第36話 ヴンダール迷宮 第6層 二日目 ②

 リンタキスの呪歌が唐突に終わりを迎えたのは、エーテル時計が正午を指し示そうかという時だった。


「待たせたな……これで、安全に進めるはずだ」


 服に着いた埃を払いながら立ち上がり、少し疲れた様子でこちらを振り返るリンタキス。


「展開型の呪歌なんだ、珍しいね、下準備に時間を必要とする分、効果も絶大なのかな?」


「そうでもないさ」


 アイラからの質問に、リンタキスは気まずそうな表情で短く呟くと、灰に還った香を足で払い、荷を背負い直し、一呼吸置いたあと、意を決して続けた。


「まあ、今更隠しても無駄だろうから、簡単に説明だけする。この扉の向こうにはあんたらの想像どおり、俺の呪歌が広がっているが、中に入る際の注意事項が三つある。ひとつは先頭を歩くのは必ず俺でなければならないということ、そして全員が縦一列に手を繋いだままそれに続くこと。ふたつめは使用した魔術はすべて煙として呪歌内に取り込まれるため、実質的に魔術が無力化されてしまうこと。そんでもって、最後の一つは……」


 リンタキスがそこで言い淀み、眉をひそめた。


「何が見えても、絶対に声を上げるなよ……」


「わかっ――」


「もしそのルールを破ったらどうなるの?」


 おれの返事を遮って、アイラがしつこく探りを入れる。


「呪歌が解除される。そうなればあの奇妙な奴らに襲われて、俺たちは一巻の終わりだ」


「逆に言えば、呪歌が解除されない限り、私たちは誰の攻撃も受けないってことでいいの?」


「そんなところだ。だがさっき言った注意事項は絶対に守ってくれ」


 リンタキスの言葉のすべてが真実というわけではないだろう。だがこの呪歌が非常に複雑かつ特異な条件の元、運用されるものであるということは想像に難くない。要するに実戦向きではないということだ。これほどの魔術を持ち、ティティア派の奥義まで習得しながらほぼ無名だったのもそれが理由だろう。


「呪歌の効果時間は夏季の帝国不定時法で約2時間だ。時間が惜しい、行くぞ」


 アイラはまだ何か尋ねたいようだったが、リンタキスは躊躇なく扉を開け放つと、手を差し出しながら煙の中に体を半分入れた。


「お先にどうぞ」


 おれはアイラに背中を押されるがまま、リンタキスの手を取った。そしておれが出した手を、アイラを押しのけて割り込んできたカレンシアが握った。


「アイラさん、行きましょう?」


 カレンシアの手をアイラが肩をすくめながら取る。その後をイグ、スピレウスと続き第6層に足を踏み入れる。


 一寸先すら見えない、霧の中だ。おれは記憶の中の第6層を頼りに、リンタキスの足を蹴ったり、手を引いたりして方向を示す。昨日まであれだけうようよしていた亡霊のような敵に襲われずに済むのは良かったが、代償に歩けば歩くほど方向感覚が分からなくなり、正しく前へ進めているのか自信がなくなってくる。リンタキスはどうなのだろう、自らの呪歌に慣れているとは言え、こいつ自身は第6層の全景を見たことがないはずだ。いったい何を道しるべに進んでいる?


 ふと、おれは子供のころの記憶を思い出した。遠い昔の思い出だった。まだ学園に入る前、叔父のマリウスに連れられて、王都テルムからほど近い場所にある葡萄園の様子を見に行った時のことだ。


 あの日も今日と同じように、霧の濃い日だった。

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