風祭くんのこと
お父さんと結婚してわたしが生まれてから、お母さんはずっと仕事をしていなかったけど、わたしが中学に進んでから、週に三回だけ看護婦の仕事をするようになった。日曜日が勤務のことも多く、お父さんの帰りは土日以外はほぼ毎晩深夜なので、家族全員で夕ご飯を食べるのは土曜日の夜くらいしかない。今日はお母さんと二人だ。サラダとシチューとたぶんスーバーのお総菜のタケノコ。わたしは豚肉のシチューが大好きなので、このメニューには満足だ。それで、つい、余計なことまでお母さんに話してしまう。
「あのさ、種田くんって……わたし種田くんのこと、いつか話したよね」
お母さんは、わずかに首を傾げた。「茜からは聞いてない。でも父母会か何かで先生がお話されてたと思うわ。軽い障害のある子でしょ?」
わたしはどきりとしてしまう。ショーガイって言葉は、サベツ語だ。中学生にもなれば、よほど口の悪い男子でも使わない。でも、お母さんが種田くんのことを知っていたのは話が早かった。
「つまり、茜は種田君を合奏部に入部させようとしているわけね」
「入部っていうか、あくまで本人が、希望するならっていうか」
「そうよね。今まで種田くんのことなんて、全然、話題にしてなかったもんね」
「やっぱり変かな」
「そうね。でも、小学校のときも似たようなことなかった?」
「え? そんなこと、ないと思うけど」
そんなことはない、というのは思うじゃなくて、確信だった。わたしは中学に入るまで、他人がどういう気持ちかとかだけじゃなく、他人が自分のことをどう思うかってことさえ、全然考えない人間だったからだ。女子としては、さすがに異常だったと思う。でもお母さんは、思ってもいなかったことを言い出した。
「ほら,誰だっけ、一時期、男の子に懐かれていたじゃない」
「えー? そんなのないって!」
「誰だっけ……ええと、誰だっけ、ちょっと珍しいお名前の……風祭くん?」
「……ああ」
風祭くん。まったく、親というのは、本人が全然興味を持っていないようなことを大事だと思い込んで良く覚えている。小学校四年生のときに風祭くんが「引っ越して」以来、わたしは、自分から彼のことを思い出すようなことは全くなかったのに、お母さんときたら、半年に一度くらいは、その名前を口にしている。今日はなんとついさっきみどりちゃんの口から聞いたばかりだ。
お母さんは、風祭くんのことをどう思っているのだろうか。わたしの知らないことを知っているのだろうか。多分、知っているのだろう。でも、それを聞く気になれないのは、やっぱり忘れたいという気持ちがあるからだろう。わたしの口調は自分でもおかしいと思うくらいに平坦だった。
「風祭くんは、すごい頭良かったよ。種田くんとはちがう」
「そうだったかしら」
話をふったのはそっちなのに、お母さんもそれ以上なにも言わなかった。
考えてみれば、風祭くんとは小学校の一年生から四年生まで一緒のクラスだった。風祭くんだって、休み時間にはクラスの男の子と一緒に校庭でハンドベースをしたり、放課後に自転車を乗り回したりすることはあったと思う。ただ、どっちかというとただ地味な感じの子だった。でも四年生にもなると、「脚が速い」とか「けんかが強い」とか「面白い」だけじゃなくて、「勉強ができる」ってことも、人間の価値を決める要素だってことなってくる。風祭くんは、今、考えてみても尋常じゃなく頭がよかった。特に算数なんかは、小四で中学生かひょっとすると高校生の内容を理解していたかもしれない。女子の中には、そういえば思い出したけど、からかい半分で、勉強教えて、とか言っている子もいた。男子でもクラスに二、三人は私立中学を受験する子がいて、塾にも通ってない風祭くんのことを妬むような雰囲気があった、ような気もする。それがちょっとした騒動につながったのだ。
ある日を境に、風祭くんはうそつき、ということになり、ほとんどの男子と女子の一部からシカトされることになってしまった。彼のついた嘘というのは、「今年に入って、本を百冊読んだ」というのと、「家には千冊以上本がある」ということだった。今にしてみれば笑うしかないことだけど、クラスの子のほとんどは、そんなことはありえないと思っていた。
そして、当時のわたしは、そんなクラスメイト達に輪をかけてバカだった。読書が好きで特にファンタジーものが好きだったわたしは、「きっと千冊もの本で埋め尽くされた家は、エンデのモモに出てくるマイスターホラの家のように違いない」と妄想を膨らませた。
「今度、風祭くんの家に行っていい? どんな本があるか見てみたいんだけど」
とりわけ親しくもない女子からいきなりそんなことを言われて、風祭くんはかなり面食らったと思う。でも、彼はいやいやながらも応じてくれ、わたしは翌日、学校から帰ってランドセルを置くと、すぐに風祭くんの家に行った。
風祭くんの家は、立派な新築の一軒家だった。庭には三階建ての家ほどもある鉄塔が建っていて、テレビよりずっと大きなアンテナが載っていた。
通された一階の部屋は応接間というか書斎というか大きな洋室で、一面には大きな窓が、一面にはなんと暖炉があって、残りの二面が天井まで届く本棚で埋め尽くされていた。まさにお話に出てくる古い家の書斎そのもの、わたしの貧困なイメージのホラの家は、風祭家の書斎の現実に完敗した。きれいな若いお母さんが、紅茶とモンブランケーキを出してくれた。友達の家に遊びに行ってケーキが出てくるなんて、お誕生会以外では、テレビの中の話だけだと思っていたのでびっくりした。
「ゆっくりしていってね」
お母さんはやさしく言ってくれた。わたしはお行儀良さを最大に発揮しようとして、ただ声が高くなっていただけだった。
「この家、お母さんが作ったんだ」
風祭くんがそう言ったので、わたしは混乱した。とても大工さんには見えなかったからだ。
「本当ですか?」
わたしが失礼なことを聞くと、お母さんは書斎の扉のところで、ただ、ええ、という感じで頷いた。あとで聞いたところで、風祭くんのお母さんは大工さんではなく、設計する人だということだった。
「すごい立派なおうちだね」
わたしはそそり立つ本棚を眺めながら、心から感動していた。とりわけ目を惹いたのは、英語の背表紙の本だ。両手を一杯に広げたくらいの幅の棚ひとつが、上から下までぎっしりと洋書で埋まっていた。
「お父さんの仕事の本なんだ」
風祭くんは、一人でさっさとケーキを食べている。
「おとうさん、大学の先生なの?」
「ふつうの会社員」
「ガクシキケイケインシャ?」
「……うん。たぶん」
「読んでみてもいい?」
「いいよ」
わたしは本棚に歩み寄り、手近にあった、緑色のカバーのとりわけ分厚い本を引っ張り出した。適当にページを開くと、奇怪な記号をまとった数式が現れた。ページをめくると同じような数式がいつまでも続いている。わたしはゆっくり息を吐いて本を閉じ、引き抜いた時よりはいくらか丁寧に本棚に戻した。本棚から離れて今一度、全体を見渡す。
「たくさんあるのはわかったけど、本当に千冊もある?」
「数えてみれば」
両手で一杯に広げた一段分の本を数えて、ため息をついた。かなり分厚い本もあるのに、八〇冊もあったからだ。天井までの本棚全体では、それだけで一〇〇〇冊はありそうだった。
「千冊どころじゃないよこれ。この部屋全体で一万冊くらいあるんじゃない?」
「うん」
「わたし、明日、学校で言う。風祭君の家には本当に一〇〇〇冊本があったって」
「いいよ、そんなこと言わなくたって」
風祭くんはすっかりケーキと平らげてしまって、今は紅茶をふうふうと吹いている。
「かけざんもできないような馬鹿に何言ったって無駄だよ」
「じゃあ、おうちに連れてくれば? 数えさせればいいんじゃないの?」
「別にわざわざうちに来なくなって、学級文庫でも図書室でも行ってみれば、千冊の本がどれくらいかなんてすぐわかるだろ?」
わたしはそこでようやく気づいた。わたしの部屋にだって、たぶん三〇〇冊くらいはある。風祭くんが、なんで千冊の話をすることになったのか知らないけど、そうとう控えめに言ったのだ。なのに、クラスの子たちにはその「冗談」すら通じなかった。
「じゃあ、そう言って説明すればいいじゃない。英語の本とかはすごいと思うけど、本の数だけだったら、もっとたくさんあるおうちもあるでしょう?」
風祭くんは黙って紅茶を飲んでいる。わたしはもう一度部屋全体を見渡した。暖炉の側には銀色のステレオセットと大きなスピーカーもあって、その左右にはぎっしりとLPがならんでいた。今、思い出せば、(合奏部の男子の一部あたりがよだれをたらしそうな)価値のあるレコードもあったに違いない。
その暖炉の上に一枚の写真が飾られていた。普通の写真より大きめの白黒写真で、三〇人くらいの人が写っていた。ただ、なんか変な感じがして、よくみると、写っている人達はみんな外国の人なのだ。もっと奇妙のなのは、真ん中に二つ空席があって、そこに花束が置かれていることだった。
「ああ、それ」
風祭君がちらりと暖炉のほうに目をやった。「大事な写真なんだ。親の」
そう言われて、わたしは暖炉に近づき、写真を念入りに見た。やっぱりいない。風祭くんのお父さんは、たぶんこの写真が撮られたどこかの国に留学でもしていたのだろう。でも、日本人らしい人物は一人も写っていない。
「ぼくの部屋も見る?」
紅茶を飲み干した風祭くんがさりげなく言った。わたしは、この書斎で十分堪能したし、逆に時間があるなら、もう少しこの部屋にいたかったけど、ありがたく招待をうけることにして、ちょっともったいなかったけど、大急ぎでケーキを食べ尽くした。写真のことはもう頭の片隅にもなくなっていた。
小学校一年や二年のころならともかく、小四にもなって男の子の家に遊びにゆくなんて機会は滅多にない。もっとも、男の子の兄弟のいる女の子の友達はいたので、それに友達の大部分は団地にいたので、別に好奇心で一杯というわけでもなかった。
しかし、風祭君の部屋は、それまでのわたしが知っていた、がちゃついた子供部屋なんかとは全然ちがっていた。大きなベッドがあるのは予想の範囲。本棚の大きさはわたしの部屋とそれほどかわらなかった。目を惹いたのは、壁の一面に作られた大きな棚で、そこに、大小さまざまの「おもちゃ」が並んでいたのだ。わたしの分かるものだけでも、模型飛行機がいくつか、精巧な自動車の模型、電子ブロック、理科の実験で使うようなガラス器具、古いラジオ、タイプライターみたいなものまであった。
部屋の入り口のところで、立ち尽くしていた。
先に入っていた風祭くんは、そのすごい棚のところまで行って、振り向いたけど、さっきの書斎での表情とはうってかわって、はにかんだような笑顔をうかべていた。
「すごいね……」
わたしがおもわずつぶやくと、風祭くんは、棚のコレクションの中でもひときわ大きな模型飛行機を取って来て、わたしの前に差し出した。おそるおそる受け取ると、それはまがい物のクリスマスツリーみたいに軽くて拍子抜けした。少しだけ油の匂いがした。
わたしは、失礼にならないくらいの間、模型飛行機を持ち上げたり揺らしたりしてから、風祭くんに返した。
「友達呼んできたらきっとみんな喜ぶと思う」
「うちには超合金もミクロマンもないからね。このラジコンだって、子供だけじゃ飛ばせない」
「壊されちゃうかな」
「壊れたら直せばいいんだよ。あいつらには興味ないだろってこと。ねえ、これ知ってる? 世界中と通信できるんだよ」
「それって、アマチュア無線とかっていうの?」
「よく知ってるね」
「英語とかでしゃべるんでしょ? すごい!」
「決まったことしゃべるだけだから難しくない。それよりもCWとかRTTYの方が面白いよ。ほら、ここにコンピュータがあるだろう。この箱で……」
翌々日の学級会で、わたしは緊急動議を求めた。
「風祭くんの家には、確かに千冊以上の本がありました。だから風祭くんをうそつき呼ばわりするのはやめた方がいいと思います。嘘だと思うなら自分で見せてもらえばいいんです」
詳しいことは覚えていないけど、実際に何人かが風祭くんの家に行って、それでうそつき呼ばわりしていた人達は、全員、風祭くんに謝罪した。クラスの中心だった、いわゆる勉強もスポーツもできる何人かの男子が、それから風祭くんの家に遊びにいったり、一緒にアマチュア無線の免許をとったりということもあったらしい。
わたし自身も、それから何度か風祭くんから誘われた。わたしはそのあと、二回くらいお宅にお邪魔して、ホラの書斎でケーキとお茶をいただいた。風祭くんは自分の部屋でおもちゃを見せたかったと思うが、わたしは電子ブロックにも模型飛行機にもあまり興味がなかった。
それがよくなかった。最初は、わたしと風祭くんがデキている、という話だった。そういう話はだいたい男子から出るもので、しつこいことはあるものの、女子の側に誤解がなければ、放っておけば問題ない。ところが、今度は女子の側で「伝刀さんが風祭くんに酷いことを言ったらしい」ということになり、さらに当時の女子のリーダ格だった子にわたしが謝罪しなくてはいけない、という流れになった。イジメというほど徹底してはいなかったけど、休み時間に話かけてくれる子はほとんどおらず、体育や音楽でペアを作るときには必ずあぶれた。そもそも、仲間外れにされている男子の家に興味本位で遊びに行くようなオンナだった当時のわたしには、みんなの前で涙を流して謝罪すればそれで一件落着という程度の知恵もなかった。しかし、その状態は、二月のある日、唐突に終わった。
風祭くんが転校してしまったのだ。それも教室での挨拶もなく、突然、わたしたちの前から消えた。先生からの説明も少し変だった。お父さんの会社の都合で、急遽海外への赴任が決まった、ということだった。当時、子供達にはわからなかったけど、風祭くんのお父さんは会社の都合ではなく、突然会社をやめてしまい、スパイの疑いもかけられていたという。それがどういうわけか、今度はわたしが悲劇のヒロインよろしく同情を集めるようになり、自然に仲間外れも解消されたのは有り難かった。
この事件は、わたしにとっては女子の集団の中で気をつけなくてはいけないことがある、ということを学ぶ機会であったのであって、悲恋におわった初恋の記憶では断じてない。お母さんは、それを完全に勘違いしている。風祭くんも、種田くんも、わたしにつきまとってきたわけではない。風祭くんの場合は、わたしのしょーもない好奇心が招いた自業自得であって、彼がうそつき扱いされていたことに義侠心をくすぐられたわけじゃない。種田君の場合は、どうなんだろう。
わたしは、やっぱり手をさしのべようとしているのだろうか。
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