橄欖の魔術師
第11話
――紋章魔術は最も古く、最も高貴で、最も強力な魔術である――
ヘンテリックス・セインティカがイリーニャ派の門戸を叩いたとき、この言葉は僅かに残ったイリーニャ派のプライドを、辛うじて支えている最中だった。
ティティア派が長らく一子相伝の秘術でしかなかった〝呪歌〟の習得体系を確立し、戦場と魔術師の役目を一変させたのが30年ほど前のこと。他派の高弟クラスの魔術師が、呪歌を習得したティティア派の子弟クラスに次々と打ち負かされ、魔術師の約7割がティティア派となったのが、およそ15年ほど前のことだろうか。
そのような状況の中、ヘンテリックスがティティア派ではなく、イリーニャ派を選んだのには――特に理由はない。強いて言うなら、最初に声を掛けてきたのが、イリーニャ派の魔術師だったからだろうか。
イリーニャ派史上最強と言われていたその魔術師は、ヘンテリックスに多くのことを教えてくれた。エーテルの紡ぎ方、紋章の描き方、海の青さ、空の高さ、そして――人を愛するということの素晴らしささえも。
世界のすべてに対して、愛想をつかしていたヘンテリックスが、イリーニャ派に自分の居場所を見つけ、またその場所を守ろうと決意を固めるのに、多くの時間は必要としなかった。そして、ヘンテリックスが正式にイリーニャ派の魔術師として、仕事を始めた翌年、彼に世界の素晴らしさを教えてくれた魔術師は、セパルタクスの反乱で敵に回った無名のティティア派魔術師に殺された。
ヘンテリックスがイリーニャ派に、というよりも紋章魔術に狂信的とも言える熱意をぶつけるようになったのは、その頃からだ。
※※※
「ねえ、ヘンテ、聞いてる?」
「ん……ああ」
ヘンテリックスはその日も、迷宮の柱に刻まれた紋章を前に、思索にふけっていた。手に持った書字版は既に、隙間もないほど無数の紋章が書き写されていた。だがヘンテリックスはまだ手を止めるつもりはなかった。
「ヘンテ、いい加減にしさないよ、もう行くわよ」
いつまでも歩き出そうとしないヘンテリックスに対し、リーリアが声を荒げた。
「分かってるって、もうちょっとだけ」
「さっきからずっとそればっかり、あんたのせいで、今日も全然進まないじゃないの」
第一階層の広場で起こった不幸な事故の決着がつき、ヘンテリックスがリーリアと共に迷宮探索への復帰を許されたのは、ちょうど一週間前のことだった。
無数の炭化した探索者の死体が、シルフの死骸と共に瓦礫の中から発見されたときは、さすがにもう無理かと思ったが、奇妙なことに、唯一の生き残りとなった女魔術師が、リーリアに有利な証言をしたおかげで、狂気に堕ちた殺戮の魔術師から一転、探索者たちの仇を取った英雄として、ギルドからの表象と共に迷宮探索事業への復帰を許されたのだ。
しかし、それですべての問題が解決したわけではなかった。
「進むにしろ止まるにしろ、もう少し端に寄ろう、ここじゃ目立ちすぎる」
ヘンテリックスとリーリアのやり取りを前に、ロドリックが周囲の視線を気にしたのか、苦言を呈した。
「……わかったよ」
ヘンテリックスは書き写す手を止めて、顔を上げた。ちょうど近くを通り過ぎようとした探索者の一団が、こちらを見て眉をひそめていた。
実際のところ、ギルドの発表を真に受けた探索者がどれほど居るのかは、疑義が残るところだった。なぜならリーリアの魔術によって炭化した無数の死体があったことは、紛れもない事実だし、何より探索者に対する彼女の態度は、その事件以降も中々に酷いものだった。こいつなら、探索者ごと妖精種を焼き払うくらいのことやりかねない、そういった空気が彼らの間で流れているのを、ヘンテリックスはことあるごとに感じていた。
「あーあ、せっかくまた迷宮に潜れるようになったのに、あんたいつまで第2階層でぐずぐずするつもり?」
そう、この態度が問題なのだ。しかし、これ以上、書字版に紋章を書き写すスペースがないのも確かだ。ヘンテリックスは書字版を背嚢にしまい込むと、長い裾や袖に付いた埃を払いながら立ち上がった。
「でも本当に、何かが変なんだよ、ここに刻まれた紋章魔術」
「もう分かってるってそれは、だから言ってるじゃん、紋章魔術の解明は、師匠の足取りを掴んだ後でゆっくりやろうって。ほら、とりあえず今は早く先に進も、夜警時までに次の休息所に行かないと」
ヘンテリックスは後ろ髪を引かれる思いで柱廊を後にすると、リーリアと共に歩き始めた。
ティティア派のことも、リーリアのことも、理解に苦しむことばかりだったが、行方不明になった師匠を救いたい。その気持ちだけは、少し理解できそうだった。
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