第16話 路地裏の追跡者 ③
おれは握った拳を男の顔面と腹部に何度も繰り出す。最初の方は澄ました素振りで避けていた男だが、少しずつ避け切れなくなった分を手で払っていなし始めた。
相変わらず動作の合間合間に、けん制のようなするどい拳でおれの顔を突いてくるが、おれはもう一歩も引く気は無かった。相手の出した拳を顔面で受けながら、おれも渾身の力で腹部に拳を放つ。
咄嗟に下げた腕で防がれたが威力は殺せなかったのだろう、男の体がくの字に曲がり苦悶の表情が滲んだ。
仕掛けるなら今だ。おれは拳を開き相手の衣類を掴むと、身体を捻りながら地面に引き倒す。打撃主体のボクシングでは、打撃と組技を両立させるパンクラチオンの動きには対応できない。男はなす術なく地面に突っ伏した。実戦ならここでナイフを抜いて突き立てるのだが、今日は素手でやろうといった相手の意見を尊重する。
おれは起き上がろうとする男を寝技でひっくり返すとそのまま馬乗りになった。
「マルスに祈れ」
おれは男の顔面を何度も殴りつけた。数打てば当たるとはよく言ったもので、すぐさまガードをすり抜けた拳が鮮血を散らし、男の闘争心をへし折った。
最低でもこいつに小突かれた分は返してやるつもりだった。欲を言えば3倍くらい色をつけて返してやろう。そう思っていた矢先だった。
男の胸元からエーテルの奔流が起こり、おれはまた吹き飛ばされてしまった。
「道具を使っても良かったのなら、最初からそう言えよ」
しかし今度は受身を取った。そう何度も同じ手は食わない。おれは文句を言いながら立ち上がると剣を抜き、周囲のエーテルを捉えて魔術を使う準備をした。
「申し訳ありません。このアーティファクト、勝手に発動してしまうんです」
男は血を拭いながら、ふらつく足で立ち上がると両手を上げて降参しますと言った。
「それで、目的は何だったんだ? テリアからおれを懲らしめろとでも言われたか?」
おれは言った。もうとっくに気付いてた奴もいるかもしれないが、別れてからずっとおれをつけていた男の正体はイグだったのだ。
「違います。テリア様から命ぜられたのは、貴方を邸宅へ連れてきて欲しいということだけです」
「じゃあなぜすぐ声をかけなかった?」
「貴方がどういう風に一日を過ごすのか、個人的に興味がありまして」
イグは照れくさそうに頭を掻いて微笑んだ。笑うと女みたいな中性的な顔に、少年の面影が走る。おれに殴られて切れた唇が痛々しい。
「殴り合いを仕掛けてきたのも、その個人的な興味のせいか?」
「生きる伝説とまで呼ばれる貴方と、一度手を合わせてみたくて」
「なんならまだ続けてやってもいいが?」
おれは剣に手をかけた。
「止めておきます。まだ死ぬわけにはいきませんから」
イグは首を横に振って笑った。
「それで、お前の主人はおれに何の用があるって?」
「内容までは。とにかく、貴方にとって重要な話だと」
重要な話? テリアがおれを呼びだす理由に思い当たる節はいくつもあるが、最も有力なのは――。
「お前、まさか第4層でのおれの行動を包み隠さず報告したのか?」
「ええ、それも私の仕事の一つですから」
「テリアは何か言ってたか?」
「いいえ、ただ笑ってました。貴方らしいと」
それなら怒ってるって感じではなさそうだな。しかし権力者が重要な話だとか大事な用だとかで庶民を呼び出すときは、決まって庶民側が割を食う事態であることが多い。
「通りに駕籠を待たせていますけど、どうされますか?」
イグが言った。ちょうど横顔に朱が差したところだった。
「まあ、一杯ひっかけに行くか」
どうじに、上流階級の人間が客を招くときは、必ず豪華な食事と上等な葡萄酒を用意して待っているもんだとも相場が決まっている。つまり、場末の居酒屋に行くよりは遥かにいい思いができるということだ。
もちろん重要な話が意味する内容次第ではあるが。
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