狼のウルラトゥス
第49話 エピローグ
「これで準備は全部整った」
「わかった、じゃあ始めてくれ」
「痛くても文句言うなよ」
「リーダーになら、殺されたって構わんさ」
そしてダルムントは、身に纏った物をすべて脱ぎ捨ておれの前に立った。
それはおれたちが地上に戻ってきてから一週間後のことだった。
ここ数日の間、街を包んでいた浮き立つような雰囲気は、とうとうこの日ピークを迎え、早朝から慌ただしく揺れる人の波が、今にも街を飲み込まんとばかりに大通りにひしめいていた。
道を隔てた家々を結ぶ紐には、洗濯物の代わりに木製や真鍮の魔除け細工が所狭しと吊るされ、属州総督が派遣した軍団は、夜に備えて篝火にくべる薪や塩などを次々と都市へ運び入れる。
パルミニアを代表する有力者のほとんどは、今宵大規模な宴会を執り行うための準備に奔走し、庶民をそれを手伝いながら、どの宴会に参加すれば一番おいしい思いができるのかを夜までに見定めようとしていた。
これがこの都市での〝ブラッドムーン〟の過ごし方。
帝国からのインフラや人材などの恩恵を十二分に受けているこの都市では、ブラッドムーンはもう単純な恐れの対象などではなく、年に一度のスリルある祭日の延長線上に位置する行事へと変わっていた。
「それにしても、良い場所を見つけたな」
そしてそんなお祭り騒ぎの中、おれとダルムントは街はずれの雑木林にある、古い作業小屋で二人きりになっていた。
放棄されて久しいこの場所は、もしかしたらよからぬ輩の取引場所か、盗品の隠し場所にでも使われていたのかもしれない。広めの地下室には使い古されて埃被った鉛の筒や、何の用途に使うのか分からない工具が散乱していた。
「謹慎期間中、散歩がてら偶然見つけたんだ」
本当はおれも良からぬ副業の場所を探そうと、人目につかない雑木林に入り込んだだけなのだが、今回はそれが功を奏した形となった。
「ここなら、去年より多少安全だな」
「少なくともおれたちにとってはな」
おれは喋りながらも、坦々とダルムントの両手を鎖で縛り上げ、壁に打ち付けていく。
「夜まであとどのくらいだろうか」
されるがままに縛られていくダルムントが、退屈そうに呟いた。
「そろそろだ、気を抜くなよ」
とは言いつつもダルムントに出来ることは少ない。なのでこれは、おれ自身に言い聞かせる台詞でもあった。
草深い森にある作業小屋の地下室からでは外の状況は確認できないが、木々の囁きの合間から零れる街の喧騒から察するに、それほど多くの時間があるわけではないだろう。
おれは何重にもダルムントに鎖を巻き終えると、部屋の中央に座り込んで、銀製のナイフの切れ味を確かめたり、効果のありそうな野草や毒物の類をすりつぶして作った液体を、剣身に丁寧に塗りこんでいく。
「リーダー、毎年迷惑をかけて、申し訳ない」
その様子を見て思うところがあったのか、ダルムントあらたまった言葉を述べてきた。
「毎年ってほどじゃないだろ、これでまだ2回目だ」
「来年も、そのまた来年も続くかもしれない」
「だとしたら、そのとき謝るのはおれのほうだ」
おれは下準備をすべて終えると、背嚢を枕代わりにして寝転んだ。
ダルムントに掛けられた魔術は、精巧かつ巧妙に設計された変異魔術の一種だとおれは見ていた。
変異魔術は人間の魂そのものにエーテルを流し込み、その在り方を変異させる恐ろしい魔術だ。変異の効果は不可逆で、魂と肉体は不可分だ。禁忌ともされるその魔術は、使い手の少なさゆえ、参考に出来そうな症例もあまり残っていない。
唯一の救いは、ダルムントの症例は年に約1度訪れる〝ブラッドムーン〟の夜にだけ効果を示すというものだが……それはこの呪いとも言える魔術のせいで、家族や故郷を失ったダルムントには、何の慰めにもならないだろう。
「なあ、ダルムント」
「うん?」
「もう一度、下層へ行くぞ」
おれは目を閉じたまま言った。
どんな魔術師もお手上げの変異魔術。ここまでくればもう神々に縋るほかないだろう。だがおれは幸いにも、あてにならない神々を頼みにするより幾分かマシな方法を知っていた。
ヴンダール迷宮――それは神々が闊歩していた時代に、人が神を超えようと足掻いた12の残痕の一つ。愚かな人々は、命を天秤にかけながら、きっと明日も明後日も迷宮へ挑み続けるのだろう。
ある者は金貨を求めて、ある者は名声を求めて、そしてある者は……。
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