第87話 栄光と苦難
おれは剣を抜きながら、御者席から颯爽と飛び降りた。
大した高さじゃあなかった。何の問題もなく着地したあと、すぐに構えを取るつもりだった。
しかし、自分でも信じられないことに、踏みしめた足が路面の石で滑り、派手に転倒してしまった。もちろん即座に立ち上がり、剣を構えたが、頭を庇って路肩にぶつけた左腕に、鈍い痛みが走った。
「ずいぶん派手に転んでしまいましたね、お怪我はありませんか?」
カノキスは薄ら笑みを浮かべていたが、その場から一歩も動こうとはしなかった。
「なんともない、それよりそんな余裕ぶって大丈夫か? お前がおれに勝てる唯一の機会を逃したんだぞ」
おれの後ろには、既に幌をめくり飛び出してきたアイラが杖を掲げ、水面下でエーテル支配戦をカノキスと繰り広げていた。
「それはどうでしょうか」
勝負はどちらかというとアイラ有利に見えた。おれの存在も含めると、カノキスに勝ち目はないように見える。だが奴は全く表情を崩さなかった。これは、どこかに伏兵が居そうだな。
「アイラ、こいつの魔術は?」
「説明が難しい、でもさっき君が転んだのは、おそらく偶然じゃない」
ジンテグリアのイカサマ師。こいつの手には、いつも二つのサイコロが握られているというが、おれを転ばせた方法が、こいつの使う特殊な魔術に寄るものだとすると、中々に手ごわい相手だ。できることなら追手が現れる前に倒しておきたい。
「ロドリック、ここは私が食い止める、先に行ってて」
しかも、この期に及んで、アイラがまた馬鹿なことを言い始めた。
「そういうのはもういい、追手を気にしているのなら、それこそ二人でやっちまった方が早い。こいつがどんな魔術を持ってるか知らないが、おれたち二人を同時に相手するなんて不可能だ」
「そういう問題じゃない」
アイラはおれの背中にぴったり身を寄せ、耳元で囁いた。
「エーテルの囁きが、まだ聞こえてるでしょ」
アイラの声がエーテルのそれと重なった。
「私の死は、きっと回避できない」
おれの目はカノキスを睨みつけたままだったが、焦点は別のところを映していた。
〝ならざるもの〟から逃げたあとも、地上に出た後も、パルミニアを去ると決めた後も、エーテルは悲劇的な未来を囁き続けていた。そればかりか、その声は日に日に強くなる一方で、おれはその声から少しで遠ざかろうと、馬車を走らせていたのだ。
「追手か、事故か、あるいは病気か、何が行く手を阻むのか分からないけど、私と一緒だと、いずれ運命は貴方の喉元も引き裂く」
背中から、胸を締め付けられるほどの冷気を感じる。これはアイラの決意だ。彼女はどうやっても、ここを動くつもりはないのだろう。
「私のことなら心配いらない、こう見えても、後ろ盾はかなりの大物なんだよ」
「どうしても、ここで決着をつけるつもりか」
「うん、ごめんね、一緒に行けなくて」
「そうか、だがおれは、何もかも諦めたわけじゃないからな」
おれはそう言いながら、カノキスに切先を向けたまま、御者台へと移動した。
「任せてよ、こんな奴すぐにぶっ倒して、必ず追いつくから」
カノキスはおれの離脱を阻止しようとしたのか、右手に握っているであろうサイコロを手の中で動かそうとするも、その瞬間、アイラの放った冷気がカノキスの右手を凍り付かせた。
思わず飛びのくカノキス。おれはその隙に御者台に飛び乗り、手綱を振った。
走り出す馬車。あっという間に遠ざかっていくエーテル。
幌の中に隠れていたニーナが顔を出し、後ろからおれを抱きしめた。
「どこへ行くの?」
「東世界だ」
「ジルダリアには帰らないの?」
「〝俺〟が手紙で、エミリウス・ロドリックの名は重荷だと言っていた。すべてを賭けて何かを成そうとしたそいつの気持ちを、おれは尊重してやりたい」
「そう、私は、何があっても貴方の傍を離れないからね」
「だといいけどな」
目の前にラナリア街道が見えた。まだ遠いと思っていた朝日は、いつの間にか稜線を越え、ともすれば春の心地すら運んできそうな陽気を、カピネウスの丘一面に放っていた。
新たな人生の門出にはもってこいの一日だった。白い朝日は、街道と果樹園の間に揺れるチガヤの葉で飛び跳ね、まだ微かに淡い空の奥に張る、薄雲に溶けていった。
おれは頬にすり寄るニーナの横顔を眺めながら、揺れる御者台の上で、これからの二人を想像してみた。東世界の小さな開拓都市で日銭を稼ぎながら、日干しレンガで作った小さな家で暮らすのだ。天気のいい日は二人で街を散策し、見たこともない花や草に名前を付けて、雨が降ったら台所を這う馬鹿みたいにでかい虫を、ニーナが賑やかな声で出迎えてくれるのだろう。
そのうち子供が出来たら、一度くらいジルダリアに手紙を出してもいい。まだ遺恨が晴れていなかったとしても、きっと愛があれば、おれたちは幸せに生きていけるはずだ。
だからこれから考えるのは、未来の事だけでいい。
幸せなことだけで、いいはずだった。
急に丘から吹いた風の音が、耳のそばを駆け抜けた。2頭の騾馬が嘶き、ニーナが小さな悲鳴を上げる。
「どうしたのよ」
「分からない」
おれは言った。
「どうしたいのか、分からないんだ」
行動とは裏腹に、おれの心はとてつもない後悔と引力によって、過ぎ去ろうとする思い出にしがみついていた。最後の探索の前からずっとやまずにいたエーテルの囁きは、手綱を振う度、嘘のように静かになっていったのに、おれはそれを必ずしも良いことだと思えなくなっていた。まるで破滅の未来を囁くエーテルの声が、アイラの声にならぬ慟哭を、代弁しているかのようにも感じていたのだ。
そしてまだ、おれは彼女の気持ちに応えてない。
「すまない」
おれは手綱を引いた。いや、本当はもう、ずっと前から、引いていたのだ。馬車はとっくに止まっていた。
「なんで謝るの?」
「君の期待にも、俺の期待にも、応えられそうにない」
「馬鹿ね」
ニーナはおれから離れた。
「最初から、期待なんかしてないわ」
振り返ると、世界はがらりと変わって見えた。
長く雨が降っていなかったせいか、チガヤの先端はしなびて枯れかけていたし、美しい陽光だと思っていたものは、朧雲に乱反射した淡い明かりでしかなく、淀んだ曇天の向こうでは、太陽がどこにあるのかすら分からなかった。とてもじゃないが、美しい未来など描けそうにない。
それなのに、おれはこの世界にこそ、愛しさや代え難いものが溢れているような気がしてならなかった。
おれは騾馬を1頭、轅から外し、背に跨った。
おさまりかけていたエーテルの囁きはまた、耳をつんざくほどに耐え難い音を上げ始めていたが、それも今となっては心地よい。
「ここで見てるわ」
「ああ、頼む」
栄光と苦難は、まるで朝と夜のように、あるいは潮の満ち引きのように交互に訪れるとするなら、この先にあるものも、そう悪いことばかりではないはずだ。
――そうだろ? 俺は言った。
「マルスに祈れ」
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