第86話 ある迷宮探索者 ②
未明、遠く稜線から微かに覗く光を頼りに、おれたちはまだ微睡む街の中を、足早に歩いていた。
「馬車はカピナ門に泊めてある」
おれは深く被ったフードの隙間から囁いた。
「なんでこんな時間に出かけるの? まだ眠いのに」
差し迫った状況だというのに、後ろを歩くアイラは相変わらず飄々とした調子のままだ。
「それで、どこに向かうかは決めてるの?」
一方のニーナは気怠そうな表情を見せていた。しかし、その声色はどこか浮き立って聞こえる。
おれは無言で歩き続けた。こんな美人が二人もおれに人生を捧げてくれるというのなら、大抵のことは我慢できる。贅沢言えば、もうちょっとくらい音量に気を使って欲しかったが、それも口に出さずにおいた。
ギルドレイド以降、パルミニアは混乱の極みにあった。第6層の亡霊によって取りつかれた大勢の探索者によって、第4層の防衛線は突破され、探索ギルド率いる防衛隊は第3層まで撤退せざるを得なくなった。もちろん王宮やキャンプは放棄、パルミニア経済を支えていた柱の一つであった迷宮探索事業が崩壊したことで、地上にも混乱が広がっていた。
おれたちはというと、テリアの策謀によって傷害、殺人、反乱罪などの罪によって起訴され、この一週間ほど、パルミニア市街に潜伏しながら逃げ回っていた。
「結局、あの子は見つからなかったけど、それでよかったの?」
裏路地からサンサック通りに抜けた頃合いで、アイラが言った。
「きっと、どこかで生きてるはずだ。今はそれだけでいい」
警備隊の手を逃れながら、パルミニアに潜伏して一週間。カレンシア発見の報告を待ったが、もうここらが限界だった。日に日に迫ってくる捜索網、そろそろ帝国を離れなければならなかった。
「何とか逃げ切れそうね」
無事カピナ門に辿り着き、近くの厩舎に泊めてあった馬車に、一目散に乗り込んだニーナが、安堵の声を漏らした。
「まだ気を抜くなよ」
おれは餌をやりながら2頭の騾馬を厩舎から引き出すと、御者台に乗り、薄暗いサンサック街道を手綱を振って走らせた。少し暖かくなったとはいえ、御者席に座ると、まだ外套の襟を首まで上げていても、寒さが肌をついた。
「シアはきっと、生きてるよ」
アイラは最初、幌から御者席に身を乗り出そうとしたが、寒さが堪えたのか、体を幌の中に戻し、顔だけをちょろっと出すに落ち着いた。
「あんまりおしゃべりすると、舌噛むぞ」
「大丈夫、それより、急に街を出るだなんて、何かあった?」
「別に、なにもないよ」
「指名手配されたときも、シアが見つかるまで街に潜伏するって言って、わざわざ偽名で新しい部屋まで借りたのに、突然、昨日の夜になって帝国を出るだなんて、絶対なんかあったでしょ」
「考えすぎだ」
「嘘、エーテルの囁き、聞こえた?」
「聞こえてない」
だが、アイラはおれの嘘をすぐに見破るという、特殊な魔術を習得していたようだ。無言で幌の中に引っ込むと、次はニーナを連れて顔を出した。
「え? 何よ、話って」
「ロドリックが、私たちにはっきりさせておきたいことがあるんだって。ね? ロドリック、約束したもんね、無事地上へ戻ったら、ニーナの前ではっきり言うって」
アイラはあのカードを、どうやらこの場で切らせたいらしい。おれに関する重大な秘密を、ずっと黙っていたニーナに対する当てつけのつもりなのか、おれとしては長い旅の間、ずっと険悪な雰囲気の馬車には居たくないんだが。
「約束ってなに? 言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどう?」
だがもう遅かった。既にニーナからは、誤魔化しようのない苛立ちが立ち込めていた。
「いや、大した話じゃないんだ……」
「だったら早く言ってよ」
「つまりだな……」
おれはのらりくらりと交わし続けたまま、目的地まで行けないかと考えてみたが、行先はここから早くても、1ヶ月以上は要する場所だ。どこまで誤魔化せるだろうか……まあ、少なくとも、今日中は答えなくてもよさそうだ。
稜線の間から差す僅かな陽光が、丘に沿って並ぶ休止中の果樹園を彩り始めたころ、おれは手綱を引いて、馬車の速度を落とし、ゆっくりと道の端に止めた。
サンサック街道がラナリア街道と交わる大きな交差点が、もうすぐそこまで迫っていた。
「何の用だ?」
東から生まれたばかりの鋭い朝日が、馬車の前に立ちはだかった男の横顔を差していた。
「個人的にはいくつかありますが、今は一つだけです」
「パルミニアに戻れってか?」
「ええ、話が早くて助かります」
カノキスは右手に何かを握りしめながら、笑みを浮かべた。
ニーナとアイラは申し合わせとおり、幌の中に身を隠し、息を潜めている。
「断ると言ったら?」
「そうですねえ……」
カノキスが周囲のエーテルに干渉し始めた。おれは剣を抜きながら、御者席から飛び降りた。
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