お風呂場にて

 その夜、わたしとみず稀がお風呂に入ったのは弥生ちゃんやゆーみんの後だった。お風呂は、もともと一つしか無かったのを半分に分けたせいか、四人で一度に入るには狭く、わたし達は部屋ごとに入る時間を決めていた。

「ねえなんで……中学のとき、わたしのこと、その、いじめたりしてたの?」

 それでも家庭用にくらべたらずっと大きな湯船に二人で入りながら、わたしはついそんなことを言ってしまった。

 みず稀は驚いたようすで眼を丸くして、次に笑い声をお風呂場中に響かせた。「なあんだ、やっぱ気にしてたんだ」

「気にしてたって……本当のこというと、どっちかっていうと、帯広にきてから仲良くしてもらってることの方が気になる……あ、ちがうよ、感謝してる、っていうか、うれしいんだけど、もちろん、仲良くしてもらえることのほうが」

「あたしは別に、アカネが嫌いだったわけじゃない。むしろ前からかわいいって思ってたくらい。でも、嫌なところもあった。嫌だったのは、……無駄な努力をすること、かな」

 それでちょっとだけ、昔にわたしがみず稀に対して抱いていたイメージを思い出す。全然努力しない人から見れば、確かにわたしは努力家かもしれない。でも、本当の努力家っていうのは、例えば、みどりちゃんと同じくくらい上手にバイオリンを弾こうと思ったら同じくらいには努力する人のことだ。飛行機の操縦がうまくなりたいなら、足手まといでごめんとか謝ってまわったり、逃げる先を探したりするんじゃなく、そりの合わない教官を掴まえてどうしたらいいのかって訊いたりする人のことだ。

「わたし別に努力家じゃないよ」

「そうじゃなくて無駄な、努力ってこと」

 湯気の向こうでみず稀の美人顔が久々に皮肉っぽく歪んだ。

「だってさ、あんたみたい頭のいい子ならわかるじゃん。クラス全員が合唱祭の練習に来るはずないし、種田に音楽の才能があるはずないし、合奏部に入れるはずがない。そんなの、テレビの青春ドラマじゃないんだからさ」

 ああ、種田とか懐かしいわぁ、とみず稀はまんざら嘘でもなさそうにひとりごちた。

「……でも、まあ、そうだけど、ひょっとしたら種田くんだって」

「アカネはさ、みんなを自分のところまで引き上げないと気がすまないんでしょ。そうすれば、みんながアカネと同じくらい幸せになれるって、思ってる」

「そんなこと」

 口では違う、と言いながら、わたしには思い当たるところがあった。わたしは幸せだった。お父さんとお母さんが仕事をしていて、みどりちゃんほと優秀じゃないけど、そこそこ勉強もできて、部活でもリーダになることを期待されたりして、幸せじゃない人がかわそうとか、そういう人をほおっておく世の中はおかしいって思っていたんだ。もしジマーが襲ってこなければ、わたしはずっとそれに気づかなかっただろう。もし、教室でみず稀に言われても、不良が何言ってるんだろうって、思っただことろう。

 ジマーが来て、わたしは以前ほど幸福ではなくなった。

 突然、ごーっという大きなジェットエンジンの音が壁をふるわせ、すぐに静かになった。たぶん教官訓練のファントムだ。ファントムはわたしたちが訓練で飛ばしているスワロウの三倍くらい大きな戦闘機だ。あんなの飛ばしてるから燃料が足りなくなるんじゃないの、と毎回のように毒づくみず稀は、でも、今日は何もいわず、全然違う話をしはじめた。

「おばあちゃんがね、大空襲の三日前に入院したの」

「……おばあちゃん?」

「あれ、うちが両親いなくておばあちゃんと住んでたって、知ってたよね?」

 またみず稀の口元が少しだけ皮肉っぽくつり上がる。

「えっと、知らなかった。……お父さんがいないのは、その、名簿で」

 うそだ。知らなかったけど、おおよそわかっていた。みず稀の家庭の事情は「ねえ知っているあの子さあ」と言ってネタにするには、金村みず稀の交友関係は広かった。

「ご両親は、亡くなられたの?」

「ご両親とかそんな立派なもんじゃないよ。離婚してさ、あたしは母親にひきとられて、母親はおばあちゃんちに転がりこんで、それがあたしが小二のとき。で、その次の年にはあたしを置いていなくなっちゃった。それ以来、あたしはおばあちゃんに育ててもらっていたんだけど、去年あたりからちょっとボケはじめちゃって。そのうえよく倒れるようになって、遠くの病院に入院しちゃったんだ」

「え、じゃあ、おばあさん病院で一人なの?」

「それは大丈夫。おじさんが」

 そこでみず稀は急に口ごもった。「……まあ、面倒見てくれるっていうから、あたしは居場所がなくなっちゃった」

「どうして? おばあさんが入院したって、なんでみず稀がおうちにいられなくなるの?」

「おじさんが面倒見るって言うのは、おばあちゃんの家を売るってことなの。おばあちゃんの入院費がかかるから」

「でも、そうしたら」

「おばあちゃんは優しくていい人だけど、子供を甘やかしすぎたんだと思う。お母さんも、おじさんも、それにこのあたしも、ロクな人間にならなかった。そろいもそろって自分のことしか考えられない。そんな人間が、世の中には一杯いるんだよ、あんたが気づいてないだけで。そんな人間達を、あんたのレベルまで引き上げるなんて絶対に無理。無駄な努力ってこと」

「じゃあ、わたしがみず稀や弥生ちゃん達のレベルまで這い上がろうとするのも、無駄な努力?」

「意味が違うってわかってるよね?」

 みず稀の声は低く、不機嫌だった。わたしは、素直に自己欺瞞を認めた。「ごめん」

 みず稀は、許す、と言って笑ってくれた。

「あのさ、アカネって長距離は得意だったよね」

 突然何を言い出したのか、と思ったけど、わたしは答えた。

「得意っていうか、球技とかに比べればまし」

「あんた長距離は得意だった。でさ、授業中にあたしとかがかったるそうにダラダラ走るじゃん。そしたら、どう思う」

「どうって……たぶん、なんか思う余裕なんてない。自分だけで精いっぱいで」

「でしょ? 余裕があるのなんて、あのサル……じゃなくてゆーみんくらいのもんだって。それから何か思う?」

「……たぶん、少しほっとする。ベース落として楽しようとしたかもしれない」

「そうそれよ。心配なんかする必要ないんだよ。ジマーと戦うってことが、みんな全然ピンときてないし、そのためにどのくらい訓練すればいいかなんて誰一人わかっていなんだからさ。それにね」

 みず稀は一度言葉を切り、柔らかい声で、続けた。

「アカネには辞めてほしくないな。ここにいる子達、みんな真面目な優等生ばかりじゃない? アカネがいなくなったら、あたしやっていけないよ。それにさ、あたし、意外にカンが良い方なんだ。あんたが辞めたりすると、ここにいるあたし達全員、居場所がなくなるような気がするんだよね」

 わたしはみず稀の顔を見ることができなかった。ぎゅっと唇をかみしめて、こみあげる感情に耐えた。みず稀が自分の言葉を韜晦するような、おどけた調子でごまかしたけど、その言葉の後半をわたしはあんまりちゃんと聞いていなかった。

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