腕時計(一)

 六時前に家に戻ると、お父さんがリビングにいて、テレビを見ていた。お風呂に入ったあとなのだろう、ステテコにTシャツ姿で、人前に出るわけじゃないとはいえ、すごくかっこわるい。でも、金曜日の朝に家を出ていったきり週末も帰ってこなかったので、さすがにちょっと懐かしいという感じもする。お父さんはお酒をあまり飲まない人だけど、今は、お母さんが自分用に買っていたビールをテーブルにおいている。今日はお母さんが夜勤で、夕ご飯は一人で食べることになっていた。

「おとうさん、夕ごはんボンカレーでもいい?」

「いいけど、目黒が陣中見舞いだって役所にいろいろ持ってきてね」

 冷蔵庫を開けると、かろうじて空いていたはずの中段の棚に、パックされたチーズやハムやカンヅメやお酒のおつまみっぽいものがたくさん詰まっている。目黒さんというのはお父さんの大学時代の友達で、新聞社だか雑誌社だかに勤めているのだ。目黒さんには小さいころに何度か会っているはずだけど、顔を覚えていない。こういうものでごはんをすませることをお母さんは嫌うけど、わたしはけっこう好き。予定していた夕ご飯の時間には少し早いけど、大きなお皿を出しておかずがわりのおつまみっぽいものを並べ、電子ジャーからお茶碗にご飯をよそい、自分用にはオレンジジュースをコップに注いで夕ご飯の準備ができちゃった。ちなみにお母さんは食事中のテレビも好きではないけど、お父さんは気にしない。むしろお母さんがいないときには「食事時だろうかがなんだろうが情報を集めなきゃだめだ」と、ながら族全肯定のお説教をするくらい。

 インチキ夕ご飯を食べ始めてまもなく、六時になった。お父さんの見ていたチャンネルでは子供向けのアニメが始まった。

「ニュースにしなくていいの?」

「いいよこのままで」

 お父さんの意向は無視してチャンネルを変える。1チャンではこどもニュースの時間なので、6チャンにする。最初のニュースはやっぱりジマーのことだった。ヨーロッパへの空襲が下火になって、中近東の油田に対して攻撃が本格化するだろう、という話だった。

「これもウソなの?」

「ウソじゃない。もっと大事なことを言っていない」

「それって、やっぱり日本にも空襲があるってこと?」

「一ヶ月前までは無いという話だった。でも、準備はしなくちゃいけない、ということになって、まあ、それもなんとかめどがついた。あとは議員の先生方にがんばってもらうさ」

 お父さんは自分の仕事のことをやたらとしゃべったりしないけど、聞けば教えてくれる。お父さん達が作った法律の案は国会にかけて成立すればそれが法律になる。こうやって久々に早く帰ってきたのは法律の案ができたということで、今度は国会がはじまるとまた夜遅くまで帰れなくなる。

「これまでみたいなペースで審議していたんじゃ一〇年かけても終わらないような数の法案が提出されるぞ。どうなるか見物だね」

「何が変わるの?」

「地方自治権が大幅に拡大される。国の権限がほとんどなくなると言ってもいい。市町村の合併や県境の変更も国の了承を得る必要がない。問題は自衛隊だ。統合を維持するにせよ、分割するにせよ、軍閥化の懸念は残るからな。連中がどこまでできるか見物だな」

 中学生レベルの知識しかない女子中学生にとってさえ、それはとんでもないことのように聞こえた。

「それって、日本がなくなっちゃうってこと?」

「よくわかったな。まだ友達には言うなよ。それに、これはいざとなったときにそうできるようにする、という法律だ。ジマーの攻撃が日本に対してなければ、あったとしても小さな被害で済めば、引き金を引く必要はない」

「でもなんで、そんなふうに日本をばらばらにする必要があるわけ?」

「それはね」お父さんは少し考え込んだ。その間にわたしは松前漬けをご飯にのせ、6Pカマンベールチーズの銀紙を剥いて、口に放り込んだ。おいしい。

「ジマーの被害を防ぎ、人間が生き残るためには、社会自体も変えてゆく必要がある、ということだ。そこまではまだ国民に対してつまびらかにはできない。理解したいと思うなら、自分で考えてみることだ」

「うーん」

 当然ながらわたしは納得できない。ヨーロッパの人達のように自分の住む国から追い出されてしまえば、それこそ社会からなにから変わってしまうだろう。でも、お父さんが変えようとしているのは日本の法律なのだ。法律を変えることで、ジマーに日本を占領されなくて済む、という理屈がわからない。とりあえず、わたしはそのことについて考えるのをやめた。訊いておきたいことは他にもあった。

「みどりちゃんのお父さんが、とても忙しいっていうんだけど、なんでかわかる?」

「みどりちゃん?」

「北園みどり。もう、ほら、何度か家に連れてきたでしょ」

「ああ、北園先生ね。それは引っ越しの準備をしてるんだよ」

「え」

 わたしは大きな声を出してしまった。まさか、みどりちゃんも? でも、わたしには何も言っていなかったのに。

「大学の引っ越しだよ。ジマーは特に理工系の大学や研究施設を狙う。だから都心にある大学は図書館と重要な研究設備を郊外に疎開させることになったはずだ。あれ、でも北園先生のところは大岡山だっけ?」

「おーかやま? 横浜の近くって言ってたけど」

「長津田か。じゃあ、大岡山の設備をそっちに受け入れるので忙しいんじゃないかな。長津田は山の中の秘密基地みたいなものだから、大丈夫だろうが」

「じゃあ、みどりちゃんが引っ越すことはないんだよね」

 お父さんはすぐには答えなかった。コップに半分残ったビールをちびり、と飲むと、とんでもないことを言った。

「都心から半径三〇キロ以内では、小中学生の全員を地方に疎開させることになるかもしれない。三〇キロといったら、ここも圏内だ」

「え、それってわたしも、引っ越すってこと?」

「引っ越しじゃなくて学童生徒疎開だよ。まだ決まっていないはずだ。でも、国会審議が始まったたらすぐに知られるだろう。だから、友達には言うなよ」

 友達に言うなとかじゃない。そんなの一大事だ。頭の中がぐるぐるする。

「まって、それいつ? みんなばらばらになっちゃうってこと? 合奏部……コンクールは中止にならないって、北村先生が言ってたのに?」

「決まっていないと言ったろう。だが市や先生達ももちろん準備をしてるはずだ。茜は学校の友達と一緒にいたいんだろう?」

「うん。でも」

「父さんもお母さんも田舎に頼れる親戚はいないからな。いざとなったら春日部のねえさんに頼ることになるかもしれないが、当面は学校にまかせよう」

「……お父さん、なんかその」

「なんだ」

「なんでもない」

 お父さん、なんか楽しそうに見える、わたしはそう言おうとした。楽しそう、というより、活き活きとしている。そして、そう言ったらきっと、怒られると思ったので言わなかった。

 ふとテーブルの上にお父さんの腕時計がおいてあることに気づいた。懐中時計じゃないかっていうくらい大きくでごっつい、針が四つくらいあるやつだ。

 戦中派のお父さんは子供の頃は海軍のパイロットになりたかった。今でも、仕事できいたらしい飛行機の話をときどきしてくれるけど、わたしが適当な相づちをうっていると、「ま、興味ないか」と言って切り上げてくれる。わたしが男の子だったら、パイロットになって欲しかった、と言ったこともある。それも旅客機とじゃなくて、戦闘機のパイロットなのだ。軍隊や自衛隊は大嫌いなくせに、ほんとう、この年代の男の人はよくわからない。

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