第34話 前夜 ②

「最近、付き合い悪いね」


 寂しそうな声に引き留められたのは、あれから数日後、自室に訪れたニーナを適当な理由で追い返そうとしたときだった。


「悪いな。最近忙しくて、疲れてるんだ」


 おれは開けた扉の隙間を体で塞ぎながら言った。


「噂になってるよ。本当にフィリスと戦うつもりなの?」


「そうならずに済むよう努力するよ」


 ふうん、ニーナは部屋を覗き込みながら言った。


「カレンシアと、毎日のように出かけてるって、本当?」


「毎日ってほどじゃないけど、まあ、ちょっと野暮用で」


「今日も会うんでしょ?」


「どうだったかな……」


「どこ行くの?」


「浴場とか……」


 失望のこもった溜息とニーナの冷ややかな視線がおれを刺した。


「こんな状況なのにお気に入りの女と浴場に行くなんて、良い身分ね」


 批判は最もだった。しかし、関係各所への根回しを終えた今、スピレウスが稼いでくれている時間でおれが出来ることと言えば、もうこのくらいしか残っていなかった。


「まあ、死体くらいは拾ってあげる。もっとも貴方がそんな調子じゃ、フィリスに殺される前に身内から刺されるかもしれないけどね」


 おれはぎょっとしてついニーナの目を見てしまった。


「そんなにまずい状況なのか?」


 連日忙しくて、フォッサ旅団内部のことはスピレウスに任せきりだった。もしかすると、おれの想像よりずっと残された時間は少ないのだろうか。


「班員の半分くらいは、貴方が燈の馬やギルド幹部と結託して、自分の利益のためにフォッサ旅団を利用しているだけなんじゃないかと疑い始めてる。私もダルムントも、最近はフォッサ旅団の事務所に行っても腫れ物みたいに扱われる始末だし」


 それでも、まだ続けるつもりなら、せいぜい頑張ってね。


 手をひらひらさせながら去っていくニーナ。これは完全にへそを曲げたな。治療師はギルドによる強力な身分保障のおかげで、この状況化でも所属クランに関係なく自由に動くことができる。その特性を利用しておれの妨害に走るってことは無いだろうが、下手すれば傍観者に徹される可能性もある。どこかで一日使ってご機嫌取りしとかないとな。


「ごめんなさい、お待たせしちゃいました」


 そんなことを考えながら、昨日買ったパンとチーズを胃に放り込んでいると、ようやく待ち人がやってきた。


「こっちもちょうど支度が済んだところだ」


 おれは急ぎ玄関に掛けてある外套を羽織って、扉を開けた。


 微かに舞い上がった風で、絹糸のように柔らかなおくれ毛がふわりと揺れて、鎖骨に垂れた。きっと、ヘーレ神がまだ現世に残っていたのだとしたら、彼女を見ただけで嫉妬に狂うに違いない。だがおれの口から出てきた言葉は、もっと単純で直接的なものだった。


「今日も綺麗だ」


「もう、そんなこと言うために呼んだわけじゃないでしょう」


 満更でもない笑みを浮かべながら、早く行こうと手を引くカレンシア。

 何でもないはずのその一瞬が、何故だがとてつもなく尊くて、既視感のあるものに感じられた。

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