第56話 翠玉と黒曜 ⑧

 おれは下へ降りることにした。戦況は当分動きそうもなかったし、何よりこれ以上この場所に居る理由もなかった。これまでの激しい戦闘とうは打って変わって静かな力比べとなったことで、建屋の中に隠れていた多くの観客たちも、ぽつりぽつりと顔を出し始めていた。


 おれはお偉いさんたちに軽く会釈し、相変わらず勝負の行方に目を凝らしているカノキスの頭を後ろから引っぱたき、逃げるように2回のテラス席から1階に飛び降りた。


 1階では酔っぱらっている男たちが、フィリスとカレンシアのどちらが好みかを言い争っていた。おれが上から飛び降りてくると、驚きで固まり、酔いが醒めたかのように黙りこくった。おれはそいつらの脇を抜け、玄関から広場へ出た。


 広間はちょっとした混沌に包まれていた。地味な力比べに飽きてきた観客らが野次を飛ばし、金がかかっている者たちが喊声を送り合う傍らで、巻き込まれた怪我人や、それを運び出す人々の怒号が飛び交っていた。おれはそれらを掻き分けるように先へ進んだ。


「リック!」


 群衆の中から出てきたおれを、最初に見つけたのはニーナだった。


「無事でよかった……」


 そう抱き寄って来たのもつかの間、すぐ思い出したようにおれの胸部を叩き、睨みつけてきた。


「なんでこんなことになったの? ちゃんと説明して」


 ニーナが疲れた表情で訴えかける。おそらく直前まで治療師としての責務にあたっていたのだろう。おれはダルムントに目配せした。こっちからは何も話してない、とダルムントが目で応えるのが分かった。


「君の言いたいことは分かってる。いつものおれの行き当たりばったりが、この状況を作り出したんじゃないかって言いたいんだろ? でも聞いてくれ、今回ばかりは違うんだ」


 おれは燈の馬相手にことを構えると決めたときから、最終手段として常にこの決闘を意識し、それに向けての根回しや準備を、長い時間かけて整えていたことを丁寧に説明した。


「貴方ってばいつもそう、私が聞きたいのはそんなことじゃないわ」


 だがニーナはちっとも納得いかないようだ。


「もし負けたらどうするの? 貴方、フィリスの従者になっちゃうのよ?」


「そのときはそのときだ。お前らも付いてくるんだろ? どうせ」


 無責任とも取れるおれの発言に、フォッサ旅団の仲間たちはくすりとも笑わなかったが、付き合いの長いダルムントは呆れたように鼻で笑ってくれた。


「どうしてもというなら、付いて行ってやらんこともない。俺との約束が果たされるまではな」


 しかし、あれだけ日頃から駆け落ちしようと誘ってきていたくせに、フィリスと一緒ってのは受け入れ難いらしい、ニーナは俯いたまま拒絶するような態度を示した。


「冗談だよ。心配するな、カレンシアは負けない。たとえ負けても、それを認めるつもりもない」


「それって……」


 おれの言葉に何かよからぬ企みを感じ取ったのか、ニーナは親の機嫌を窺う子供のような瞳でおれを見た。


 もちろん答えはしなかった。だが勝てそうもないからと言って、一世一代の大勝負をすんなり諦めるような馬鹿がいるか? どんな手を使ってでも勝つ、いつだっておれのやり方は変わらない。


 おれたちは何かに促されるかのように、戦況を見やった。


 幾重にもよりあったエーテルを、まるで糸のように細かく編み象った〝格子型多重障壁〟を展開させているフィリス。そしてその障壁を熱水で囲み、圧力を加えながら温度を上げ続けるカレンシア。どちらも魔力とエーテルが尽きぬ限り続けるのだろう。


 しかし、日は必ず沈むように、命あるものは必ず尽きるように、その時ってのは唐突に訪れるもんだ。

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