第35話 ヴンダール迷宮 第6層 二日目 ①

 第6層と現世を隔てる冷たく重い扉の前に、リンタキスは居た。

 冷たい床に両膝をつき、自らを中心とした四方に香木を焚き、取り留めのない独り言を呟いている。香木から上がる煙は暫くの間、行き場なくたゆたったかと思うと、ある一定の高さを超えたとたん、何かに呼ばれたかのように、扉の隙間から向こう側へ流れ出ていった。


「遅かったな」


 近づいてくるおれたちに気づき、段板に腰を下ろしていたスピレウスが振り返りながら手を上げた。


「仰々しい儀式だな、調子は?」


「さあな。少なくとも、かれこれ2時間はこうしてる」


 スピレウスが答えた。リンタキスは集中しているのか、おれたちが来ても見向きもせず、扉に向かって宛てのない会話を繰り広げている。その価値にいち早く気づいたのは、ティティア派の高弟であるアイラだった。


「嘘! これ呪歌じゃん! 私、他人の呪歌をこんな間近で見るの初めてかも」


 おれは耳を疑った。今まで見た呪歌のどれとも違う形だったというのもあるが、それ以上に、この状況で呪歌を使用するという判断に至ったリンタキスに対して、驚いていた。


 ティティア派の魔術師にとって、呪歌とは切り札でもあり、その者の信じる魔術の本質でもある。当然ながら敵に知られれば命とりになり、仲間に知られれば心の内をさらけ出すことになる。自らの尊厳とアイデンティティを守るためにも、本来であればよほど窮地にでも陥らない限り、このような不特定多数の人間が居る場で使うという選択は浮かばないはずだ。現にフィリスはカレンシアとの決闘ですら、呪歌は使用しなかった。そしてシアも……。


「ふうん……リンタキスの魔術の本質って、煙じゃなくて、どっちかというと霧だったのね」


 リンタキスの独り言から、彼が幼少期に霧の中で彷徨い、両親とはぐれてしまった場面が連想された。瞼を固く閉じたまま、過去に立ち返っているのをいいことに、アイラは目を輝かせながらそれを覗き込んでいる。おれは思わずアイラの手を引いてしまった。


「何すんのよ」


「それくらいにしとけ」


 アイラはせっかくの魔術的好奇心を邪魔され、怪訝な表情を隠さなかったが、長い付き合いだ。すぐにおれ自身でも曖昧だった感情の正体を見破り、得意気な笑みを浮かべた。


「どっちの矜持を守ってるつもりなの?」


「どっちでもいいだろ。少なくともこいつには、おれたちのためにここまでする義理は無かったはずだ」


「いつか敵に回るかもしれないよ? そのときのために少しでも情報収集しておきたいんだけど」


「おれはこいつの覚悟を大事にしてやりたい」


「はあ、ロドリックは気に入った相手にはとことん甘いね」


 おれは肩をすくめた。


「私はロドリックさんと同じ意見です」


 険悪、とまではいかないものの、僅かに張った空気の中に、今まで黙っていたカレンシアが割って入った。


「私はまだ呪歌を使えないですけど、もし私がリンタキスさんと同じ状況に陥ったら、他人に知られて気持ちいいとは思えません。だからせめて、詠唱くらいは聞かないであげたらどうでしょうか」


 アイラは何も応えなかった。だがもう気持ちは萎えたようだ。静かなため息を吐きながら、おれの傍まで戻り、足元の段板に腰を下ろした。それをきっかけに、各々も黙ってリンタキスから距離を取った手近な場所に腰掛け、荷を下ろす。


 そうして黙って呪歌が終わるのを待っている間、アイラが何か重要なことを思い出したかのように声を上げた。


「ていうかスピレウスってさ、最初から近くに座って呪歌を聞いてたってことでしょ? それってどうなの?」


 そのとおりだった。


 法は遡及性を持たないとは言えど、突如として巻き起こった矜持やデリカシーに関する議論に、全くの無関係であるかのように口をつぐみ、あまつさえ乗り切ったと思い込んでいたスピレウスは、アイラの言葉に、とうとうその重い腰を上げることとなった。


 そして、おおよそできうる限りの神妙そうな表情を浮かべ、身を小さくしながらおれたちの横を通り抜けると、リンタキスから最も離れた場所に座り直した。

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