ロスト

竹之内ひよこ

case_MAYUKI

西暦2160年。

この国では、特化型教育と呼ばれる新しい教育プログラムが推進され、 主流となっていた。

特化型教育とは、遺伝子情報から個人の適性と得意領域を明確にし、 その得意領域を特化して高めていく教育方法である。

時の政府は、特化型教育を受ける為に 小学校入学と同時に得意領域を調査する為のDNA検査を行うことを義務付けた。

まさに適材適所。 人口減少に伴う労働力の不足などを補うための、 効率的な教育方法は、子供の将来に対する不安を軽減させるだけではなく、 その子供の個性の確立と活用に大きく貢献を果たした。


――一方で、特性を重視した教育は【ロスト】と呼ばれる存在を生み出してしまった。


ロストとは、特化型教育を受ける為に必要な得意領域を持たない人間のことである。

特化して磨いていくべき分野がない。将来が不明瞭で不安定な存在。

彼らは、得意領域を持つ者たちを補佐する立場として存在を許され、 下級職に就くことを強いられた。 また、得意領域を持つ者の中には、更にランクを持つものがいる。

より専門的な分野の領域に特化した者たちには、「ランク」が与えられ、 その中でも「ランクS」は政府によって丁重に保護、管理された。 「ランクS」を持つ者は、その特権として、成人を迎えると共に 【ロスト】を自らのリザーブとして所有することができる。

彼らにとって【ロスト】とは、いざというときに自らの身代わりとして消費できる存在。

平等であるはずの命には、しかしながら優劣が存在していた。




幼い頃、母によく言われていた言葉がある。

「繭生、あなたは自由に生きなさい。何ものにも囚われることなく、自由に」

当時はその言葉の意味を正しく理解することはできなかったが、今ならばわかる。

母が願っていたことは、この世界で生きていく上で何よりも難しいことだったのだと。

夏原繭生は、ゆっくりと目を開けた。

何時の間に眠ってしまっていたのだろうか。寝起きのぼんやりとした頭でそんな事を考えながら、左右を見回す。ここは自分の部屋だ。どうやらデスクで作業をしながら居眠りをしてしまったらしい。

繭生は長い溜息を吐きながらゆっくり起き上ると、ふと窓を見た。

窓の外には、脊の高いビルが広がっている。時折、ビルに映るホログラムの広告が、「得意領域を活かして、健康で効率的な毎日を」と謳っていた。


ここは、繭生がよく知っている世界だ。


2000年も50年を超えた頃からだろうか。

その頃からDNAの研究は飛躍的に進み、今や、自分の食の好みから将来就くべき職業、得意不得意、疾患まで分かってしまうようになった。

そして、その便利なデータに最初に目を付けたのは、政府だった。

人口の減少が止まらないこの国では、労働力の減少という問題が起こっていた。

いくら機械化したところで、人が行うべき作業というものはどうしても発生してしまう。しかし、この問題が取り上げられ始めた当時は、まだ職業選択の自由と言う権利があったという。

当時の人たちは、自分で希望する職を探し、企業によって一定のふるいにかけられ、ようやくその職に就いていた。故に、そのわずかな労働力は職種によって偏りができてしまっていた。また、職につけない若者や就職ができるか不安視してしまい心を病む若者も存在していたらしい。

そこで政府は個人の適性を重視し、得意領域を特化して磨いていく教育方法を打ち出した。


特化型教育。

個人の得意領域をDNAで可視化し、その領域に特化した教育を施すことによって、労働力の分散と若者の不安軽減に貢献するという教育方法だ。


打ち出された当初は夢のような世界だと皆が言っていたが、繭生にとっては、何でもかんでもDNAという遺伝子情報で決めつけられてしまう、反吐が出るような世界だった。

「ランクS」だから、と言う理由で「管理」という名目で自由を奪われ、窮屈な鳥かごの中で生きることしかできない、鬱屈した世界。


「……窮屈で仕方ねぇよ」

その辺にあった書類を、思い切り部屋にばら撒いてみる。

ひらひらと舞う紙を眺めながらも、空しさが増すだけだ。


夏原繭生にとって、退屈は死にも等しいものだ。




―1―

「……で、どういうことか一から説明しろ、凛」

繭生は、家を訪ねてきた幼馴染にそう告げると、ぎろりと睨んだ。

「まぁ、そう怒ることじゃないよ、繭生」

繭生の視線の先にいる人物は、彼の幼馴染であり、リザーブでもある、北條凛という男だ。

凛がこうして食材の入ったビニール袋を提げて、繭生の住む家を訪れるのは割と頻繁なことなのだが、今回は少し様子が違った。

しかし、当の凛はいつもと変わらない様子で繭生に笑いかける。

「まだお昼だから起きているか心配だったけど、ちゃんと起きてたね。えらいえらい」

「……早速、話が通じてねぇなぁ、この野郎」


繭生は、視線をビニール袋から凛に移し、その考えを読もうとじっと見つめる。


色素の薄い柔らかそうな茶色の髪と、人好きしそうな穏やかな笑み。

繭生は、男の顔の良し悪しに興味は無いが、きっと凛は世間的には良しの部類に入るだろう。

それは凛の身なりからもなんとなくわかる。

ロストである北條凛は、ロスト犯罪を専門的に扱う部署に勤めている立派な刑事だ。

低級職に就くことが多いロストの中でも特殊で、彼がそこそこ優秀であることがうかがえる。

しかし、凛のすごいところはそれだけではない。彼は、そんな忙しい仕事に就いているにも関わらず、いつも皺のないスーツを纏っている。穏やかだが隙がないというのだろうか。とにかく、凛が繭生と違い、細やかなところまで気の配れる男なのだ。


だからこそ、そんな男が意味もないことをするはずがない。


目の前でにこにこと笑みを浮かべ、一向に本題に入らない男に苛立ち、とうとう繭生から問いかけた。


「……そろそろ話せよ、凛。今日はやけに荷物が多いじゃねぇか」

繭生があごで示す先には、真っ黒な髪を二つに結った少女がいた。

一気にぴんと張り詰めた空気に、少女は小さく後ずさりをする。

……小学生くらいだろうか。少女は目を伏せて、隣にいる凛のスーツをぎゅっと握った。

「まずは、はじめまして、だろ。ごめんね、結ちゃん」

そう言って、凛が少女の頭を撫でる。

「彼女についての詳細は先週渡した書類に書いてあったと思うけど?」

「あ?」

凛の返答が気に食わない繭生は、一応、頭を巡らし、先週渡された書類について思い出す。

そういえば、数時間前に部屋にばら撒いた書類の中に、そんなものがあったような。


確か……少女の名前は、花岡結。

9歳のロストの少女だ。

少女について、他に覚えていることといえば。


「…確か養護施設から抜け出す癖のあるガキだったか」

「繭生」

たしなめるような凛の声に舌打ちをする。

「事実だろ」

繭生は、目の前の小さな丸っこい頭を見降ろす。結は、繭生のことを見ようともせず、凛のスーツを掴んだままだ。

「……まぁ、色々あってね。しばらく僕が彼女の面倒をみることになったんだ」

「どんなことがあったら、そうなるんだよ」

「そのうち話すよ」

凛はそう言うと、ここからが本題なんだけど……と話を続けた。

「面倒をみることになったとはいえ、僕は刑事だし、急に呼び出されることもある。その間、結ちゃんを一人にしておくのは気が引けるだろ?」

そこまで聞くと、繭生にもようやく話の流れが読めてきた。

「…俺は面倒なんかみねぇぞ」

「大丈夫。一緒にいてくれるだけでいいから」

繭生はずっと家にいるでしょ?と小首を傾げる凛にちょっとした殺意が湧く。

しかし、凛は繭生の厳しい視線など気にも留めずに話を続ける。

「このご時世、ロストってだけで差別する人たちもいるし、良からぬことを考える輩もいる。まして、結ちゃんはまだ幼い女の子だ。お世話をすることになったからには安心安全な生活空間を提供したい。繭生は幸いにもランクSを持ってる領域保持者だし、その居住区画は政府によって厳重に管理されてる。これ以上、安全な場所はこの国にはないだろ?」

それにここにいれば、繭生と結ちゃんの世話を一遍に見られるしね、と笑う凛は、一切譲る気のない笑顔を見せた。

繭生は長いため息を吐く。こういう場合は、第三者の意見を取り入れる方がいいだろう。

ひとまず、腕に付いている端末を口元に近づけて、おいと声をかけた。

「…アンタは許可したのか」

すると、繭生の声に反応するようにザッとノイズのような音が響く。そして、端末の向こうで感情の読めない男の声がした。

「政府はこの件について、特に関心を持っていません」

どうやら繭生を保護している政府は、この件については無関心を貫いているらしい。

「秋人さん、お疲れ様」

そう言って凛が繭生越しに端末に話しかけるが、端末の向こうの相手はそれを黙殺する。

凛と繭生の行動に興味を持ったのだろうか。

床ばかり見ていた結がふいに顔を上げると、少しだけ背伸びをして繭生の端末を覗きこもうとする。

その様子に気が付いた凛は、くすっと笑うと結に声をかけた。

「これ、気になる?」

こくんと控え目に頷いた結は、凛と端末を交互に見たあと、小さく呟く。

「……しゃべった」

「うん。この端末はね、ランクSである繭生を守るためのものなんだ。通信相手は柊秋人さんっていう監察員なんだけど、繭生を危険なものから守ったり、困ったときや何かお願いがあるときに一声かけるだけで何でもしてくれるんだよ」

「要は、見張りだ」

繭生の声に、結が小さく身体を震わせた。

それを気にせず、繭生は凛の説明を捕捉するように話し出す。

「監察員ってのは、俺がいつどこで誰といて、どんなことを話していたか、詳細を記録して報告する奴らのことだ。ランクSは政府にとって守るべき人間ってだけじゃねぇ。敵に回ったら困る人間なんだよ。だから、保護と言う名目で管理する。ある程度の生活が保障されてるのも、ある程度の我儘が通るのも、その代償みたいなもんだ。この端末はランクSしか持ってねぇ、要は首輪みてぇなもんだよ」

「繭生」

たしなめるような凛の声に、ふいっと顔を背ける。

凛は軽くため息を吐くと、結の頭を優しく撫でた。

「まぁ、とりあえず、わからないことは僕か繭生に何でも聞いてね。これから一緒にいることになるんだし、遠慮は駄目だよ?」

「おい、凛!」

勝手に話をまとめるな、と抗議しようとすると繭生の口の中に飴玉が放り込まれた。

「……っ!」

「繭生、今日はまだ食事をしてないだろ? 顔色が良くない。取りあえず血糖値を上げようね。せっかく可愛らしい同居人さんが来てくれたんだから」

隣の結にも飴を渡すと、結は恐る恐る受けとり、もごもごと食べ始める。

「結ちゃん、おいしい?」

こくりと頷く結を見た後、凛は時計に視線を落とした。

「……さてと僕、そろそろ行かなくちゃ。繭生、また帰りに寄るから。結ちゃんのことを宜しくね」

「よろしくって……おい!」

「あ、そのビニール袋の中に繭生のお昼ご飯が入ってるから。ちゃんと食べてね。一応、結ちゃんが好きそうなものもあるから、ちゃんと面倒見てあげて」

「聞けこら!」

繭生にビニール袋を押し付け、急ぎ足で去っていく凛の脊中にそう投げかける。しかし、にこりとした笑顔を返されただけだった。しばらくして、ぱたんと扉が閉まる音がした。



……どうすりゃいいんだ。

繭生は元来、そこまで焦ることも困惑することもない。しかし、今回ばかりは話が別だ。目の前の少女に対して、果たしてどんな言葉をかければ良いかまるで見当がつかない。

微妙な静けさに包まれる室内で、繭生は懸命に頭を巡らせた。

「……おい」

とりあえず声をかけてみるが、少女は自分のスカートをぎゅっと握ったままこちらを見ようとはしない。その反応に苛立ちながら、もう一度、おい、と声をかけるが、やはり反応はない。

繭生は、あー、うーと散々唸った後、ひとまず少女と視線を合わせるためにしゃがんでみることにした。一か八かではあるが、似たような状況にいたとしたら、凛ならばこうするだろう。そして、視線をうろうろさせたままの少女を呼ぶ。

「……おい」

すると、ようやく黒目がちな大きな瞳とかち合った。

瞬きをするたびにふわりと動くまつ毛、ビー玉のようにまんまるな目、幼さを感じさせるような頬の色……

「……とりあえず、ソファに座れよ」

「……うん」

小さな声だが、ようやく聞こえた返事に、繭生は肩で息をした。


結をリビングのソファに座らせた後、繭生は、自分の部屋から書類を引っ張り出し、少女と交互に見比べた。

結が、母親からネグレクトを受けて養護施設に入ったのは約3年前。

それだけの情報で大凡の流れを把握した。恐らく結は、6歳の領域検査のときにロストであることが分かり、親から見捨てられたのだろう。得意領域を持たない子供の育児を放棄する親は多い。それだけじゃない。子供の未来を悲観して手にかける親もいる。

繭生はため息を吐くと、書類をテーブルに投げた。


得意領域不保持の人間。社会的な地位が低い、ロスト。


「……いっそ生まれて来なきゃ良かっただろうに」

無意識に漏れた繭生の呟きに、結がびくりと身体を震わせた。

この国のロストの扱いは酷いものだ。勿論、不当なリザーブ契約や売買、暴力、殺人行為など基本的なことは禁止されている。しかし、ロストという理由だけで制限されていることも多い。例えば、得意領域保持者とロストの婚姻は禁止されているし、両親がロストで子供が領域保持者であった場合、両親は子供を手放さなくてはならない。

そもそも、リザーブなどという制度そのものが、彼らの命を軽んじている最たるものだろう。繭生と同じ「ランクS」の者の中には、遊びのように軽率にリザーブを「消費」している者もいるのだから。

勿論、そんな政府や法律に反旗を翻し人権を主張しているロストたちもいる。しかし、そんな彼らは、世間から見ればただのテロリスト集団という認識をされてしまっている。

どうやら、一度決まった法律や概念というものは、そう簡単には変わらないらしい。

「腹は?」

「…………」

「喉は……」

「…………」

繭生は居心地の悪さに、思わず自分の喉元を押さえた。昔から、ストレスを感じると気管支がきゅっと狭くなるような錯覚に陥って、上手く息が吸えなくなるのだ。


繭生は凛以外のロストと交流を持ったことがない。相手にしたこともない。

本当に凛は何を考えているのだろうか。繭生にとって今の状況は、物凄く率直に言うとストレスでしかないというのに。

「後は好きにしていい。俺はあっちの部屋にいる」

結局、そう言い残して逃げるようにリビングを出た。


ぱたんとドアを閉めると、喉元を押さえていた手を放し、深く息を吐く。

結がいることを忘れたい一心でパソコンを操作し出すと、不思議と呼吸が楽になった気がした。

繭生にとって、ここだけが息が出来る場所なのだ。




パソコンと向き合っていた繭生だったが、しばらくするとさすがに小腹が減ってきた。

面倒だと思いつつもリビングに戻ると、結は来た時と同じようにソファに座っていた。すっかり日が傾き、真っ赤な夕日が差しこむリビングで、彼女はただ窓をじっと見つめている。

もしかして、今までずっとそのままでいたのだろうか。

「好きにしてろっつったろ」

「……血の色」

「は?」

結の口から紡がれた言葉には、何も感情が乗っていない。恐らく、ただ思ったことがそのまま零れてしまっただけなのだろうが、子供が口にするには少々物騒な言葉だ。

「血の色って……こういうのは茜色っつうんだよ」

「あかねいろ」

「それより、お前、腹は?」

結は繭生の言葉など耳に入らないようで、何度も「あかねいろ」と呟いては首を傾げ、また窓の外の夕日を見つめる。

意思の疎通が取れない事に苛立ちつつも、繭生は冷蔵庫からゼリー飲料を取り出して、結に渡す。

「とりあえず食っとけ」

「……?」

結は、両手で受け取るが、それ自体が何なのかイマイチ分かっていないようだった。

繭生はため息を吐く。

カチッと音を立てて開封し、口にくわえて吸ってみせる。

百聞は一見に如かず、というやつだ。

「こうやって食うんだよ。ただの食い物」

結は、繭生にならってゼリー飲料を開けようとするが、なかなか上手くいかない。

どうやら少女の力では難しいようだ。

仕方なく開けてやると、結は両手で持って恐る恐る口に含んだ。

そしてゆっくり飲み込んだ後、驚いたように目を見開いた。

彼女の頬がほんのりと赤らむ。

それを見て、繭生は少しだけいい気分になった。

「美味いだろ」

「……あまい」

「甘いじゃねぇ、美味いだ」

「……うまい」

「……うまい、じゃないから。教えるならもっとまともなことにしてくれないかな」


突然聞こえた第三者の声に思わず入口を見ると、そこには呆れた顔をした凛がいた。


仕事がようやく終わったのだろうか、少し疲れた顔をしてはいるものの、食品を買ってくる余裕はあったようだ。

その両手には食品がぎっしりと詰まったビニール袋がぶら下げられていた。

「凛。お前、昼間も何か買ってきてただろ。太らせる気かよ」

「昼間のあれは繭生のお昼ご飯だってば。中身を見てないってことは食べなかったの?」

そう言えば、出かけていく凛に手渡された後、冷蔵庫の前に適当に置いたままだ。

繭生の表情から、お昼ご飯の行方を読み取ったのか、凛は自分の額に手を当てた。

「いつになったらちゃんとご飯を食べるっていう習慣が身につくのかなぁ。とにかく、夕ご飯の材料を買ってきて良かった。一日一食は守ってもらうからね」

凛はそう言うと、ビニール袋を床に置いて結に近づき、笑顔でゼリー飲料を取り上げた。

「結ちゃん、それはご飯じゃないよ?」

「ごはん、じゃない?」

「そう。これから料理を作るから、もう少しだけ待っててくれるかな」

ぽかんとしたまま頷く結の頭を撫でた凛は、さてと、とワイシャツの腕を捲る。

「今日のメインはじっくり煮込んだデミグラスオムライス。添え物はミニエビフライと温野菜のサラダ。スープはセロリとレモンのさっぱり鶏ガラスープかな」

凛の考案したメニューに、繭生がすかさず注文を足す。

「オムライスはライド。スープはセロリ抜きで」

キッチンに立った凛は慣れた手つきでエプロンをすると、結に声をかけた。

「セロリ、一つは食べてもらうからね。結ちゃんは何か苦手なものはある?」

凛の問いに、結はこてんと首を傾げた後、ふるふると小さく首を振った。


「……結ちゃんを見習った方がいいよ、繭生」

「うるせぇよ」


三人で囲む食卓、というのは、何とも言い難い複雑なものだ。


元々、繭生は誰かと食事をするのが嫌いだ。

相手の食べるスピードが気になってしまって食事に集中できないし、何より、人と一緒にいるというのが耐えられない。

勿論、凛と食事をすることもあるが、凛は繭生の食べるスピードに合わせてくれるから、そこまで負担にはならない。それが凛の気遣いであることは理解していたが、繭生にとっては当然のようなものだった。


しかし、今回は話が違う。


「おい、凛」

「まさか繭生、部屋で食べるなんて言わないよね。せっかくテーブルに並べたんだし」

先手を打たれてしまった。こうなってはどうにもならないので、凛に視線で促されるまま渋々と椅子に座る。

テーブルの上に綺麗に並んでいる夕食は、見るからに美味しそうだ。先程までそんなに空腹を感じていなかった繭生も不思議と食欲を誘われる。フォークを手にとって、オムライスの真ん中にそっと切り込みを入れると、卵がふわりとチキンライスの上に広がった。

「…ふわふわ」

一瞬、自分の心の声が漏れてしまったのかと思い、繭生は思わず口元に手を当てる。

しかし、声の主は目の前で不思議そうにオムライスをつついている子供だった。

「結ちゃん、おいしい?」

「……ん」

どうやら、結は何かを気に入ると頬が赤らむ癖があるようだ。

もごもごと口を動かしながら、赤い頬いっぱいにオムライスを含んでいる。

ちまちまと食べる繭生とは大違いだ。

ふと、結の頬に手を伸ばした凛が、その柔らかそうな頬についた米粒を掬って自分の口に運ぶ。

それを見ていた繭生は思わずため息を吐いた。

「……そういうこと、よくできるよなお前」

「え?」

「何でもねぇよ」

「繭生もしてほしい?」

「寝言は寝て言え」

「嘘だよ。ところで、繭生、オムライスの味はどう?」

「普通」

「そっか」

美味い、などと言ってやるつもりはない。

しかし、そんな繭生の心を見抜いているのか、凛は満足げな笑みを浮かべている。

その笑みから逃げるように目の前の食時に視線を落とした。


ほわほわと湯気を立てているスープには、セロリが一欠けらだけ浮いていた。


夕食がすむと、皿洗いを終えた凛は、また出かける準備を始めた。

どうやら警察は忙しいらしい。

「…最近、ロストの犯罪件数が増えてるんだ」

「犯罪が多いのはいつものことだろ」

「それもまぁ、そうなんだけど。悪質なブローカーはなかなか捕まらないし、レジスタンスと警察は街中で堂々と衝突するし、本当、困ったなぁ」

少しだけ荒っぽく髪を掻きあげた凛が、珍しく小さな舌打ちをする。

これは相当参っているようだ。

「凛お兄ちゃん、困ってるの?」

「…ちょっとだけね。自由な人たちが多くて」


凛の言う悪質なブローカーとは、ロストを攫っては違法に売買している奴らのことだろう。

最近、行方不明のロストが増えているというニュースは、繭生もよく知っていた。ある者は腕や内臓を失った状態で発見され、また、ある者はリザーブとして明らかに違法な人身売買の被害者となった。警察は組織的な犯行だと踏んでいるらしいが、まだその尻尾は掴めていないらしい。

「……そういや、凛。なんで最近、レジスタンスの奴らが活発になってるんだ? 前までは警察と正面切って争うほどの威勢も実力もなかっただろ」

「ああ。今までのレジスタンスは、ただの少人数のテロリスト集団という認識だった。だけど困ったことに、人を率いるのが上手い奴が現れたんだよ。その彼の語る理念に心酔したロストたちが徐々に集まってきているんだ」

「なんだそれ。しっかりしろよ、警察だろ」

「耳が痛いな…」

昼と同じように凛を見送ってから、繭生も自分の部屋に戻る。


結は、ただじっと玄関の扉を見つめていた。



深夜、繭生がふと我に帰ると、もうそろそろ日付が変わろうという時間だった。

ついつい作業に夢中になってしまったが、あの子供はどうしているだろう。

そこまで考えて、繭生は舌打ちをする。こうして他人のことを気にしなければいけないから、誰かが家にいるのは好きではないのだ。だからこそ、繭生は自分の監察員ですら家に入れることはない。本来ならば、ボディーガードや秘書を兼ねる彼らを傍に置いておくべきだし、その方が都合がいい。それを理解していても、繭生は断固拒否を示した。

そのおかげで、繭生の担当をしている監察員は、同じマンション内に居を構えることとなったらしい。初対面でいきなり「なるほど、いかにも程度の低い我儘を言いそうなガキですね」と鼻で笑われたのは、今思い出しても腹が立つ思い出だ。


大きく息を吐いた後、繭生は重い足を引きずってリビングへ向かう。


いきなりこの部屋にやってきたのだ、あの子供が眠るような場所など用意していない。となると、きっとリビングのソファで眠っている可能性が高いだろう。とはいえ、自分の寝室に入れたくないし、自慢じゃないが、寝ている子供を移動させられるほどの体力もない。

せめて、息をしていることくらい確認しておけばいいだろうと心に決めて、リビングの扉を開けた。

「……?」

しかし、リビングに結の姿は見当たらない。テーブルの下、キッチン、ベランダ、ソファの下、と子猫が隠れそうなところを探してみるが、全く見当たらない。

「何処に行ったんだ?」

少し嫌な予感がしつつも、トイレや他の部屋を見るが、やはり見当たらない。

すると、脳裏にある言葉が浮かんだ。何時間か前に言った、自分の言葉だ。


少女の名前は、花岡結。9歳のロストの少女。

「…養護施設から抜け出す癖のあるガキ」


くそ、と小さく零してから、繭生は黒いパーカーを羽織る。そして、腕に付いている端末を操作する。監察員である男の端末にコールするとすぐに相手が出た。

「…どうかされましたか」

「俺だ。探せ」

電話口の向こうにいるのは、自分を24時間ずっと監視している奴だ。何を、など言わなくても、繭生が子供を探していることは知っている。

「…あなたはそれをお望みで?」

呆れを含んだような声でそう告げた男は、如何にも面倒だと言わんばかりにため息を吐いた。

繭生も本当はこんな男に頼みたくない。

それでもそうしなくては子供の居場所を掴めないのだ。

無論、頼まなくても自分で監視カメラにハッキングして結を探すことはできる。

なにせ、繭生の得意領域はコンピュータ全般に関わる部分なのだから。

しかし、繭生はそこらへんにいる野良ハッカーとは違う。


繭生は所謂、ホワイトハッカーだ。

ホワイトハッカーとは、いわば首輪付き。許された時に許された領域で指示された情報を得るためにハッキングをすることしか許可されていない。

「今ここで舌を噛んでもいいんだぜ?」

我ながら随分雑な取引だが、電話口の男には効果があったようだ。男はため息を吐くと、「5分以内に完了させます」と言って通話を切った。

その間に、必要最低限のものを持って玄関に向かう。


しかし、靴を履いたところで足が止まった。


繭生は、ランクSになってから、一人でこの扉の向こうに行ったことがない。

それは、この扉の向こうにある世界に興味を失くしてしまったからという理由もあるが、一番の理由は自分の身を守るためだ。

自分は、ランクS。そして、自分のリザーブは凛。

もしも自分に何かあったら、そのときは凛の身も危険に晒すことになる。いつも守られてばかりの繭生が唯一、幼馴染を守ってやれる方法はこれしかないのだ。


ふいに、端末の着信音が鳴った。どうやら、監察員の男はきっちり5分以内に結の居場所を特定したようだ。繭生の端末に位置情報が送られてきた。


情報が指し示す場所は、ここからそう遠くはない。あの子供は今日知りあったばかりの赤の他人だ。この距離ならば、わざわざ自分と凛の身を危険にさらしてまで迎えに行く必要はないだろう。

「夏原繭生。深夜の外出は特別許可と護衛の同行が義務付けられていますよ」

「知ってる」

「では、速やかにリビングに戻ることを勧める」

端末から、監察員の男の冷たい声がする。しかし繭生の頭の中は、凛の言葉とニュース、そして子供の様子でいっぱいだった。


悪質なブローカー、違法な人身売買。

ゼリー飲料を口に含んだときの子供の表情。


もしも、あの幼い子供が、危ないことに巻き込まれていたとしたら。


「……面倒くせぇな!」

思い切って玄関の扉を開けて走り出す。

腕に付いている端末から、外出許可は下りていないという冷酷な声と警告音が聞こえた。

それでも繭生の足は止まらない。その理由は自分でも全くわからなかった。


―2―

夜の街を走るのは、繭生の人生でほぼ初めてのことだった。

真っ暗な闇の中に浮かぶ、色とりどりの光。

今は殆ど嗅ぐことはない葉タバコの香りと、乾いたアスファルトの匂い。


頬を撫でる風も絡みつくような湿気も、久しく忘れていたものだ。


暗い深夜の道を、繭生は思いっきり走り抜ける。

心臓が不自然に跳ねて苦しいが、不思議と足は止まらなかった。


繭生は、こんなことが許されるような立場ではない。自分でもよくわからないが、少しだけ足が震えた。その震えが恐怖からくるものなのか、初めて味わう自由に興奮したからなのかはわからなかった。


子供の位置情報を凛に転送してから、腕の端末の電源を落とす。

凛に伝えるのは、それだけで十分だ。

それだけあれば、繭生と結に起きた異変に気が付くだろう。


しかしその前に、きっと優秀な監視員が繭生の居場所を簡単に突き止めて追いついてしまう。それを避けるためには、端末の電源を落とすのが最善だ。

子供の抵抗のようなものかもしれないが、今の繭生には必要なことだった。


ここまで来たのだから、今更、あの鳥かごの中に戻されるわけにはいかなかった。


―3―

「どうして…どうして!」

鉄の香りと夕日のように真っ赤な色と、母の悲痛な声。

それは、今でも結の脳裏にこびりついている。

だが、母に何が起こったのか、この鉄の香りはどこから漂ってくるのか。

それだけは妙にぼんやりとしていて、どうしても思い出せない。


ただ、ようやく結を見てくれた母の瞳は憎悪と嫌悪に染まっていた。

その瞳が結の心を捕えて放さない。


花岡結が自分の置かれている状況の特異性に気が付いたのは、領域検査を受ける直前、もうすぐ6歳になろうとしていた頃だった。


結は、いつものように部屋の窓から夕空を見つめていた。赤と青の絵具を混ぜたような、ぐちゃぐちゃとした色が、何故か自分と似ているように思えて、眺めていると不思議な気持ちになるのだ。

すると、不意に幼い子供の声が聞こえてきた。

いつもなら、そんな声など気にならないはずなのに、どうしてか、そのときだけは違った。窓を開けた結がゆっくりと視線を道路に向けると、そこには手を繋いで歩く親子の姿があった。


母と一緒に鼻歌を歌いながら、きゃらきゃらと楽しげに笑う少年。

その少年を愛おしそうに眺める母親。

彼女の反対の手には、夕食の材料が入ったビニール袋が揺れている。


結は、似たような光景を何度か見たことがあった。


少し前に公園で時間をつぶしていたときだ。

丁度、今のような時間帯だったと思う。ゆっくりと日が傾き、公園内に赤い夕陽が差してくると、楽しげに遊んでいる少年を呼ぶ声が聞こえた。

「おかあさん!」

名を呼ばれた少年は声の方を振り返ると、そう叫んで嬉しそうに駈けていく。そして、まるで当然のように母親へと飛びついた。

「まぁ、砂だらけ……今日もみんなと仲良く遊べたかしら?」

「うん! サッカーしたの!」

会話をしながら、少年の手をしっかり握った母親は、夕ご飯の献立を話しながら家路へと向かう。


結はよく、その背を見送りながら思ったのだ。

己の胸の中でじわりじわりと渦巻く感情は一体なんなのだろうかと。


窓の外を眺めながら、そっと胸に手を当ててみる。今もまた、この胸はどうしてかあの時と同じように渦巻き始めるが、この感情の名前はわからない。

しばらく、ぼーっと眺めていると、ふと疑問に思った。


自分は、母に笑いかけてもらったことがあっただろうか。

あんな風に、手を繋いでもらったことがあっただろうか、と。


結は、わけのわからない罪悪感に駆られた。

まるでいけないことを考えてしまったような気持ちになる。

小さな胸の内に渦巻くものは、どうやら結にその名前を知られてしまうことを嫌がっているようだ。


よくわからない気持ちを誤魔化すように、部屋の中に視線を移す。


乱雑に取り込まれたままの洗濯物。使われていないキッチン。

テーブルと小さな鏡台に置かれた化粧品。華やかな香水の残り香。

数時間前、父の腕を引いて笑顔で出て行った母は、一度も結の方を振り返ることはなかった。父もまた、結を見てそっと目をそらしただけだった。

空腹を知らせるようにお腹の音が鳴る。きっと今日も、父と母は遅くまで帰ってこないのだろう。出掛けていく間際、父がテーブルに置いた1枚の紙幣が風に吹かれて小さく揺れた。


テレビで見るような食卓の風景は、結の家では見た事がない。

このテーブルに並ぶのは出来たての食事ではなく、いくらかの紙幣か硬貨だ。

それに父と母は、そのお金が減ったかどうかということにも、きっと興味はない。

この家で、結はいつも透明人間みたいなものだった。

それでもここにいるのは、結にとって、父と母が大切な人たちだからだ。


少年の楽しげな笑い声がゆっくりと遠ざかっていく。

それはまるで、その少年の住む世界が遠く離れた場所であることを、結に実感させるようだった。


「……まま、ぱぱ」


そう呼んでみても答える声はない。

結の小さな呟きは、誰に受け止められることもなく霧散する。

あの少年の世界とは違う。

結の住む世界は、なんて静かで狭いのだろう。


真っ赤な夕日が差し込む誰もいない冷たい部屋で、結は初めて虚無を知った。






「……まま、ぱぱ」

「悪かったな、どっちでもねぇよ」

自分の住む世界を確かめるように紡がれた言葉は、霧散することなく受け止められた。

真っ暗な公園で、結の小さな呟きに答えたのは不機嫌丸出しの声だった。

しんと静まり返った夜の公園に、繭生の荒い呼吸だけが響く。

突然現れた繭生と返ってきた返事に驚愕してしまったのか、結は信じられないような顔で、何も言わずに繭生を見つめる。

その間も、繭生は何度も何度も大きく息を吸って吐いた。

普段、息を切らすほどに身体を酷使することはない。呼吸をするたびに肺に走る痛みと、するりと頬を伝う汗が、繭生を更に不快にさせる。


そして、もう1つ繭生を不快にさせるもの。

それは、ぽかんと口を開けたまま、繭生を見つめている少女だ。

その顔に言ってやりたい言葉が山ほどあったが、正直、疲れていてどうでも良く思えた。

あまり認めたくないが、とりあえず無事であることに、ほっとした。

「人の家に来て、早速脱走かよ。何考えてんだ」

「…………」

「まぁいい、とにかく家に戻るぞ」

「…………」

「戻るぞって言ってんだろ」

「でも……」

「でも、じゃねぇよ。早くしろ」

「それは少し、困るかな」

「……!!」


結の代わりに繭生の声に答えたのは、低い男の声だった。


咄嗟に振り返ると、そこには黒い衣服を身にまとった大柄の男が立っていた。

「……誰だよ、おっさん」

「怪しい者じゃないとは言えないんだけど。君には用がないよ。あるのは、そっちの女の子だ」

そう言って、にたりと笑う男の手元には小さな端末が握られている。それを見て、繭生は思わず吐きたくなった。


「……なんで、そんなもん持ってんだよ」


男の持つ端末は、ロストと領域保持者を見分ける為に用いられるものだ。


ロストと領域保持者は、見た目で判別することが難しい。

そこで政府は、小学校入学と同時に行う領域検査で領域保持者とロストに分けた際、注射器でチップを埋め込むことにした。そして、そのチップを専用の機械端末で読み取ることで、ロストか領域保持者か見分けることができるようにしたのだ。


しかしその技術は、数百年前にペットの管理に使用されていたと聞く。ペットが飼い主から逃げだしても、誰の所有物か分かるようにと目印代わりに埋め込んでいたらしい。


そんなものをよく人間に使う気になったな、この政府は。

心の底から軽蔑を贈りたいものだ。


吐き気を抑えながら、繭生は男の思考を読み解く。

識別端末を使用し、且つ結に用があるということは、この男の目的はロストの誘拐か。


…そういえば、凛が家から出ていくときに、そんな会話をしたことを思い出した。

全く、タイミングの悪いことというのは良く重なるものだ。

「……あんた、ブローカーか? 知ってるとは思うが、ロストの売買は禁止されてる。警察に捕まりたくなきゃ、どこかに行けよ」

「そうは言ってもさ、おじさんも商売だからね」

「は?」

「人間が生きていく為には、犠牲ってものがつきものなのさ」

そう言うと、男はナイフを取り出した。

暗闇の中で薄らと鈍い光を放つそれに、繭生は硬直した。男は、繭生の動揺に気が付いたのか、ふっと小さく笑う。

「あれ、ナイフは見た事がないのかな? まぁ君、領域保持者みたいだし、あんまり危ないことには遭ったことがないのかもね」


男の言っていることは全くもって正しかった。

残念なことに、繭生は全くといっていいほど荒事に長けていない。そもそも、初めて人に刃物を向けられたのだ。脊中に変な汗が流れるし、当然冷静ではいられない。

「大人しく、その女の子を渡してくれないかい。君にはわからないだろうけど、俺たちロストには真っ当な職が無い。違法だろうがなんだろうが、得意領域を持ってる君と違って、おじさんたちはこういう方法でしか生活することができないんだ」

人助けだと思ってさ、という男の言葉に繭生は戦慄した。

「あんた……ロストなのに、ロストのブローカーしてんのかよ」

「弱肉強食ってだけだよ。自然界のルールだ」

繭生の言葉は、男には何一つ響かない。


選択肢は逃げる一択だ。しかし相手には隙が無い。一体どうするか、と考えたところで、袖口をぐっと引かれる。

引かれた方に視線を向けると、そこには不自然なほどに落ち着いている結の姿があった。

「なんだよ」

「……こっち」

「って、おい!」


目を見開いた繭生をそのままに、結はその手を引っ張って走り出した。


「お、おい!」

「…………」

ホログラムの広告に向かって真っ直ぐ進む結は、繭生がいくら声をかけても何の反応も示さない。

「おい!目の前!広告だぞ!」

「へいき」

だんだん迫りくるホログラム広告に、思わずぎゅっと目を瞑る。

しかし、広告にぶつかることはなく、ぶんという機械らしい音が聞こえた後には、既に見知らぬ土地だった。

「……なんだよ、ここ」

二人がホログラムの広告を潜ると、その先には真っ暗な道が続いていた。

だいぶ整備された筈の街にも、まだこんな薄暗いところがあったとは。セキュリティカメラだって、こんな道があることは知らないだろう。


空き缶が転がる生臭い裏路地を勢いよく通り抜けていく。

それにしても結は、このあたりに土地勘があるのだろうか。動揺したままの繭生の手を引きながら走る少女は、追いかけてくる男を巻くように、あえて複雑な道を通っているように見えた。


しばらく走って、ようやく裏路地の真ん中で立ち止まった。

足を止めた瞬間に、一気に疲労が押し寄せてくる。

しかし肩で息をする繭生とは違い、結は平然としたままだ。

繭生は、自分が体力がないことは自覚していたが、こんな子供にまで負けるとは思っておらず、少し悔しいような気持ちになる。

結は、気遣うように繭生の顔をじっと見つめる。

「……だいじょうぶ?」

「平気だっつの。それより、あいつ……」

「……ここまできたら、だいじょうぶ。たぶん」

ブローカーの男のことを告げるが、結の表情は変わらない。

この年の子供ならば、もっと動揺したり怖がったりするものだと思っていた繭生は少しだけ眉を顰めた。

「……なぁ、お前。何でそんな平気な顔してんだ?ナイフを見たときだって、動揺の一つもしなかったじゃねぇか」

繭生の問いの意味がわからなかったのだろうか。結は不思議そうに首を傾げた。

「べつに、こわくない……いつものことだから」

「は?」

「きょうみたいなこと、たくさんあるよ。しらないひとに追いかけられたり」

その言葉の意味が理解できず、なかなか返事を返すことができない。


ロストにとって、ブローカーに狙われることは日常茶飯事なのだろうか。

あんなふうに不躾にナイフを向けられることも当たり前なのだろうか。


そこまで考えると、繭生の胸の奥に言いようのないもやもやが広がっていく。

「……当然の事のように言うんじゃねぇよ」

「……?」

ふつふつと湧き立つ苛立ちをそのまま言葉にしてぶつける。

そんなことをしても意味が無い事はわかっているが、どうしても気に食わなかったのだ。

繭生は、自慢ではないが自分に知らない事は無いと思っていたし、自分の生活や立場がやや特殊とはいえ、他のランクSの人間よりかは、ロストについて理解しているつもりでいた。

だが、現実は繭生の理解を大きく超えていて、嫌でも思い知らされる。

「……くそが」

現実はそんな甘くなく、自分が厳重に守られた鳥かごの中で生かされていることを。

繭生にとっての非日常が、こんな幼い子供の日常であってたまるか。


「……あのね」

結は、掴んでいた繭生の手を放すと、その手にそっと触れた。

そして、安心させるように呟く。

「……わたし、ほんとうにこわくない」

「は?」

「……だって、知ってるから」

「知ってるって、何を知ってるんだ?」

すると、ふいに黙り込んだ結が、繭生を脊に隠すようにして前に立った。


どうやら、さっきの男が追いついてきたようだ。

暗闇でその姿は見えないが、荒い息と足音がだんだんと近づいてくるのがわかる。

時折、暗闇の中で月の光に反射したナイフがぎらりと鈍く光る。それが更に恐怖をあおった。

「……もう追いついてきたのかよ。おい、逃げるぞ」

「……だいじょうぶ」

ふいに、繭生をかばうようにして前に出た結が、自分の髪からそっとヘアピンを抜く。

「お前……何するつもりだ」


暗闇の中の相手を真っ直ぐに見つめる結。

それを見て、繭生は何故か脊中に変な汗が流れるのを感じた。


この違和感は何だ。


ざっざっと暗い路地裏に響いていた足音が、ふいに止む。

ぽたりと、どこか遠くで水滴の落ちる音がした。

「こんなところにいたんだ」

月明かりに照らされて、ブローカーの男の歪んだ表情があらわになる。

男の顔には明らかに苛立ちと興奮が滲んでいて、繭生は思わず後ずさった。


このままでは危険であると、本能で悟る。

恐怖故か、膝が不自然にがくがくと震えた。最早、意識を手放したた方が楽なのでは、と弱気になるが、繭生の頭は極めて冷静に状況を把握する。

ブローカーの男の体格、そして自分の体力、結の体力。

どう考えても状況は不利であった。

何か隙を作って、結だけでも逃がす方法はないだろうか。

繭生はひとまず、自分の前に立つ結の腕を掴んだ。

「まともに相手にしても勝ち目はねぇ。いいか、俺が何とかして隙を作る。お前はその間に……」

「へいき」

「人の話を聞け……!」

「だって知ってるもの」

「は……?」

そういえば、さっきも似たような事を言っていた。

目の前にいるたった9歳の少女は、一体何を知っているというのか。


「どうすれば人がしんじゃうのか。よくわからないけど、知ってるの」


感情もなく呟かれた言葉に繭生は恐怖に近いものを感じた。

繭生を真っ直ぐに見上げる結の瞳は、まるで夕日のように真っ赤に染まっている。

「わたしは、あなたをまもれるよ」


結は、目の前の男を制圧しようとしているのではない。

間違いなく殺そうとしている。


結の纏っている空気は異様だ。その空気に圧倒されて、繭生は身動きがとれなくなった。自分の体のはずなのに、まるで思うように動かないのだ。


そのとき、ブローカーの男が何かを叫びながらナイフを振りおろそうとする。しかし、繭生にはその男の動きも、腰を落として男の懐に飛び込もうとする結の動きも、現実に起こっていることのようには思えなかった。その瞬間が、何か映像をスローで再生しているかのようにひどくゆっくりと流れる。まるでフィクションの世界だ。


結の持っているヘアピンが、鈍く光った。

その先端が、迷いなく男の目を狙っていることに気が付いて、思わずぎゅっと目を瞑る。


「ぐっ……!」


そのとき、大きな物音と男のうめき声が聞こえた。

「……やっと見つけたと思ったら、随分面倒なことに巻き込まれてるみたいだね」


目を開けると、そこには男を拘束している凛の姿があった。


凛は男の肩を、まるで段ボールでも畳むかのように軽々と外した。

男から潰れたような聞くに堪えない声を聞いて、繭生ははっとした。

「……遅ぇよ、凛」

「むしろ褒めてほしいんだけど。位置情報だけの情報で状況を把握してここまで来たんだから」

凛は、男を縛り上げた後に自分の衣服を整えた。

結も凛の登場は意外だったのか、彼女も目を丸くして固まっている。

「…うえから降ってきた」

ぽつりと呟いた結に、凛は困ったように笑ってみせた。

「ちょっと近道をしたんだ」

よく見ると、凛の服にはところどころ埃のようなものがついている。

その他にも、何かで擦ったような跡もあった。


……繭生はゆっくりと上を見上げた。

路地裏は薄汚れたビルの間にある。ビルには外階段がついており、凛がそこから飛び降りたということが容易に想像できた。

にこにこと笑っている穏やかな表情からは想像できないが、凛はそういう男なのだ。

「……登場が派手すぎねぇか」

繭生と目があった凛は、こてんと首を傾げた。

「そうかな?……まぁ、少し上品じゃなかったかなぁ。でも背に腹は代えられないし。二人とも怪我は無さそうだ。本当に良かった」

「…………」

なんてことないように話す凛に、繭生は閉口した。

「繭生、結ちゃん。とにかく話は後で聞かせてもらうけど…」


「その必要はありませんよ」


ふいに冷たい声が響いた。


そして、かつかつという靴の音と共に、黒いスーツをしっかりと着こなした眼鏡の男が現れる。

「……秋人さん」

凛が眉を顰めたあとに、小さく男の名を呼んだ。

凛の呟きにつられるように、結は男を見上げる。

その小さな視線に気が付いた男は、心底面倒くさそうにため息を吐いた。そして、結を真っ直ぐに見降ろす。

「ロストのガキに自己紹介をするほど暇ではない……が、今回は致し方ない。俺は、そこにいる夏原繭生の監察員、柊秋人だ。名前は覚えなくていい」

「かんさつ、いん……さん」

柊の役職を小さく復唱した結は、一歩だけ後退りをした。柊はそれを見て鼻で笑うと、繭生の方をに向き直る。

「夏原繭生。貴方は今回、我々の許可なしに外出をしました。無論、外出許可もない状態で」

「ああ」

そればかりは事実なので素直に認めるしかない。

柊の目を真っ直ぐに見つめて頷くと、意外にも結が繭生と柊の間に割って入ってきた。

柊は、あからさまに嫌そうな表情で結を見る。

「ロストの子供に用はありませんが」

「あの、きょうは、わたしが……わる、くて」

「理由はどうあれ、彼は政府の意に反した。よって指導を行うだけです」

柊の冷たい声に結がびくっと身体を震わせた。

後ずさりした結をかばうように、繭生は柊を見た。


確かに違反行為を働いたので、処罰を受ける事は理解できる。

しかし、今回の件は、監察員である柊にも詰められるべき落ち度があるのだ。

「監察員の割に到着が遅かったじゃねぇか。ランクSを身体の危険から守るってのも監察員の全うすべき役割のはずだよな。凛が来なかったらどうなってたと思う?」

「正しくは、ランクSの生命が脅かされた状況において、ですよ」

「今回の件は生命が脅かされた状況じゃなかったっていうのかよ」

「ご心配なく。貴方はまがなりにもランクS。たとえ北條が来なかったとしても、貴方に傷が付く事は無い。何故なら、ナイフが貴方に当たる寸前に、あの男を撃ち殺す予定でしたから」

「寸前……って」

「生命が脅かされている状況か否かを判断するのは、監察員である私の仕事です」

柊は眼鏡を軽く上げると、すいっと目を細めた。

「私の対応に何か問題があるならば、国に報告していただいても結構ですよ。貴方がこともあろうに管理端末の電源を切った為にギリギリでの到着となった…という報告を追加ですればいいだけですから」

柊の答えに繭生は思わず舌打ちをした。どうやら柊は、繭生が端末の電源を切ったことを伏せる代わりに、自分が完璧な仕事をしたという事実を作りたいらしい。

繭生がそれを察したことに気が付いたのか、柊の口角が僅かに上がる。

「……さて、夏原繭生。私は無駄な話も長い話も好きではありません。どうされるか、結論は早めにお願いしたいところです」

「……普通に助けた方が楽じゃねぇか」

「それはまた、楽観的で何より。私は貴方たちランクSもロストも嫌いです。いくらその身を守るためとはいえ、人を一人殺せばそれなりに事後手続きが大変なんですよ。その書類に手を付ける手間が惜しい」

「……じゃあ、監察員なんて仕事、辞めればいいだろ」

繭生の言葉に、柊は侮蔑の篭った視線を向けた。その眼光は見震いするほど冷たい。


「好きで就いているわけではありません。そういう得意領域というだけですから」


柊の憎悪が滲む言葉は、繭生の胸にも重くのしかかった。


「それで、どうしますか、夏原繭生。取引に応じますか」

柊の言葉に凛は眉を寄せた。ちらりと凛に視線を移すと、凛は困ったような笑みを浮かべて頷いた。応じろ、ということらしい。

「……応じる」

「では成立ですね」

柊はそれだけ言うと、裏路地を歩いていく。

恐らく、この路地を抜けたところに、車を置いているのだろう。

一度、こちらに背を向けた柊が、ふいに凛に視線を向けた。

「北條。夏原繭生の護衛はお前に命ずる。自宅まで安全にお届けしろ」

「……勿論だよ」

凛がそう告げるのを聞いてから、柊は今度こそ背を向けて歩きだす。


柊が去った後、繭生に近づいた凛は、唐突に繭生の頭を抱き込んだ。

「......!」

凛の突然の行動に驚いた繭生は、反射的に離れようとするが、更に強く抱きこまれて身動きが取れなくなってしまう。

「おい、離せ!」

「…………」

「おい、凛!」

何度声をかけても、凛は離れようとしない。一体どうしたというのだろうか。

凛の突拍子もない行動には慣れているはずなのだが、今回はどうにも理解ができない。

隣にいる結も、状況がわからないのか目を白黒とさせている。

繭生は、ひとまず離れようと少し汚れた凛の腕を掴むため、手を伸ばす。

そのときだ。

「……?」


繭生は自らの異変に気が付いた。

「なんだ、これ……」

今まで気が付かなかった。自分の手が小さく震えているのだ。

カタカタと震えている手は、凛の腕を掴む事はできなかった。

何も出来ずにその手を降ろすと、頭の上の方で凛の穏やかな声が聞こえた。

「…ごめん、繭生。怖かったね」

「……何言ってんだ。怖くねぇよ」

「もっと早く駈けつければ良かった」

「いいって言ってんだろ」

「頑張ったね」

どうしたって、凛は繭生の言う事を聞かないらしい。

怖くない、口ではそう言っても、初めて向けられた刃物の鈍い光が脳裏によぎる。


そう、あの時、繭生は恐怖したのだ。


ロストがロストを犠牲にする光景、悪びれも無く向けられる殺意。

純粋な殺意が滲む結の瞳。


繭生の知らない、冷たい世界。


まるで幼子のように撫でられると、今度は身体全体が震えだすのがわかった。

「えらいかったね、繭生」

「もう、やめろ」

「やめないよ」

膝から崩れ落ちてしまいそうになるのを、気力とプライドを総動員して堪える。

疲労や心労、安心感で心がぐちゃぐちゃだ。


凛の声は、確実に繭生に安堵をもたらした。


翌日、凛が繭生の家を訪れると、繭生の口元には小さな痣ができていた。

その痣を見て眉を顰める凛とは違い、繭生は何ともない様子で窓の外を眺めていた。

そして、凛の視線に気が付くと、面倒くさそうにため息を吐く。

「そこまで心配することじゃねぇよ。勝手に外出した罰だと」

「そっか……」

繭生はランクSだ。政府の意思に背けば、監察員から罰則が与えられる。

ランクSになったばかりの繭生は、よく違反行為をしてそこらじゅうに傷と痣を作っていたが、最近はめっきり減っていた。

この感じ、久しぶりだなぁ、と凛はしゅるりとネクタイを緩めて息を吐く。


その時、不意にキッチンから水の流れる音が聞こえてきた。


繭生の痣に気を取られていて気が付かなかったが、どうやら誰かいるようだ。

「あれ?キッチンに誰かいるの?」

「あいつだ」

「あいつって……結ちゃん?」

「しかいねぇだろ」

そう言われて、静かにキッチンを覗きこむと、そこには泡を頬につけながら、お皿と格闘をしている結の姿があった。

「昨日の詫びをさせろってうるせぇから」

「そっか」

幼い子にお皿洗いをさせるなんて、と思いつつもこれも繭生なりの優しさなのだと理解する。


つまらなさそうに外を眺めていた繭生が、不意に凛の目を見た。

そして、ひどく静かな声音で凛に問う。

「…あのガキ、何者だ」

繭生の目は、嘘や誤魔化しを一切許していない。勿論、凛も嘘で誤魔化すつもりはない。繭生は聡いのだ。中途半端に誤魔化したところできっと近いうちに見破られてしまう。

「…彼女はれっきとしたロストだ。書類上はね」

そう言ってから、そっと目をそらす。それ以上は、凛の口から言う事は出来ない。

思っていたより少ない情報に繭生が舌打ちをした。

「質問の答えになってねぇ気がするが」

「そうかな。事実しか言ってない。彼女は、普通の女の子と変わらないよ」


自分の声のはずなのに、どうしてか室内に妙にクリアに響いた。


キッチンから聞こえる水音が不自然に遠ざかる。

繭生は、凛の口から発せられた言葉に違和感を持った。


繭生の脳裏には、あの夜の路地裏で見た光景が広がる。

ブローカーの男を前に怯えるどころか、繭生を庇おうとしていた姿。

そして、ブローカーの男に向けた明確な殺意。


あれが、本当にただのロストの子供なのだろうか。


「繭生」

不意に、凛に呼ばれてはっとする。どうやら深く考え込んでいたようだ。

「結ちゃんは、ただの女の子だ。ちょっと危険な行動はするけどね。今はまだ、そういう事にしておいてほしい」

凛の目がこれ以上の言及を拒んでいるのがわかる。仕方なく、今回は折れてやることにした。

「わかった」

「ありがとう。繭生も結ちゃんも無事だったし、本当に良かった良かった」

「良くねぇよ、凛。めでたし、めでたしで終わらせようとするな」

「え?」

「お前ももう少しで危ない目に遭ってたかもしれねぇんだぞ」


そう、あの晩、男がナイフを振りおろそうとしたときに凛は現れた。

そして秋人の言葉が本当ならば、ナイフが繭生に振り降ろされた瞬間、男は銃殺される予定だった。

つまり、凛が男に降ってくるタイミングが悪ければ、秋人に男ともども撃ち殺されていた可能性もあるのだ。

「別にそれでもいいよ」

「は?」

「別にいいんだ。僕は僕の命に執着していない」

「……どういうことだよ」

不満を込めて聞き返す繭生に、凛は少しだけ困ったように笑いかけた。

「……僕は君のリザーブだ。君を守れるならそれ以上望むことはない」

穏やかだが、ほんの少しだけ誇らしげな声が室内に響く。繭生は心の底から吐きたくなった。さっき食べた朝食も、ぬるいコーヒーも全部だ。

あまりにも話が通じない時、どうやら人は吐きたくなるらしい。

なんだそれ、と悪態を吐く繭生に、凛は更に言い聞かせるように話しだす。

「……君は僕たちの命に関心を向けてはいけない。君は消費者で僕たちは消費物だ」


それがこの世界の決まり。なのに、反吐が出るほど苦しかった。


繭生にとって凛は消費物ではない。でも凛にとっての凛は消費物なのだ。

命には執着してほしいし、自分の為に犠牲になってほしくはない。

でも、目の前の誇らしげな凛を見ると何も言えなくなってしまう。繭生にとって反吐しか出ないリザーブという立場は、凛にとっての誇りなのだ。

お前は大事な人間だ、と言えたなら少しがこの気持ちも伝わるのだろうか。いや、きっとすぐに「嬉しいけど、違うよ」と諭されてしまうのだろう。


繭生にとっても、凛にとっても、この世界はただの檻でしかない。


窓の外で、鳥の羽ばたく音がした。

ホログラムに彩られた人工的な空を、あの鳥はどんな気持ちで飛ぶのだろうか。




――便利で効率的なこの世界は、繭生の生きるこの世界は、しかしながら何かを失ってしまっている。





~case_MAYUKI~ end

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ロスト 竹之内ひよこ @ddh181

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