第一次塩尻西
整備の人達は帽子を振ってくれたけど、いつもより盛大ということもなく、もう戻ってこないって、わかってるのかな、とこっちが心配になる。
松本空港までの道中、わたしはそれほど不安というわけではなかった。仙台までなら訓練中に何度か往復したことがあったし、教官と一緒とはいえ、一度は日本海を渡ってウラジオストックまで行ったこともあった。
離陸してから二時間ほど、飛行は順調だった。わたし達が帯広で訓練をうけている間に日本の主要な空港のほとんどが空襲を受けて使えなくなった。空港は直すこともできたけど、航法支援施設や管制用のレーダを壊された影響は大きく、民間の旅客機はほとんど飛べなくなってしまった。レーダは直しても、またジマーの標的になる可能性が高いのだという。
管制官との通信はわたしの分担。
「東京管制所、こちらはオスカーワンデルタです。こんにちは」
〝Oscar One Delta, report position……あ、失礼しました。オスカーワンデルタ、こちらトウキョウコントロールです。現在位置を教えてください〟
計器板の地図は正常に動いている。薄い雲の切れ目からは房総半島の先端が見えている。
「現在、だいたい霞ヶ浦の上です。高度四〇〇〇メートル。松本空港に向かっています」
〝オスカーワンデルタ、現在、航行に支障ありません。レーダサービスは必要ですか?”
管制官の声は一語一語を区切るようにゆっくりで、とても丁寧だったけど、応えるわたしの声は、主人公の敵役(ライバル)みたいに冷たかったかもしれない。
「必要ありません。ありがとうございました」
〝大盤振る舞いだね。レーダなんか打ったらジマーの攻撃を呼び寄せるじゃん”
別の周波数で、みず稀の声が入る。みず稀はわたしの右前方を飛んでいる。
「きっと、わたしたちが英語でエーティーシーもできないって聞いて、ちゃんと目的地までたどり着けるか、心配しているんだと思うよ」
〝へえ、それはまたなめられたもんだわ〟
みず稀はちょっと自信過剰かもしれないけど、わたしも心の中ではうなずいていた。確かにわたし達は教官達に言わせればパイロットとしてはまだまだ素人同然で、五体満足で帰ってくるのがせいいっぱいかもしれない。それでもわたしたちはジマーと戦って、追い払うことができたし、それは教官も含めて大人達にはできないことだ。最初のジマーを撃墜したときは、心が震えたし、みんなに褒めそやされて嬉しかったし、誇りにも感じた。それが悪いことだとは思わない。一方で、やりがいとか使命感と言われるとわからない。でも、弥生ちゃんと同じで、ランデュレ波がなくなるまで、わたしはジュネスとして飛び続けるだろう。
〝ちょっと、雲が厚くなってきたよね〟
みず稀の声が、わたしのとりとめのない思考を遮った。みず稀のスワロウはぴったりわたしの右前方から動いていない。
「そうね。富士山の山頂、見えなくなってきてる。松本の方はもっと雲が厚いかも」
〝高度下げようか〟
「了解」
私達は一五〇〇メートルまで高度を下げることにした。雲の層の下を障害物にぶつからないように飛ぶので速度も遅くしなくてはならない。到着は少し遅れそうだ。
安曇野市の人達は、きっと飛行場でわたしたちの到着を待っているだろう。それはちょっとだけうしろめたいけど贅沢な想像だった。世界的に有名なロックバンドが来日する時みたいに横断幕が掲げられることはないにしても(それはやめてほしい)、お迎えが一人だけってことはないだろう。テレビや新聞記者がいるかもしれない。一般の人達が押しかけるようなことはたぶんない。帯広市でもそうだったけど、みんな町を新しく作り直しているところなのだ。暇な人なんて一人もいないはず。
「ねえ、みず稀、飛行場でわたしたちのお迎えって何人くらい来てると思う?」
〝うーん、百人くらい?〟
みず稀らしい適当な答えに、つい笑いがもれる。
「そんなにいるわけないじゃん。市の防衛隊の人が二人くらいと、あと整備さんとかいると思うけど」
〝うーん、そんなものかもね〟
「あ、でも、わたしたちが来るのをずっと待っていてくれたんだよね。歓迎会くらいは、あるよね、きっと」
〝そうだね〟
興味のありそうな話題だと思ったのに、みず稀の答えはそっけなかった。どうしてもおしゃべりしたい気分でもなかったし、雲の高度が下がってきて操縦に神経を使うようになってきたので、わたしはそれ以上みず稀にからむのをやめた。すっかり気持ちを切り替えたときに、唐突にみず稀の声が聞こえた。
〝ねえ、アカネ。ここで別れよう〟
おかしなことを言っているとは思ったけど、わたしの頭はすぐに切り替わって、別々のルートを取るべきだ、という提案だと理解した。まさかジマーが来てるの? レーダには何も映っていない。
「一緒の方がいいと思う。相手の位置がわからないし、その方が対処しやすいよ」
“そうじゃなくて、あたしは安曇野にはいかないから〟
耳を疑った。聞き間違いか、言い間違いじゃないだろうか。意味がわからない。
「あと一五〇キロくらいだよ。燃料がないの?」
〝そうじゃなくて。ごめん、最初にあやまらなくちゃね。あたし、安曇野じゃなくて、別に行きたいところがあるの。だから、ここらへんでアカネとはお別れってこと〟
「ほかって、ちょっと待って、だって安曇野ではみんな待ってるんでしょ? みず稀はジュネスでしょ? ジュネスやめるの?」
〝ジュネスは続ける。わたしも守りたいものがあるから〟
「どこに行くの?」
〝小諸〟
小諸。最近、聞いた。弥生ちゃんの出身地だ。そういえばみず稀はずいぶん弥生ちゃんにいろいろ聞いていたような気がする。みず稀が続けた。
〝アカネには言っちゃうとね、あたし小諸に彼氏がいるの。だから、小諸でジュネスをやる〟
「え、えーッ」
みず稀の恋人の話は、なんども聞かされたし、できれば一緒に暮らしたいというみず稀を応援もした。でも、そんなのはめちゃくちゃだ。
「だって、だって、小諸に防衛隊なんかないでしょ? だいたい、飛行場もないし、整備してくれる人だっていなんじゃないの?」
〝つくりかけの高速道路があって、滑走路に使えるって。整備士さんも集められそうだって〟
たぶん、みず稀はちゃんと考えてないし、みず稀が聞いている話も本当かどうかわからない。なにより、帯広の訓練所の決めたことに逆らうことになる。そうしたら、後輩だって来なくなるし、いや、そういうレベルの問題じゃない!
〝ねえ、アカネ。おかしいのは帯広の大人達だよ。安曇野とか筑波とか、選ばれた
「そういうことじゃなくて!」
みず稀は間違っている。でも、それを一言で説明できない。雲が低くなってきて、正面の視界が真っ白になってきた。山肌は見えているし、高度もあるからぶつかる心配はないけど、脂汗が滲んでくるのがわかる。
〝アカネには悪いと思ってる。でも決めたの。大丈夫だよね。一人で安曇野まで行けるよね。じゃあまたね〟
「ちょっとまってよ」
みず稀のスワロウは、くるりと右に翼をひるがえして、あっという間に雲の中に消えた。おいかけようと思ったけど、タイミングが悪かった。レーダにはまだみず稀の機影が映っているけど、北には八ヶ岳がある。とても、あの雲の中を抜けて行く自信がない。
「みず稀、戻ってきてよ、いっしょに安曇野に行こうよ」
無線は届いているはずだ。わたしはなんどか呼びかけたけど、返事はない。
頭の半分はパニック状態だったけど、残りの半分には、これからやらなくてはいけないことのリストが箇条書きになって現れてきた。とにかく、松本空港におりよう。その後でみず稀を連れ戻しにいけばいい。途中ではぐれたとか言えば、きっとわかってもらえるだろう。それはわれながらいいアイデアに思えた。下方には大きな湖のようなものが見えている。諏訪湖だ。もうすぐ塩尻峠で、それを安全な高度で越えることができれば、空港まではすぐ、のはず。
「松本レディオ、こちらオスカデルタ、聞こえますか」
応答はない。周波数が間違っていたの? 計器板に貼り付けたメモを見比べる。高度が低くて届かないのか。地図もズレはじめているようだ。松本空港にお願いして、航法用の電波を出してもらわないといけない。そのためには高度を上げないと。
おかしい。天気はもつって言ってたのに。
一瞬の間にたくさんのことが起きた。
タタンタタン、警報が鳴って、赤の警告灯がついた。とっさに上昇を開始して雲に入ったので、外は何も見えなくなる。高度計を見ながら三〇〇〇メートルまで上昇するための姿勢を決める。レーダスクリーンには逆方向に飛んで行くブリップが映っている。フロッグだ。正面から飛んできて下をすり抜けた。どこかの
いや、待って、装置が壊れたのかもしれない。赤い警告灯は、〝MSCND〟。メーザ照射を受けたという意味だけど、わたしがそれを注視すると、決まり悪そうに、すっと消えた。
背筋に冷たいものが走るのを感じた。フロッグが離れてゆく速度が遅くなり、やがて方向転換してこっちに向かってくる。狙われているのはどこかの
何度も練習した動きだ。でも、なにか違う。動きが違う。どんどん距離がつまってくる。フロッグの旋回半径が、なんでこんなに小さいの?
フロッグじゃないのか? そう思った。浅い斜めの角度で交叉するとき、相手を肉眼で捉えた。まちがいない、見かけはフロッグだ。でも、フロッグより小回りが利いて、そしてメーザを撃ってくる。また、メーザ警報が鳴り、こんどはHMDのバイザに壊れたテレビのようなノイズが走った。
「みず稀、どこにいるの、助けて!」
応答はなかった。高度は十分なはずなのに。
一瞬、燃料計に目がゆく。このまま最大速度で戦闘機動をしていたら、すぐに燃料がなくなる。だいたい、一対一ではフロッグに勝てない。松本空港に逃げ込む? だめだ。着陸のために速度を下げたところで追いつかれるし、都市(コミューン)にフロッグを迎え入れるなんてとんでもない。
スロットルを絞り、機首を思いっきり下げる。一瞬、身体が浮かびあがりそうになる。電波高度計の針はふらふらとゆれている。山岳地帯の上を飛んでいるのだろう。フロッグはきれいに後についてしまった。距離が縮まってゆく。気のせいか、肌がじりじりと熱い。気のせいじゃないかもしれない。これがメーザの攻撃なのか。目の前の視界が急に開け、地面が見えた。雪に覆われた山肌に枯れ木がならんでいる。操縦桿を一杯に引き起こす。腕が重くなり、視界が暗くなってゆく。歯をくいしばり、息をとめて、意識を保つ。腕が操縦桿から引きずり落とされそう。手を緩めたら地面にぶつかる。
方位も場所もわからなくなっていた。地図はとっくに動かなくなっていたし、見る余裕はなかった。わたしは東西に続く谷間に飛び込んだらしい。前は全く見えなかった。電波高度計と左右の下方に見える地面を頼りに低空飛行を続けた。谷間は思ったよりもまっすぐで、自分が地面に衝突しないかわりに、フロッグを振り切ることもできない。またメーザ警報の赤いランプがちかちかと点滅するようになった。警報は鳴っているんだろうけどもうわからない。あと数秒でわたしは焼け死ぬか地面にぶつかってスワロウごと木っ端微塵になるだろう。
なのに、恐怖はなかった。それどころか、わたしの頭はまだ生きのびる方法を探していた。右前方に、湖のようなものが見えたとき、わたしは、もう一度操縦桿を引いた。機首が六〇度以上も上がり、失速警報がなる。右のペダルを思い切り踏むと、わたしのスワロウは右に倒れ込むようにして急激に方位を変えた。そこで谷筋が分かれていて、わたしは小さな谷の方に急カーブで文字通り転がり込んだ。雲で真っ白だった視界は左に流れ去り、かわりに雪におおわれた可愛らしい谷が現れた。雪の合間にわずかに見える川面は凍り付いているように見えた。地肌が覗く急斜面に張り付いた針葉樹の枝から、はらはらと雪が落ちていった。その林の合間を、何かの動物の足跡が彷徨っていた。失速警報の鳴り止まぬ中、紙飛行機のように力なく墜ちる愛機の機首を支えながら、フロッグがどうなったとか、死にたくないとかではなく、偶然みつけたおとぎ話のような銀世界の中に、必死に春の兆しを探していた。
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