういうモノだと割り切るしかないですよ」

 もっとも自分が艦長でないからこそ、こういう事が言えるのですがね。リチャードはそう話を締めくくった。それを聞いたホレイシアが苦笑する。

「えらく辛辣な物言いね」

「自分は〈リヴィングストン〉の副長であり、上官たる貴方を輔佐するのが任務です。その責務を果たすためには、みずからの考えをなるだけ正確に伝えるべきだと考えています」

「頼もしいことね。たのもし過ぎて涙が出そう」

 部下のある意味ふてぶてしい意見を耳にして、ホレイシアはこの場で何度目になるか分からない溜息をついた。ただ遠慮のない物言いで逆に安心したのか、口元には笑みが浮かんでいる。

 その時であった。

『艦橋より達する、船団運動一五分前。繰り返す、船団運動一五分前』

「あら、もうこんな時間なのね」

 艦内放送のアナウンスが流れると、ホレイシアは壁にかけられた時計へ目をやった。時刻は九時を過ぎており、二人は三〇分ちかく話し込んでいたことになる。放送は船団針路を欺瞞するための、定期変針を予告するものであった。

「それでは、自分はそろそろ戻ります」

 そう言ったリチャードは灰皿を手に取り、短くなった煙草を押し付けた。

「お願いね」ホレイシアは灰皿を受け取った。「私は朝食をたべて、それから少し休ませてもらうわ。何かあったら連絡してちょうだい」

「了解しました」

 リチャードは上官の指示に頷くと身支度を整え、敬礼した後に艦長室を後にしていった。

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