第52話 帰路 ⑦
沈む夕日を追って馬車を走らせた甲斐があった。
小高い丘の上から見下ろした、海に向かって沈む夕日が、斜面に沿って立ち並ぶドマノの街並みを、朱色で染め上げようとする最中だった。
「すごく綺麗……ここから街が、一望できるのね」
帝国属州の中でも指折りの美しさを誇るドマノの街並みに、不貞腐れていたニーナですら、いつのまにキャビンから身を乗り出し、景色に見とれていた。
「これから毎日楽しめますよ。何といっても、テリア様の別荘は、この街で2番目に高い場所にありますからね」
イグの指先は丘の頂上、街道から少し離れたところに聳える、豪奢な邸宅群の一画を指していた。
「1番じゃないんですか?」
カレンシアの疑問に、イグは不敬です、とだけ述べた。要するに、最も豪奢で高い場所にある邸宅は、常に皇帝の物でなければならないということだ。ジルダリアのドケチで貧乏な国王とは大違いだな。
「さあ、ご婦人方も馬車を降りて、別荘へ向かいましょう。既に晩餐の準備は出来ております」
先んじて荷馬車を降り、荷物と共に別荘での歓待の準備に奔走していた奴隷たちが、あらかたの用意を終えたのか、邸宅正門でおれたちの来邸を待っていた。石灰で塗り固められた純白の壁が、3段にも聳える大邸宅だ。前庭の広さは控えめだが、そのおかげで、おそらくは水仙だろうか、上品な香油の香りが正門前まで漂っている。香りに誘われるように、邸宅の中に入ったが最後、その日の晩餐は明け方近くまで続いた。
パルミニアでは中々食う機会のない魚料理がふんだんに振舞われ、歌や踊りを肴に、異国の酒を楽しんだ。その中でも、おれを最も感嘆させたのは風呂だった。
同時に10人は入れそうなほど広い風呂が、まさかの邸宅の屋上、海と街を一望できるバルコニーにあったのだ。
「あの星は古い魔術師が作った星なんだよ」
アイラが湯舟に浸りながら、満天の中で控えめに咲くひとつの星を指して呟いた。
「おれの国ではレビ神の息子がひり出した糞だって言い伝えられてる」
「冒涜だね、許さないよ」
「おお、怖い、女魔術師の恨みは女神の嫉妬に匹敵するらしいからな」
おれは火照った体を冷まそうと、上半身を湯舟から乗り出し、風を感じながら言った。冷たい冬の潮風と、熱めに沸かした湯が、酔った体に心地良く染みわたってゆく。
「それにしても、まさか邸宅の屋上に浴場があるなんてね。しかもここから見下ろす景色、まるで夜空が地面にもあるみたいだよ」
アイラはおれの隣まで漂うように泳いでくると、湯舟の淵に肘をつき、薄く開けた瞳で海辺を揺れる篝火を眺めた。
「北方の温泉地を参考にしたんだとさ」
おれはつい先ほど教わった知識を、あたかも自分で見てきたかのように披露した。アクレイアを超えた先、山の麓にある美しい温泉都市の話だった。そのことをおれに教えてくれた男は、つい先ほど垢すり器を持った若い男の奴隷と寝室へ消えていった。
「そっちもいつか行ってみたいな」
「君さえ望めば、いつでも行けるだろう」
「ロドリックと一緒に行きたいってことだよ」
おれはアイラを見た。ニーナほどではないが瘦せ型の、透き通るような白い肌に水滴が吸いついていた。
「なんか恥ずかしいね」
アイラはおれの視線に気づくと、照れながら湯に深く浸かって胸部を隠した。
「綺麗だ」
「はいはい、ありがとう」
心地よい沈黙の間を、水の音だけが流れる。
「するの? したいなら、ここでもいいよ」
アイラが消え入りそうな声で言った。
「いや、もう少し、雰囲気を作ってからにしよう」
「雰囲気って、それ貴方が言う?」
おれの生娘のような発言に、アイラが思わず笑みをこぼした。今頃カレンシアもニーナも、酒に酔ってベッドで寝息を立てている頃だ、語り合う時間なら十分にある。
おれはアイラと二人、もう一度、街を見下ろした。
「まるで国王にでもなった気分だ」
「そうね、高い場所は、いつだって偉い男のものだもんね」
浴場はドマノ港を一望できる丘の上、3階建ての邸宅の屋上だ。浴槽の淵に身を乗り出して、眼下を見渡せば、まるで遥か空の彼方に自分が浮いているような錯覚すら覚えた。
「あれ、見えるか?」
おれは丘の中腹辺りに見える、小さな篝火を抱えた石碑を指さした。
「真っ暗で、何も見えないよ」
「エーテルを辿るといい、僅かに集まっている場所がある」
そお? アイラの瞳が赤くなる。
「あー分かったかも、あそこね。それで?」
「古い神を奉った石碑があるらしい、この街が、まだほんの集落だったころからのものだと」
「そうなの、なんて神?」
「名前は忘れた。ただ、面白いのが、どうもその神は、石碑を通じて人間にお告げを行うらしい」
「まあ、じゃあ今夜あたり、人気のないタイミングを見計らって、神官頭が文字を書きにでも来るのかしら」
「その可能性もある。だが……」
おれも拙い魔力でエーテルを追った。
「エーテルが集まってる。もしかすると本物って線もあるぞ」
「ロドリックにしては、かなりロマンティックな解釈だね。それはそれで悪くないと思うよ」
アイラの口ぶりからは、神の存在は感じられなかった。おそらく彼女はエーテルが石碑に集まっているのは、市長か神官長が魔術的な仕掛けを施して、人々を扇動しているに過ぎないと思っているのだろう。
「石碑に奉られているのが、実はカエデクレイだったらどうする?」
カエデクレイは魔術師の神だ。アイラが信仰を捧げる神でもある。
「だとしたらあの石碑に神は宿ってないことになるわ。貴方には見えてないから、信じられないかもしれないけど、カエデクレイはまだこの現世に実在する神なんだよ」
「まさか、今も君の隣に居て、変な虫が近寄らないようにしてるとか?」
アイラは困ったような笑みを浮かべ、首を横に振った。
「ここには居ない。彼女はずっと何かを探して、放浪してるの。私たちのことだって、たぶん見えてない」
アイラは静かにそう呟くと、はい、もうこの話は終わり、と手を叩いて、また石碑に目をやった。
「明日、お告げを確かめに、一緒に行ってみよっか?」
「いや、それには及ばない」
「そう? 楽しそうだと思ったんだけどな」
おれたちはその後も、街の明かりや星空を眺めて、他愛もない会話を繰り返した。
おれは夜が深まっても、結局アイラに触れることはできなかった。触れてしまえば、何らかの責任が発生するような気がしたし、それを全うできるような男であり続ける自信もなかった。
この迷いはおそらく、アイラにも見透かされているのだろう。だが彼女はそれに関して何も言わなかった。
風呂を出た後、少しだけ昔話に花を咲かせ、そのときにもう一度だけベッドに誘われたくらいだ。おれが断っても、その理由を尋ねはしなかった。
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