第57話 翠玉と黒曜 ⑨

 カレンシアの水圧が僅かに弱まった瞬間を、フィリスは見逃さなかった。

 今まで押し殺すように温存してきた魔力を開放するように、丁寧に織った障壁ごとカレンシアの熱水を吹き飛ばす。


 フィリスは勝負に出た。カレンシア目掛けて〝旋風〟を立て続けに2発ほど飛ばしながら、自分もその後ろを風のような速度でついていく。


 カレンシアはすかさずエーテルをかき集め、水属性の障壁を張った。おれは胸を撫でおろした。魔力切れという最悪の事態が起こったわけではなかった。おそらくはエーテルのほうが先に枯渇したのだろう。だがエーテルは密度の高いほうから低いほうへ流れる性質がある。周囲から流れ込むエーテルを急遽支配下に置いて障壁にしたってところか、これで攻守が入れ替わる形となったが、先ほどのフィリスと違ってカレンシアの障壁は急造品だ。それもフィリスは普通の魔術師とは違って状況に応じて物理的な攻撃も織り交ぜてくるため、障壁は常に属性変化させておかなければならない。状況はかなり不利だ。


 案の定カレンシアの障壁は、みるみるうちにフィリスの手によって崩されていった。最初の〝旋風〟こそ防いだようだが、風圧で薄くなった部分に次々と風魔術を叩きこまれていた。カレンシアも周囲のエーテルを利用して、なんとか障壁を補強修繕していたものの、どう見ても間に合っていなかった。手を叩き合わせたときのような、破裂音が断続的に鳴り響き、その度にカレンシアを囲う半球状の水が飛び散っていた。


「リック……」


「大丈夫だ。お前ら、全員もう少し離れろ、後ろに下がるんだ」


 おれは言った。カレンシアは相変わらず湯水のように魔力を使って、エーテルをかき集めていたが、もう障壁の修復は諦めているようだった。だったら何のためにエーテルを集めているのか? その理由は一つだ。


「どうしたの? 何をするつもりなの?」


 おれはニーナの質問には答えず、全員を柱廊の方向へ導くと、他の観客の後方に立たせた。最後の切り札は出来ることなら使わせずにおきたかった。なんせ、呪歌でもない上、属性どころか、どうやれば防げるのかもついぞ解明できないままの未知の魔術だ。そういう意味ではおれの装剣技に似ている。そしてこの魔術こそが、カレンシアの身元に関係する有力な情報にもなったのだろうが、おれは結局、今の今までこれを公にすることはなかった。


 カレンシアを覆う水は、最早その形を保つことさえ困難になっていた。フィリスが細剣を突き出す度、切先に纏った風で歪まされ、弾かれ――そしてとうとう、カレンシアの姿が露わになると、フィリスの細剣が流れるような動きでカレンシアを捉え、首筋あたりでピタリと止まった。


 一瞬の静寂のあと、軍配の方角を知った観客らの歓声や落胆が広場を埋め尽くす。


 賭けに負けた者や勝った者、停滞を打ち壊してくれることを期待していた者、またそうでない者。どこか離れたところで剣激の音すら聞こえる。中央で向かい合う二人を置き去りにして、その周囲は混沌に包まれていった。


「降伏なら受け付けるわよ」


 喊声の中、カレンシアの首元に当てた切先を、持て余しながらフィリスは言った。


「降伏はしません」


「いいわ、それならカエデクレイに祈りなさい。せめてもの情けでなるべく高く掲げてあげるから」


 細剣を握るフィリスの手に力が籠る。カレンシアは静かに目を閉じた。


 だが勝負はこれで終わったわけではない。浮き立つ周囲を横目に、おれは仲間たちにいつでも逃げる覚悟をしておくよう言い聞かせた。

 カレンシアを取り巻くエーテルが、どす黒く変色しだしたのはその時だった。


 もちろん間近で見ていたフィリスも異変にすぐ気が付いたはずだ。とっさに風を巻き起こし、エーテルを四散させようと試みるも、エーテルはピクリとも干渉を受け付けず、それどころか更に色濃く変色し、フィリスを捉えようとせり出した。

 一瞬戸惑うような素振りを見せたフィリスだったが、いつだって彼女は冷静だった。魔術を防ぎたいのなら、術者の抹殺こそが近道となる。


 フィリスは素早く細剣を突き出すと、カレンシアの喉元を引き裂いた。

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