楽しみな山行き

 みどりちゃんの家は同じ団地内でも、住んでいる棟が北と南に離れているので、どっちかの家に寄って学校に行こうとするとどっちかにとって遠回りになってしまう。なので、みどりちゃんがあんまり朝が得意じゃないってこともあるけど、一年生の二学期からは別々に登校するようになった。一方、部活帰りでは、団地の真ん中にある児童公園まで一緒に帰るのが定番。桜の木の下にあるベンチの砂を払って、少しの間おしゃべりをしてゆくこともある。

 六時を過ぎるとさすがに子供達の姿は少ない。小四くらいの男の子達が二人、黙々と素手でキャッチボールをしている。暗くなりかけているせいで、ときどきフライを取り損ねて、ボールがこっちに転がってくる。軟庭用の黄色いボールを投げ返してあげると、ありがとうございまぁすっ、と元気な声を返してくれる。

「ここが中房温泉ね。登りはじめるのは八時くらいだと思う。合戦小屋までコースタイムで三時間だから、私達だったら二時間半でいける」

「朝の八時って、そんなに早く?」

「午前中に行動が終わるくらいに計画するのがいいの。午後は天気が不安定になりやすいし、なんかあったときにもいいでしょ。足がつった、とか」

 みどりちゃんは、等高線のぎっしりつまった北アルプスの登山地図をベンチの間に広げ、夏休みに計画している泊まりがけの山行きについて熱心に説明してくれる。みどりちゃんのこんな姿を知っている人が学校に他にいるだろうか、と思うと自然に笑みがこぼれてしまう。

「いや、そうじゃなくて、朝の八時にこんなところまで行けるの? 何時に家出ればいいの?」

「夜行電車で行こうと思う。十二時くらいに八王子を出て、朝の五時くらいに松本に着くから、あと夏休みの間はバスもたくさんあるから、八時前には十分行動開始できる」

「夜行って……」

「大丈夫。慣れてるから」

 みどりちゃんは、小さい頃からお父さんといろいろな山に登っている。何日も泊まりがけで登ったこともあるらしい。みどりちゃんのお父さんは、どんな小さな山でも一人で登ることを許してくれないそうだが、二人だったら泊まりがけでも夜行でも、好きな所にいっておいで、というのはそれはそれで放任主義的すぎるような気がする。一方で、うちの両親のみどりちゃんに対する評価はすごぶる高く、すでに泊まりがけのお許しはもらっているのだけど、さすがに夜行と聞いたらびっくりするのではないだろうか。

「心配ならもう一泊してもいいけど。でも、だったら奥穂か槍まで行きたいな」

「それって、すごく険しいところでしょ。お父さんと行けばいいじゃない」

「お父さんとは五月の連休に行った。上高地から入って奥穂高まで」

「ちょっと意外。ゴールデンウィークの上高地なんて、なんかミーハーって感じで」

「それなんか混ざってるかも。雪が三メートルくらいあってピッケルとアイゼンは必須だよ」

 深緑の山々を背景に白いワンピース姿のおねえさんが振り向くイメージが一瞬で崩壊した。

「それって雪山じゃない!」

「雪山はほんと素敵だよ。あの景色はアカネちゃんにも絶対見せてあげたい。アカネちゃんと一緒に雪山に行けるならそれは素敵だけど、ものには手順ってものがあるから」

 わきあがるにやにや笑いをかみ殺すのは幸せなことだ。頬が上気するのが自分でわかるけど、どうせ暗いし大丈夫。みどりちゃんが寄せてくれる友情と信頼には、地道に応えてゆくのだ。

「だから最初は燕にしよう。もともとの計画に沿って説明を続けるね。夕ご飯と朝ご飯は山小屋で食べさせてもらうとして、お昼ご飯は、自分達でお湯をわかしてインスタントラーメンを作ってみようかと思ってるんだけど」

「それいい! 沢の水とか汲んで沸かすんでしょ?」

「一日目の昼食は合戦小屋だから、水場はないの。下から持って行かなきゃならないから、ちょっと重くなるけど、私が持つよ」

「大丈夫、わたしが持つ」

「今回の山行きのリーダは私だから、私の言うことを聞いて」

 みどりちゃんは、はっきり意見は言うけど、それを通そうとしないし、まして自分がリーダになる、などとは決して言わない。だからこうしてリーダ宣言をされると、わたしは嬉しくなる。ちなみにみどりちゃんによれば、パーティの先頭はサブリーダが、しんがりをリーダが務めるということだ。おそらくこれもお父さんに教えてもらったことなのだろう。

 山に行く予定はまだまだ先だ。でも、用意しておかなくてはならないことはたくさんある。その日の会議は、持って行くインスタントラーメンの銘柄を決めたところまでだったけど、みどりちゃんがこんなくだらない議論までつきあってくれるなんて、誰も思わないだろう。みどりちゃんは余計なことをべらべらしゃべらないけど、笑うし、くだらないおしゃべりにもつきあってくれる。でも、多くの子が、みどりちゃんのことを「冷たい女」と思っているのも事実。

「ねえみどりちゃん、社会の時間で、どっちも手を挙げなかったでしょ」

 みどりちゃんの表情は一瞬だけ怪訝そうに固まったけど、一瞬だけだった。

「アカネちゃんもどっちにも挙げなかった。ちょっと意外」

「え」

「アカネちゃんは弱い者の味方なのに。小四のとき、風祭くんが」

「あれは全然違うでしょ」

 よりにもよってみどりちゃんがその話を蒸し返してくるとは思わなかった。わたしが怒り三割甘え七割の声で懇願すると、みどりちゃんは真顔になって、ごめん、と頭を下げたが、すぐにまた、口元に笑みをひらめかせた。

「種田くんもね」

「でも今朝、みどりちゃんは庇ってくれたじゃない」

「まあね」

「それに種田くんが穂積先生に音楽室出て行かされても何も言わなかった」

「種田くんのことでアカネがとやかく言われるのはおかしいって思ったから。でも、種田くんが合奏部に入るのは非現実的だし、入部の可能性もない部活を見学するのはいいことじゃない」

 ぐうの音も出ないとはこのことだ。

「もっとも、アカネちゃんが種田くんを入部させたいっていうなら、邪魔はしない」

「そんなつもりないって」

「協力してもいい」

 とりつく島もないとはこのことだ。

 みどりちゃんの言葉に翻弄されるのは、ジェットコースターに乗っているみたいな感じだ。わたしは目眩をふりきるように首を小さく左右に振ってから、話をもとに戻して、と言った。

「わたしの質問に答えて。なんで、手を挙げなかったの」

「アカネちゃんはどうして挙げなかったの?」

「どっちがいいかわからなかったんだもの」

「同じだよ、私も」

「同じじゃないよ。種田くんのことだって、みどりちゃんは、しっかり意見を持っているのに、わたしはただもやもやしているだけだもの」

「例えば川でお金持ちの人と貧乏な人が溺れていたとするじゃない。アカネちゃんはどっちを助ける?」

 いきなりの質問だった。幸いわたしは泳ぎは得意な方だったからそれほど突拍子もない状況でもない。少しの間だけ考えて、「貧乏な人」と答える。

「どうして」

「お金持ちだったから助けたみたいに言われて、嫌な気分になると思う」

「気持ちはわかるよ。わたしもたぶん貧乏な人を助ける。理由はアカネちゃんと一緒だけど、お金持ちの人は他の人が助けるかもしれないし、って考えると気が楽じゃない? じゃあ」

 みどりちゃんが少し膝を乗り出すみたいにして、指を二本立てた。第二問、ということだろうか。「自分の子供と他人の見ず知らずの子供だったら」

「……やっぱり他人の子供かな。ああ、でもわかんない。子供じゃなくて親だったら、たぶん考える前に親を助けるかも」

「たった一人と一〇人、どっちかを助けることができるって言われたら?」

「……一人の方。一〇人助けようとしたら、たぶん一人も助けられないと思う」

「ね、それも私もアカネちゃんと同じように考える。戦争がずっと続いているような国に生まれたからって、幸せになるのを諦めるのはおかしい。でも、世界中の人がみんな幸せになる方法なんて、私には思いつかない。だからどっちにも手を挙げなかった」

 みどりちゃんが考えていたことは、わたしの考えとは同じじゃない。でも、それを同じだと言ってくれたことが、わたしは嬉しかった。でも、とわたしは食い下がった。

「もし、一〇人を全部助けるだけの力があったとしたら? みどりちゃんが大人になって、世界中の人を幸せにする方法を発明したとしたら?」

 みどりちゃんは、しばらく黙っていた。キャッチボールを止め、家路についた少年達が歌う調子外れの歌が遠くなってゆく。くらがりの中で、みどりちゃんが眼鏡の奥の目を細め、薄い笑いを浮かべるのが見えた。

「もしわたし達が一〇人を助けられるなら、十一人だって助けられると思わない?」

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