健康診断
健康診断会場の技術科室の廊下には空の椅子が五つ並んでいて、教室の扉には 『脳波測定中。大きな音を立てないこと。指示があるまで入らないこと』と、赤いマジックで書かれた紙が貼ってあった。肝心の扉は半分開いていたので、これは入っていいという意味なのだろうと勝手に解釈した。
教室の真ん中、机を脇に寄せて作られて隙間に、ドーム型の大きなテントがあった。大きいといっても、山で使うようなものに比べてということで、わたしの背丈よりは小さい。テントの横には、わたしの背丈くらいの四角い箱があって、それには機械がぎっしりつまっていた。そして、そこから、何十本という電線が垂れ下がってテントの中に引き込まれていた。
その機械の前に立っていた白衣を着た女の人がこっちを向きもせずに言った。
「扉しめて。名前と番号」
「二年二組二九番伝刀茜です」
女の人は、たぶん、看護婦さんじゃなくて女医さんかと思ったが、わたしの方をちらりと見ると、その冷たい視線を教室の奥の方に放り投げた。そこには西洋人の女の人と、日本人の背の高い男の人と女の人が座っていた。背の高い男女は、外国の女の人のおつきっぽい感じだった。その人達はかるく頷いたように見えたけど、何も言わなかった。
テントの前に椅子があって、私はそこに座るように言われた。もう一人、若い看護婦さんっぽい人は、優しい感じで微笑んで、
「緊張しなくていいからね。ちょっと脳波を測るだけだから」
「大丈夫、感電とかしないから。電気をかけるわけじゃなくて、脳からの微弱な電流をとらえるんだ。パッシブだから、大丈夫」
女医さんっぽい人はわけのわからないことを言いながら、テントの中からメデューサみたいに沢山の電線をたらした帽子みたいなものを取り出してきた。
「頭にペースト塗るからね。あとで拭き取るけど、ちゃんとお風呂で洗ってね」
脳波なんて初めてだ。言われた通りに椅子に座っていると、脱脂綿で頭のあちこちを消毒させられ、ぺたり、ぺたりと電極をノリみたいなものでくっつけられるのがわかった。男の人の手際はよかったけど、電極を全部つけ終わるのまでにけっこう時間がかかった。電線を引きずりながらテントの中に入ると、遊園地のプールなんかにある日焼け用の寝椅子みたいのが置いてあって、そこに横になるように言われた。アルミ製の無骨な感じだったけど、横になってみるとびっくりするほど気持ちが良い。テントの入り口が閉ざされると、中は真っ暗になった。もうすぐにでも眠れてしまいそうだ。そこで、耳元のスピーカーが鳴った。
「きこえる? 寝ちゃダメよ」
「きこえます」
「これからいくつか質問をします。質問の内容がきこえなかったり理解できなかったら、『理解できません』とか『きこえません』とか言ってください。質問の内容が理解できたら、声に出さず、答えを頭の中で考えてください。頭の中で答え終わったら、『終わりました』と言ってください。身体の力を抜いて、なるべく身体も口も動かさないでください。いいですか?」
「はい」
それじゃはじめます、とスピーカーの向こうの女医さんは言った。
「川で二人の子供が溺れています。一人はあなたの大切な友達。もう一人は見知らぬ子供です。どちらを助けにゆきますか」
頭に塗られたペーストは、全然拭き取れていなくて、髪の毛ががびがびしていたけど、変な質問に比べたらずっとマシだった。一〇個くらいの質問のうち、ちゃんと答えをイメージできたのは二つくらいだった。それも「ご両親の名前と誕生日は?」というような、正解も何もない質問だ。
「脳波で考えていることがわかるんですか?」
「それは無理」
アルコールを含ませた脱脂綿で私の頭を拭いてくれながら、看護婦さんっぽい人は笑った。
「じゃあ、今ので何がわかるんですか?」
「今みたいな質問を刺激として与えると、一部の人はL波っていう脳波が観測されることがあるの。最近わかったんだけどね」
「アルファ波って……眠いときに出るっていう」
「よく知っているわね。でもアルファ波じゃなくてエル波……ランデュレ波っていうの」
「刺激に反応するってことは、……てんかんみたいなものですか?」
「その考え方は悪くないわ。でも、外部からの刺激に過敏に反応するのは、てんかんだけが原因というわけじゃない。てんかんは脳そのものの問題で、正直わかってないことも多い。それでもL波と若年隊員の関係よりはずっとマシかな。なにしろ
じゃくねんたいいん?
「二本よ。さっきもらった」
きつい感じのとしかさの女医さんが、巻物みたいな紙から目を上げずに言った。あの紙にわたしの脳波が記録されているのだろうか。
「あれは
「それを言うなら私信ね。雑誌に載ったわけじゃないし」
女医さんは、巻物みたいな紙を切り取り、それを外国の女の人のところに持っていって見せた。外国の女の人は、ウェーブのかかった亜麻色の髪をして、銀縁の眼鏡をかけていた。年齢はたぶん、四〇歳くらいだろうか、ふんわりした優しそうな感じだったけど、難しそうな顔をして、女医さんと英語のような言葉でなにやら話していた。そして、最後に頷いた。するとおつきっぽい男女の人は、すごくほっとしたような表情を浮かべた。でも、女医さんは、ふん、という感じで頭を振り、外国の女の人は、椅子から立ちあがると、なんとわたしの方に歩いてきた。わたしはようやく脳波の電線を全部とってもらったところで、あわてて椅子から立ち上がった。
「Run」
女の人はたぶん、そう言った。え、走るってこと? ここで? わたしが、「Shall I run here?」と訊くと、女の人はノン、ノン、と首をふり「ニゲロ。アナタ、ニゲロ」と言った。
おつきの女の人が、何か早口で外国語で、たぶん、フランスで言いながら、女の人の肩を軽くささえた。
きっとこの人もパドメの一家のようにフランスから逃げてきたのだ。わたしは、背の高い男の人に、「疎開のことですか?」と訊いたけど、男の人は口がきけないみたいに何も言わなかった。女医さんが、「さあ、そうなんじゃないの」といいかげんに答えてくれた。「終わりだよ。次の子に入るようにいいな」
廊下に出ると、教室の前の椅子には女子生徒が座っていた。齋藤里佳ちゃんという陸上部員で都の大会で入賞した子で、今はD組だけど、一年のときには同じクラスだった。陸上部のエースは、不安気な視線をわたしに向けた。「ねえ、アカネちゃん、身体検査って……」
「次の人、入ってって言ってるでしょ!」
と部屋の中から女医さんの声がして、里佳ちゃんは弾かれるように立ち上がった。わたしは不安げな彼女に会釈をして、音楽室に戻った。
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