第80話 隠世の淵 ⑤
〝ならざるもの〟が、巨大な腕を振り下ろすタイミングを見計らい、おれは氷柱間を移動した。今のところばれていないはずだが、かといってあまり慎重になりすぎるのもいかがなものだろうか。というのも、ひときわ大きな鳴動に振り返ったとき、アイラの氷壁が破壊されたのが目に入ったからだ。
幸いにも氷壁の崩壊と同時に、カレンシアの第一城壁が間に合ったようだが、それもそう長くは持たないだろう。ただ、気を引くという点において、彼女らの仕事は完璧だった。いつまでもしぶとく攻撃を防ぎ続ける彼女らに対し、〝ならざるもの〟はいっそう頑なに、両腕を振り下ろし続けた。おかげでおれは、辺り一面にばらまかれた氷柱の死角も相まって、すんなりと〝ならざるもの〟の背後に回ることができた。
おれは奴の斜め後ろ、ちょうどあの装置の隣に突き立った氷柱の陰に隠れて、ゆっくりと少しずつエーテルを集めた。
一気に大量のエーテルを手元に集約させれば、周囲のエーテルに不自然な流れを生んでしまう。〝ならざるもの〟に気取られないためにも慎重に、少しずつ、エーテルを集める必要があった。幸いにも、装剣技発動のためのエーテル量自体はそう多くない。近づかなければならないというリスクはあるが、装剣技を二重装まで引き上げさえしなければ、視覚的に気づかれる心配はないはずだ。
おれは靴を脱ぎ、〝ならざるもの〟の背後からそうっと近づいた。床は思った以上に冷たく、そして滑らかだった。奴はまだカレンシアたちを攻撃し続けている。なんだかあっけなさすぎないか?
おれは背後から〝ならざるもの〟の腰辺りに剣を突き立て、それから一文字に引き裂いた。
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おれは靴を脱ぎ、〝ならざるもの〟の背後からそうっと近づいた。床は想像以上に冷たく、そして滑らかだった。
自分がうつ伏せに倒れているのだと気付いたのは、その冷たさのおかげかもしれない。
いつのまに……いったいなぜ、おれは倒れている?
腕にあまり力が入らなかった。その場で転がり仰向けになると、腰に下げていたメロウの涙を確認する。
輝きはほとんど消えかかっていた。魔力の残量は装剣技一発分にも到底及ばない、当然おれの体内にも、装剣技を発動させるほどの魔力は残っていなかった。どうしてこうなるまで気づかなかった? いや、違う。たった今、魔力を奪われたのか。だとすると、どうやっておれの魔術を感知した? 気づいていたとは考え難い。
〝ならざるもの〟が腕を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。おれが攻撃しようと思っていた腰あたりを手でさすりながら、してやったりというような顔で、おれの姿を見て取った。真っ赤な口が大きく開く。笑ってるつもりか? 馬鹿にしやがって、だがお前は何もわかっちゃいない。おれもまた〝囮〟に過ぎないんだよ。
「
その時、奴が見せた隙をつくように、アイラが秘密裡に構築していた魔術を展開させた。アイラを氷の魔女たらしめるきっかけとなった大魔術、その魔術によって凍り付いた町の名を取ってつけた〝アルビオン〟という詠唱と共に、点在していた氷柱たちが共鳴し始めた。
イリーニャ派の魔術は分からない、などと、よく言ったものだ。
〝ならざるもの〟の周囲に無造作に刺さっているように見えた氷柱は、それ自体が一種の魔術紋章としての役割を担っていたのだろう。アイラの合図を引き金に、点在してた氷柱に潜んでいたエーテルは、お互いを結びつけるように連なり合い、ほんの一瞬で巨大な魔術紋章となった。そして、発動した瞬間〝ならざるもの〟に霜を降らせた。
奴の体は瞬く間に体内の水分が凍り付き、瞳が濁り、唇が割れ、手首や指先はぱりっと高い音を立てて砕け落ちた。勝負は一瞬、氷の彫像の完成だった。
それでも油断ならないアイラは、念のため近くの氷柱を一つ操作して、〝ならざるもの〟の体にぶつけた。
既に凍り付いていた奴の体は、ちょっとした衝撃で粉々に砕け、凍った肉片が床一面に散らばった。
「私の魔術が威力不足だなんて、失礼しちゃうわ」
アイラはふぅっと汗を拭った。おれの言葉をしっかり根に持っていたのか、当てつけのように得意気な視線を向けるのも忘れずに。
「さすが、氷の魔女の異名は伊達じゃないな。しかし、呪歌ではなく、魔術紋章を用いた大魔術の構築なんて、君の所属するティティア派が知ったら発狂するぞ」
「でもそのおかげで、あいつの魔術感知を誤魔化せた。それに、ティティア派の高弟がイリーニャ派の魔術を使ったなんて、誰が信じるっていうの?」
「そうだな」
おれは苦笑いした。いつだって女はしたたかで、勝つための手段を選ばないってことをすっかり忘れていた。おれは振り返った。
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「
アイラが秘密裡に構築していた魔術を展開させた。
〝ならざるもの〟の周囲に無造作に刺さっているように見えた氷柱は、それ自体が一種の魔術紋章としての役割を担っていたのだろう。アイラの合図を引き金に、点在してた氷柱に潜んでいたエーテルは、お互いを結びつけるように連なり合い、ほんの一瞬で巨大な魔術紋章となった。
だが、どう見繕っても、圧倒的に出力が足りていなかった。
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