第58話 翠玉と黒曜 ⑩

 鮮血ではなかった。カレンシアの喉から噴き出したのは黒い靄のようなエーテルだった。それこそ、彼女の周囲を取り巻いているものと同じ……。


「フィリス様、なにしてるんだろ……」


 戸惑うフィリスの姿を見て、ニーナがぼそりと呟いた。


 その反応に、おれはまさかと思い、あえてエーテルから焦点を外し現世だけを瞳に映してみる。当然ながら黒いエーテルは見えなくなり、それと同時にカレンシアがやってのけたとんでもないペテンも明らかになった。まさかこんなふざけた方法を土壇場でやってのけるとは。おれは感心を通り越して呆れてしまった。


 その手法自体は古くから知られているものだった。エーテルが見えるということを逆手に取り、エーテルによる幻影を作り出して相手を困惑させるという、対魔術師専用の至極単純な仕掛けだ。しかしその仕掛けが想定している幻影は、動きのない単純な無機物であったり、光源であったり、その程度のものだ。しかもそれら単純な物質ですら、戦闘中に相手に見破られない精度にまで作り上げるのは至難の業だ。それをカレンシアは、誰にも悟られない一瞬のタイミングで、しかも自分自身という高度な幻影を、更に言うならば魔術師屈指の瞳を持つフィリス相手に成功させてのけたのだ。


 おそらくフィリスも面食らっている頃だろう。現世のカレンシアはとっくに伏せていたのだ。立っていたのはエーテルで象った幻影。エーテルだけではなく、魔力すら見える特殊な瞳を過信しすぎた結果がこれだ。だからといってもう追撃はできない、黒いエーテルがそれを許しはしなかった。


 その場で風を巻き起こし、反動で後方へと跳躍するフィリス。逃がすまいと黒いエーテルは、まるで煙のように広がりながらフィリスを追い詰める。勝負がついたと思い込んでいた観客たちは、巻き込まれないよう大慌てで散っていく。数人が黒いエーテルに手足を掠め、子供が遊び飽きた人形のように、その場に崩れ落ちた。ニーナが口を覆う。いつの間にかニーナの腕輪型アーティファクトから腕骨が次々と現れ、彼女を守るように大きく手を広げていた。


 あの黒いエーテルに触ればおしまいだ。おれは何故かそれを知っていた。おそらくフィリスもだ。しかし、逃げ回っている間にもフィリスの退路は次々と絶たれていた。黒いエーテルはフィリスを追尾すると同時に、その動きを先読みし、最終的には巨大な杖と共にフィリスをすっかり取り囲んでいた。


「降伏なら受け付けますよ」


 カレンシアが立ち上がりながら言った。その瞳の赤は古くなった血のようだ。


 フィリスは何も答えなかった。だが、剣礼の構えを崩さないということは、そういうことなのだろう。フィリスは最後におれの居る方向を見ると微かに笑った。少なくともおれにはそう見えた。細剣を持つ右手が、胸の前から離れておれの方を指す。自意識過剰だと気付いたのは、彼女の細剣が隣に鎮座していた巨大杖の柄を打ってから、ようやくだった。


 胸騒ぎがした。最初から怪しさしかなかったあの巨大な杖のアーティファクト。てっきりフィリスが戦闘中見せていたすり抜ける魔術が、あのアーティファクトの効果なのだと思っていたが、そうではなかったとしたら? あのアーティファクトは何のためにある?


 フィリスの細剣が巨大杖の柄を打った。ほんの軽く、触れるような仕草で。そしてその直後、杖全体が赤、緑、青の3色に輝いた。


 脳裏によぎったのは3大元素信仰が強い南大陸の魔術だ。固有魔術や四大元素の存在を否定する人々の寄り集まった異国の魔術。フィリスが扱うにもリスクは高いはずだが……。


 だが現実問題として、広場を覆いつくすように広がっていたカレンシアの黒いエーテルは、巨大杖が光った瞬間、影も形もなく消え去っていた。


「シアの固有魔術はジルダリアでも極秘扱いだから知らないと思った? 残念、私は何だって知ってるのよ」

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