辿り着いた場所

「いってきまあす」

 御世話になっている旅館の玄関で、わたし達は口々に言いながら靴を履き、通りに出て行く。

「いってらっしゃい、勉強がんばってねっ」

 旅館の奥様は明るくて優しい方だけど、最近は笑顔に翳りがあるし、最初のときのような歓迎ぶりは、もうない。

 通りと言っても、ここは富士吉田市の中心部からは離れていて、車の往来も少ない。家と畑(田んぼかもしれない)の割合は半々くらいで、平らな風景の中に電信柱だけが規則正しく並んでいるのが不思議な気がする。今日は薄曇りだけど、天気がよければその向こうに富士山が見える。その大きさときたら、視界の三分の二を埋め尽くすほどだ。

「ねえ、ちょっと寒くない? 寒いよね?」

 後から金村さんの声がする。相手は根本陽子ちゃんだろうか。陽子ちゃんは優しいので、ほんとだね、とか言ってあげているが、スキー場のあるような穂高村で一冬過ごすつもりで荷造りしたはずだ。寒いならコートでも何でも着ればいいし、制服の上からコートを着ることを禁止した校則なんて、もう意味がない。

 やがてわたしたちは学校に着く。中学校ではなく小学校だ。いつまでこの町にいることになるかわからないとか、家族との連絡をつけるためにばらばらにならないほうがいいとか、給食があるからとか、いろいろと理由はあったようだけど、ランドセル姿の子供達に混じって登校する方が、同い年の子たちの好奇と哀れみの視線に晒されるよりはマシ、だったと思う。もちろん、そう思っていない子もいるけど。

 わたしたちが使わせてもらっている教室に入ると、他の旅館やホテルに泊めてもらっている子達はもう来ていた。全部で一七人。そのうち合奏部が七人。九日前、東京から来た時には二二人いたが、昨日と一昨日で五人が家に戻ったり、地方の親戚の家に引き取られたりした。穂高村に行った子はいない。

 テレビもついている。NHKは、あれ以来ニュースと人捜ししかやっていない。民放も似たようなものだ。東京で観ていた局がないので、ここでは入らないのかと思ったら、空襲で放送局が無くなってしまったという。

 東京を脱出したわたし達のバスは穂高村には着けなかった。どの道も事故や渋滞で危険な状態になったのだ。結局、運転手さんの判断で大月のインターチェンジから南に折れ、富士山のふもとの富士吉田市に辿りついたのはその日の夜のことだった。運転手さんは昔、自衛隊にいたそうで、最初は、自衛隊の駐屯地をめざしていたらしい。しかし自衛隊はわたし達を駐屯地に入れることはできないと言って、その代わりに市内のホテルや旅館を手配してくれた。最初、自衛隊の御世話になるというのが嫌だったけど、すぐにそんなことを考えていられないってことがわかった。 

 その日のことは、首都圏大空襲という名前で呼ばれることになった。この町に来てから三日目、テレビで放送していた死亡者のリストにお母さんの名前があった。看護婦さんは名札を着けているから判りやすかったのだろう。お父さんの消息はまだわからない。最初、空襲の死者は一八万人、被災者は五〇〇万人以上ということだった。東京都内では、身元不明の遺体が一〇万人くらいで、ビルの瓦礫の下にはまだ一万人以上が埋もれている。行方不明者の捜索はあまり進んでいない。お母さんの遺体は埼玉に住んでいる叔母さんが引き取ってくれたけど、お父さんの捜索願はわたしが出した。

 遺体の捜索や救助が進んでいない理由は簡単で、日本の他の大都市も次々に空襲を受けたからだ。二日後には大阪と神戸が、三日後には札幌と名古屋が同時に爆撃された。わたしの住んでいた団地の周囲はほとんど被害がないらしいが、ずっと停電が続いていて、食べ物の配給もできないという。今、日本中に家を無くした人達が溢れている。きっと今日にも別の都市(まち)が空襲されて、その数はまた増える。

 この富士吉田市に逃げ込んできたのは、わたし達が最初だった。だからというか、町を挙げて歓迎って感じで、かわいそうにとか、日本全体の危機にみんなで立ち向かおうとか、勇気づけるためのパーティみたいのもあって、わたし達もお礼にアイネクライネとかを演奏したりした。旅館やホテルに置いてもらえて、こうして私達だけでまとまって一つの教室まで使わせてくれる。でも、この数日で雰囲気が変わってきた。この町に住んでいる親戚や知り合いを頼るってだけじゃない、静岡から歩いて逃げてきた一家とか、そういう人達は公民館みたいなところに寝袋や布団を敷き詰めて寝ている。わたしたちだけが特別扱いされるのはおかしい、ってことになりかけている。

 教室の前の入り口から、川村先生が入ってきた。校庭からはまだ小学生の歓声が聞こえている。席を離れていた生徒達は自分の席まで戻ってきた。起立、と声をかけたのはみどりちゃんだ。礼。着席。

 川村先生はジャージの上にグレーのジャケットを着ていた。お化粧はおざなりで、疲れているように見えた。もうずっと疲れているのはわかっていた。

「いくつかお知らせがあります。大事なことです」

 川村先生が朝の学活で話してくれることは、これまでも全部大事なことだったが、「大事なこと」とわざわざ言うのは初めてだったかもしれない。

「一つ目。昨夜、穂積先生から連絡がありました。穂高村には行けないことになりました」

 たちまち、えーっと不満の声があがる。わたしだって言いそうになった。

「穂積先生が穂高村に到着したってことは、交通手段はあるってことですよね」

「ええ。私達が行かないのは、穂高村がこれ以上、避難民を受け入れられないからです」

「でも、市内の小中学生全員を受け入れるってことになってたんでしょ? 今になってだめって、どういうことなんですか?」

「それは」

 中山先生の目が泳いだ。でも、覚悟を決めたようにすぐに答えた。

「もともと計画に無理があったそうです。町内の民家や宿泊施設では収容しきれなくて、学校に寝泊まりしている生徒のみなさんもいるそうです。それに比べれば」

「それだってみんな一緒なんでしょ? わたしたちだけ、出発が少し遅れたからって、なんで別々にならなきゃいけないの?」

 早口でそう言ったのは金村さんだった。「だいたい、合奏部の連中が楽器を持ちだすなんてしなければ、もっと早く出られたんでしょ?」

 ほんとだよねえ、と口々に不平を言うのは金村さんの近くに座っている数人の女子だ。

 そもそも自分達が集合時間に遅れて来なければよかったじゃないか。合奏部の全員がそう思っているけど、誰も何も言わない。沈黙が気まずいのは、わたし達にとってではなく、むしろ金村さんの方らしかった。金村さんは、矛先を変えた。

「だいたいさ、あの運転手、なに。危ないからとか言ってさ、なんで勝手に行き先変えてこんな田舎の町に連れてきたわけ? 道だって、迂回すればあの日のうちに穂高村まで行けたんでしょ?」

「それは」川村先生は押し黙った。が、すぐに口を開いた。「先生達で決めたことです。運転手さんの責任じゃありません」

「じゃあ、先生の責任じゃん。なんで穂高村まで行かなかったの」

 わたしは苛々してきた。川村先生が口ごもるのはしょうがない。なにがなんでも穂高村まで行くと主張していた穂積先生に対して、まず安全な場所にゆくべきだと言っていたのが川村先生だったからだ。でも、その後のできごとまで考えると、結果的には川村先生が正しかったんじゃないかと思うし、金村さんだってそれはわかっているのじゃないかな。だから、堂々とそう言えばいいのに、川村先生は口をむすんで、床の上をにらみつけるようにしている。みどりちゃんが私のそでを掴んだのがわかった。わたしは何も言うつもりがないのに。

「先生、他にも話すことがあるでんすよね」

 そう言ったのはみどりちゃんだ。金村さんはちらりとこっちを見たけだけで、表情を変えない。中山先生は、ほっとしたように小さく息をついた。

「みなさんもご存じのように、この四日間、日本への空襲はありませんでした。政府は非難指示と学童・生徒疎開指示を解除しました」

 声にならないため息、控えめな歓声、何種類もの感情で教室が満たされた。みどりちゃんがすぐさま質問した。

「東京に戻ってもいいんですか」

「保護者の方からの連絡が必要です。保護者っていうのは……ご両親じゃなくても、ご親戚でも、お友達のご家族とかでも大丈夫ですけど、本当に大丈夫かどうかは先生の方で判断しなくてはいけません」

 つまり、わたしは対象外ってことらしい。すぐにそれをわからなかった子もいた。みゆきちゃんは椅子から上半身を浮かせて、中山先生に挑み懸かるようににらみつけた。

「お父さんともお母さんとも連絡がとれないんですけど、探しにいっちゃだめなんですか」

「それはできません」

「どうしてですか」

「今、東京では電車もバスも動いていないし、電気もほとんどきていません。泊まるところもありません。ええと、大丈夫です。保護者と連絡がつかないみなさんは、もうしばらくここにいられます」

「しばらくってどのくらいですか」

「しばらくは……」

 川村先生は答えられなかった。

 この一週間でわたしたちは学んだ。文句や不平だけじゃなくて、ちゃんとした意見や質問をしても、満足のゆく答えはもらえない。順を追って考えることをあまりしないタイプのみゆきちゃんも、駄々をこねるだけじゃ、何もしてもらえないということが分かってきたらしい。もっとも川村先生はちゃんとがんばって市役所とか都庁とかに訊いてくれているけど、そもそも市役所や都庁にどれだけ人が残っているのかわからないのだという。

 わたしは、みんなのすがるような視線が、みどりちゃんに集まっていることに気づいた。みどりちゃんは上半身をひねって後を向いた。

「美由紀ちゃん、高崎のおじさんから連絡があったんだよね」

「うん。来なさいって言われてるけど」

「じゃあ、行った方がいいと思う。そしたら、他に行くところがない人は……」

「待ってよ北園さん。いまでも多くの生徒は穂高村にいるし、 積先生だって帰ってこない。やっぱり穂高村を目指すべきじゃないのかな」

 大堀くんだった。大堀くんは部活ではまじめで控えめで、誰かの意見を批判したりすることはなかった。それがここに来てからというもの、決しておしゃべりになったわけではないけど、鋭い意見を言うようになった。その大堀くんにみどりちゃんが鋭い視線を向ける。大堀くんは落ち着いて後を続けた。

「穂高村に受け入れられた生徒と、少し遅れたからって拒否される生徒がいるのは、やっぱりおかしい。決めたのは市なんだから、市が責任を持つべきだと思う」

 みどりちゃんは、はっきりと頷いた。

「わたしもできるものなら穂高村に行って、みんなに合流したい。でも、先生の話から想像するに、穂高村でも同じことになっていて、東京に戻ったり、親戚のおうちとかに避難しようってことになってると思う。今から合流しても、すぐみんなばらばらになるだけ。他に意見は」

「多数決できめるわけ、そういうこと」

 金村さんが首をかしげた。責めるような口調ではなかったけど、わたしは思わず緊張した。みどりちゃんは、ゆっくりと頭をふった。

「金村さん、私達には何も決めることができない。大人にくらべたら発言力もないし、お金もない。でも、人数が集まれば少しは力になる。保護者のもとに帰れる人が出ていって、帰れない人はしかたないから残るんじゃなくて、全員で納得して、それぞれに行動するようにしたいの。全員が納得できないなら、納得できるまで先生や大人に説明してもらう」

「それはあるよね。穂高村に行った子達だって、ばらばらになりたくないって言ってるんじゃないかな」

 金村さんがみどりちゃんというよりはみんなに聞かせるようにやけにハッキリと声を出した。 みゆきちゃんが遠慮がちに質問する。

「じゃあ、みどりはやっぱり穂高に行きたいの?」

「私は行きたい。でも、さっきの理由で、行くべきじゃないと思っている」

 川村先生は、ずっと黙って、表情も殺して、わたしたちの議論を見守っている。わたしたちは、時にはなかり強く主張することもあったけど、みどりちゃんを中心とした会議では、いつも短い時間で結論を出した。

 しばらく沈黙が続いた。みどりちゃんはため息のような小さな呼吸をして、右手を頭の高さまで挙げた。「みんなで穂高村に行こうって思うひと、いる?」

 だれも手を挙げなかった。みどりちゃんは上半身を戻して、先生の方にむいた。

「先生、じゃあ、私達は、保護者に連絡がつく人は保護者のもとに戻る準備をします。戻る人達の移動手段と、残る人達がどうすれば良いかを教えてください」

 中山先生はほっとしたように頷いた。

「わかりました。あともうひとつ連絡事項があります。金村みず稀さん、北園みどりさん、伝刀茜さん、この三人は……市からお話しすることがあるそうなので、来てください」

 数秒の沈黙の後で、不審げな声を出したのは金村さんだった。「これからですか」

「そうです」

 先生の目が少し泳いでいた。わたしはみどりちゃんの方を見たけど、みどりちゃんはずっと先生の顔をにらみつけていて、わたしに視線を合わせてくれなかった。

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