第50話 帰路 ⑤

 馬車は念入りに手入れされた車輪のおかげで、おれの想定を超えてどんどん速度を増していった。後方から聞こえる叫び声が、不安になるくらい一瞬で遠くなっていく。


「どういうつもり? 大丈夫なの?」


 車輪が上げる悲鳴を縫って、キャビンからアイラの声が聞こえた。


「問題ない!」


 おれは馬をなだめた。しかし、何を勘違いしたか、馬たちはよだれを垂らし、更に速度を上げようとした。


「ちょっと!」


「問題ないって言ってんだろ! 今集中してんだ、黙ってろ!」


 おれはとりあえず馬車のコントロールに専念することにした。パルミニア市街では、日中の馬車の乗り入れに制限がある。主に速度制限だ。基本は並足、大通りですら速足が限度だ。つまり今の状態は、大幅な速度違反ということになる。


 一瞬、車輪が路肩に乗り上げた。歩道に置いてあった駕籠が吹き飛んで、辺りに野菜が飛び散った。道行く通行人が、そろって何やら抗議の声を上げ、暴走馬車から少しでも距離を取ろうと身をひるがえす。


「そこ! 横断歩道よ!」


 アイラがいつの間にか、革張りの天幕の端っこを外し、御者台に身を乗り出していた。


「危ないぞ、ちゃんと捕まってろ」


 パルミニアの横断歩道は、車道に歩行用の飛び石が設置されており、馬車は飛び石の隙間に車輪を通して進まなければならない。万が一にもこの速度で飛び石に乗り上げたら……どうなるか考えたくもない。


「どけこのクソガキども! 死にたいのか!」


 おれは横断歩道を渡ろうとする子供たちを、口汚く罵りながら、手綱を強く握りしめた。アイラがせめてもの保険にと、魔術で飛び石の段差部分に氷を張った。馬をできるだけ車道の中央に寄せて、身を低くして、あとは祈るだけだ。


 馬が飛び石を超え――続く前輪が横断歩道を無事通過し――後輪が飛び石の側面で擦れ――悲鳴を上げながらも、なんとか通過できたことを確認し、おれは息を吐いた。


「なんで速度落とさないの?」


 災難を超え、アイラがまた身を乗り出した。


「言うこと聞かないんだよ!」


 おれは大袈裟に手綱を引くが、馬は何の遠慮もなく走り続ける一方だ。


「馬の体温を下げるわ」


 あまり気が進まないけど、とアイラが杖をかざす。すると馬の汗が、みるみるうちに冷気を帯び始めた。ほんの少しずつだが、馬も冷静さを取り戻し、速度を落としたような気がした。


 いや、気のせいだった。


 文句のひとつでも言おうかと思ったが、アイラは、何事もなかったかのようにキャビンに戻っていった。


「ロドリック!」


 馬に跨ったイグが追いついたのも、その頃だった。馬車はもう城壁を抜け、カッシウス浴場へ続くアーリオ丘へ差し掛かろうとしていた。


「この馬どうなってんだ、止まらないぞ!」


 おれが手綱を引きながら抗議すると、イグは何かを悟ったかのようにため息をつき、自らが乗っている馬を、馬車の前方に割り込ませた。

 イグが徐々に速度を下げていくと、それにつられて馬車を引いている馬たちも、ようやく速度を落とし始めた。丘の上り坂も相まって、数百メートルほどで、馬車は並足ほどの速度になった。


「このまま、後ろが追いつくまで待ちましょう」


「わかった。それにしてもこの馬ども、おれの言うこと聞きやしない」


「同じですね、キャビンの方々と」


「まさか、全部牝馬か?」


「さあ、どうでしょう」


 イグは微かに頬を引き攣らせた。おそらく笑おうとしたのだろう、おれもそれに応えるように肩をすくめてやった。


「今度は優しく、扱ってやってください」


 おれはイグのアドバイスに従い、慎重に手綱を握って馬車を進めた。

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