第35話 カッシウス大浴場 ①

「とにかく、買い物、付き合ってくれてありがとう」


「本当に何から何まで、ありがとうございます」


 それでもこうやって、美女二人から感謝の気持ちを寄せられるってのは悪くないもんだ。


「このくらいならいいさ、キルケは最近物忘れが激しいから、どうせ来週くらいには忘れてるだろうしな」


 というより忘れてもらうまで入店することは難しいだろう。


 しかし、キルケが商品のことを饒舌に語るときは、好みの女が近くにいるときでもある。ニーナは初対面ではないから違うとして、おそらく気に入ったのはカレンシアのことだろう。だとすると、次もカレンシアを連れて行けば、案外なんとかなるかもしれないな……。


「それで、このあとどうするの? 何か予定でもある?」


 適当に備品を買い足して、女性特有の店中の商品を眺めるだけという儀式に付き合い、雨脚が弱まった頃合いを見計らってカピナ商業施設を出ようということになったとき、ニーナが珍しくおれを誘った。


「公衆浴場にでも行って、ゆっくりするつもりだったが、一緒に行くか?」


「公衆浴場って、カッシウス大浴場?」


「ああ、もちろん」


 カッシウス大浴場はパルミニアにある3つの公衆浴場の内、迷宮探索事業が始まってから新設された浴場だ。風呂場はもちろんのこと、レストランや運動場、体育館、エステ、図書室など、帝都の大浴場にも負けないくらいの設備を整えた、最新の公衆浴場だ。


「あそこなら、大丈夫よね……」


「何の話だ?」


 ニーナの意図が分からず、しばらくニーナの視線の先を追って首を傾げたが、カレンシアが嬉しそうに杖を抱きかかえているのに気づいて、おれは唐突に理解した。


 そう、カッシウス大浴場が、他の公衆浴場と一線を画している要素が一つあった。それは設備の真新しさでも、敷地の広大さでもない。運動場の一角に、魔術練習用のスペースが設けられていることだった。


「カレンシア、その杖、ちょっと使い勝手を確かめてみるか?」


 おれの問いかけに、カレンシアは花咲くような笑顔で応えてくれた。


「いいんですか?」


「ちょっとだけだぞ、ひと汗かいたら、おれは風呂に入る」


「はい!」


「ニーナはどうする?」


「私も行く」


 しかしながら、公衆浴場の荷物番は仕事熱心とは言い難い。この大荷物で浴場に行けば、帰るころには手ぶらになっていることだろう。


「一度自宅に戻ろう。着替えて宿舎の前で待ち合わせだ。杖を持ってくるのを忘れるなよ」


 結局おれたちは一度宿舎に帰り、必要のない荷物を置いてから出発することになった。

 一足先に準備を終えたおれは、宿舎前の歩道の縁石に腰掛け、いつまでたっても支度が終わらないニーナとカレンシアを待った。いつだってそうだが、女たちの身支度は時間が掛かる。その行先が王宮であっても、宴会であっても、そして公衆浴場であったとしても、等しく時間を掛けなければ家の外へは出られないらしい。


 彼女らを待っている間に雨は上がり、雲間から差す陽光が、坂の上に建つオドコスタの監視塔に小さな虹を掛けていた。石畳の隙間に残る水溜まりや、庇から落ちる水滴は光を反射して輝き、ついさっきまで陰鬱としていた街角に色彩をともしていく。


「すっかりいい天気になったわね、ギルドレイドなんかに参加しなくて良かったでしょ」


 いつの間にか宿舎から降りてきたニーナが、まるで自分の発案だったような、得意げな口ぶりで言った。


「ああ、何もかも君の言うとおりだ」


「殊勝な態度ね」


 ニーナはクスクスと笑いながら、おれの隣に腰を下ろす。

 艶やかな銀色の髪を結い上げて、露わになった白いうなじに金のイヤリングが垂れていた。涼しげな白い服と、それに似合う金の腕輪も合わさって、シンプルながら、まるでどこかの貴族の娘みたいなあか抜けた雰囲気だ。出会ったときに比べたら、ニーナもすっかり都会の女になったもんだ。


「すごく綺麗だ」


 あっそ、とつれない返事をしながらも、顔を真っ赤に染めるニーナ。たまにはこうやって、二人でゆっくり過ごすのもいい。賑わいを取り戻していく通りを眺めながら、そう思い始めたときだった。


 おれは何か大事なことを忘れていることに気付き、ニーナをまじまじと見つめた。


「カレンシアはどうした?」


 そういえば、ニーナとカレンシアは現在同居しているはずだ。なぜ下りてきたのはニーナだけなんだ?


「彼女なら、きっと今頃、杖をせっせと磨いているところよ」


「なんだそれ」


 おれは思わず鼻で笑っちまった。あの杖はどうみたってガラクタだ。磨くような価値はない。


「でも魔術師には、杖が本当に価値あるものかどうかは関係ないんでしょ?」


 しかし、ニーナの言うとおり魔術師に重要なのは真実よりも、それを信じられるかどうかだ。

 クソほど下らない価値観だが、カレンシアの魔術精度を上げるには、今は待ち続けるしかなかった。


 彼女が杖を、心ゆくまでピカピカに磨き上げるのを。

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