第68話 ヴンダール迷宮 第3層 花園 ⑥
「ごめんね、こんな時間に」
扉が閉まると同時にニーナが謝ってきた。貯水湖が近いせいで水音が強く、そのせいか少し肌寒く感じる。おれは冷えた体を手で擦りながら壁に寄りかかった。
「手短に済ませてくれ、結構魔力を使っちまったから、疲れてるんだ」
「うん……」
気怠そうなおれの態度に、ニーナはためらいがちに目を伏せて口を開いた。
「ドライアドの宿木の場所、本当に、花園にあると思う?」
逢引のような真似をした割には、思いのほか下らない質問だったためおれは少々拍子抜けしてしまった。だが避妊具を使う間を惜しんだ夜の話や、それがもたらした結果の話なんかをされるよりは遥かにマシだった。
「なんだ? 今日はやけに静かだと思ったら、探索方針に関して何か思うところでもあったのか?」
「そうじゃないけど……その、宿木の周りにはドライアドが沢山いるんでしょ? 近づくのは危険じゃないのかなって思って」
「何を今更ビギナーみたいなことを……真昼間の大通りを散歩するわけじゃあるまいし、ましてや今回の相手は妖精種だぞ、ある程度の危険は受け入れていくしかないだろ」
おれは言った。ニーナは否定も肯定もしなかったが、その瞳は口よりも雄弁にその心中を語っていた。何やらこれはこれで面倒な流れになりそうだが、おれは敢えて何も聞かないことにより、時間という処方薬が彼女の感情を洗い流してくれることを願っていた。
「他の選択肢は、ないの?」
しかし、その効用は芳しいといえず、居心地の悪い沈黙を纏いながらニーナが呟いた。
「だから言ってるだろ。代替案があるなら、いつでも受け付けるって」
「じゃあ、言わせてもらうけど」苛立ったおれの声に、ニーナは意を決したように顔を上げた。「私は反対だから。カレンシアを助け出すことに」
ここにきて何を言い出すかと思えば、おれはため息をついた。
「仲間を見捨てる気なのか?」
「カレンシアは仲間じゃない。それに、そもそも彼女を助ける理由ってなに? もう3年以上、貴方に付き合ってきた私たちを危険にさらしてまで、ついこの間出会ったばかりのどこの馬の骨とも知らない女を助けなきゃいけない理由は? なんだかこういうのって、いつもの分別ある貴方らしくないわ。それとも、何か私に言えない隠し事でもあるのかしら」
ニーナにはデイウス隊と戦った時にカレンシアが使った魔術のことは話してないはずだが、やっぱり勘のいい女だ。おれは取り繕うように首を横に振った。
「何も隠してなんかないよ。カレンシアを助けるのは、そっちのほうが金になりそうだからってだけだ。見捨てるには惜しい魔術師だろ? 生かしとけば後々役に立ってくれる」
「じゃあお金さえ足りてれば、カレンシアを助ける理由はないってことよね?」
「それは、まあ……」
ニーナは煮え切れないおれの態度に、薄っすら笑みを浮かべた。その顔はどこか翳って、疲れているようにも見えた。
「私、実は結構貯金あるの。貴方と一緒に〝燈の馬〟に在籍してたときから、ずっとコツコツ貯めててね。治療師は早いと20代後半で引退しなくちゃいけなくなるから、小さい頃から第2の人生のために資産運用のノウハウを学ぶんだけど、この間、銀行屋を通じて投資してた香辛料が高く売れて、まとまったお金ができたの」
「なんだ自慢か? 悪かったな、賭け事ばかりの能無しで」
「そうじゃなくてね、その……」
ニーナがごくりと喉を鳴らし、懇願するようにおれを見上げた。
「その、なんだったら、一緒に……ならない?」
おれはこの時、どんな顔をしていたのだろうか。
4年前、ヴンダール迷宮の探索事業が始まったとき、治療師という希少かつ必要不可欠な存在からチームの主導権を守るために、各チームのリーダーと探索ギルドの幹部が話し合った結果、北方ヴェステ神殿からの巫女を受け入れるという結論に至った。
北方ヴェステ神殿は昔からある治療師組織の一派だが、近年は北方出身の治療師が世間知らずの少女ばかりだということや、そもそも治療師としての腕前が他施設の治療師と比べて劣っているなどといった理由から、敬遠されることが多くなっていた。
しかし、それが却っておれたち探索者には好都合だった。幼いころから厳しい戒律に縛られて世間から隔離されていた治療師を、色恋や物欲で操ることなど、ならず者集団の探索者にとっては他愛もないことだった。ニーナもそうやって騙されてここまで連れてこられた内のひとりだ。そして彼女を騙し続けているのはおれだ。
「ほら、そしたら、もう老後の暮らしを心配しなくても済むじゃない。こんな危険な仕事今すぐにでもやめて、二人でどこか気に入った土地に農場でも買って、のんびり暮らしましょう」
「何もかも、君におんぶにだっこってわけにはいかないだろ」
「別に、私にだってメリットはあるわよ。ほら、いくら元治療師だからって帝国はまだまだ女一人じゃ生きづらい世の中だし、いろいろ怖い話だって聞くわ、でも貴方が結婚してくれて、後見人になってくれればそんな心配しなくて済む。だから気後れすることなんてないのよ」
「まあ、その話はまた今度、落ち着いたらじっくり話し合おう」
「ダメ、今決めて。何もかも放り投げて、このまま二人で地上へ戻るって言って」
おれは戸惑いを隠すように、冗談めかして笑った。
「昔、そんな感じの芝居を帝都で見た気がするな。ほら、一時期流行っただろ。葡萄園で男が女を抱いて、そっから駆け落ちする場面から始まるやつ」
「知らない。私、ここに来るまで神殿の外に出たことなかったし。貴方に会うまで、男の人がどういうことするのかも、知らなかった」
非難されているように感じた。当然のことか、彼女にとっちゃおれは……人生の疫病神みたいなもんだ。
「そうだったな……」
おれはニーナを抱き寄せた。柔らかい銀髪からは微かにアイリスの香料が漂う。初めて抱いたときは、乳臭さしか感じなかった。
「愛してるよ」
答えにはなっていなかった。だがニーナはそれ以上聞き返してはこなかった。おれはこうやってニーナを何年も振り回し続けていることに罪悪感を覚えながらも、目的のために手段を選べない自分に嫌気が差していたのも事実だった。
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