第72話 ヴンダール迷宮 第3層 花園 ⑩
結論から言うと、おれはそのあとボロ雑巾みたいに何度も何度も、壁に叩きつけられることになった。
頭を守るために上げていた右腕は、最初のほうで折れちまったみたいだ。もう感覚すら残っちゃいない。
敗因を述べるなら、おそらく2回目の装剣技だろう。かなり無理して攻めたにも関わらず、結局1匹しか倒せなかったせいで、3回目を使う羽目になっちまった。
それでも魔力切れを起こす前に、なんとか1匹は倒すことが出来たんだが……あと1匹が届かなかった。
もう何回壁に叩きつけられただろうか、何かの拍子で、おれの足を掴んでいた蔓が抜けたみたいだ。
運が良いのか、悪いのか……。神々の悪戯か、それとも哀れな男に対する同情か……。
最後の力を振り絞り、身体を起こして恐る恐る振り返ったとき、そのどれでもないことに気が付いた。
「点火……」
仕掛けたのはカレンシアだった。今にも消え入りそうな呼びかけに感応したエーテルが、次々と彼女の手のひらで渦を巻き、火花を散らし、小さな灯火へと変化する。
それに反応したドライアドが、すぐに蔓を伸ばし、カレンシアの腹部を撃つ。くぐもった声を漏らし、口から胃液を飛び散らせた。
「やめろ、シア……」
カレンシアの胃には何も入っていなかったのだろう、いくらえづいても出るのは胃液だけだったが、おれは違った。つられて貰いゲロを吐いちまった。あらかた出し尽くしたあと、くらくらする頭を抑えながらもう一度彼女の名前を呼んだ。
しかし、カレンシアは意地でも火を消すつもりはないようだ。吹けば消えそうなほど小さな火だが、動かない指先に灯し続けている。
「今のうちに、早く、逃げて……」
ドライアドは聞き分けの悪いカレンシアを、死なない程度にいたぶり続ける。こうやってじわじわと生気を奪うのが奴らの手口だった。
おれはよろよろと歩いて、落とした剣を拾う。ドライアドがこちらを見て、くすくすと嗤っているように見えた。
おかしいか? そりゃそうだろうな。ここまでくればお前は、おれたちの心が折れるのをただ待てばいいだけの話だ。だが侮るなよ。人間ってのはしぶといんだ。どんなに無様に這いつくばったって。生きていれば必ずチャンスは巡ってくるんだ。
「カレンシア! もう少しだけ待ってろ、必ず戻ってくる!」
おれはまだベルトにくっついていたポーチを投げ捨てた。水とパン切れが入っていたはずだ。これで多少は凌げるだろう。
そして最後に残った搾りカスみたいな魔力で壁を斬る。崩れ落ちた壁の先に暗闇が見えた。この部屋内に仕掛けられた魔術の境目だろう。
おれはボロボロの体に鞭打って、這いつくばるように外へ出ようとした。しかし、ここにきて体が、もう一歩たりとも動けないと泣き言を吐きやがった。
おれはその場に倒れこんだ。立派な啖呵きったくせにみじめな気分だった。後ろから悲鳴、そして足音が聞こえてくる。ドライアドがおれを捕縛しようと近づいてきているのだろう。おれは地面を這いつくばったまま、なんとかその場から逃げようと体の動く部分を探す。
暗闇の奥から今のおれと同じくらい、みじめで小汚い男が姿を現したのはそのときだった。
「こりゃひでえ!」
目が合うや否や、ダッカは飛び上がった。
「お仲間さんらの言うとおりだったな!」
ダッカは一瞬だけ宿木に目をやると、片頬笑みながらおれを抱きかかえて、暗闇の中へ戻ろうとする。
「カレンシアが……」
「そんなの今度でいいだろうが。今はずらかるぞ!」
ダッカに抱えられ暗闇を潜り抜けると、空気が纏っているエーテルの質が変わったのがわかった。
「リーダー! 大丈夫か!」
通路にはダルムントが立っていた。ランプに照らされたいかつい大男の姿は、普段なら暑苦しいだけだがこういう時は少し安心できる。
よく見るとダルムントの手には頑丈そうなロープが握られていた。ロープはダッカの腰へ繋がっている。何かあったときはダルムントに引っ張ってもらう算段だったのだろう。
「宿木はあった。ドライアドも居た」ダッカが言った。
「ということは、今は逃げた方がいいってことか?」
「わかってんなら、さっさとこいつ抱えて走れ!」
ダッカはダルムントにおれを投げ渡すと、一目散に走って逃げた。しかしロープをダルムントが持ったままだったため、数メートル先で潰れたカエルのような声を上げてひっくり返る。
「すまん。握ったままだった」
ダルムントは遅れてロープから手を放す。
「ふざけんな! ドライアドが追ってきてんだぞ!」
ダッカは頭をさすりながら起き上がると、唾を吐き捨て走り出した。
「おれたちも逃げよう……」
おれはダルムントの背中で呟いた。
「本当にいいのか?」
「ああ、どうせまたすぐ来る」
「そうか、カレンシアは無事だったのだな」
「まあ、今のおれよかマシだ」
おれは大袈裟に揺れるダルムントの背中から、何度も何度も振り返っては、花園からドライアドが、そしてカレンシアが、現れてはくれないかと見つめていた。
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