第76話 黒い帳 ③

「そんなにうちの料理が気に入ったのか?」


 食事を持ってきてくれたのは店主だった。どうやらコルネリウスのところに持って行った料理は好評だったらしい。誇らしげな笑みに受けたであろう賞賛がまだ残っていた。


「最近は新市街で食うより、こっちのほうが知り合いが少なくて楽なんだ」


「理由は何でも構わんさ。それより、例の物、持ってきてくれたのか?」


 店主からの期待のまなざしに、おれはドライアドの果実を調達するという約束を思い出し狼狽えた。


「いや、それはまだだ……ちょっと問題が発生して手こずっててな。もう少し待っててくれ」


「じゃあ今日は本当に飯を食いに来ただけなのか?」


「まあな」


 店主は純粋に食事を楽しみにきた客を歓待すべきなのか、目当てのものが手に入らず怒鳴り散らすべきかのか判断が付かず、複雑な表情を浮かべながらキッチンに引っ込んでいった。


「例の物って何?」


 店主が置いていったサラダを頬張りながら、ニーナが尋ねた。


「ああ、ドライアドの果実を手に入れたら売る約束をしてたんだ」


「まだ宿木を確保できるかどうかもわからないうちに、そんな約束しちゃって大丈夫なの?」


「なんとかなると思うしかない」


「諦めるって選択肢はないのね」


 おれは返事の代わりに、ニーナの空いたグラスに葡萄酒を注いだ。

 だがニーナの言うとおり、ドライアドたちを掻い潜って宿木を確保する方法は、今のところ全く思いつかない。このままでは時間ばかりが過ぎて、結局カノキスが手配した魔術師に頼るしかなくなるというのがオチだ。そのころにはもうカレンシアは餓死しているだろう。


 シチューを引っ掻き回しながら、何かいい方法はないかと考えていたとき、店主が魚醤の香りが漂う料理を持ってきた。


「新作だ。食ってみろ」


 皿の中にあったのは薄く切り分けたパンだった。パンの表面には微かに湯気の立つ琥珀色の液体が塗られ、そこから魚醤をベースとした様々な香りを漂わせている。


「パンに魚醤とあとちょっとした調味料を混ぜたものを塗ったんだが、お前の舌なら何を混ぜたか分かるんじゃないか?」


 また毒見をやらせようってのか? 上等だ。おれは店主の挑戦を受けて立つことにした。パンを口に運びゆっくり咀嚼する。甘みの主な正体はすぐに分かった。


「蜂蜜だな」


「ご名答、他には?」


「葡萄酒、バター、胡椒、シナモン――」


 魚醤自体はオッピアの一級品だから、既にいくらかの香りづけはしてあるはずだが、それを除いてもまだ一つ、嗅ぎなれない香りが口に広がるのが分かった。


「この、口にハーブを突っ込んだような爽快感と甘みの正体がわからないな。シルフィウムに少し似てるが、初めて食う味だ」


「どうだ? いけてるだろ?」


「悪くはない」


 おれの反応を見て、ニーナも我慢できずパンを口に頬張った。


「魚醤の味がするのに、臭みもないし、なんだか甘いわ、デザートみたい」


 すごいだろ? 店主も手ごたえを感じているみたいだ。腰に手を当てて何度も頷いていた。


「教えてくれよ、何を入れたんだ?」


 店主は周囲の客を気にしながら、おれに耳打ちした。


「ドライアドの果実だ」


 おれは眉間にしわを寄せる。店主は察したように続けた。


「魚醤につけると幻覚作用は取り除けるんだ」


「そんな方法が?」


「知ってる奴は知ってるぞ、濃度の高い魚醤は植物を枯らすからな。妖精種でも例外じゃないってことだろ」


 店主は笑っておれの背中を叩くと、お前がドライアドの果実を持ってきてくれれば量産できる。と囁きキッチンの奥へ消えた。


 おれも笑いが止まらなかった。まさかこんなところで、対ドライアド戦の妙案に出会うとはな。


「どうしたの? 急に笑い出して……」


 心配するニーナを余所に、おれは残ったパンを平らげると、店主を追いかけキッチンへ入った。

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