第71話 ヴンダール迷宮 最下層 ②
初めに連想したのは夜の湖だ。冬の、静かで、透き通るような星空を映す、アルヴニアの湖畔。
ここには周囲に妖精の森も無ければ、遠く聳える山もない。それどころか星空でもなければ湖ですらないが、ある意味本物よりずっと美しい光景が広がっていた。かつて自分がこの場所に足を踏み入れたことなど、何の関係もないかの如く、新鮮で神秘的な感動が心を掴んでいた。
おれは棺を出ると、辺り一面に広がる満天を模したかのような、光の渦を掻き分けながら進んだ。小さな光の粒は、まるで霧のようにどこまでも立ち込めており、それを水面のように美しく磨き上げられた、御影石に似た床が反射させていた。周囲は真っ黒だったが、暗闇ではなかったし、立ち込めるほどの光の粒が輝いていたが、明るくもなかった。
「ここ、すごいね」
同じように星に囲まれていたアイラが、おれの姿に気づいて声を上げた。音一つない静かな場所だったが、彼女の声も足音も、どこかに反響した感じはしない。
「エーテルが……溢れてるのに、ほとんど流れを作ってない。まるで、世界のどこからも切り離されてしまった場所みたい」
「ああ、おれでも分かるよ、なんだか不思議な感覚だ」
「記憶の中の第7層と同じ?」
「概ねは……でも、あれに関しては見覚えがない」
おれはアイラの後ろに鎮座している物体を指して言った。
辺り一面に広がる星の海の中で、寂しげにうずくまるそれは、以前、第5層で見た、ゴーレムを作り出していた装置に少し似ていた。しかし、第7層にそれがあったという記憶は、おれにはない。
「来たとたん、イグが真っ先に駆け寄っていったよ」
アイラが、食い入るように装置を調べてまわるイグを指して言った。
「さっきまで死にかけだったのに、まるで息を吹き返したみたい。それとも、燃え尽きる前の蝋燭みたいな感じかな?」
「何か成果は?」
「特には」
そうか……おれは棺を振り返った。カレンシアはまだだったが、直にやってくるだろう。それよりも、今はこの装置だ。
「イグ、不用意に触らないほうがいい」
おれは小走りで装置に駆け寄りながら言った。しかし、イグはおれのことなど気にもかけず、手に持った書字板と装置を交互に眺めながら、折に指でなぞり、口をゆがめた。
「聞いてるのか?」
おれはイグの肩を掴んだ。ぞっとするほど生暖かく、羽織ったマント越しでも分かるほど湿っていた。おれは思わず手を離した。
「間違いない! 推察どおりでした! やはり閣下は間違ってなどいなかった!」
イグは振り返る勢いのまま、おれの服を掴んだ。片目からは大粒の涙が流れ落ち、開いたままの口から糸が引いていた。正気とは思えないその瞳の輝きに、おれは手を振りほどき、後ずさった。
「随分元気になったな、この装置のこと、何か知ってるのか?」
「覚えてないとはいえ、これを見れば、貴方だってもう感づいておられるでしょうに」
イグは喉を震わせるように大袈裟に笑うと、装置に向き直った。大きさは中流階級の人間が、パルミニア新市街の端に、生涯を賭けて建てる一般的な一戸建てと同じくらいのサイズだ。ところどころに小さな突起と未開の文字が記されており、装置のちょうど中央辺りには、人ひとり分が入れそうなほど巨大で、信じられないほど精巧なガラス容器のような物体が確認できた。それ以外の大まかな造りは、第5層の隠し部屋にあった、ゴーレムを作り出していた装置と酷似していた。
「まさかとは思うが、この装置がお前の持論を裏付ける物だって言いたいのか?」
「むしろここまで歩みを進めて、まだこの迷宮の存在意義に気づかないのですか? それとも、いつものように気づいていない振りをして、何もかもを忘れたことにして、現実から目を反らそうということですか」
「おれがこの装置で、シアを蘇らせたと言いたいんだろ? お前の御託に、おれが耳を傾けると思ったか?」
「貴方も心のどこかで信じていたからこそ、ここまで付いてきたのでしょうが。違うというのなら、ダルムントのことは諦めがついたのですか? 都合のいいことばかり信じているくせに、それが暗示する真実には見向きもしない。貴方がなぜここまでたどり着けたのか、不思議でなりません」
背を向けていたイグが、顔を傾け、おれを睨みつけた。
その瞳からは、もう涙ではなく血が流れていた。瞳孔がくすんだ赤色に染まっている。止めろ! おれは叫んだ。やっちまった、話に夢中で気づかなかった。イグは既に、魔術を発動させようとしていた。
「だが何もかもどうでもいい。私は私の願いを叶えるまでです」
イグはそう言い放つと、おれの制止を振り切り、装置の一部に義手を当てた。
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