第37話 カッシウス大浴場 ③
先ほどまで雨が降っていたからだろうか、第2アトリウムにはおれたち以外誰もいなかった。
鏡面のように磨き上げられた灰色の床材には、排水溝に行き損ねた水溜まりがまだ少し残っていて、第2アトリウムを囲む壁と共に、その水分を修正しようとエーテルによる恒常性が働いていた。
「これって……もしかして」
ハルパストゥムの大コートとちょうど同じサイズの第2アトリウムに、びっしりと敷き詰められた灰色の床、そしてそれを囲む同素材の壁を見て、カレンシアが大きく開けた口に手を当てた。
「ご想像どおり、迷宮だ」
おれは言った。
「正確に言えば、迷宮から切り出した一室ってところだな。いくつかのアーティファクトの機能や、帝都から招いた宮廷魔術師たちの努力によって、第2層の一室を地上に持ってくることに成功したんだ」
そしてもうほんの僅かでも努力が足りていたならば、天井まで持ってこれただろうに……おかげで天候が悪い日は使う気にならない。
「ここなら思う存分、魔術をぶっ放していいぞ」
しかし、通常の手段では傷ひとつ付けることのできない迷宮の壁と床は、魔術の訓練には持ってこいの環境だ。
「まずは、手本になるか分からんが、おれが使い方を見せよう。ちょっと貸してみろ」
おれは腕まくりをし、カレンシアから杖を受け取ると右手に持ち構えた。カレンシアはそれを食い入るように見つめ、ニーナは少し離れたところに腰を下ろす。
おれはアイラが魔術を使うときの姿を思い浮かべながら杖を振りかざし、カレンシアに周囲のエーテルを掌握する方法、そのエーテルを集める場所やタイミングなどをひととおり説明する。
「どうだ? なんとなく分かったか?」
おれは杖をカレンシアに返しながら尋ねる。
「多分……とりあえず、やってみます」
カレンシアは見様見真似で杖先を地面に打ち付けると、周囲のエーテルに干渉しはじめた。
「干渉が遅すぎる。叩きつけるときの衝撃や音の広がりを想像しながら、周囲のエーテルを掌握するんだ。もう一回やり直せ」
「は、はい!」
厳しいかもしれないが、最初が一番肝心だった。魔獣や妖精種との戦いならエーテルの支配率を気にする必要はないかもしれないが、もし対人戦闘――つまり魔術師同士で争うことになれば、このエーテルの支配率ってのは勝敗に直結するほどの重要要素だ。
実際、デイウス隊の魔術師と戦闘になったときだって、魔力量もセンスも圧倒的に勝っていたカレンシアが、終始劣勢を強いられる羽目になったのは、周囲のエーテルを早期に掌握できなかったせいだ。
カレンシアはもう一度、床に杖先を打つ。乾いた音が中庭に響き渡るのと同時に、周囲のエーテルがぴんと張り詰めるのが分かった。
「速度はマシになった。もっと範囲を広げられるか?」
「やってみます」
そしてもう一度。
今度は速度も範囲も、申し分ない。
「いいぞ、その感じを忘れるな。戦闘になったらまずそれをやる癖をつけとけ」
本当ならここからエーテルの取り合いの模擬練習をやらせたかったが、悲しいことにおれじゃ相手にもならないので、次の工程に進むことにした。
「次は『点火』だ。最初はさっき見せたとおり、杖の先端にエーテルを集め、そこから火球を飛ばす感覚でいい」
魔術師の中でも特に攻撃的な『点火』職人と呼ばれる類の奴らは、もっとえげつない使い方をするが……そっちのやり方は、正直言っておれなんかじゃどうやってるのか見当もつかない。少なくとも対処法なら教えられるが、それも普通の魔術師らしいやり方じゃないため、カレンシアに習得させるのは不可能だろう。
「どこを狙えばいいですか?」
「真正面の壁でいい」
結局おれがカレンシアに教えられることは基本だけだ。そこから先は……まあ追々だな。
「点火!」
目標に向かって杖の先端を向け、そこから魔術を放つ。今まで指先から放っていた分、ほんの少し属性変換の反応が遅い気がしたが、そっちは何度かやれば慣れるだろう。
「動く的に当てる練習したほうがいいんじゃない?」
おれの魔術教鞭が新鮮だったのか、それを興味津々な様子で眺めていたニーナが言った。
「そうだな」
彼女の言うとおりだった。おれは何か手ごろな物でもないかポーチを弄ってみる。ここへ来る道中に食った串焼き肉が刺さっていた串を、楊枝代わりに取っておいたのを思い出して手に取ってみる。
「はあ? 貴方そんなものポーチに入れてたの?」
得意げに串を掲げるおれに対し、ニーナが信じられないといった様子で顔をしかめる。
「結果オーライだろ。おいカレンシア、今からこの棒切れを投げるから、それに『点火』を当ててみろ」
じゃあ行くぞ! おれはカレンシアの返事を待たずに棒切れを投げた。
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