歌番組はなかった
「昨日の夜、ちょっとしたニュースがあったよね。分かる人」
五時間目の社会の授業は、北村先生の授業としてはそれほど珍しいことではないけど、教科書も前の時間までの進捗も無視してこんな風に始まった。
「わかりませーん」
豊田隆人くんが手を挙げながら素っ頓狂な声を出す。
「先生は分からないひとじゃなくて分かる人って訊いてるんだけど」
少し教室がわく。北村先生の口調はどちらかというと早口で、乱暴だ。勉強ができるできないと関係なく、ノリ的には優等生とは逆の人が多いウチのクラスとは相性がいいのかもしれない。
「豊田、じゃあお前、昨日の夜、何やってたよ」
「テレビ見てました」
「何のテレビ」
「何のって……」豊田くんが細い首を傾げたが、答えはすぐに出た。「覚えてないす」
「テレビだってそんなダラダラ見てっからダメなんだよ、お前は」
お前はホントにダメなんだよ、と尻馬に乗る声が幾つも上がって、今度はさっきより盛り上がる。
わたしは豊田くんよりたぶん勉強ができるし、どちらかというと優等生だ。しかし、豊田くんみたいに自然に場を盛り上げることは全然できないし、彼は優等生であることにあまり価値を見いだしていない。北村先生がそんな豊田くんを見込んでいるってこともみんな知っている。やじが一段落したところで、豊田くんは大きな声を出した。
「あ、思い出した。おれ、歌番組見ようとしてたんですよ。でも、臨時ニュースとかで中止になって」
「で、何見てたんだよ。ニュース見てたのか?」
「そんなの見るわけないじゃないですか。……何だっけな」
爆笑がわく。その中でみどりちゃんと一瞬だけ目があう。彼女の目は笑っていない。
「豊田はもういいよ。ごくろうさん。臨時ニュースじゃなくて特別報道番組だよ。さすがに一人くらい見た人いるでしょ」
数人の男子が手を挙げた。小学校のころは学校で話をあわせるために歌番組とかも見ていたけど、わたしはテレビはまり見ない。昨夜もラジオを聞きながら夕食の準備をしていた。
「今朝の新聞にも載っていたはずだよ。ソ連がアフガニスタンから撤退を発表したんだ。この意味はわかるか?」
「オリンピック?」
わざと投げやりな感じの声を出したのは、クラスで二番目くらいに勉強のできる佐山くんだ。
「そう。アメリカはソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、モスクワオリンピックをボイコットするって言ってたからな。他の西側の国も、アメリカの様子を窺いながら、どうするか決めかねていたから、選手の人や、オリンピックを楽しみにしているぼくらからすれば良かったよね」
「ソ連はアメリカがオリンピックをボイコットするって言ったからアフガニスタンから撤退したんですか?」
佐山くんは、さっきより少しだけ興味あり気な声で尋ねた。
「昨日のテレビで何て言ってた?」
「見てないです」
天才少年はテレビなんかみないもんな、というヤジが飛ぶが、佐山君は表情を変えない。
「テレビ見てた人、教えてよ」
「アフガンゲリラの抵抗が激しかったって言ってたよな」
「ソ連国内の発電所とか、ダムとかが爆破されたんだろ」
「工場が爆破されて、何百人も死んだっていってなかった?」
「先生、そもそもソ連はなんでアフガニスタンに侵攻したんですか?」
それを訊いたのは豊田くんだ。何をいまさらって思うけど、実はわたしもよくわかっていなかった。やっぱり豊田くんはひとかどの男だ。北村先生は、軽く頷いて、いつもより少しゆっくりとした口調で話しはじめた。
「現在、世界はアメリカを中心とした自由主義の国々、いわゆる西側諸国と、ソ連を中心とした社会主義の国々、東側諸国に別れて対立している。もちろん、ヨーロッパには中立を保っているスイスとか、アジアやアフリカの開発途上国はどっちにも属していない国もある。それは中近東とかでも同じなんだ。中近東ってわかるよね」
「アラビアとか、石油がとれるところでしょ?」
「そう。アフガニスタンはインドに近いけれど、石油をはじめとする天然資源に恵まれている。そして、アフガニスタンの政府はこれまでソ連よりだったが、何度もクーデターが起きていて、内戦状態にあった。それで、去年の九月に何があったか覚えているだろ」
誰も答えない。九月にあったのは小雨の中の水泳大会と、音楽コンクールの予選大会だ。一年生の楽器未経験者で舞台に上がったのはみどりちゃんだけ。そして、一瞬静まり帰った教室で、
「イラン革命」
と、よく透る声を響かせたのは、みどりちゃんだった。
「そうだ」北村先生は満足気に頷いた。
何それって感じでざわめく教室がいかにもしてやった感じがして、わたしはとても誇らしかった。
「アメリカもソ連もこれまでずっとイスラム教徒の勢力をおさえつけていたから、革命が他の国に飛び火するのを怖れた。ソ連もアフガニスタンでイランの二の舞になるのは嫌だったから、軍隊を派遣してイスラム勢力を押さえ込もうとしたんだ」
「それが失敗したのはソ連軍が弱かったからですか?」
「どうだろう。そもそも番組では何て言っていた? 工場の爆弾テロが起きたからソ連軍が撤退したって、本当?」
今度はみんなが勝手に意見を言いはじめた。アメリカの陰謀だとか、第三次世界大戦が始まるとか、核攻撃の前触れとか、そんなことを言う子もいた。
こんなふうに授業でみんなが自発的に意見を言うことはとても少ない。北村先生は、(これが社会科の授業の一部なのだとすれば)それができる数少ない先生の一人だ。でも、教室を見渡すと、そうやって積極的に授業に参加している生徒は半分もいなくて、何人かは完全に興味がないようすで、隣の子とおしゃべりをしたり、居眠りをしたりしている。興味のなさそうなうちの一人、金村さんと一瞬目が合う。金村さんの唇は、どんなリップクリームを塗っているのか、とても鮮やかな赤色で、きらきらしている。わたしは、だいたいの女子と同じように戦争も革命も好きじゃないし、テストに出ないんだったら社会科そのものにも(北村先生には悪いけど)興味はない。アフガニスタン情勢が期末試験に出ることはないだろうから、そもそもわたしが授こんな授業に真剣にとりくむ理由はないし、そう見えるはずがない。金村さんが意味ありげに口元に笑いを浮かべたような気がした。しかし、彼女は、ぷい、と別の方向を、みどりちゃんの方に身体ごと向いたのだ。
「ソ連の社会は、物不足とか、経済の停滞が深刻で、もうアメリカとの対立を続ける余裕がないっていうのが、番組の趣旨だったと思います」
みどりちゃんの、その答えは今度こそ北村先生を満足させたようだ。
「そうなんだよ。もともとはソ連の生活の状況をルポしようっていうことで取材班を派遣していたのが、たまたま特ダネにぶつかったっていう番組だからね。スーパーマーケットの棚が空っぽだとか、アルコール中毒者が街にあふれているとか、そういう話も出ていただろう?」
「先生、だからどうしてソ連とアメリカは仲が悪いんですか?」
豊田くんの素っ頓狂な感じの質問に教室の中では失笑がわいた。北村先生は、一瞬虚を突かれたみたいになったけど、すぐに頷いた。
「それを全部理解するのは大変だと思うが、一番肝心なところだけは覚えておいた方がいいね。東側諸国は社会主義、西側諸国は資本主義の国だと言った。まず、資本主義とは何かを簡単に説明しようか。たとえば豊田、お前はそこそこ体力はあるようだが、一日八時間歩き続きつづけてどこまで行ける?」
「ええと……八王子? 大月くらいまでいけますかね」
「そんなものだろうな。じゃあ、車ならどうだろう。八時間車で高速道路を走ったとするとだ、空いていれば、博多くらいまでいけるかもしれない。つまり、車を持ってる先生は、体力では豊田にかなわないとしても、ずっと簡単に沢山の仕事をできるわけだ。車という生産手段を持っているからだ」
「先生の方が俺より強いでしょ」
「ああ、もちろん。それをいったらお前の親父さんの方が僕より良い車を持っているかもしれないが、今はそういうことを言ってるんじゃない。生産手段、つまりはお金をたくさん持っているほど、お金を集めれば集めるほどお金を稼ぐことができる。そうやってお金をたくさん稼ぐことができれば、自動車の運転手である労働者にも沢山の給料を払うことができる。これが資本主義の考え方だ」
「先生は最初、西側諸国のことを自由主義陣営って言い方しましたよね。資本主義じゃなくて」
佐山くんが素早く尋ねた。
「ああそうだ。資本主義においてはすべてが自由だ。労働者の給料も自由に決められる。どの会社で働くかは労働者の自由だ。同じような商品を作っている会社は自由に価格を決めて自由に競争していい。これって素晴らしいとことだと思うかい?」
教室中が、なんとなくお互いに顔を見合わせる雰囲気になった。だれも、それが素晴らしいことだなんてすぐには言えなかっただろう。わたし達は細かすぎる校則に嫌気がさしている。靴下の色を全員揃えるなんてほんとうにくだらないことだし、こんなダサイ制服なんてなくなってしまえばいいと思っている。でも、もし、明日から本当に校則がなくなってしまったらどうなるだろう。きっと先生達の言う通りに、中学生らしくない、とんでもない格好をした子が出てくるだろう。わたし達の多くは、たぶんわたし自信も含めて、そんなに自由をうまく使えない。
「わかるね。何もかもを自由にしてしまったら、お金持ちはどんどんお金持ちになってゆく。優秀な労働者の給料は上がってゆくかもしれないけど、そうでない労働者は、そもそも仕事にありつけないかもしれない。貧富の差はどんどん大きくなるだろう。
確かに頭のいい人や仕事のできる人が沢山の給料をもらうのは正しことかもしれない。でも、どうしたって生まれつきの差があるじゃないか。先生達はそりゃ立場があるから勉強しろ、努力しろっていうけど、全員がオール5の成績を取れるわけがないよな。それに、障害を持って生まれる人もいる。そういう人は、障害の程度にもよるけど、まず普通の人と同じようには働けないことが多い。それってどうなんだろう。生まれつきが人間の価値を決めてしまうのか? 障害を持つ人は幸せになる権利がないってことになるのかな?」
先生の話は気持ちが悪かった。北村先生は、先生達が普通は言わないことを言っていた。わたしの家はお金持ちじゃないけど、平均にくらべたら恵まれている方だと思う。学校の成績も、どんな学科もすごく得意じゃないかわりに、どれもだいたい普通より良い。それにもっと良い成績をとって、できれば四年制の大学を出てちゃんとした会社に就職したいと思っている。もちろんわたしなんかは努力しないと無理だけど、努力すればなんとかなると思っている。そしてつまり、それはわたしが、努力が得意じゃない人なんているわけない、そんなのは言い訳だと思っていたということ。機会さえあれば誰だって幸せになれる。その機会を与えてくれるのが自由なのだ。そういう考え方はひょっとしたらおかしいのかもしれない。
「自由すぎる社会、なにもかもを競争で決める社会はよくない、と考える人は昔からいた。じゃあ、どうするかっていうと、自由よりも平等が大事だと考えた。働けるひとも働けないひとも、同じように幸せになれる社会を作りたい。土地やお金が一部の人に集中することをやめて、みんなで共有にする。お金もうけのために競争するよりも、お互いの労働力をうまく融通しあうことで、計画的な生産ができ、結局、無駄が減る。これが社会主義が理想とする共産社会の考え方だ。さあ、どうだ。うまくゆくと思わないかい?」
先生の言う社会主義が間違っているとは思えなかった。それを間違っていると言ったら、人の幸せは生まれつきで決まってしまうということになってしまうから。世の中に生まれた以上、誰にでも幸せになる権利があるんじゃなかったの?
「働かなくてもいいってことですか?」
「そうだ。働けない人は働かなくても生活できる社会だ」
「それって、平等じゃなくて、むしろ不公平なんじゃないですか。働かなくていいなら、誰も働かなくなるし、一生懸命働いても働かない人と同じお金しかもらえないなら、不満がたまると思います」
「じゃあ、生まれつきについてはどう思うよ。お金持ちの家に生まれた子と貧乏な家に生まれた子は、不公平じゃないのか? 貧乏な家に生まれたら、したいように勉強もできないかもしれないぞ」
「生まれつきの不公平はなくすべきだと思います」
「ほう。じゃあ佐山、お前が将来、結婚して、仮だぞ、仮に結婚してとして、ほら、笑うな、しかも大金持ちになってだ、自分の子供には一切遺産を残すなっていわれたらどうだ」
「そんなのはおかしいです。自分の子供には楽をさせたいって思うのは当然じゃないですか」
「じゃあ、生まれつきの不公平はなくならないな」
佐山君は、難しい顔をして黙り込んでしまう。他のみんなもすぐには先生の理屈に反論できない。教室を見渡すと、きれいに背筋を伸ばした金村さんの姿が目に入った。金村さんの授業態度は、いつもはあまり熱心ではない。でも今日は真面目に先生の話に耳を傾けているように見えた。ただ、口元は微かに開いていて、薄ら笑いを浮かべている。金村さんの家にはお父さんはいない。クラス名簿の保護者欄には女の人の名前が載っているからだ。それがお母さんでもなくてお祖母さんの名前だという噂を聞いたことがあった。
「自由主義と社会主義ってなんで対立するんですか」
静かになりかけた教室に、みどりちゃんの落ち着いた声が響いた。先生は、どこかわたりに船という感じで、喜々として見えた。
「社会主義は社会全体で幸せになろうとする考え方だからだよ。例えば北園さんの家が農家だとして、お米を作っているとする。でも、田んぼをビニールハウスにしてイチゴを作った方が高いお金で売れるんだったら、イチゴを作ろうと思うだろ? 思うとしようや。でも、それを言いだしたらみんながお米を作るのをやめてしまって、お米が足りなくなるかもしれない。それは社会全体にとって困ることだから、そういう自由は認められない。社会全体で決めた計画通りに作物を作らなくてはならないんだ」
「ソ連は、計画経済がうまくゆかなくなったんですね。昨日の番組で言ってました。やっぱり社会主義は経済政策としては間違いだったんじゃないんですか」
「一概にとも間違いとはいえない。例えば一九三〇年代の世界大恐慌で、社会主義国だったソ連だけが影響を被らず、経済成長を続けることができた。一九七〇年頃までは農業や工業も調子がよかった。経済の失敗は、計画経済というシステムそのものではなく、失敗を活かすことのできない官僚主義にあるという考え方もある」
いつも北村先生のお話には説得力があった。北村先生の考えとか想いとかじゃなくて、事実に基づいて教科書に載っていないようなことや、世界で起きているいろいろなことを分かりやすく淡々と説明してくれるのだ。でも、今日の話は、少し上滑りしているような気がした。テレビを見ていた人達は、ソ連や社会主義の国はもうだめみたいな印象をうけたみたいだし、わたしなんかのそれ以外の人も、先生の言いたいことはテレビの内容とは違っているらしいことがわかった。
「そうだね。じゃ、ちょっとみんなの意見をまとめてみようか。多数決ってわけじゃないけど、手を挙げてくれるかな。重複回答もオッケーとしよう。選択肢その一、優秀な人や努力した人は、その分だけ他の人より豊かになるべきだ、と思う人、手を挙げて」
クラスのほとんどが手を挙げた。みどりちゃんは手を挙げていない。金村さんはめんどくさそうな感じでようやく頭の高さまで手を挙げている。
「じゃあ、その二。貧しい家に生まれたひと、障害があったりして働けないひと、それから運の悪いひとなんかも、他のひとと同じように幸せになるべきだ、と思う人は、手を挙げて。いいんだよ重複回答しても」
この二つの選択肢は矛盾している。それでもクラスの半分を超える人数の手が挙がったが、みどりちゃんも金村さんも挙げていない。先生は満足そうに頷いて、これは難しい問題でどっちが正しいとか言えない、みたいなことを言った。
みどりちゃんは、どっちにも手を挙げなかった。その理由をあとで聞かせてもらおう。手を挙げなかったのはわたしも同じだったが、それは、どっちが正しいのかわからず、答を決められなかったというだけだった。
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