ヴァーミリオン
プールから水面に顔を出した時のように、目覚めは一瞬だった。手を伸ばせば届きそうな低いところに、でこぼこした天井があり、ああ、これはお墓の中なのかと合点した。お墓の中というのは誰かがわたしの屍体をみつけてくれたということだ。手を伸ばそうとしたが身体が動かなかった。いよいよわたしは死んだのだと納得した。寒い。顔の周りは凍てつくほどに寒い。土の中なのに雪が降っていると思ったのは、私の息が空中で凍てついて降りてくるからだった。でも、身体は暖かい。とてもとても心地よい暖かさ。その温かさは左側から直接皮膚に伝わってくるようだ。わたしは首を左に廻らせた。
「うん? 気がついた?」
一〇センチも離れていないところにみどりちゃんの眠そうな顔があった。わたし達は一つの大きな寝袋に入っているのだとわかった。
え、みどりちゃん?
「どうしてここにいるの!」
わたしの質問はここまでというほど間抜けだったろう。
「私が? それともアカネちゃんが?」
みどりちゃんが目をこすりながら身じろぎして、身体を向こうに向けた。それでわかったのだけど、わたしもみどりちゃんも肌着しか着ていなかった。みどりちゃんの上半身はステンレスの魔法瓶とプラスチックの箱みたいなものを持って再び私の方に向いた。
「飲んで」
魔法瓶の蓋に注がれた湯気のたつ黒っぽい液体を私は一気に飲んだ。
「うぇ……これお酒」
「ワインを甘いジュースで割ったの。あんまりたくさんのまない方がいいかもしれない」
「だって、未成年だよ」
「死ぬよりいいでしょ。これも食べて」
「……チョコレート? うそぉ」
わたしは久々に見るその黒い塊を半信半疑で口に運んだ。チョコレートだ。でも、なんかちょっと、苦みの種類が違うっていうか。
「代用チョコレート。最近こっちで開発されたの。問題はお砂糖なんだって」
代用だろうがなんだろうが、それはチョコレートと呼べるものだった。精気が口から脳に直接ゆきわたってゆくようだ。帯広ではお砂糖はあってもチョコレートの原材料が手に入らないと言っていた。作り方を教えてあげられればいいのに。
「おいしい」
わたしは泣いていた。ほんとうに、チョコレートがおいしいというだけで。そんなわたしを見て、みどりちゃんはくくっと笑う。
「アカネちゃんって泣き上戸なんだ」
「そうだったみたい」
ほんの小さな雪洞だった。枕もと(?)にはランタンやスコップなどが置かれていて、スワロウに積んであったはずのサバイバルキットもあった。緑色の大きなリュックは雪洞の蓋になっているようだ。
わたしが遠慮もなく四かけ目のチョコレートを割って口に運ぶと、みどりちゃんは、ゆっくりと、でもあの懐かしい冷徹な口調で説明してくれた。
「ここは松本の西二〇キロ、北アルプスの南、野麦峠に続く谷の中。あなたの飛行機は梓湖っていうダム湖の凍った水面にぶつかってから山肌に乗り上げたみたい。右の翼と尻尾が折れてたけど、意外と丈夫にできてるんだって思った。あなたを引っ張り出して、なんとかエクウスのところまで戻りたかったけど、日が暮れちゃったから、ここでビバーク」
「えくうす?」
「小さな戦車みたいなものかな。それでトロル、あの脚の生えた弾性爆弾の信管を抜くの」
「みどりちゃん……ジュネスなの?」
「ごめんね。わたしはアカネちゃんにあやまらなきゃいけない。あのときは、私は六中のみんなをなんとかしなきゃって思ってたから、アカネちゃんがジュネスになるっていうのが嫌だったんだと思う。でも、親戚の家から出て行かなくちゃいけなくなって、それで私もジュネスになったの」
「そうだったんだ」
みどりちゃんを責める気持ちはかけらもなかった。それよりもみどりちゃんが同じジュネスになっていたってことが、本当に嬉しかった。
「でも、ジュネスって、日本じゃ帯広基地だけで養成してるって思ってた」
「防空隊じゃなくて騎兵隊っていうの。世界で最初に、安曇野でできたんだよ。
「わたしのせいで……」
「冗談。ちゃんと許可はとったから。それにアカネちゃんは、安曇野市への最初の空襲を防いだ英雄だもの。私はアカネちゃんを助けたってことで褒めてもらえるかもしれない」
「わたしは英雄なんかじゃない!」
うそ。そう思っていた。なんにもしないうちから、まだ安曇野についてもいないうちから、わたしは英雄になれると思っていた。空港では市長さんとか大勢が迎えてくれて、これで安曇野市も安泰だ、君たちのおかげだって、肩を叩かれる。それが実際はどう? パートナーには逃げられる、天気は読み違う、あげくにフロッグに襲われてスワロウも壊してしまった。
「それに、あのフロッグは安曇野市を空襲しようとしたんじゃない。多分……」
わたしには確信があった。わたしは風祭くんを怒らせてしまったのだ。
「……最初からわたしを狙っていたんだと思う」
「へえ? ジマーはジュネスには攻撃しないんじゃなかったの?」
「みどりちゃんはそう信じてるの?」
「ジマーは神様じゃない。信じるとかって、違うと思うけど」
ああ、みどりちゃんだ。わたしはおもわず抱きしめたくなる。
わたしは、みどりちゃんに説明した。小学生のときに風祭くんという子がいたこと、帯広で再会したこと、連絡協議会に誘われて、断ったこと。そして、謎のコードのこと。七人の仲間達のこと、御世話になった篠ねえや窪田さんのこと、教官達や整備さん達のこと。結局大変な物語になってしまったけど、それでも一〇パーセントもしゃべっていない気がした。
みどりちゃんは、目を輝かせて聞いてくれた。そして、しみじみとこう言った。
「すごいねえ。アカネちゃん、モテモテだったんだね」
寝袋の中で身動きが取れないのでなければ、盛大にずっこけていたことだろう。
「はあ? どこが?」
「風祭君って、覚えてるよ。確かに頭がよくてちょっと変わった子だった。でも、好きな子に振られたからっていきなり殺そうとするなんて、海外ミステリーの読み過ぎだよ」
「風祭くんは、べつに、わたしのことなんか……」
「アカネちゃんのランデュレ波の
わたしはついていけない。
「みどりちゃん、発想の飛躍がすごすぎると思うけど」
「目黒さんに聞いたでしょ? 去年の秋に日本で行われたランデュレ波の検査では、欧州やアメリカとは全然違う波形が標準とされた。アカネちゃんの波形は標準に近い。それからこれは私が調べたんだけど、九月一日に脳波検査やった学校って、うちだけだったみたい。たぶん、ランデュレ博士が来たのもうちだけだよ。そして九月一日に最初に検査をうけたのがアカネちゃんだった。以上のことから、証拠はないけど、アカネちゃんが日本のランデュレ波の標準になったのは、間違いない」
「……でもそんなこと、できるわけがない」
「誰がどうやってなんのためにっていうのが、私もわからなかったけど、それは今、アカネちゃんの話を聞いて、一つ仮説ができた」
みどりちゃんが少し上目遣いにわたしを見る。わたしは考える。
風祭くんのお母さんは『デルフトの花嫁』で『デルフトの結婚式』の人達にとっては象徴的な人だった。そのお母さんが亡くなって、たった一人風祭くんが遺された。ジマーが人類に戦いをはじめる前、組織の求心力がなくなった『デルフトの結婚式』の人達は、風祭くんを象徴に据えようとしたのかもしれない。そう考えれば、風祭くんの「希望」が通りやすかった条件はあったといえる。
風祭くんの「希望」。
それが、わたしと一緒にいたかったから、なんてことは、やっぱり、どうしても信じられない。だって風祭くんは言っていた。自己中心主義の軍事大国や宗教対立にふりまわされない、誰もが幸せに暮らせる世界、『デルフトの結婚式』が掲げた理想を引き継ぎ、あらたな世界を作ろう、と。
「でも、アカネちゃんは、その誘いに乗らなかった」
「それは、みどりちゃんが手紙で警告してくれたから。ランデュレ博士も、たぶん、そのことを言っていたんだと思う」
「私の手紙がなければ、風祭くんと一緒に行った?」
弥生ちゃんと同じ質問だ。みどりちゃんの手紙がなければ、ランデュレ博士の警告だって思い出せなかったかもしれない。
わたしは、困っている人がいるなら助けてあげたい。頭がいいとか、優秀だとか言われると、簡単に増長してしまう単純バカだけど、それでも、もし本当に力があるなら、それは人のために使いたい。風祭くんの掲げた理想の世界を実現するために、わたしが役にたつことがあるなら。
「やっぱり、一緒に行けばよかったのかも。風祭くんと」
「ランデュレ波って、何だか考えたことある?」
わたしの重大な告白ともいうべき一言を軽々と無視して、みどりちゃんが質問する。しかし、あっけにとられたわたしをおきざりにして、みどりちゃんは、めずらしくひとりで先を続けた。
「ランデュレ波には、単に多くのジュネス候補者から便宜的に人数を絞り込む以外に、大した意味は無いと私は思っている。たまたまシュテファン・マイヤーの脳波がそうだったから、というだけで。でも、偶然か必然かわからないけど、ランデュレ波の持ち主には、心理的傾向に共通点があるんじゃないかしら。あの質問、覚えているでしょ?」
そう、毎回少しずつ違うけど、何回も受けていると傾向がわかる。自分と他人のどちらを優先するか、他人の置かれた境遇をどう思うか。わたしもふくめて、帯広の同期のみんなは、ランデュレ波の検査が嫌いだった。理屈で考えたとしても、どちらか選べないような質問ばかりで、まじめに考えれば考えるほど苦痛だった。
「これも仮説だけど、ランデュレ波がある人は、他の人のおかれた境遇に共感しやすい傾向があるんじゃないかな。そして、風祭君の理想を達成するためには、どうしてもそういう人の支えが必要だった。逆に、支えがなければ、風祭君には理想を叶えることは難しいと思う」
「みどりちゃんは、それじゃあ、風祭くんの理想をかなえさせないために、わたしに逃げろって手紙を書いたってこと?」
「そう。でも、わたしが全部考えたんじゃない。シュテファンに会ったことは話したよね。彼がそう言ってたの。『連絡協議会と風祭賢治のやりかたは急進的すぎて、
みどりちゃんがシュテファンさんを呼び捨てにするのがちょっと引っかかるけど、それは腑に落ちる話だった。風祭くんにとって、わたしはシュテファンさんの替わりということなのだ。あるいは、
「風祭君にとっては、アカネが理想のパートナーだったってこと。シュテファンはアカネの代用、つまり繋ぎだったってことかな」
「ねえ、みどりちゃん、ランデュレ波が他人の境遇への共感だっていうのが本当なら、わたし、みどりちゃんにランデュレ波があるって思えない」
「私はアカネちゃんのそういうところが好き」
みどりちゃんの両腕がわたしを抱きしめる。むかしのままのぬくもりとやさしさと、そして半年の間についた筋肉の力強さを感じて、わたしはうれしくなる。
そして、それはわたしも同じはずだ。
「わたしね、ジュネスになって、十人の溺れた人を助けられる力をつけたと思っていた」
「うん」
「でも、自分一人で勝手に溺れて、みどりちゃんに助けてもらった」
「ははは」
みどりちゃんは軽やかに笑った。腕をほどき、切れ長のきれいな眼がわたしを見つめる。
「今は私もアカネちゃんも、せいぜい一人助けられるかどうかだよ。でも、きっといつか、たぶん、ジュネスをやめて、おとなになっときには、私達自身のちからで一〇人でも百人でも助けられるようになる」
うん。わかっていたはずなのに。なのに、わたしは、劇的で英雄的な物語にひかれてしまったのだ。古い世界をひっくりかえす、革命。
「歴史が語るところによるとね」
みどりちゃんは笑いをかみころすような口調で教えてくれた。
「ほとんどの革命は一回では成功しないし、一度、革命グセがつくと何度も何度もやっているうちに旧体制と新体制、敵と味方の区別が付かなくなるのね。さしずめ、アカネちゃんは、一次革命の後で、反革命罪で暗殺されかかったけど、体制変化によって一命をとりとめたってところかな」
それでわたしの気持ちはすうっとほぐれた。そう、刑は執行された。でもわたしは死ななかった。ギロチンの刃が落ちる寸前、わたしを引っ張り出してくれたともだちがいたから。
「ええと、テルミドールの反動だっけ? でもテルミドールってなんだろう。場所?」
「革命歴の月の名前。テルミドール、フリュクディトール、ヴァンデミエール」
「みどりちゃん、なんでも知ってるね。じゃあ、今は?」
「三月? なんだったかな。えっと……ジェルミナール?」
小首を傾げたみどりちゃんの瞳が、きらりと黄金色に輝いたように見えた。
左手首のお父さんの腕時計は六時半を指している。
みどりちゃんは寝袋から上半身を出して、雪洞のふたになっていたリュックサックを、よいしょ、と、ずらした。
目に飛び込んできたのは、雲一つない菫色の空を背景にした真っ白な北アルプスの連峰。その先端が、朝日を受けて茜色に染まっている。
「すごいきれい」
「うん。早起きは三文の得」
ふたたび寝袋に戻ってきたみどりちゃんがいたずらっぽく微笑んだ。何を言うか、ねぼすけのくせに。
「ねえ、ヴァーミリオン戦隊とか、どう?」
「え?」
「安曇野防空隊の名前。アカネがつけていいんだよ」
「ヴァーミリオンなんて」
わたしはシュテファンさんとの会話を思い出す。「自分の名前みたいでいや」
「なんだ、だからいいと思ったのに。じゃあ、どうする?」
なにも今決めなくてもいいでしょう? そう言おうとして言葉を飲み込んだ。
今、ここで決めよう。
きっとこれからも、大人になってもわたしは、たいして何も変えられず、人も助けられず、風祭くんの革命を手助けすることもできず、それでも生きてゆく。死んでしまった人や、消えてしまった
今日、みどりちゃんに救ってもらった命を抱いて。
そのことを、あの銀色の連峰に誓う。
「『ジェルミナールの白銀』っていうのは、どうかな?」
ところが、みどりちゃんときたら、あの冷たいすまし顔で、
「長すぎ」
と、わたしの渾身の命名をあっさりと却下した。
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