貴女の血の色を知っている

第1話

 或る激しい雨の日の夜だった。

 私は女でありながら、この小さなアパルトマンに一人で暮らしている。元は片田舎の村娘だったけれど、女なのにという批判に蓋をしながら医学を学んで、この街に越してきた。なんてことはない、街に来れば看護婦なんて沢山いる。


 女が勉強をしても仕方ないと村の皆は言ったけれど、決してそんな事はなかった。現に、私は今ここで手に職をつけ、厳しいながらも何とか生活を成り立たせている。


 その日は夜勤ではなかったけれど、それでも帰りが遅くなってしまった。帰る途中、遠くの方で怒号を上げながら警官が駆けていくのを見て、何かあったのだろうか、と少し訝しんだけれど、天気のせいで深く気に留めなかった。男勝りな蝙蝠傘を掲げて歩いても、あまりの土砂降りに長靴下は泥水にまみれて重たかった。


 ひどい雨から逃げるように玄関に駆け込んで、ほっと息をつく。五月蝿い程の雨が遠くなったけれど、外からは雨粒が辺り一面をけたたましく叩く音が聞こえている。


 たったひとつある簡素な椅子に腰掛けて私はブーツを脱ぎ、不快な靴下を手繰った。玄関に置き去りにした傘から雨水の滴る音がする。


 不意に、ドアを叩く音がした。乱暴だが切羽詰まったようにも聞こえる音に、先程の警官かしら、と思い、片方は靴下のままドアを薄く開ける。


「……はい、何方様──」


 そこまで言いかけた時、ドアの隙間から刃物……大振りなナイフのような──が鋭く差し込まれ、咄嗟に身を引いた。それに切られた左の遅れ髪が、泥だらけの玄関にぱさりと落ちる。

 驚いて数歩後ずさる。玄関には、もうすっかりその人物の足が差し込まれている。


「──騒ぐんじゃねえ。五月蝿くしたらこの雨音に紛れて、てめえを黙らせなきゃいけねえ」


 ぶっきらぼうな話し方で、その人は言った。差し込まれたナイフがドアのチェーンを引っ掛け、そのまま、器用に外す。私は驚きと恐怖で動けなかったが、どこかに妙に冷静な自分もいて、器用なものだな、と感心していた。


 周囲を警戒するようにその人物は入ってきた。と、その身なりに私は眉を寄せる。というのもその人……彼は、左手のナイフ一振りとこの雨には些か薄着な装いの他には何も持っていない、まさに身一つといった風貌だった。その上、泥にまみれた顔に、ぼろ切れのような服、やつれた顔をしているのに目ばかりが鋭くこちらを捉えている。泥ばかりでなく、少なからず臭いもするようだ。……不潔。


「……っへへ、ンな顔すんなよ……。今ちょっくら追われてんだ、匿ってくんな……。金なら払うからよ……」


 彼は腰に巻いた布の隙間から金貨を無造作に投げてよこした。反射的に受け取ってしまい、手の中を見てみると、そこには汚れた金貨が五枚あった。


「そいつァ前金だ、ズラかるまえにその倍やるよ。……俺が逃げた後、誰に垂れ込んでも構いやしねェ……あんたに罪を負わせるつもりはねェんだ、ちょっくら人助けと思って、……頼むよ」


 その続きを話すのも辛いという風に、途中で言葉を打ち切って彼は言った。弱々しく笑った顔は青ざめて生気がない。このまま見捨ててしまえば、それまでだろうと思われた。何より、今この手の中にある金貨の重さが、私の倫理観を鈍らせる。

 実の所生活は厳しかった。働いて、頂けるお給金だけでは食べていくのに精一杯で、家賃はもう数ヶ月も滞納していた。履き古したブーツも底が擦れて水漏れをするし、靴下は穴を繕いながら穿いている。


 このお金があれば、家賃を返せるばかりでなく、少しは美味しいものが食べられるかも知れない。身売りするよりいいお金だ。得体の知れない男を一人、数日我慢して匿っていれば──。


 何かあれば、その時はこのお金だけ貰って警官に突き出してしまえばいい──。


 私は緊張で乾く口を誤魔化すように唾を飲み込んだ。掠れた声が、他人のもののように聞こえる。


「……分かったわ」


 それを聞いて男は笑った。しめた、という顔か、はたまた助かった、という安堵か、私には分からなかった。

 とにかく、その格好のまま家に入られたくなかった。狭い家だ、どこにでも手が届く。私はすぐ側の流しの上にあるタオルを取って半ば投げるように彼に手渡した。


「それで身体を拭いて。今お湯を沸かします。それで身体を清めなさい。……これへ掛けて」


「へ……っ? 何だい、やけに面倒見がいいじゃねぇか……」


 唖然とした風に彼は目を丸くする。私は努めて毅然と振舞おうとした。弱みを見せては駄目だ、付け込まれては困ると。


「臭います。不潔なのは嫌いなの」


 彼は少しばかり警戒した風に、左手で汚れた顔を拭った後鳶色の髪を拭いた。その間も私から視線は外さない。差し出した椅子にも腰掛けなかった。……時折足元をふらつかせながら。

 薬缶で沸いたお湯を金盥に注ぎ、人肌よりも熱いくらいに水で調整する。そこへタオルを二枚浸し、絞ったひとつを私が取り、残りを彼の足元へ置いた。


「……その格好で家にいて欲しくないだけです。早く」

「お……おお、」


 戸惑いながらも、男は私が顔や汚れた足を拭うタオルを見て、少しは安心したようだった。先程のタオルを傍らの流しに置き、盥の中に左手を突っ込む。……僅か、温かさに安堵したような顔をした。

 そこで私は引っ掛かる。先程から一度も右手を使っていない。雑に布を巻いた左手と違い、右手は二の腕まできつく袋状の大きなグローブをして、だらんと垂れ下がっている。幾らか庇っているようにも見えた。


「……怪我をしているの?」

「え、あ……いや!」

「見せてみて」


 彼は慌ててナイフを手にしようとしたが間に合わない。左手に絞っていないタオルを持っていたからだ。近寄ると少し膿の臭いがした。


「い、いいって! そこまで面倒見られる程の金はねえ!」

「悪く思うなら大人しくしていて」

「いや、ほんと……! い”っ……!!」


 少し触れると、跳ねるように彼は痛がった。二の腕できつく締められたバンドを外し、患部に触れないように気をつけながらグローブを剥いでいく。グローブの下から、血膿の滲んだ布が顕になった。かなり酷い怪我のようだ。冷たい身体に比べてこちらは熱い。


「……ほんと……。……もう手遅れだから」

「……。……手当てします」

「はあ!?」

「そこへかけて。これで身体でも拭いていて。……ああ、身体が冷えるといけない、濡れた服は脱ぎなさい」

「ま、待てよ! 手に負えねぇっつってんだろ! 話聞いてねぇのかよ! それに、ンな所で丸腰になるほど──」


「私は看護婦です」


 ぴしゃり、と私が言うと、彼は意表を突かれたように黙った。


「……怪我人を放ってはおけないわ」


 ここに病院ほどの設備はないけれど、少しの手当くらいならできる。少なくとも不衛生な布を取り除いて、傷口を洗い、消毒し、包帯を巻くくらいだったなら。

 新しいお湯が湧くのを待つ間、洗濯してあった私のブラウスを細く裂き、クロル石灰はないのでウォッカを用意した。お皿にそれを出しコットンを浸し、私の手を石鹸で洗う。


 男は観念したのか大人しくなったようだった。ある種の諦めかも知れない。暖かいタオルで顔を拭うと、汚れが取れて小綺麗な顔になった。あの身なりにして髭が生えていないのを少し意外に思った。


「服を脱いで。体力を消耗してしまうでしょう」

「いや、だからいいって言って……クソ、この乱暴女!!」

「乱暴結構。今からもっと痛いことをするのよ」


 殆ど無理矢理、彼の腰布を引き剥がし、そこから色々なものが転がり落ちても目をくれず、言うことを聞かないので服の前をハサミで下から裂いた。

 ひっ、と男は引き攣ったような声を上げる。骨が浮くほどに痩せた身体の割には胸が大きい気がしたけれど、筋肉かと思って気に留めなかった。男性の裸は仕事で見慣れている。


「な、なっ……何をしやがる!!」

「こんな汚い服を着ているから感染症になるのよ。そのうち繕って、洗濯してあげます、怪我が良くなる頃にね」

「違う、そうじゃねぇ!! 大体てめぇ、人の裸を見て……─っでぇッ!!」


 私が右手の処置に移ると、男は痛みで大人しくなった。

 殆どくっついてしまったような布を剥がしていく。膿が糸を引き、酷く化膿した傷口が顕になる。男は必死に悲鳴を上げまいと歯を食いしばって耐えていた。拳が白くなるほど握り締めている。この、傷跡は……


「裂傷……刃物?」


「っから……手遅れだっ…………つってんだ……ッ!! この嬢ちゃんは……ひぎっ!!!」

「悪いわね。それと、舌を噛むから黙っていた方が良くてよ」


 清潔なぬるま湯で傷口を洗うと、沁みるのか男は小刻みに震え出した。椅子の背もたれを強く握り、処置から顔を逸らしてそれでも耐えている。男の割になかなか我慢がいい。


「大丈夫、気を失ってもいいわ。辛いでしょう」

「だッま……れ……ッ!! クソッ……!!!」

「……偉いじゃない」


 こびりついた血膿を落としきり、脱脂綿に含ませたアルコールを近づけ……る、前に、警告する。


「これが一番痛いだろうから、何か噛んでいるか、……そうね、足でも抱えていなさい。叫んでもこの雨ならば……そう遠くは響かないでしょう」

「……ハハ……今以上かよ……可愛い顔しておっかねぇ……」


 男の目は幾らか充血していた。片足を椅子に上げ、膝を抱えるようにする。最早覚悟は決まったようだ。


「行きますよ」


 脱脂綿が、腫れた傷口を拭う。瞬間大きく跳ねさせた男の手が反射的に逃れようとするのを強く押さえ付け、脱脂綿を変え、再び消毒する。ぶるぶると身体を震わせ、それでも声は上げていない。必死に膝に顔を埋め、ズボンを噛んで、顔を真っ赤にしてもなお我慢をしている。見上げた忍耐力だ。


 一通り傷口を拭い終わり、細く裂いた布を少しきつめに巻いていく。大きな傷口が開いたままにならないようにだ。縫うには腫れがひどすぎる。


「……はい、いいでしょう。さあ体を清潔にして、そうしたら腕を吊ります。さあ、これ以上身体が冷える前に早く」

「も……いい、充分だ……充分すぎる……」

「良くありません、貴方が死んでは──え?」


 ふと目を向けた先で、彼の座っている椅子から血が滴っていた。具合も悪そうだ。額に触れてみればかなりの熱がある。


「まだどこかに怪我を!?」

「いい……違う、もう放っておいてくれ……ッ!」

「そうはいきません、貴方の死体を裏のドブ川に捨てるのは御免被ります!」


 強引に立たせるとズボンを剥いだ。上半身は検分済みだ。とするならば、怪我は下半身だろうと踏んで。男は身体が辛いのか、最早されるがままと言えるほど抵抗は薄かった。

 ところが、目の前に現れた光景に私は目を丸くした。血が滲んでいたのは白い下履きからだったからだ。更に、そこにあると思った質量感はない。太股も筋肉質ながらそれにしても肉付きがよく、男性ならば殆ど必ずといっていいほど目にする脛毛もかなり薄い。これではまるで──


「……も、いいだろ……」


 ふらり、と倒れそうになった彼……いや、彼女を、慌てて私は支えた。柔らかな二の腕の皮膚に疑惑は確信に変わる。


「……貴方……いえ、……それはいいわ」


 この雨に、ひどい感染症、月のものが重なって、追われる身ゆえに身を休めることも出来なかったのか。

 彼女を椅子に凭れさせ、代わりに身体を拭いてやる。汚れを拭ってみればその肌は存外滑らかで、本当に女なのだと実感させられた。日に当たらない部分の肌に透ける静脈の青さが、その白さを際立たせるようだ。


「……あなたはどうして、過酷な道を選んだの……」


 その言葉が私にも凭れ掛かってくるようで、私は彼女の疲れきった顔を労わるように撫でた。それは自分自身への慰めにも似て、私の手の優しさに少し泣きそうになった。







 目が覚めると辺りはすっかり明るかった。昨日の悪夢のような体調の悪さは随分良くなって、右手などは幾分軽くなったような気さえした。

 外で子供の笑い声が聞こえる。婦人同士の話し声も。意識がはっきりしてくるのにつれ、俺は状況を把握しかねて飛び起きた。


 俺は清潔なベッドに寝かされていた。女物のブラウスを着せられている。右手には真新しい包帯が巻かれ、首から吊るような形になっている。身体どころか髪まで清潔に洗い清められており、枕元の机にはミルクで煮たパン粥が、ティーポットに入ったハーブティーと書き置きとともに置いてあった。


 俺は徐々に昨日のことを思い起こしながら書き置きを手にする。パン粥には甘い味付けがなされていて、それが妙に美味く感じた。


「読めねえ……」


 傍らを見れば簡素な椅子に縫いかけの俺の服が置いてある。昨日渡した金貨は、そのまま流し台の上に置きっぱなしになっていた。


「……ったく、調子狂うぜ、あの女……」


 腹が痛いが、こんなもの屁でもない。少し休んだ今なら、あの金貨を持ってずらかることも容易い。実際、昨日はそうしようと思っていた。外の様子も穏やかなようだ。

 しかしながら、俺はまた倦い身体を枕に沈めた。枕もベッドも女と、消毒液の匂いがした。

 迷惑を考えればこれ以上の長居は無用だ。今出ていくべきなのは明白だったのに、俺は言い訳がましく、夜、暗いうちの方がいいだろう、なんて自分を納得させて再び微睡み始めた。






 本当は夜勤だったのを仲間に頼み込んで代わってもらった。預かっている親戚の子供がひどい熱を出しているといって。

 もしすっかり抜け殻になっていたらどうしよう。私は今日そればかり気にしていた。私の家に盗んで役に立つようなものは何もない。せいぜい服や包丁や食べ物がなくなるくらいだ。それよりも、私は部屋に残してきた患者が逃げ出していないか、警官に見つかっていないか、それが何より気にかかった。


 急ぎ足で部屋に戻り慌ててドアを開けると、彼女はまだベッドに横たわっていた。……よく眠っているようだ。


「ああ……良かった……」


 心の底から漏れるような呟きに気付いたのか、彼女が目を覚ます。大きな欠伸をしながら、昨日洗髪してあげた髪を掻いて。


「ふぁ……あぁ、……お帰り。おっかねぇ顔のオッサンは連れてねえな?」

「残念だけど、もっと怖いお姉さんが帰ってきたのよ」


 足音か何かで分かっていたのだろう、慌てた様子はない。冗談に冗談で返すと、彼女は少し意外そうな顔をした。


「おお……アンタも冗談とか言うんだな……」

「まぁ、あまりお喋りとは言えないけれど」


 言いながら、大事に隠し持ってきた物をベッドサイドに広げる。小瓶や、包帯や、ガーゼの山。


「何だ、品行方正な顔して職場から堂々と盗んできたのか?」

「ええ」


 あまりにあっさり返事をするので逆に彼女の方が驚いたらしい。まさに絶句という風に言葉を失っている。


「……昨日は御免なさい、きちんと処置できなくて。腕を出して」


 私が謝ると、彼女は存外素直にその言葉に従った。傷は昨日より随分と良くなっていたが、やはり若干の膿が出ていた。先んじて手指を消毒、裂いたブラウスを解き、煮沸しておいた水で傷口を洗う。持ち帰ってきた針と糸を石灰水で消毒し、再び手を清潔にして、


「傷を縫うわ。……昨日ほどは痛まないと思うけれど、辛ければ気付けに飲んでいて」


 余りに痛ければと思い枕元にウォッカを置いておいたのだが、量は減っていないようだ。


「おー、何だァ酒だったのかぁ。ちっとも気づかなかったなァ。気が利くじゃねぇか!」


 これ幸いと手を伸ばし、歯でコルクを抜くと直接口をつけて飲み始める。その飲み方は痛み止めと言うよりは好きで飲んでいる風だ。傷を縫うために肉に針を通すが、最初だけびくりと震えたもののさして動じない。やはり、凡骨の男などよりよっぽど痛みに強い。


「……その様子だと、昼間はあまり痛まなかったのかしら」

「おー、随分といいぜ。アンタの手当てが良かったんだなァ。なんて……ったく、お人好しに毒されちまった」


 気が紛れるように話しかける。唾を飛ばさないよう気を付けた。


「そう。……我慢強いのね」

「あたぼーよ。コイツを引っ提げて逃げ回ってたんだからなァ」

「そうでしょう。意気地のない男とは違うもの」


 私がそう言うと彼女は答えなかった。

 やがて縫合も終わり、傷口にクロル石灰をまぶし清潔なガーゼを充て、包帯で固定する。ほう、と私は息をつき、机を片付けた。

 彼女はまだ黙り込んでいた。私は手を洗い、簡単なものだけれど二人分の夕食を用意する。何か話さなければ、と、柄にもなく思った。


「……訊いてもいいかしら。何故男のように振る舞うのか」


 言い終わるが早いか、彼女ははっ、と嘲笑うように鼻を鳴らした。私も馬鹿げていると思うけれど、それでも訊きたかったのだ。しかし、言いたかっただけ。努めて、淡々と。


「答えたくなければ、……答えなくても。御免なさい、……言わなきゃ気が済まなかった。……私もね、」


「いーよ。大体はアンタと同じ理由さ」

「えっ」


 たんっ、とウォッカの瓶が机を叩く音がした。どうやらすっかり飲み干したようだった。


「……嬉しい。……読んでくれたの、書き置き」


 私は堪えきれず笑った。彼女は些か困ったふうにそっぽを向いた後、消え入りそうな声で、ああ、と答えた。

 俄に私は嬉しくなり、ベッドサイドにパンとチーズに薄く切ったサラミ、切ったオレンジ、ミルクを置いて私も椅子にかける。椅子の上に置きっぱなしになっていた彼女の服を手にすると、それはまだいい、と彼女は言った。


「まだこのままでいい。……あんた、昨日寝ていないだろ。今日はそれは置いとけよ。ベッドはあんたに渡すから」


「いいわ。貴方は病人だもの」

「良くねぇ。いつまでも厚かましくここで寝てられるほど俺ァ図々しくねぇんだよ」

「女の家に深夜堂々上がり込んで来たのに?」

「そうさ。お陰でその女に乱暴されちまっ……おわっ!?」


 軽口を言い終わる前に、私はベッドに覆いかぶさった。彼女の鳶色の癖毛に、私のブロンドが撓垂れ掛かる。彼女は最初だけ驚いたようだったが、やがて色素の薄い瞳で私の目をじっと見つめると、右手を伸ばして私の左の短い髪の毛に触れた。


「……髪、御免な。ンなつもり無かったんだ」

「駄目よ、やめて」


 口付けて言葉を塞いだ。柔らかな薄い唇の向こうの歯に、無様に前歯をぶつけた。──緊張で胸がはち切れそうだった。


「……これは仕返しなのだから、謝っては駄目」

「っはは、そーかい!」


 瞬間、今度は彼女から口付けられる。慣れたようなキスだった。優しく唇を食み、舌が私の舌に絡みつく。名残惜しそうに離れた唇に呆としていると、照れ隠しのように鼻と鼻を擦り付けた。


「……んじゃ、こんなに釣りが来らァ」


 彼女は、私を抱え込むとひっくり返すようにベッドの奥に押し込んだ。文句を言おうとする前にシーツをかけられる。何かと思い横を見れば、楽しそうな彼女の顔。


「慣れねぇ事ァするモンじゃねぇ。お嬢ちゃんはおねんねしな。ひでぇ顔をしてたら美人も形無しだ」

「……まるで何処かから借りてきたみたいな殺し文句ね」

「いーやァ、盗んできたのさ。俺は盗っ人だ」


「……ろくでなし」


 でも、嫌いじゃない。


 私は満足して、そうしたら雪崩のように睡魔が襲い掛かってきた。夜なべして彼女の介抱をして、服を洗い、繕い、明日のための支度をした。昨日、椅子で微睡んだ程度しか眠っていない。瞼が重くて適わない。同じベッドに彼女の体温を感じた。もう発熱はないようだった。



「……おやすみ、お嬢さん」


 馬鹿にしないで、と言おうと思ったのだけれど、そう言えるほど余力が残っていなかった。最後に瞼に口付けられた気がして、私は眠りの淵に誘われた。







 私、強くなりたかった。

 女だからと軽んじられるのが嫌だった。


 男に媚びて生きていくのなんて御免だった。


 貴方は私の理想だった。


 この眠りから覚めたなら、共に行きましょう。


 もう準備はしてあるの。


 貴方は私を連れていってくれるでしょう。


 そうだと言ったじゃない。


 ……私の覚悟を、許してくれたじゃない。






 目を覚ますと、私はベッドに一人で眠っていた。

 傍らには誰もおらず、あの縫い掛けの服も……いいえ、きっともう昨日は縫いかけでは無かったのだろうと思い直した。

 何もかも綺麗に片付けられていて、最初のまま。一昨日の夜のまま。ただ一握りの金貨と、空のウォッカだけが、それが夢ではなかったことを証明していた。


 ……何も残してくれなかった。


 本当は分かっていた。あの置き手紙を読んでなどいなかったこと。貴方はあんなに酒好きなのに、私に促されるまでウォッカを飲まなかった。貴方はあれを、私に言われるまで消毒薬だと思っていたのでしょう。


 それでも、私は騙されたかった。

 貴方の優しい嘘に甘えてみたかった。


 部屋中見渡しても、何を取られた形跡もない。取るものなんて何も無かった部屋だけれど、ナイフ一本、髪留めひとつも取られていなかった。たった一枚、私のブラウスを除いて。


 せめて部屋の隅に置かれたトランクひとつ、私の代わりに連れて行ってくれれば良かったのに。


「……どうして盗んでくれなかったの」


 私の呟きがひとつ、僅かに血の染みがついた床板に転がった。





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貴女の血の色を知っている @Haruca

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