疎開の朝

 しばらくして、何もかもがお父さんの言った通りになった。

 それまで新聞でもテレビでも、まずはヨーロッパや中近東での空襲の様子や避難民の人達がどんな苦労をしているかを報じていたのに、ある日を境に国会の話一色になった。あるときは、ほんの一瞬だけど、国会中継のニュースの中でお父さんの姿が映った。ずらりと並んだ何とか大臣とかの後に、ただ座っているだけだったけど、見たのは初めてだったのでびっくりした。

 九月一五日を境に、世の中は坂道を転げるように動きはじめた。これ以上は難民を受け入れない、ということになり、それどころか団地にいた外国人の人達も次々にオーストラリアやカナダに行ってしまった。そして音楽コンクールが中止されることが決まった。パドメはおうちが大変なのに、ほとんど毎日練習にきてくれた。パドメがオーストラリアのメルボルンという町に引っ越してしまったのは九月二九日。パドメだけではなく、合奏部の他の子も何人も転校していった。田舎の親戚の家に預けられるという子もいれば、お父さんの勤める会社ごと地方に移転するという子もいた。最初のうちはお別れ会をやったりしていたけど、じきにやってられなくなった。そんなになってもテレビに出てくる学者や政治家は、みんな同じことを言っていた。

「日本はジマーに襲われる可能性は極めて低いと考えられます」

「ですが万が一に備えて、できるだけの対応を取る必要があります」

 新聞にのっていた週刊誌の広告はでは、こんなことが書いてあった。

「ソ連との密約! 日本が安全な理由とは」

 それをお父さんに見せると、力のない笑いを浮かべて、「まあ、なんというか」

とだけ呟いた。それでも両親の仕事場や、年賀状のやりとりだけはあるような遠い親戚の電話番号と住所を書いた紙を生徒手帳にはさみ、一〇円玉を二〇枚と一万円札を常に持って学校に通うようになった。他にも学校からは水筒や非常食をもってくるように言われ、それ以外にもみんな親からいろんなものを持たされるようになったので、持ち物検査はなくなってしまった。

 そのころにはまたお父さんは家に帰らなくなった。時々帰ってきても、私が寝たあとにタクシーで帰宅して、学校にゆくときにはまだは布団の中ということが多かった。ある夜、わたしは両親が言い合う声で目をさました。わたしの部屋は居間とは廊下を隔てていたとはいえ、部屋の扉はふすまだったから、もともと居間での会話はよく聞こえる。だがその夜は枕元の時計を見れば一時を回ったところで、近所迷惑が心配になるほどにお父さんの声は大きかった。

「なにをぐずぐずしてるんだ。間に合わないじゃないか」

「だって日本が空襲にあう可能性は低いんでしょう? 念のためって学校便りにも書いてありましたよ」

 お母さんの声は眠そうだ。どんなに帰りが遅くなってもお母さんは起きてお父さんを迎える。そんな古風なやりかたはお母さんらしくないと思うけど。

「そういう問題じゃない。やっぱり越谷のお姉さんに頼めないかな。明日とは言わないが、せめて次の土曜日にでも」

「何を言ってるんですか。学校はまだやってるんですよ? そりゃ、もう転校してる子もいるみたいですけど、だからって他のお友達を置いて茜だけっていうわけには」

「……それはそうだ。しかし、これほど危機感がないとは驚きだな」

 わたしも、もうろうとした頭で聴いていたことなので、両親の会話がどれほど切迫した内容なのかは理解できていなかった。でも、ああ、やっぱり空襲はあるのかな、という気がした。何かずいぶん他人事みたいな言い方だな、とも思った。わずか二ヶ月前、日本には絶対に空襲はないだろう、と、わたしも含めて多くの人が信じていた。そしていつの間にかなし崩し的にジマーの空襲が迫ってきている。

 両親の話を盗み聞きした日の二日後、わたしたちの中学校の集団疎開の日取りが決まる。姉妹都市の縁で長野県の穂高村というところが受け入れてくれることになった。林間学校気分で盛り上がるにはクラスの人数は減りすぎていた。

 お父さんは前日から職場に泊まり込みで帰ってこなかった。お母さんは朝からの仕事だったけど、わたしの出発のために出勤を遅くしてくれた。荷物は大きなリュックサックとスポーツバッグが一つずつ。

「だいじょうぶ? 忘れ物はない? 腕時計とラジオは持った?」

「持った入れた全部持った」

「通帳と判子は別々にいれたのよね?」

「だいじょうぶだって。判子はふだん使わないんでしょ?」

「そうだけど、あとお父さんから電話あってね、なるべく早めに出た方がいいって。それから」

「お父さんから電話あったの? いつ?」

「さっき。アカネがトイレ行ってる間」

「っもう。早く行けってそんな、出発時刻なんて学校が決めるんだもの、どうしようもないよ」

「それから、とにかく建物から離れて、山や野原みたいなところに逃げなさいって。もし、その、空襲があったら」

「そういう野原みたいなところに行くんだからわたしは大丈夫だよ。それよりお母さんやお父さんの方が心配だよ」

「それはだいじょうぶ。おかあさんの病院でも患者さんの転院ははじまっているし、避難訓練もやっているから、あなたはあなたの心配をしなさい」

「はい。そうしますから、あなたはわたしの心配をしないでください。じゃあね」

「ついたらとりあえずお手紙ちょうだいね」

 玄関で見送るお母さんも出勤の服装をしていた。わずかに白いものが混じった髪は無造作に後でまとめ、動きやすそうなスラックスとトックリセーターの組み合わせは、こざっぱりとして活動的だ。

「手紙なんて書かないよ。電話する」

「電話なんて、ちょっと大きな災害が起きたら繋がらなくなるんだから。急ぎだったら電報の方が確実。電報の打ち方、わかるわよね?」

「はいはい。じゃあ、いってきます」

 母親は、玄関にあったつっかけをはいて、下手をすると階段の下まで見送りに出て来そうな勢いだったので、わたしは急いでドアを閉め、走って階段を下りた。

 公園に向かう団地内の道は寂れていた。道路脇にずらりと駐車していた車は今はまばらで、見上げた団地の窓にはカーテンのかかっていない空き家が目立った。地域の小学校全員と、中学も一年生と三年生はすでに疎開していた。目の前の道を横切っていったのは六組の名前を知らない男子二人組。学生服に、大きく膨らんだリュックを背負っているのが、いかにもおかしい。中央公園の前の道に出たところで、公園の中を横切ってやってくるみどりちゃんの姿に気づいた。わたしと同じとはいえ、やっぱり変な格好だ。制服のジャンパースカートの下にはジャージを穿いていて、青い年季の入ったリュックを背負っている。ただし、リュックのてっぺんに学校で配られた白いヘルメットがネットで留められていて、かっこいい。

「おはよう」

 みどりちゃんは笑顔で挨拶してくれた。わたしたちはお互いの歩く速度を緩めることなく九〇度で合流して、そのまま学校への道を辿った。

「アカネちゃんのリュック、ミレーか。素敵だね」

「うん。燕岳に行くために買ってもらったんだけど。みどりちゃんのヘルメットもかっこいい」

 するとみどりちゃんは、ほんの微かな笑みを浮かべて立ち止まった。重そうなリュックをさっと下ろし、上の蓋を開けて、細いロープの塊のようなものを取り出した。

「あげる」

「え、これ、ヘルメット留めてるネット? みどりちゃんと同じもの?」

「そう、おそろい」

 リュックを背負いあげて、また、かすかに笑う。

 わたしのヘルメットはスポーツバッグの中に入っている。ここでお店を広げるのもなんなので、残念だけどネットはスポーツバッグに入れた。

「わたし達、穂高村でどんな所に住むのかな?」

「さあ」

「ホテルとか? 民宿とかだったらやだなあ」

 皮肉っぽい笑みを浮かべてみどりちゃんが訊いた。

「穂高村の人口ってどのくらいか知ってる?」

「知らない。村だから……五千人くらい?」

「そんなところだと思う。じゃあ、わたし達の市の小中学生の人口は?」

「ええと、全人口が一八万人だっけ? だとすると」

 六才から一五才までの人口って何パーセントくらいだろう。考えはじめて、すぐに気づいたのは、たぶん、一万人とかよりは多いってことだった。穂高村に疎開するのは全生徒のうち七割程度だとしても、それだけを受け入れるのは大変なことになるだろう。

「……まあ、屋根があるところならどこでもいいかな」

「あとご飯ね。おそばがおいしいらしいよ」

「あ、おそば好き」

「私も。問題は二万人分のおそばが用意できるかってこと」

「うどんでもいいけど……ああそうか。『穂高村での放課後の奉仕活動』って、畑作り手伝うのかな」

「あるかも。それと、お父さんが教えてくれたんだけど」

 みどりちゃんが少し声をひそめた。「近くに、太陽電池の工場があるんだって。そこで『勤労奉仕』させられるんじゃないかって言ってた」

「勤労奉仕ねぇ」

 みどりちゃんのお父さんとうちの両親の年齢は近いので、以前から符丁のように昔の言葉を使うことがあった。ところが、ジマーとの戦争が世間を騒がすようになって、最近、こういう言葉がテレビや新聞でも冗談交じりに使われるようになった。

 みどりちゃんは、でも、冗談や皮肉を言っているのではなかった。

「そうか。石油が輸入できなくなっちゃうかもしれないんだ」

「さすがアカネちゃん、頭が回る」

 頭の回転はみどりちゃんの足もとにも及ばないけど、そのみどりちゃんに言われて悪い気はしない。「頭はともかく体力はあるから。勤労奉仕、がんばるよ。部活もないしね」

 みどりちゃんの表情が曇った。

「コンクール中止、残念だったね。アカネちゃん、がんばって練習してたのにね」

「もう気にしないことにした。向こうに行ったら楽器が弾けなくなるのは残念だけど」

 みどりちゃんもわたしも自分の楽器を持っていない。自分の楽器をもっている人は、身の回りの荷物二つにプラスして、疎開先まで持っていってもいいことになっていたのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る