第六章 一九八一年三月(ジェルミナール)

デルフトの花嫁

 帯広で迎える最後の朝。

 建屋の間や路肩にはまだ雪が残っている。本格的な春を迎えるには早いけど、あの凍える寒さはこの数日ご無沙汰だ。くたびれてはいるけどすっかり馴染んだわたしのスワロウは、後席をはずして、ミレーのリュックサックに詰め込んだ身の回りの荷物と少しの部品を積み、みず稀の子と一緒に駐機場エプロンに並んでいる。

 結局、わたしの任地は長野県の安曇野市になった。安曇野市に着任するのはわたしとみず稀の二人だけ。任地が決まったのは「卒業」のわずか二日前のことだった。

「計画が変更になりました。みなさんは四人ずつ二つの都市コミューンに配属される予定でしたが、二人ずつ四つの都市コミューンに行ってもらいます。大変だと思うけど、がんばってね」

 最後のがんばってね、のあたりは無理矢理抑揚をつけたみたいで、篠ねえの言葉には元気がない。「後輩達はすぐに送りこむから。そうしたら、学校にも行けるようになるわ」

「つまり、それまでは学校に行かなくていいってことですねっ」

「お前はいいよな。おれもう相当馬鹿になってるし、富山県と石川県の区別もつかねえ」

 二人の馬鹿話を聞いて笑っていられるのもあとわずか。

「ふたりなんておかしいと思います。そんなのお手洗いにも行けないし、ジマーは日曜日にはこないとかそんなルールでもあるんですか?」

 言わずもがなの事を言うのは弥生ちゃんだが、一人がトイレに行っていたので迎撃できませんでした、で批判されることよりも、形だけでも新中核都市にジュネスを配ることのほうが大事だと、大人達は判断したのだと思う。そうでもしないと、訓練所は都市達からの信頼を保てない、と。これは別にわたしが一人で考えたことじゃなく、目黒さんや他の大人達の話をきいたり、テレビをみたりしていれば、誰でもわかることだ。

 みず稀はというと、ほっとしたような表情で小さく頷いている。わたしは顔を寄せてささやいた。

「また、しばらく一緒だね。よろしく」

 みず稀はちょっと驚いたような表情を一瞬うかべたけど、「うん」と笑顔をくれた。


 任地が決まるのが、ここまで遅くなった理由の一端が、わたしにあったのではないか、そう思えるできごとがつい先週にあった


「やっぱり日本は暖かいね」

 風祭くんは肩をすくめて、身震いするような仕草をした。言葉と態度が一致していない。わたしが無言で首を傾げると、まんざら冗談でもなさそうな口調で説明してくれた。

「ヨーロッパってさ、まあ、日本でもそうだろうけど、冬の間は戦争をしないのが常識みたいなところがあるんだ。ソ連に侵攻したドイツ軍も冬将軍に負けたろう? 今年の冬は寒いけど、寒い間はジマーは襲ってこないんじゃないかって、そんな雰囲気があるんだよ。だからさ、こう、暖かいと、すぐにでもジマーが襲ってくるような気がする」

「意外に迷信っぽいこと言うんだ」

「僕が言ってるんじゃないよ。周りがそういう雰囲気ってこと。でも影響はされてるね。こういうこと言うんだから」

 そして、「自嘲」って感じのおとなびた薄笑いを浮かべた。

 風祭くんの態度はあいかわらず鼻につくところがあったけど、不思議にそれほど気にならない。それよりも、訓練所に全体的にただよう油断したような雰囲気と、春が近づくにつれて確かに高まってゆく高揚と苛立ち、その両方の理由がわかったような気がして、わたしは頷いた。

「ジマーは来るよ。でも、わたし達はちゃんと準備してる」

「さすがアカネだ。ぼくが見込んだだけのことはあった」

 ここは基地から車で一〇分ほど走った中札内村にある小さなレストランだ。以前は観光客向けの焼き肉屋さんだったそうだが、アメリカ産の牛肉が入らなくなって、今は地元産のポークステーキを売りにしている。そこそこ広い店内は九割は埋まっていて、基地で働いている人達の姿もちらほらある。農作業や土木作業の帰りに直接立ち寄ったような身なりの人は少なく、家族連れやジャケットを着た男の人達のグループが多い。

 この中札内村は、どんどん人口が増えている。計画通りに毎年一〇〇人のジュネスを育てるなら、寮も食堂も小さすぎるし、洗濯物だって沢山出るし、教官や整備さんやもっともっと沢山の人が基地で働くことになる。そのほとんどが本州や札幌の空襲から逃れてきた人達だけど、なによりここには仕事があるのだ。村の中央を流れる札内川の上流ではダムの建設が始まっているし、新空港の周辺には、スワロウの組み立て工場をはじめとして、いくつもの建物が造られている。石炭を使った火力発電所も建設中だ。

 そんなお店の中でも、ジュネスの制服姿のわたし達二人はちょっと注目を集めていたと思う。

 二月末に二期生達が入ってきて、わたし達は休日だけでなく平日夜の外出も許可されるようになり、このお店にも何度かみんなで来ている。外出の時は以前とは違ってもちろん制服だし、大人達に言われるまでもなく、大声でおしゃべりしたりすることもない。地元じゃないお客さんからの好奇の視線を躱すことにも慣れたし、お手洗いですれ違った同い年くらいの女の子に握手を求められても、笑顔で応じられる。

 問題は、このとき実は初めて男女二人だけで来たということだ。風祭くんと二人で外出する、とみず稀や弥生ちゃんに言っておいたせいもあるのか、今日は他の同期は来ていない。

 いや、それどころか、わたしの人生最初の「デート」なんじゃないだろうか、と気づいてしまった。

「どうしたの、アカネ」

 風祭くんにそう言われるくらいだから、よほどわたしは動転していたのだろう。でも、この時のわたしは全体として余裕に満ちあふれていた。重要なのはトキメキだ。トキメキがないデートなんてただのお食事会でしかない。わたしは風祭くんを二人だけのお食事会に誘うくらいにはいい人だと思っているけど、恋はしていない。

 ジュースでの乾杯から始まって、サラダ、鉄板でジュージュー音を立てるポークステーキと進む間、わたし達は近況を伝えあった。ヨーロッパの様子は、だいたいはわたしでも知っていることで、やっぱりアメリカでの戦争が一段落してジマーが戻ってくることをとても警戒しているようだった。その一方で、中国やオーストラリア、南アメリカでの防衛隊の組織化が始まっていると。とは言っても、戦闘機の組み立て、防壁ネットの建設、索敵網の整備がひととおりできないところでは防衛隊は作れない。

「なによりジュネスの選抜と訓練が問題だよ。女性が戦闘機に乗って、男性と同じ権利があることを認めないような国じゃジュネスは運用できないし、僕等と同じくらいの子達が少年兵として銃を撃ち合っているような状態じゃとてもじゃないけど」

「そういう国は、じゃあ、ジマーに襲われるがままになるってこと?」

「国じゃないよ」

「ええ、そうだった。人口が何百万にもなるような都市コミューン弾性爆弾エラストの攻撃にとても弱いし、これまでのレーダ網ではフロッグの接近を許してしまう。だから、これからは都市コミューン単位での防衛や政治や経済が主体になるってことだよね」

「すごいね。伝刀さん、四ヶ月前に来たときとは全然違う。すっかり一人前のジュネスって感じがする」

「そんなことない。相変わらずみんなの中じゃみそっかすだもん」

 そう言いながらもわたしは少しだけ後ろめたかった。ジュネスとしてはわたしは優秀なんかじゃない。でも誰もが手探りではじめた第一期生がどうにかここまで来られたことに、わたしが全く貢献しなかったとは言えない。風祭くんは手紙で連絡協議会での変化を、それを大人達が正式に知る少し前に知らせてくれた。おかげでわたし達は、大人達が作った新しい制度の「ちょっとした間違い」を指摘して、わたし達自身や後輩達が、余計な苦労をしなくていいようにすることができた。だから、わたしがなんとかここでやってこれたのは、風祭くんのおかげ。でも、風祭くんはそうお礼を言われることを望んでいない。わたしは、風祭くんが教えてくれたこと、そう注釈付で同期のみんなに展開したし、そうしていることを風祭くんに伝えた。そうすることで、わたしと風祭くんの関係はうまくバランスしていると思いこんでいた。

 でも、あのジンギスカン会議のとき、わたしは気づいてしまった。わたしは思っていたよりも多くの恩を風祭くんに受けているのかもしれない。そのことに、わたし以外の人達の方が勘づいている。

 風祭くんは、わたしの質問に答えてくれた。

「宗教や伝統や国家のイデオロギーはジマーから人間を守ってくれない。そのことに気付くことができれば、彼らはぼくらの考えを受け入れてくれると思う。この日本がそうしたようにね」

「でも、それは日本だからできたかもしれないわよね」

 風祭くんは目を細めて首を傾げた。「どういうこと?」

 わたしが言いたかったのは、本当に当たり前の社会の授業で習うようなことだった。

「日本は四十年前の戦争で負けて、国家の誇りとか神様よりも一人一人の命の方が大事だってことに気づいたし、命の重さには世界中で変わりがないってことも、頭の中ではわかっている。強い軍隊を持っている国が小さな国に無理矢理いうこときかせようとするのは間違っている、ってことも常識。でも世界には、それが常識じゃないって思っている人もまだたくさんいる」

「うん。そうだね」

「そういうひとたちを、連絡協議会LBISは見捨ててしまうの? アメリカを見捨てたみたいに?」

「見捨てないよ。アメリカのジュネスだって壊滅したわけじゃない。議定書の本来の方針に基づいて、自立した都市コミューンを守っていけばいいんだ」

 風祭くんは即答した。でもわたしはくいさがった。

「でもジマーはどんどん強力になっているんでしょ? そんなわからずやの人達を相手にしていたら、その間に本当に助けが必要な人達がジマーに襲われてしまうんじゃない?」

「ジマーと協議会ボードのいたちごっこはこれからも続く。ただ、考えかたがあわないからといって、協議会ボードはそういう人達を見捨てたり懲らしめたりはしない。だって,世界中の全ての人は平等に生きる権利があるって、それを言っている協議会ボードが、言うことを聞く都市コミューンだけをひいきしていたら、それこそ誰も協議会ボードを信じなくなってしまうだろう?」

 わたしは風祭くんの目を見て、その言葉が本当かどうか判断しようとした。そして、すぐにそれに意味がないことに気づいた。わたしは風祭くんと長いつきあいでも深いつきあいでもないけど、彼は普通の人とは違うところがいくつもあって、そのうちの一つが嘘をつかない、ということだとわかっていた。

「その言葉をきいて、安心した」

 そう、わたしは半分だけ嘘をついた。

 風祭くんは、うん、と大きく頷くと、うれしそうな顔でわたしを見た。

「ぼくも安心した。きみは本当にぼくが見込んだ通りの、すごい人だよ」

「すごくなんかないって」

 わたしは言うべきだろうか。風祭のわたしへのかいかぶりとえこひいきは、やもうめて欲しい、と。もうすぐわたしは帯広を「卒業」する。何人かの仲間とは引き続き一緒になるだろうけど、後輩もやってくるし、別の大人達とも一緒になる。そのとき、わたしは風祭くんとの関係をどうやって説明すればいいのか。

 風祭くんは、おもむろに胸ポケットからペンを取り出した。そして、お箸袋にいくつかの数字を書いてわたしのほうによこした。

「これを覚えて」

 電話番号? そうじゃない。ゼロから始まっていない数字が、一六個ならんでいる。

「メモしちゃいけない。暗記して」

 わたしが、覚えた、というと、風祭くんは数字の書いてあったところをちぎって灰皿にのせ、マッチで火をつけた。風祭くんは、もう一度わたしに数字を復唱させ、大丈夫、覚えたね、と頷いた。

「アカネ。きみはもう十分にジュネスとしての能力を見せてくれたし、しっかりとしたものの見方ができる人だってことがわかった。ぼくと一緒にケーニヒスブルグに来るといいと思う」

「ケーニヒスブルグ?」

 もちろん、わたしはそれが連絡協議会LBISの本部が置かれた東欧の都市コミューンの名であることを知っていた。その名を口にしたのは、動揺に気づかれないようにするためだった。

「ケーニヒスブルグだよ。きみは僕と同じように協議会ボードの本部で働く。さっきも言ったけど、これからはジュネスは世界中のいろんな文化のある土地に広げていかなくちゃならない。そういうところは、ヨーロッパ人やアメリカ人よりも、僕等みたいな東洋人の方が理解してもらえやすいことがある。それに君は女の子だ。東洋人の女の子、それが優秀なジュネスとなれば、それこそが、僕たちに必要な人材なんだ」

「……わたし、優秀なジュネスなんかじゃないよ」

 それ以外のことは何も思いつかなかった。風祭くんの言っていることはまったくちんぷんかんぶんだった。連絡協議会なんて、わたしにとっては教育委員会と同じくらいに謎の組織だし、そこで風祭くんが何をやっているかも、好奇心はあるとはいえ、自分とは関係のない世界だと思っていた。

 世界をインクの染みのように浸食してゆくジマー。あのアメリカさえもその前には無力だった。そのジマーに唯一対抗できる力と知識を持つのが連絡協議会LBISだ。つい一年前まで英語もまともにしゃべれなかった中学生が、国連事務局で働かないか、と言われているようなもの、いや、それよりずっと途方もないこと。

「それに、そんな外国で仕事するなんて」

「仕事って言い方が悪かったかもしれない。一日の半分は学生として勉強をするんだ。ジュネスが通う学校があるし、僕のように個人教授の先生をつけてもらうこともできる。日本語が話せる英語やドイツ語の先生だってみつかる。なんの心配もない。君が僕と一緒にくれば、それだけのものは手にはいる。君にはそれだけの価値があるってことだよ」

 そんな言葉を聞いて、わたしは嬉しくなかったはずがない。もともと、国語のテストの成績がクラスで二番目だったり、部活の副部長に選ばれたりするだけで満たされてしまうほど、わたしの自尊心の器は小さい。

 でも、器はいったん溢れてしまうと、それ以上に注がれた美酒は床にこぼれるだけ。

「ありがとう、風祭くん、そう言ってもらえるのは嬉しい。でも、納得できないの。だってここには日本人のジュネスの女の子っていうだけで、わたし以外に三人もいるのよ。みんなわたしより頭も良いし……かわいいし、弥生ちゃんなんて帰国子女だから英語がぺらぺらだし、スワロウの操縦だってわたしより上手だし」

「そんなことは些細なことだよ。きみは訓練飛行中に襲来したフロッグを、自分の判断で撃退した。それは誰でもできることじゃない」

「あれは……わたしじゃなくてみず稀が」

「戦闘の詳細はすべて協議会ボードにつたわるんだよ。どのジュネスがどういう働きをしたのかって。それに先月、君たちは独自で水上基地キャリアを攻撃する計画を立てていた。計画はかなり具体的で実現性も高かったのに、実施されなかかった。最終的に中止の判断をしたのは伝刀さんだよね」

「それも違う。弥生ちゃんだよ、判断したのは。わたしはただ、やめた方がいいって……」

 ぞわっと冷たい空気が身体をなでたような気がした。

 そんなことをなぜ風祭くんが知っているのか。それもひっかかったけど、弥生ちゃんは大人達を巻き込んでいたから、連絡協議会に伝わったとしても不思議じゃない。あのとき、わたしは弥生ちゃんの計画はうまくいくんじゃないかと思っていた。一方で、よくないことになるというのはカンのようなものだった。

 悪寒の原因は、そのカンの正体に気づいたこと。わたしはおそるおそる尋ねた。

「もし、わたし達が水上機地を攻撃していたら、どうなったの?」

「失敗したと思う。最悪、きみたちのスワロウは迎撃されて、撃墜される可能性があった」

「ジュネスが? フロッグに攻撃されるってこと?」

「水上基地からの攻撃がジュネスを標的にしないとは限らない」

 やっぱりそうだ。わたしは頭の中で、これまで感じていた疑問がつぎつぎに形をつくってゆくのを感じた。

「一月に、わたし達の訓練中に帯広を襲撃させたのは、連絡協議会なの?」

 風祭くんは答えなかった。黙ったまま、じっとわたしをみつめている。心臓の鼓動が速まり、息苦しくなった。風祭くんは次の質問を待っているように見えた。

「本当は連絡協議会が……『デルフトの花嫁』が影でジマーを操っているんじゃないの?」

 答えは一瞬でもらえた。

「連絡協議会はジマーを操ることなんかできない。『デルフトの結婚式』はジマーを作った人達だよ。作るだけで操るつもりなんて最初からなかった」

「……作った?」

「きっかけは大したことじゃない。一九六〇年頃に、デルフト工科大学で学んだことのある学生達同士が結婚した。でも、アメリカ人だった新郎のニューマンさんはベトナム戦争に従軍し、花嫁を置いて死んでしまった。それをひどく悲しんだ新郎新婦の友人達が、国家のエゴや思想が個人の幸せを支配する今の世の中はおかしいと考えて、本気で世界を変える方法を研究しはじめた。フロッグやそれを生産するシステムはソ連製だとしても、それを動かす『ジマー』をつくったのは『デルフトの結婚式』なんだ。ところが」

 淡々と説明していた風祭くんの表情に影がさした。

「フロッグやトロルが兵器として完成しても、ジマーそのものはとても自律的に機能するようには仕上がっていなかった。なのに『デルフトの結婚式』はジマーをコントロールすることをやめてしまった。というか、最初からそのつもりはなかったんじゃないかな。ごく一部の人達がそれでも当初の目的を果たそうと頑張っていた。バウアー議長とか、ランデュレ博士とかね。でも、おそらく彼等も、もうすぐ手を引くと思う」

「どうして?」

「怖くなったからかな。直接話していないから、わからないけど」

「風祭くんのお父さんも、結婚式に招待されていたの?」

「いや」

 一瞬の間が空いた。でも、その後の言葉に躊躇はなかった。

「……『デルフトの花嫁』は、ぼくの母親だったんだ」

 え。それは、どういうこと。だって、風祭くんは。

「最初の夫が戦死して、日本に戻った母親は、ぼくの父親と再婚して、ぼくが生まれた。母親は、たぶん、象徴的な存在で、『デルフトの結婚式』の活動とはなんの関係もなかったと思う。ソ連に拉致された本当の理由は、わからない」

 そこで風祭くんは口を閉ざし、その先を語ることはなかった。

 でも、まだ風祭くんは、わたしの疑問に答えていない。

「連絡協議会も、デルフトの結婚式もジマーを操っていないなら、どうして、あんなに都合のいいタイミングで、フロッグが帯広を襲撃したの? それからも何度も、わたし達の準備ができているときに限って空襲があった。まるで、わたし達ジュネスが役に立つことを証明するためみたいに」

「ジマーは操れない。でも、まったく意志が通じないってわけじゃない」

 風祭くんは、灰皿の中の墨を指さした。

「さっきのコード。緯度と経度と時刻を指定して添える。そこにジマーは現れる。ジマーは、そこに人工物があれば、破壊する」

「まって……なにそれ」

「手紙の送り先はあとで教えるよ。使い方を間違えると副作用バックファイヤをおこすからね。一度使ったら二八日以上あけること。あと、このコードはもう君のものだ。君が死んだら無効になる」

 そのコードが紙のままだったら、わたしはそれをちぎっただろう。だけど、今それはわたしの頭の中にあった。忘れようとするほどその数字は深く頭にきざまれるようだった。

「ぼくもよくは知らない。こんなコードが他にもいくつかあるらしい。全てのコードがわかれば、ジマーを止められるという話もきいたことがある」

「風祭くんは、コードを全部あつめるの? そうしてジマーを止めようしているのね?」

「コードはもういくつも無効になっている。つまり、集めたところで全部はそろわないってことだよ」

「じゃあ……」

「さっきから言っているとおりだ。ぼくらはジマーと戦う世界をつくらなくちゃいけない」

「ジマーを殲滅するんじゃないの? この世からジマーを消して、もとの生活をとりもどすんじゃないの?」

「ジマーと戦っている限り、人間同士の戦争はおきないんだよ」

 わたしは、帯広駅の前のデモ隊の人達のことを思い出す。自衛隊や政府に対する失望と不満、将来への不安、そして子供がジマーと戦わなくてはいけないという理不尽に対する怒り。それぞれはみんなもっともなことだ。その怒りは、しかし、侵略者であるジマーには向かわない。なぜならみんな本当のことをわかっているからだ。本当の敵はジマーではない。でも、ジマーを操っている人はいない。

「この戦いはね、伝刀さん」

 混乱する思考の中に、風祭くんの声が、遠くからひびくようにこだました。

「革命なんだと思う。ジマーの人類に対する侵略じゃない。ジマーと戦うことで、人間の社会が変わるんだよ」

「でも……『デルフトの結婚式』はもう手を引いたって。革命は失敗したんじゃないの?」

「だから、ぼくたちの手で引き継ごう。革命はまだ、はじまったばかりなんだ」

 

 足もとにすっと冷たい風が吹き込んだ。二重ドアになっているとはいえ、外気温はマイナス一〇度くらい、新しいお客さんがはいってきたのだ。声が聞こえたわけではないのに、わたしにはそれがジュネスの同期のみんなだとすぐにわかった。衝立の向こうから、コートを脱ぎながら店内に入ってくる姿が見える。七人全員いる。

「アカネじゃーん」

 みず稀のあまったるい声に、何人かのお客さんが振り向く。

「あ、デートだデートだ」

 省吾が小学生男子のような不作法さでこっちを指さす。尻馬に乗って、デートデートと唱和するゆーみんを、やめなさいよ、と弥生ちゃんがこづく。

 なにこれ。わたしはおそるおそる風祭くんの様子をうかがった。

 風祭くんは、すっと席から立ち上がる。

「こんばんは。おひさしぶり、みんな」

 照れる様子もとまどう様子もない。四人がけのテーブルの空いていた椅子を引いて、どうぞ、なんて言っている。

「水くさいじゃないですか。伝刀さんも抜け駆けはよくないですよ」

「あの、ごめん。わたし達、もうそろそろ戻るかも」

「なんか追加で頼めよ。アカネお前、いつも一.五人前食ってんじゃん」

「アカネ、ごめん。来ちゃった」

 ぺろり、とみず稀が舌を出す。「まずかった?」

 みず稀の目は、でも、笑っていなかった。わたしは自分でも驚くほどすぐに答えに辿りついた。

「ううん。そんなことない」

 RUN。逃げろ。ランデュレ博士の、みどりちゃんの警告はこのためだ。

 店員さんが空いていたテーブルを寄せて九人が座れる席を作ってくれようとしている。

 弥生ちゃんが、少し首を傾げながら、こんばんは、と素早いお辞儀をしている。わたしと風祭くんの席は離れ、みんなはコートを脱ぎながら、わらわらと席に着く。

「風祭くん」

 振り向いた風祭くんに、最後の答えを告げた。

「わたしはケーニヒスブルグには行かない。ここでジマーと戦う」

 その声は届いたはずだ。でも風祭くんは、頷きもせず、やがてわたしから視線を外した。

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