第90話 エピローグ ⑤

 魔獣や妖精種が探索者を追って、休息所の壁や扉に体当たりするのは珍しいことではない。


 第3層に出現する好戦的な魔獣はワーラットとガルムが主だが、実際こいつらはしょっちゅう休息所の扉をこじ開けようとしてくるし、第3層の中でも古い休息所であるこの場所は、過去に何度か扉を破られている。


 しかし、迷宮の構造物である壁が妖精種に壊されるって話は聞いたことがない。だから最初、壁を打つ鳴動が部屋に響いたときも気に留める者はほとんど居なかった。


 だが壁の一部が崩れ、そこからトレントの禍々しい枝葉が覗くと、事態は一変する。


「全員逃げろ!」


 おれはカレンシアを担ぎながら叫んだ。


 言われなくてもほとんどの探索者は、我先に逃げようと反対側の扉にごった返していた。

 流れに乗り遅れたおれたちは、列の最後尾から溢れかえる人々のケツを押し込みながら、隙あらば人だかりの間に体をねじ込もうと様子を伺った。


「どうすんだよこれ!」


 大量に抱えた荷物のせいで集団から弾き出され、いつのまにかおれの隣まで下がっていたダッカが、何か秘策はないのか? と必死の形相で尋ねてくる。


「そんなもんはない。とにかく〝泉の広場〟まで走るぞ! あの休息所の壁は、ここより多少は頑丈かもしれん」


「そんなの無理よ……どれだけ走るつもりなの」


 ニーナがべそをかいた


「いいから、走れ!」


 おれは前でもたもたしていた小太りの男を引き倒し、その前方に居た奴も蹴り飛ばした。そこにアイラとニーナをねじ込み、おれたちも続いて扉を抜ける。


 ここらはまたトレントとの追いかけっこが始まるが、先ほどとは違う点がいくつかあった。それは脱落者の数だ。


 10分ほどもしないうちに、数名が走るのを諦め、トレントに轢き殺された。水っぽい音と一瞬のうめき声が耳にこびりついて離れない。


 皆体力の限界だった。それでも走り続ける諦めの悪い探索者に追い打ちをかけるかのように、第3層の立地がおれたちの行く手を拒む。多くの者が忘れていたかもしれないが、南区域を出た先には第3層でも屈指の難所が待ち構えている。そう、それは〝貯水湖〟だ。


「早く行けよ! 追いつかれる!」


「待てよ、俺が先だろ!」


 進路を塞ぐ人だかりから発せられる喧騒で、おれはこの先に何があるのか思い出してしまった。貯水湖はただっぴろい空間だが、人が通れるのは端っこのごく一部、柱廊の中だけだ。


「もう追いつかれちまうぞ、ロドリック!」


 ダッカが泣きついてくる。ニーナもダルムントも、不安そうな目でおれの指示を待っていた。おれは皆の視線をそのままアイラに引き継いだ。


「アイラ、どうする?」


 もうトレントは目と鼻の先まで迫っていた。アイラは柱廊を押し合い進む人々を眺めながら冷たい声で答える。


「貴方こそどうしたい? 私の魔術じゃトレントを止めることはできないけど、柱廊の人間たちを排除することならできるよ。それでいい?」


 そうだな……このビギナー崩れどもを餌にでもすれば、おれたちが逃げる時間は十分に稼げるだろう。でも、そうやって逃げたところでどうなる? 今の状況でさえ危ういのに、トレントを引き連れて地上まで出ようもんならギルドからの追放処分は免れない。それじゃあカレンシアとの約束は果たせなくなる。


「そこまでするつもりはない」


 自分のことを善人だなんて思ってないが、かといって悪人のままでいいとも思わなかった。


「そっか、貴方まで変わってなくて良かったよ。じゃあもう一つ、イチかバチかになっちゃうけど、そっちを試してみよっか?」


 アイラはどこか嬉しそうに微笑むと、ダッカに対しそこのお兄さんおいでよ、と手招いた。訝しみながらも近づくダッカ。アイラがこんな顔するときは、よからぬことを企んでいるときでもある。


「リック、そいつの持ってる背嚢を取り上げて」


 ほら、案の定だ。


「え? おい、やめろ! これは俺んだぞ!」


 抵抗するダッカ。悪いが議論している時間はない、おれは嫌がるダッカの顔をぶん殴ると宿木の枝がたっぷり入った背嚢を奪い取った。トレントがいっそう速度を上げた気がする。


「貸して!」

 アイラが背嚢に触れて魔力を込めると、中に入った枝葉が息づき、艶を取り戻した。


 おれは目を疑った。アイラの魔術にまだおれの知らない側面があったなんて。表情からおれの感情を読み取ったのか、アイラは少し気まずそうに目を逸らすと

「ほら、それ、早く投げて」と湖畔を指した。


 おれはアイラの指示に従い、背嚢を勢いよく貯水湖へ投げ捨てる。

 それに釣られたトレントが、脇目も振らず湖畔へ飛び込んだとき、そいつが水面から姿を現した。


 水面の黒い影の中から飛び出すや否や、巨大な口を広げトレントの幹にかぶりつくリヴァイアサン。


 トレントも十分過ぎるほどでかかったが、それでもこの化物には遠く及ばなかった。


 口の中で暴れるトレントを、リヴァイアサンが頭を振って地面に何度も叩きつけながら噛み砕いていく。


「わお……すっごい迫力」


 アイラがヘラヘラしながら呟いた。


 笑ってる場合じゃない。そう言おうと口を開けたところに、巨大な水しぶきが襲い掛かってきてずぶ濡れになった。おれも笑うしかなかった。


 粉々になったトレントを胃の中に収め、満足した様子で湖の底へ帰っていくリヴァイアサン。


 終わる時はあっという間で、なんともあっけないものだった。


「あの畜生、口に入るものならなんでもいいのかよ……」


 背嚢に詰めこんだ枝、そして宿木本体。すべてを失ったダッカがその場にへたり込んで泣きはじめた。


 その後ろでは何故かアイラが、ひと仕事終えた時の得意げな表情で湖を見つめ、ダッカの肩を叩いている。


 おれはというと、リヴァイアサンの食べカスから愛用の剣が出て来やしないかと湖畔に浮かぶ木くずに目を凝らしていたが……まあ、結果はお察しのとおりだ。


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