第84話 ヴンダール迷宮 第3層 ドライアド ⑦
おれは頭を振った。柔らかいベッドだと思っていたものは土で、鼻をくすぐっていたのは髪ではなくチガヤの葉っぱだった。
おれは口の中に入った土を吐き出しながら身体を起こす。目の前ではカレンシアが泣きながら「逃げて、逃げて」と繰り返していた。
そんなこと言われてもな……。見渡すと、おれは無数のドライアドに囲まれていた。後ろのほうではダッカやシェーリ、そしてダルムントが地面に突っ伏して大きないびきをかいている。カレンシアは相変わらず宿木の幹に縛り付けられていた。
おれはすべてを悟った。どこからが夢だったのかは分からないが、とにかくおれは『花の歌』を防ぐのに失敗し、ぐっすりと眠っていたらしい。しかし、なぜおれだけがドライアドの魔術から抜け出せた? いや、正確にはおれとカレンシアか……。
「ごめんなさい、私のせいで」
呆けたように座り込むおれを前にして、カレンシアが言った。おれは首を横に振る。誰かのせいにするつもりはなかった。彼女を仲間に引き入れると決めたのはおれ自身だし、今膝をついているのは力が及ばなかったからだ。
しかし、おれには帰る場所が、待っている人が居たはずなのに、どうしてこんな場所で無様な最後を遂げなければならないのか。それに関してはいくら考えても、納得のいく答えを見いだせなかった。
「まだ終わったわけじゃないだろ」
おれは足元に転がっていた放水筒に手を伸ばした。一瞬にして周囲が殺気立つ。叫ぶドライアド、すぐさま打ち下ろされる蔓、おれはそれらよりほんの一瞬先に、宿木に向かってレバーを押した。
「ごめんなさい……」
爺の小便みたいに、ちょろちょろ地面に垂れる魚醤を前に、カレンシアがまた泣いた。
「空だったか……」
幸いなことに、蔓は一発だけおれの背中に打ち下ろされるだけで済んだ。おれはうめき声を上げながらその場にひれ伏し、カレンシアが泣き止むのを待った。
ドライアドは獲物を生かしたまま宿木の養分にするという。自らの運命を悲観しながら死ぬにはまだまだ先は長い。おれは顔を上げカレンシアに向かって笑って見せた。そのときだった。
「こりゃあ酷い臭いだ。魚醤を使うなんて方法、思いついても私なら絶対やらないね」
聞き覚えのある、人を小馬鹿にしたような飄々とした声が部屋に響いた。
しかも、おれが苦虫を噛み潰したような顔を部屋の入口に向けたときには、彼女の詠唱は終わりを告げていた。
「氷柱」
自らの圧倒的な優位性を思い知らせるように、ゆっくりはっきりと魔術銘を告げ詠唱を締め括る。
同時にコツンと杖先が地面を打った。
杖先から発せられた音は一瞬のうちに部屋中を揺るがす鳴動に変わった。
鳴動の正体は氷柱だ。それは彼女の最も得意とする魔術だった。
部屋中に撒き散らかされた魚醤は無数の鋭い氷の棘となり、瞬く間に部屋中のドライアドを貫いた。
真っ黒な氷柱に滴るドライアドの蜜。おれはそれに巻き込まれないよう、床に転がり小さく縮こまるしかなかった。
しばらくして、静まり返った部屋に一つの足音が響くと、そこでおれはようやく顔を上げることができた。
あれだけ居たドライアドは一匹残らずしなびた果実に変わっており、部屋には壁や床から突き出た無数の黒い氷柱だけが残されていた。
「アイラ……何故、君がここに?」
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