第81話 世界 ①
〝ならざるもの〟は、アイラの魔術を振り払うように身をよじらせ、体の表面に付いた氷を落とした。周囲の氷柱は霧散し、魔術紋章もその力をすべて失った。
アイラが魔術構築において、その塩梅を見誤るとは思えなかった。おそらく魔術発動の瞬間に、氷柱に隠しておいたエーテルに、なんらかの干渉を受けたと考えたほうがいいだろう。
それにしても、ここまで決定打となりうる攻撃を事前に防がれるとは、よもや予知能力も兼ね備えているのではないだろうか。もしそうだとしたら、ここからおれたちに出来ることなんてあるか?
おれは膝に手を当てながら、なんとか立ち上がった。予知能力か、イグが身に着けていた義眼、あれも確か予知能力を持ったアーティファクトだったな。隠世に人が堕ちるとき、アーティファクトはどうなるんだっけな? もしかしたら、まだそこらへんに転がってるかもしれない。おれは装置の周辺に視線を動かそうとして、やっぱりやめた。
奇跡的に見つけられたとしても、今更どうすることもできない……。この状況で眼をくり抜いて義眼を取り付けるわけにもいかないし、そもそもおれにはもう、アーティファクトを起動させるほどの魔力も残ってない。せめてもう少し早く、ここに辿り着けていれば、何かを変えられたかもしれないのに。
諦めたわけではなかったが、体が言うことをきかなかった。かろうじて剣は握ったままだったが、膝は床に付き、もう二度と立ち上がれる気がしなかった。魔力が少なくなると、気持ちまで弱っちまう、嫌な感じだ。
その点あいつらは違った。アイラはカレンシアといくつか言葉を交わしたあと、もう一度大量の氷柱を生成し、〝ならざるもの〟に攻撃を仕掛けた。当然だが傷一つ与えることはできていない。氷柱をぶつける度、周囲には砕けた氷の破片が散らばり続け、その間〝ならざるもの〟は鬱陶しそうに顔を手で覆って唸り声を上げていた。
杖を掲げていたアイラと、〝ならざるもの〟越しに目が合った。ふと、彼女と二人で、初めて第3層の貯水湖の淵を歩いた時の事を思い出した。
――大丈夫、貴方には幸運の美しい女神がついてるんだから。
アイラが口を開いて、何かを言った気がした。なぜか分からないが、とてつもない無力さに、胸が締め付けられる気持ちになった。エーテルの囁きが聞こえる。ここにきて、ずっと聞こえないふりをしてきたツケを、支払う時が来たってことか。
「ロドリックさん! 肩に捕まってください!」
気が付けば、転がった氷の破片の間から、カレンシアが駆け寄ってきていた。
「次は何を企んでるんだ?」
「何も、逃げるんです。まだその余力が残っている間に」
「逃げるのは、おれの得意技だ」
おれはカレンシアに支えられながら、立ち上がった。
そのタイミングを見計らって、アイラが周囲に散った氷をかき集めて、〝ならざるもの〟を包み込む。
「今です、ほら、頑張って! 走ってください」
おれはカレンシアに励まされながら、アイラの立つ方向に走り抜ける。アイラの周囲でものすごい量のエーテルが消費されているのが分かる。こんなペースで魔力を使えば、いくら彼女といえど、そう長くは持たないはずだ。だがもう少しだ、もう少し、アイラ、あと少しで……。
――じゃあね、約束、守れなくてごめんね。
おれは振り返った。
「何言ってんだ! おい、アイラ! 君も一緒に来るんだぞ!」
しかし、アイラは振り返らなかった。
「ロドリックさん、止まらないで!」
カレンシアが、おれの腕を引っ張った。
「仲間を見捨てていくのか!」
「誰かが止めてないと、逃げる時間を、誰かが稼がないといけないんです」
「だったらおれがやる」
「まともに走ることもできないのに?」
カレンシアが、駄々をこねる子供を見るような視線をおれに向けた。彼女の初めて見る表情に、おれはそれ以上何も言えなくなってしまった。
結局こうなってしまうのか、ドマノ港の石碑の前でアイラと話したときも、ベッドの上で彼女の存在を確かめたときも、エーテルはアイラの死を、おれに囁き続けていた。昔、隠世に堕ちかけたときから、時折聞こえるようになったエーテルの声だが、彼らの囁きは、必ずしも避けられない未来を指し示しているわけではなかった。だから、努力や選択によって未来は変えられる。そう思っていた。
だがアイラは分かっていたのかもしれない、逃れられない運命があるということを、そしてここが、自らの終点であるということを、半ば受け入れていたのかもしれない。だとしたら、仮にもし、アイラの死が変えようのない運命として定められたものだとしたら、おれに残された選択はひとつだけだ。
「カレンシア、聞いてくれ」
おれはカレンシアの手を振り払い、その代わり彼女の頬に両手を添わせて真っ直ぐ見つめ合った。
「おれとアイラはここに残る。君は一人で地上へ戻るんだ」
「嫌です。そんなこと絶対にできません」
「ダメだ、君にはやらなければならないことがある」
「貴方を守る以上に大事なことなんてありません」
おれは彼女を黙らせるように、くちづけをした。少しよそよそしい感じの。そして彼女が、おれの背中に手を回す前に、引き離す。
「おれの実家、ジルダリア王国の王都テルム、中央区画のサフィナ広場の近くに屋敷がある。君はそこに行って、おれの叔父のマリウス・エミリウス・ロドリックに、ここで何があったのかを伝えてくれ。そして君こそが、彼の愛したシア・エミリアだと名乗るんだ。なんせ、君が本当に会うべきロドリックは、もしかしたら、彼のほうだったかもしれないのだから」
「どういう意味ですか?」
「行けばわかる。そして、願わくば、あれに勝てるくらいの助っ人を連れてきて、またここに戻ってきてくれると助かるよ。今回、あの装置で人を生き返らせることはできなかったが、もしかしたら使用条件を間違っているだけかもしれない。君がこれからうまく立ち回れば、おれやアイラを生き返らせることだって可能だろ?」
おれはカレンシアの頭を撫でた。
「だからここで、お別れなんて顔、しないでくれ」
カレンシアが何か言いだす前に、おれはカレンシアの両肩を掴んで回れ右させると、背中を押した。
「頼んだぞ、おれの未来は君に託した」
そして、そのままアイラの方に向き直り、おれも二度と振り返らないことにした。
背中で言葉にならない慟哭を受け止め、懇願を振り払い、おれはゆっくりとアイラのほうへ歩みを進めた。カレンシアはきっと好奇心に勝てない、おれと心中するよりも、もう一人のロドリックへ会いに行くことを選ぶだろう。そこは心配いらない。
今はそんなことより、最後に気の利いた言葉で彼女を口説く方法を考えなければならなかった。
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