西へ
ところが、学校に着いたわたし達を驚きの知らせが待ち構えていた。
最初の予定では、八時三〇分に教室に集合、九時にバスが出発することになっていた。ところが、学校についた人からクラスとか関係なくバスに乗って、満員になり次第バスが出発というふうに変更になっていたのだ。学校まで見送りに来ていた保護者の人達は「涙のお別れショー」をやる間もなく追い返されていた。先生達は殺気だっていて、生徒もふざけたり文句をいったりできる雰囲気ではなかった。
「名簿に○をつけたか? つけたら乗りなさい。友達と一緒のバスとかわがままは禁止!」
林間学校や社会科見学のときは学校の外の道沿いに停まるバスが、今日は校庭まで入って並んでいた。わたし達が学校についたのは八時一〇分だったけど、一号車がちょうど一杯になるところだった。あっけにとられて立ち尽くしていたわたし達二人に、穂積先生の美声が浴びせられた。
「北園、伝刀、五号車に楽器を運びなさい」
穂積先生は、昇降口におかれた机の前にいた。いつもきっちりとなでつけられている長髪が乱れ、顔色もよくない。生徒の家や穂高村との連絡で、穂積先生も大変なのだろう。
わたし達は先生のところに行った。
「合奏部員に伝えなさい。合奏部員は全員五号車に乗ること。それから楽器を載せられるだけ載せる。ああ、できれば譜面台も」
「部活の道具は持っていけないってことじゃなかったんですか」
みどりちゃんが冷静な口調で言うと、
「生徒が減って、バスに余裕ができた。それから、向こうに行ってる校長先生から連絡で、何かお礼をした方がいいと。つまり、僕たちの演奏を、向こうの人達に御世話になるお礼として」
穂積先生の表情に明るさが射した。なんだかよくわからないけど、わたしにとっては大朗報だ。楽器を持って行ける。勤労奉仕で忙しいかもしれないけど、練習ができる。
「わかりました。みんなに伝えます」
それは副部長、いや部長であるわたしの役目だ。
みどりちゃんは、「よかったね」と言いつつ、あまりうれしそうではない。
「わたしたち最後のバスってことでしょ。まあ、しょうがないけど」
「どういうこと?」
「先生たち、なんでこんなに急いでいるのかな。まるで今日にでも空襲があるみたい?」
「あるんじゃないかな」わたしは声を潜めた。「お父さんが、電話でそんなことを言ってたらしいから」
みどりちゃんは、一瞬だけ責めるような鋭い視線をぶつけてきた。わたしは思わず、ごめん、と言ったけど、みどりちゃんは、少し考え込んだあとで「いまさら慌ててもしょうがないもんね」と力のない笑みを浮かべた。
わたしたちは、まず、二号車に乗り込もうとしていた塩田くんを捕まえ、穂積先生の指示を伝えた。合奏部の二年生は全部で二一人、そのうち疎開する生徒が一五人くらいはいるはずだ。それから自分達の荷物を五号車に載せ、四階の音楽室との往復作業にとりかかった。みんなは
バイオリンやクラリネットを両手に抱えて校舎とバスの間を行き来するわたし達の姿は目立ったはずだ。登校してきた生徒達には、「なにやってるんだよ」と非難がましい声をかけられたが、取り合わなかった。合奏部員のみんなはすぐにわかってくれて作業に加わってくれた。
「あせるな! 怪我でもしたら大変だぞ」
バスは、二号車、三号車と次々に出発してゆき、大物をあらかた積み終わったころには、五号車だけが残っていた。二台目のコントラバスをみどりちゃんと一緒に運んでいると、種田くんが昇降口の方からバスに向かって歩いてゆくところだった。きちっとした格好の女の人はお母さんだろうか。荷物を持ち、種田君の担任の先生と何か話している。
種田くん以外にも、何人かの生徒が集合時間を過ぎても来なかったようだ。
「出発は八時四五分だ。もういいから、伝刀は最後に誰も残っていないか確認してきなさい」
とはいえ、もう二往復くらいはできそうだった。トランペットを持って階段をおりてゆくと階段を大堀くんが昇ってくるところだった。由美子も梓ちゃんも、「良いおうち」っぽい子は集団疎開より前に転校していったので、大堀くんが残っているのは少し意外な感じだ。
「まだ載りそう?」
「ぜんぜんだいじょうぶ。ティンパニだっていけるかもしれないよ」
大堀くんがめずらしく軽口を叩いた。周囲に誰もいなかったので、ちょっと作った声で、
「いやあ、それはやめとこうよ」
と笑うと、大堀くんは、そうだね、と言ってまじめな顔になった。
「譜面台もいるかな」
「あ、そうだった。わたし取ってくるから、これ持っていってくれる? あ、楽譜!」
忘れるところだった。オーケストラで一番大事なのは楽器じゃなくて楽譜だ。わたしは持っていたトランペットを大堀くんに押しつけて、音楽準備室に戻った。
みどりちゃんが棚に入っていたミニチュアスコアを 小太鼓を入れる丸いバッグに放り込んでいた。わたしを見て一瞬だけ手を休め、決まり悪げに口の端を上げたけど、すぐに作業を再開する。わたしはルスランと、大地讃頌と、それから去年のコンクール曲だったモーツァルトの二五番のパート譜の入った紙袋を棚からひきずり出した。そして、ふたりとも結構な大荷物を抱えて音楽準備室を出た。わたし達二人が最後のようだった。小走りに階段を降り、二階と三階の踊り場に足を下ろしたときだった。
かーん、という、ビルの建設現場で杭を打つときのような甲高い金属音がした。わたし達は思わず足を止め、お互いの顔を見合わせた。いつもは無表情なくらいに冷静なみどりちゃんの目が大きく見開かれていた。そして一瞬遅れて、ぶわん、と突風で校舎が煽られたときのような揺れが空気を震わせた。わたしたちは飛ぶように階段を下りはじめた。モーツァルトのパート譜が滑り落ちてしまったけど、立ち止まらなかった。
最後になったわたし達はバスで待っているみんなに白い目で見られるだろうと思った。ところが、先生をはじめ、一〇人くらいの生徒はまだバスの外にいて、そろって都心の方向を眺めていた。他の生徒達もバス窓に顔を貼り付けるようにして同じ方を見ている。つられてその方向を見ると、気のせいだろうか、すぐとなりの五階建ての団地の谷間から、灰色の煙のようなものがわきあがるように見えた。
「みんな、乗りなさい!」
我に返ったように、はっとした穂積先生がよく通る声で叫んだ。車外に出ていた生徒達がバスに乗り込んだ。わたしとみどりちゃん、それに先生達を残してバスに乗り込んだころ、校門の方からスポーツバッグを一つだけ持った女子生徒が走ってきた。金村さんだった。
「あれ、金村さん、きみ」
穂積先生が、手元の名簿の紙を忙しくめくった。たしか金村さんは集団疎開に参加しないようなことを言っていたはずだ。
「いいんです。だいじょうぶです」
早口で答えると、先生達を無視するようにバスに乗り込んでしまう。なにが大丈夫なんだかわからないけど、言い争っている場合じゃなかった。穂積先生と川村先生という若い体育の女の先生が左の前の一番前に座り、わたし達は運転席のすぐ後に座った。楽譜は手渡しリレーでバスの後に送ってもらえた。
バスは急発進気味に走りだした。運転手さんが大きな声で叫ぶ。
「調布インターから中央高速にのりますね」
「お願いします」
穂積先生が答えたが、運転手さんは聞こえなかったのか、もう一度言った。
「下道は渋滞がはじまってるらしいんです。高速でいいですね?」
「はい、お願いします」
わたしはみどりちゃんに耳打ちした。「高速道路ってあぶないんじゃないの?」
みどりちゃんは頷いたが、口に出してはこう言った。「まかせよう。先生達もわかってるよ」
そのとき、またあの杭打ち機のような音が聞こえた。今度は数秒の間を空けて二回。みんなが一斉に右を向いたせいか、バスがぐらりと揺れたような気がした。右側の窓の外は、団地が途切れてちょっとした畑になり、視界が開けていた。都心の方向、さっきまではスモッグと見分けのつかない灰色っぽいもやが見えていたのが、今では黒い煙の筋があちこちから立ち上っている。そして、秋晴れだった空が都心の方だけどんよりと灰色っぽくなっている。
「なんだあれ」
後の方で男子の声がした。周囲のみんなが一斉に後を振り向く。わたしも振り向くが、どっちを見ればいいのかわからない。
「飛行機だろ」
「あんな形の飛行機ねえよ。真っ黒だぜ」
「あっちにも飛んでるぞ」
「ジェット機なのかな。音がしないじゃん」
「あれフロッグだよ。フロッグじゃん。ほんものだよ」
必死に首を後に向けていたわたしの袖が引っ張られた。みどりちゃんがバスの前方を指さす。
見えた。青い空に黒いしみのようなモノが滑るように東へと進んでゆく。間違いない。テレビや新聞で見たジマーの飛行機だ。フロッグというのは、ヨーロッパの人達がつけた名前だ。調布基地に降りる飛行機よりは高いところを飛んでいるけど、飛行機雲を引いて飛んでいる飛行機なんかに比べるとずっと低い。
「アカネ、何機いる?」
「二機。いや四機かな。四機」
「目いいね」
ほめられてちょっとうれしかった。西の空の方から白っぽい飛行機がフロッグに近づいてくるのが見えた。速い。機体の真ん中で何かがチカチカと光った。その直後、ゴーッというものすごい音がして、バスの中の空気まで振動させた。白い飛行機は飛び去り、音もすぅっと小さくなったけど、フロッグは何もなかったように飛び続ける。もう一機、同じ白い飛行機が飛んできて通り過ぎた。
「自衛隊の飛行機かな」
わたしが言うと、みどりちゃんは、
「アメリカ軍かもしれないね」
と答えた。自衛隊は、去年まではソ連の攻撃に備えて北海道にたくさんの部隊を配置していたけど、急いで本州に移している、というニュースをテレビで見た。一方で日本の基地にいたアメリカ軍は本土に引き上げてしまったそうだ。まだ、日本にいたのだろうか。
「おい、あれエフジューゴじゃねえの」
後席から男の子達の声が聞こえた。
「ちがうだろ、ファントムだろ」
「だって垂直尾翼が二枚あったぜ」
「飛行機の種類なんてどうだっていいじゃないの、こんなときに」
わたしが毒づくと、みどりちゃんが早口でささやいた。
「どんな情報でも後で役に立つかもしれない。覚えておこうよ」
わたしは恥ずかしくなった。
突然、大きな爆発音がきこえ、それを生徒達の叫び声が覆い潰した。たぶん一キロも離れていないところから、黒い煙が立ち上った。火事が起きているみたいだ。
「今のなに? 爆弾を落としたの? あんな遠いところを飛んでるのに?」
「わからない」
みどりちゃんも不安そうに眉をしかめている。「自衛隊の戦闘機のミサイルかもしれない」
このあたりはまだうちの中学の学区だ。だれかの家にあたったりしていないだろうか。今ので誰かの家かお店とかが壊れたか火事になったのは間違いないけど、でも、やっぱり気になるのは自分や、家族や、仲のいい友達のことだ。わたしの家には今は誰もいない。お母さんは病院に着いただろうか。お父さんもお母さんも勤め先は都心の方だ。そしてジマーの飛行機が飛んでいったのもそっちの方角。
ぶわあっとまた大きな音がして、自衛隊の白い飛行機は今度は東の方からすごい速さで近づいてきた。あっと思う間もなかった。自衛隊の飛行機はまっすぐジマーの飛行機にぶつかった。空中に火の玉のような炎が、ぱっと明るくきらめき、少し遅れて雷鳴のような音が聞こえた。一番大きな破片は炎に包まれながら弧を描いて地面に墜ちてゆき、車の衝突するような音とともに黒煙を高々と噴き上げた。その上にばらばらになった破片が舞い落ちていった。
バスは広い道に出て左に曲がり、私の席からは墜落した飛行機も飛び去ったフロッグも見えなくなった。バスの中は大騒ぎで、女子の泣き声も聞こえた。バス停めてもらおうよ。家に帰りたい。ねえ停めてって言って。停めて。
自分の家や家族が心配なのだ。運転手さんには声が聞こえているのだろうか。わたしは前にいる運転手さんに教えてあげようと身を乗り出した。そのとき、
「やめたほうがいい」
みどりちゃんが、わたしの左腕を掴んで、首を左右に振っていた。
「でも、このままじゃ、おうちがなくなっちゃう子も出てくるよ。もう、家族と会えなくなるかもしれないんだよ」
「だから疎開するんでしょ。子供だけでも助かるために」
〝ええ、みなさん〟
突然、穂積先生の声がバスのスピーカーから聞こえた。隣を見ると、マイクを持った穂積先生が通路に立っている。生徒達は急に静かになった。
〝くれぐれも勝手な行動は慎んでください。他の生徒の不安を煽ったり、憶測でいいかげんなことを言ったりすることもしてはいけません。運転手さんに話かけるのは絶対に止めてください。もし、重要なことを知っていたら、まず、先生に知らせてください〟
バスはスピードを落とさずに西に走っている。道にはあちこちにパトカーや白バイがいて、一車線分を空けてくれているのだけど、左側の車線はぎっしり車が繋がっている。さっきから運転手さんが独り言を言っている。と思ったら無線で誰かとしゃべっているのだ。
「先生、高速は使わない方がいいかもしれないねぇ」
急に大きな声で運転手さんが言った。
「え、どうしてですか?」
「混み具合がわからないんだ。センターに情報が入ってこないらしい」
「でも、下も混んでますよね。なんとか今日中に長野までは辿り着かないと」
「じゃあ、八王子までは上で行きましょう」
バスは、やがてスピードを落とし、左に曲がった。ぐるぐると回りながら高速道路に向かっている。肘掛けをあげていたので、みどりちゃんの方に身体が傾いてぶつかるようになってしまう。「あ、ごめん」
「だいじょうぶ」
みどりちゃんは、優しくほほえんでくれた。そして短い時間ではあったけど、制服越しにみどりちゃんの体温が伝わってきた。わたしは大きく息をして自分をおちつかせた。
そのとき、杭打ち機の音がまた聞こえた。わたしは思わずバスの外に顔を向けた。ちょうど都心の方向だった。もやのようなものがなんとなく濃く立ち上っているように見えた。そしてまた同じ音。今度はさっきより大きく、バスの窓が震えた。そして次の音はいくつかが重なって聞こえた。
前の方に料金所が見えてきた。料金所に係の人はおらず、白バイが一台止まっている。運転手さんが窓から身を乗り出すようにして、ヘルメットを被った警察官に「松本まで行けますかね?」と訊いた。警察官は、腕を振り回しながら、
「早く行け! 急げ!」
とだけ、繰り返し叫んだ。運転手さんは、それ以上の会話の諦めた様子で、すぐにバスを動かした。
そのとき、みどりちゃんが小さく叫び、右側の閉鎖された料金所のゲートを指さした。
ちょっと見ただけだったら気づかないかもしれない。窓が大きく割れ、建物自体が歪み、周囲の道路にガラスや金属の破片が飛び散っていた。
「なんだろう。車がぶつかったのかな」
「新しいよ。たぶん、飛んできたんじゃないかな。新型爆弾の破片が」
「新型爆弾って……さっきからしている、あの音」
「だよね」
高速道路は高いところを走っているけど、道の両側には塀があって、周囲の様子はよくわからない。視界に入ってきた新しい高層マンションは、一見、特に変わったところがなかったが、違和感もあった。よく見ると、最上階のルーフバルコニーの柵が折れ曲がり、こちら側に見えている窓ガラスも割れている。壁面のタイルもあちこちで剥がれている。
そのマンションだけじゃなかった。送電線の鉄塔が曲がり、ちぎれた電線が垂れ下がっていた。ゴルフ練習場の緑のネットが破れて大きな穴があいていた。自動車会社の大きな看板の上から半分がもぎ取られていた。そして今、どーん、という音とともに、五階建てくらいの白いビルの壁面が爆発するように砕け散った。みどりちゃんの言う「破片」が飛んでくるところは見えなかったが、そうに違いなかった。
今朝、学生かばんの替わりにリュックサックとスポーツバッグを持って家を出たときには、世界はきれいなままだった。あれからたった一時間の間に、わたしのまわりの景色は、文化祭が終わった後の飾り付けみたいに、少しずつ、無造作に、はぎ取られ、傷つけられてゆく。それにバスの窓越しに見える景色はわずかに青みがかっていて、現実感がなかった。
「だーめだ。どっこもつながらなくなっちまった」
運転手さんのつぶやきの後で、ラジオの音が聞こえてきた。
〝都市部では地下道や地下鉄の駅に避難してください。入り口は塞がないでください。三階建て以上のビルや大きな工場には近づかないようにしてください。自動車での避難は控えてください。緊急車両および優先度の高い車両以外の走行は禁じられることがあります。運動場などの広い場所が最も安全です。繰り返します。東京都二三区の全域と多摩東部、神奈川県、埼玉県、千葉県の一部に空襲警報が発令されました。これらの地域にいらっしゃるみなさんは〟
「ちょっと!」
穂積先生が席を立って運転手さんの方に近づいた。
「音量を落としてください! 生徒に聞こえたらパニックになるじゃないですか」
「これ以上ボリューム下げたら、きこえないんだけどな」
その時、みどりちゃんが、席から立ち上がった。わたしはびっくりして、停めることもできなかった。
「穂積先生。ラジオを聞かせてください」
「北園、何を言うんだ。わかるだろう? みんながこんなもの聴いたら、その、大変なことになるじゃないか」
「もう大変なことになっていると思います。ひょっとしたら、爆弾の破片がこのバスにも当たって、私達は途中で外に放り出されるかもしれません。その時は、自分でどうすればいいか判断しなくちゃならない」
「今、このバスの生徒達の安全は先生達に責任がある。生徒の勝手な判断は許さない」
「先生がいる間は先生の指示に従います。でも先生がいなくなったら自分達で判断します」
「ふっ……」
先生の顔色が変わった。ふざけるな、そう言いかけたのかもしれない。だが、その後の言葉は出てこなかった。穂積先生の隣に座っていた川村先生が、おそるおそるという感じで穂積先生に声をかけた。
「ラジオを生徒に聞かせた方がいいと私も思います。状況が理解できれば、勝手なことを言う子もいないのではないでしょうか」
穂積先生はそれほど長く考えていなかった。わかった、と言うと、運転手さんの手がさっと伸びて、後の席のスピーカーからもラジオのニュースが流れはじめた。
〝……以上の地域に現在いる方々は、頑丈な低層の建物や地下道に避難してください。四階建て以上のビル、大きな工場は危険です。自動車は使わないでください。現在、特別に許可を得た車両のみが通行を許可されています。これらの区域以外で……〟
アナウンサーの声に時報が重なった。一一時だった。避難を呼びかけていただいぶ疲れた感じの声の人が交代して、もっと落ち着いた、張りのある声が、別のニュースを読み始めた。
〝繰り返しお伝えしています。本日午前八時三〇分頃より、東京都心部は、敵性自動機械群ジマーによるものと思われる空襲を断続的に受けています。死傷者の数は三〇万人を超える見込みです。この事態をうけ、内閣総理大臣は、先ほど緊急事態を宣言し、国家緊急事態法を発令いたしました。日本国内にいる皆様は、今後、地方自治体、警察、消防等の指示に従って非難し、あるいは自分の身を守る行動をとってください。また、陸上、海上および航空自衛隊は、日本国政府あるいは地方自治体の指示のもとに避難の誘導や支援、治安維持にあたります。
現在、以下の場所に新型爆弾が着弾し、爆心から半径二キロ以内の多くの建物が崩壊したことが確認されています。国鉄新宿駅、東京駅、霞ヶ関中央合同第三庁舎、渋谷NHK放送センター、国新橋駅、国鉄渋谷駅、羽田空港、なお、羽田空港ではターミナルビルと滑走路の両方に大きな被害が出ており、複数の航空機が現在も炎上中です。また、爆心地の周辺で火災が発生しています。東京都二三区を走るほぼすべての鉄道、バスが運行を停止しています。東海道新幹線、東北新幹線をはじめ、首都圏につながるほとんどの国鉄主要路線で運転を見合わせています……〟
怪我をした人達を収容するのに病院は足りるのだろうか。救助は進んでいるのだろうか。わたしたちは、そんな大変なことになっている都心に背を向けて一目山に逃げている。それでいいのだろうか。わたしたちにできることはないのだろうか。
「アカネちゃん……」
みどりちゃんが、私の左手をぎゅっと握ってくれた。いつも冷静で滅多に感情的にならないみどりちゃん、これほど悲しそうな表情をわたしはみたことがなかった。私はみどりちゃんの手を握りかえして、無理に笑顔を作った。「だいじょうぶ。このバスには、きっと爆弾はあたらないよ」
「そうじゃなくて」
みどりちゃんは、あのみどりちゃんが泣きそうに見えた。「あかねちゃんのお父さん、運輸省でしょう? さっき、中央第三合同庁舎って……」
運輸省。そうだった気がする。半月くらい前に、緊急時の連絡先を学校に提出したときに、父親の勤務先住所を書いた。そのとき、書いた第三合同なんとかっていうのにも記憶がある。でも、お父さんはいつも自分の机にいるわけじゃない、とも言っていた。だったらきっと。
ぐあーん、というそれは、音じゃなくて世界そのものが大きなハンマーか何かで叩かれたような、そんな衝撃だった。ががががっという感じでバスが左右に揺すぶられ、窓ガラスがばしばしと割れた。石のようなものがいくつも車体に当たる音がして、そのたびにまた揺れた。一斉に悲鳴があがり、すぐに泣き声が混ざった。
「だいじょうぶですか、まだ走れますか」
混乱と騒ぎの収まらない中、穂積先生が大声で訊いた。運転手さんの声は落ち着いていた。
「少し速度を落とします。先生は生徒の心配をしてくださいよ」
先生達が大声で「怪我はないか」と呼びかけるけど、悲鳴にかきけされて「だいじょうぶです」と返ってくるのは一人二人しかいない。運転手さんの独り言が聞こえた。「府中基地だな」
もう誰も聞いていなかったラジオのニュースが途切れて、大きな雑音がスピーカーから流れ、またニュースに戻った。運転手さんが他のダイヤルを選んでいたらしい。
わたしの席の窓は割れていなかった。反対車線の右側にあった防音壁がいくつもなくなっていて、道路の外の様子が見えた。高速道路の北側一帯に灰色の煙のようなものが立ちこめていた。煙を通してうっすらと見えてきた景色は、最初は、爆撃を受けた町のようには見えなかった。やがて、いくつもの折れた鉄塔や、ローマの遺跡みたいに崩れた競馬場の観客席が見えてきた。遠くに見えるでこぼこした灰色の街並みは、本当はもっと高いビルだったのだはず。あれは多分、府中か東府中の駅のあたりだろう。背の低い住宅の被害は少ないように見えたけど、今、通り過ぎていった二階建ての家の赤い屋根には、大きな穴があいていた。その隣の家からは女の人と小さい子供が二人、駆けだしていった。何か叫んでいるように見えた。他にも沢山の人達が道に出てきた。その人達の多くが怪我をしているようだ。
バスの中の悲鳴はようやく収まってきたけど、すすり泣きの声はいつまでも続いていた。どうしよう、お母さん、帰りたい。大きな声で泣き言を繰り返す女子達に比べると男子は大人しかった。男子達は、なんとなく通路を挟んで反対側の席に別れていて、みんな口を半開きにして外の景色に見入っていた。わたしは、急に心配になった。
「種田くん、大丈夫かな」
種田くんはバスの後の方に乗っているはずで、わたしの席からは見えない。みどりちゃんは、わざわざ席から通路の方に身を乗り出して後を見てくれたけど、「わからない」と言って首を横に振った。それから、すぐに穂積先生に呼びかけた。「先生、種田くんは、さっきの音で具合が悪くなったりしてないでしょうか」
「そんなことを言ってる場合じゃないだろう!」
さっきから、落ち着きなさい、静かにしなさい、と大声を出していた先生は、いらいらした調子で、みどりちゃんをしかりつつけた。でも川村先生が、手を伸ばしてハンドマイクを穂積先生の手から取った。
〝後の席、種田くんの具合は大丈夫ですか?〟
「大丈夫でーす」
答えはすぐに返ってきた。大堀くんの声だった。
わたしは握ったままだったみどりちゃんの手を離して、「ありがとう」とお礼をした。
みどりちゃんは、今度は薄く笑みを浮かべながら、小さく左右に頭を振った。そして、もう一度わたしの手を握り直した。
通路をはさんで反対側の席に、金村さんが一人だけ座っていた。通路側の座席にスポーツバッグを置き、ずっと窓の外を見ている。教室ではいつも誰かとしゃべっているという印象からすると、それは不思議な光景だった。じっさい、今、このバスの中で、後から迫りくる恐ろしさに、たった一人で耐えているのは金村さんだけだったかもしれない。
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