学校のテレビ

「今朝は、種田は来てたのか?」

 穂積先生の第一声がそれだったので、わたしは呼び出しの理由をすぐに知ることができた。

 それは種田くんが穂積先生に音楽室から追い出された日の翌日、「あの日」すなわち、一九八〇年五月二三日のお昼休み、職員室ではなく音楽準備室でのことだった。

「いいえ」

 昨日、あんなことを言われてさすがの種田くんだって来るわけがない。

「それはよかったな。まだ、北村先生には相談してないんだよ。このまま来ないなら、話すまでもないかと思ってね。だが、君だって知ってるとおり、種田のことはいろいろと注意してやらなくちゃいけないだろ。一応、確認しておきたいんだ。種田を朝練に誘ったのは伝刀さんっていうのは本当なのか」

「違います」

 わたしの答えは、ついため息混じりになる。本当は「友達想いでまじめな伝刀茜さん」でいこうと思っていたのに、用意していた声のトーンが一オクターブくらい下がってしまう。ちなみに北村先生は昨日の昼休みの段階で話をきいていて、職員室でわたしに事情を説明させている。北村先生は穂積先生に話してくれなかったのだろうか。

「じゃあ、誰が誘ったんだよ」

「誰も誘ってません」

「そんなはずないだろ。種田が音楽に興味なんてあるわけないんだから」

 穂積先生は種田くんがいろいろな部活の朝練を渡り歩いていたことを知らないのだろうか。

「他の部活は種田くんが見学に行っても追い出したんです。合奏部では、別に邪魔にならなかったので、見学してもらっていたんです」

「おいおい、ちょっとまて。種田が大きな音とかに弱いのは知ってるだろう? うちが一番あぶないじゃないか。そんなの、同学年で副部長の伝刀さんがしっかりして、ちゃんと言わなきゃだめじゃないか」

「種田くんはちゃんと薬を飲んでいれば発作を起こすことはないそうです。去年の二学期以来、一回もないって。これまでの朝練でも、全体合奏のときでも大丈夫でした」

「そういう問題じゃない! 去年までは古典派以前ばっかりだったが、今年はグリンカだってやってるんだ。強弱の激しい曲だってある」

「種田くんを入部させてあげるわけにはいきませんか」

 プリンスと言われる穂積先生の顔が、中途半端な怒りの表情で凍りついた。

「本人が入りたいっていうなら、入部させてあげてもいいと思うんです」

「伝刀さん、さっきは、誘っていないって言ってたよね。それは嘘だったのか?」

「嘘じゃないです。誘ってません。種田くんは勝手に見学に来たんです。でも、本人が入りたいっていうなら、入れてあげてもいいって、そう思っているだけです」

「何の楽器をやらせるんだ。楽器は余ってないぞ。しかも二年生の途中から入って、あの種田が一年生より巧くなるわけないだろう。楽譜もロクに読めないんだぞ」

「楽譜が読めなくなって、暗譜すれば簡単な曲だったらできるようになるかもしれません」

「伝刀さん。ここの合奏部は、お楽しみの部活じゃない。本当は体育祭で金管にファンファーレを演奏させるのだって断りたいんだ。学校の中でも合奏部が特別というだけじゃない。山科先生が長い間かけて育てられた、全国の公立中学でも、特別、な部活なんだ。それは伝刀さん、君だってわかってるだろう?」

 わかっていた。でも、それを口に出してはいけないと、きっと合奏部のみんながわかっている。わかっている証拠に、わたしは種田くんに入部して欲しかったのだ。わかっていないのは、穂積先生のほうだ。

 穂積先生は声のトーンを落として、急に穏やかな口調になった。

「伝刀さん。君は二年生の中で一番うまいというわけじゃない。だが、君は一番まじめで練習熱心で、部の全体の仕事も進んでやっている。だから副部長になってもらったし、十月からは部長になってほしいと思う。もちろん全ての発表会やコンクールで、今後、伝刀さんがメンバーから外れることはない。仮に、もっと巧い一年生がいたとしてもね」

「それはおかしいです。ちゃんと弾けないのに舞台に出たくはないです」

「そう。君はそう思っている。だから、ちゃんと練習するし、あの壮絶なルスランだってもう少しで弾けそうじゃないか。北園さんと二人で、むしろストバイを圧倒してる。まったくバランスが悪いっていったらない」

 穂積先生は、ははっ、と、いくらかとってつけたように笑った。わたしは膨れあがるいろいろな気持ちを抑えつけるため、唇をかみしめていた。

「この合奏部は、他校と比べても、この中学校の他の部活と比べても、厳しい。その厳しさに耐えている君たちは、特別、なんだ。誰もができるわけじゃない。種田のような生徒が入部すれば、君たちの……プライドが傷付くだろう。それはわかるだろう?」

 わたしは見えないだれかに頭を押さえつけられたような気がして、それでも抵抗できなくて、こくり、と頭を下げた。こどもの頃に飲んだシロップの薬みたいな、甘くて苦い気持ちがせりあがってきた。

「わかってくれたら、いい。保護者の方に相談して、入部届けは取り下げてもらう」

「種田くんは入部届けを出してたんですか!」

 わたしはびっくりして、変な声を出してしまったかもしれない。でも、穂積先生はすっかり興味を失った様子で、もうすぐ予鈴だ、と言って、自分も立ち上がった。

 音楽準備室を出たわたしは、本当に痛くなりはじめたお腹をさすりながら、とぼとぼと廊下を歩いた。

 たぶん、わたしは最善のことをしたのだ。種田くんのことをそのままにしていれば、きっとずっと、ひょっとしたら一生わたしはもやもやした気持ちを、あのとき何かができたんじゃないかという気持ちを抱えて生きていたかもしれない。でも、穂積先生に相談したことで、その気持ちが偽善だったということがわかってしまった。わたしは自分のささやかなプライドが傷付いているのを無意識に知って、種田くんに直させようとしていたのだ。

 このお腹の痛みは当分続くかもしれない。それでも、ご飯が食べられないとか、練習ができない、という程ではない。

 もうすぐ昼休みが終わるという時間帯、校舎の中はいろいろなわめき声や笑い声や叫び声が渾然一体となってわんわんとうなっている。だらしなくワイシャツの裾をズボンから出した三年生達がすごい勢いで廊下を走ってゆく。廊下で笑いさざめいていたおしゃれな三人組の女子生徒が、教室に駆けこむ。テレビのニュースのような声が聞こえる。中学校でも各教室にテレビはあるけど、入学以来、一回もついているのを見たことがない。勝手につけていいのだろうか。先生がつけたんだろうか。

 校庭で遊んでいた生徒達が、おおぜい階段を駆け上がってきて、そのまま教室にかけこむ。全ての教室でテレビがついていて、緊迫したアナウンサーの声がこだまのように廊下中にひびいている。

「戦争がはじまったって?」

 通り過ぎた三年生の男子の言葉が耳に残った。

 ソ連はアフガニスタンから撤退したんでしょ? 

 わたしはお腹をさする手をおろし、自分の教室に向かう足を速めた。


 世界が変わってしまった一九八〇年の五月二三日は、わたしにとってこういう日だった。

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