第76話 隠世の淵 ①

「ようやく起きたか」


 立ち上がったのはもちろんイグだった。だが様子がおかしい。ぶつぶつと何かを呟きながら、一歩、また一歩と、非常に鈍い速度でおれたちの方向へ歩いてくる。


「ねえ、これってもしかして……」


 いち早く嫌な予兆を感じ取ったアイラが、おれたちから離れるように後ずさる。


「まさか、このタイミングかよ」


 おれもアイラに倣い、連携可能で、なおかつお互いの攻撃が巻き込まれない程度に距離を取ろうと位置を変える。


「なんか、変なエーテルが、イグさんから……」


 おれに引っ付いてきたカレンシアが、裾を掴んだ。


 おれの視線が逸れた一瞬の隙をついて、イグが義手をアイラに向かって掲げた。アイラとの距離はまだ十分にあったが、次の瞬間、アイラの自動障壁が発動した。イグの義手から何かが勢いよく飛び出したのは、ほぼ同時だった。大きな衝撃音と共に、アイラを囲む分厚い氷が辺りに飛散した。


「アイラ!」


 おれはカレンシアをかばい立つように剣を構えた。


「大丈夫! 防いだ!」


 氷の中から、アイラの声が聞こえた。


 安心もつかの間、イグは野獣のような声で「閣下、閣下」と叫びながら、おれたちの脇を走って通り抜けようとする。


 おれは剣を振りかぶったが、カレンシアが袖を引いたままだったため、バランスを崩しかけた。しかし、これはある意味幸運だったのかもしれない。もしおれが剣を振り抜いていたら、一緒に堕ちていたかもしれないのだ。


隠世かくりよに堕ちるぞ!」


 エーテルの囁きが聞こえた。おれは崩れかけた氷の隙間から、こちらを覗くアイラに向かって、すぐ離れるよう叫びながら、自らもカレンシアの手を引いて、入口である棺に向かって走った。


 魔術に携わる者が隠世に堕ちることは、ままある、とまでは行かないが、ないことではない。一人で堕ちる分には構わない。悲しむ者はどこかにいるかもしれないが、それでも最悪、可能性によっては尊いかもしれない命が一つ失われるだけだ。

 問題は特殊なケースというか状況において、隠世に堕ちた場合、極々稀に、人が堕ちる際の穴から、向こう側の住人が出てくることにある。


 イグは狂乱状態のまま、装置に向かって頭から突っ込んだ。


 周囲のエーテルが一点に収束し、とうとう隠世への穴が開いた。もちろん物理的な穴ではない、概念的なものだ。派手な演出もなければ、ドラマもない。イグが隠世に堕ちる詳細な理由は分からないが、おそらくはすべてが限界に達してなお、エーテルを掴もうと焦るその心が、彼に越えてはならない線を踏ませたのだ。


 とにかく、イグは孤独に穴に堕ち、普通であれば穴が閉じて、それで終わりだ。現世には何の影響もない――。


 ないはずだった。イグが現世から消えた瞬間、装置が動き出した。イグが堕ちた時に開けた穴は、閉じようとしているが……まだ閉じていない。その穴から何かが這い出て、装置を介して現世に顕現しようとしているのが分かった。


「ならざるもの……」


「おい、逃げるぞ!」


 こうなってしまったらどうしようもない。おれは振り返って棺を見た。先ほどまで開いていた棺は、なぜが閉まっている。それだけじゃない、近くに横たわっていたヴンダールの死体が、見当たらなかった。


「アイラ! いいから、早くこっちにこい!」


 それでもおれは、カレンシアを連れて棺に向かって走った。


 しかし、アイラは付いてこないどころか、その場で杖を床に突き立て、詠唱を始めた。


「何やってんだ! 早く逃げないと、間に合わないぞ!」


 おれは怒鳴った。怒鳴ってから、ある事実に気づいてしまった。仮に棺を開けたとして、どうやって3人同時に逃げる? 棺は一人ずつしか乗れないんだ。誰かが残って、時間を稼がなければ……。


 アイラは振り返らなかった。コツン、と杖を床に打ち、分厚く巨大な氷の壁で、装置と、そこから這い出てくる〝ならざるもの〟ごと氷で閉ざしても、振り返ることはなかった。

 きっと離れ難くなってしまうからだ。おれだって、彼女の顔を一目見れば、同じ気持ちになる……いや、見なくても同じだ。


「カレンシア……すまない。おれは、やっぱり行けない」


 おれはカレンシアの手を離した。アイラがどんな顔であそこに立っているか、見なくても分かる。ベッドで横に並んだとき、ふと見せた、悲しそうに目を細めるあの顔が、思い浮かんで、どうにも愛しく感じてしまう。


「行っちゃだめです」


 カレンシアはおれの手を強く握り直し、かぶりを振った。


「今なら二人で逃げれます。残っても、絶対に生き残れません」


 氷の壁越しに、〝ならざるもの〟その異様さを視界の端に捉えたのか、カレンシアはごくりと唾を飲み込んだ。


 そりゃそうだろう。隠世の穴からこちらにやってきたということは、いってみりゃ神々の一柱ってことだ。人によっては実際に〝ならざるもの〟のことを魔神といったりするくらいには恐れられている。被害の程は時代によってまちまちのようだが、200年前の災害では、都市一つが滅んだと記録に残っている。同じくらいの化物が出てきたのだとしたら、おれひとり加わったところでどうにもならない。


 だが、問題はそこじゃない。


「悪いな、そう言われると余計に挑戦したくなる性なんだ」


 問題は、抱いた女をむざむざ見捨てられるほど、おれは出来た男じゃないってことだ。相手から大事なものを貰ってしまったのなら、なおさらのこと。


 おれはカレンシアの手を優しく引き剥がすと、なんとか誤魔化せるだけの笑顔を作った。


「それに、おれもアイラも、何の用意もなく、ここまで来たわけじゃない」


 おれは身をひるがえすと、剣を抜き、アイラの傍に駆け寄った。


 氷の壁はまだ砕かれていない。だが、至る所から湯気を出し、今にも溶けて崩れるところだった。


「よう、ドライアドのときみたいに、自分だけ良いとこ取りするつもりか?」


「うるさい、さっさと逃げて」


 アイラは額に脂汗を浮かべ、歯を食いしばり、それと同じくらいの強さで、杖を握りしめていた。


「アイラ、合図で壁を解除しろ、出てきたところをおれが斬る」


 おれは印を結び、装剣技の準備をした。この時のために、メロウの涙には出来る限りの魔力を貯めておいた。アイラはかなり迷っていたようだが、どのみち長くは持たないと悟ると、僅かに頷き、杖を掲げた。


「3から始める、マルスに祈れ」


 これはおれたちが死地に足を踏み入れるときの、ルーチンワークみたいなもんだ。始めたのはアイラ、君だ。なら最後も、君にささげよう。この言葉を。

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