第29話 居酒屋『シドラの果実』

 おれたちが地上に戻った時には、テラリウムの天窓から覗く空は夜の帳に覆われていた。

 迷宮の出入口から見て正面のラウンジでは、係の魔術師が小さな台座に発光魔術をかけているところだったが、腕が悪いのか、そもそもあてになどしていないのか、夜勤の警備隊は知ったこっちゃないといったように篝火に火を灯して回っていた。


 おれは小さなランプが置かれた受付のカウンターを指で叩き、居眠りしている当直係を起こすと、迷宮から持ち帰った物を渡して受領証を発行してもらった。金銭の引き渡しは日中しか行われていないため、この受領証を持って後日また討伐代金を貰いに来なければならない。

 つまり、今晩はツケで入れる店を探さなければならないということだ。


「『シドラの果実』なんてどう?」


 ニーナの好きな生野菜と果物のサラダを出す店だ。甘酸っぱいソースが林檎やレタスに絡み、時折その隙間から現れるオリーブが、自分のセンスに寄った店主の顔を思い起こさせ、おれをイラつかせる店でもある。


「おれは家畜じゃない、草ばかりだと、ちょっとな……」


「あっそう、私は美味そうに葉っぱを頬張る、羊か何かだって言いたいのね」


「そういうわけじゃ……」


「文句言うなら貴方が決めたら? 手持ちがなくても残飯を煮詰めたスープを飲ませたりしない店をね」


 拗ねるニーナに、おれは両手を挙げてため息を吐いた。


「おれが間違ってた。実はおれも、サラダが食べたい気分になってたところなんだ」


 手持ちがないときは、往々にしてこのように夕食のメニューが決まる。



 ※※※



 『シドラの果実』はサンサック通りを南に下り、ニルニア川を渡った先の小路にひっそり佇む居酒屋だ。

 立地的にも探索者御用達の店というわけではないが、店主はおれたちのようなごろつき対する理解が足りていないのか、手持ちがなくても快く受け入れてくれる愚かな市民の一人でもあった。


「それで、これからの方針は?」


 壁際の4人掛けテーブルにつき、一通りの料理を楽しんだニーナが口を開いた。


「方針も何も、今までどおり、第3層を中心に探索を続けていくつもりだ」おれは言った。


「ガルムはどうするの? 次もあんな調子で付きまとわれたら探索どころじゃないんじゃない?」


「確かに、そのとおりだ」ニーナの言葉にダルムントが相槌を打つ。


「うーん、そうだなあ……」


 おれは腕を組み、壁に背をもたれる。


「ねえ、カレンシアが障壁を使えるようになったんだし、前みたいに第4層で宝石取って暮らさない?」


「へあ? 私ですか?」


 夢中でオリーブを探していたカレンシアが、名前を呼ばれて驚いたようにサラダの中から顔を出した。


「カレンシアも、それでいいでしょ?」


「え、あ……はい」


 ためらいがちに返事をしたカレンシアが、助けを求めるようにおれを見る。


「おいおい、勝手に話を進めるな」


 おれはニーナを諫めるように宣言した。


「第4層へは行かない、少なくとも今はな」


「どうして? 鉱石採りなら、昇降装置を使ってもまだ十分おつりがくるじゃない」


「ああ、だがそのおつりが段々減ってることには、気付かなかったか?」


 ニーナが眉をピクリと動かす。


「どういうこと? ただの相場でしょ?」


「違う、足元を見られてただけだ。おれたちがそれでしか稼げないと思われて、どんどん買い取り価格を下げられていってたんだ。このことはアイラとも話し合って、なんとか解決する方法を模索していたんだ」


「じゃあ……どうするのよ」


「平和的に解決するなら、他の方法で稼ぐしかない。今のところ下層へ行く以外で稼ぎがいいのは、第3層のタラスクス狩りだ。それでお茶を濁しておけば、そのうち向こうから鉱石を採ってきてくれって声が掛かるさ、そしたら次はこっちが値を吊り上げる番だ。なんせあの鉱石を採れるのは現状おれだけなんだから」


「でもガルムは――」


「ガルムの件なら大丈夫だろう。第3層があんな感じじゃあ、他のクランも仕事にならないだろうし。増えすぎたガルムが第2層まで上がってきたら、追い立てられたワーラットが第1層にやってくることだってありえる。もし地上に出てくることがあれば、ギルドの責任も問われる」


「じゃあ、ギルドレイドが行われるってこと?」


「ああ、君の言うとおり、近いうちにな」


 おれが第3層に固執する理由は他にもある。もちろんそれはカレンシアの記憶に関することだが……それは言わないでおこう、話がこじれそうだしな。


「はあ、わかったわよ。貴方がそこまで言うなら、これまでどおり第3層でいいわ」


 ニーナがため息をついた。


「理解が早くて助かるよ。ダルムント、お前もそれでいいだろ?」


「いつもリーダーの言うとおり」


「じゃあこの話はもういいな。飯の続きだ、残さず食えよ、タダなんだから」


 おれはダルムントのカップに葡萄酒をなみなみと注ぎ、カレンシアの皿に自分の分のサラダを分けてやる。


「タダじゃないぞ! ツケだからな!」


 厨房の奥から、地獄耳の店主が声を荒げながらやってきた。手には――卵料理だろうか? 香ばしい匂いを放つ一皿を、テーブルの上に荒々しく置いた。


「頼んでないぞ」


「これはサービスだ!」


「どういう風の吹きまわしだ?」


「いいから食ってみろ! 試作品だが、今回のはかなり自信がある」


 そういうことか……おれは皿に並べられた気色悪い色の茹で卵を手で掴むと、まじまじと見つめた。


「茹でた卵を丸ごと魚醤ガルムに三日間漬け込んで、味を染み込ませた。お前らがずっとガルムの話ばかりしてたからな。それで作ってたのを思いだしたんだ」


「だからこんなに黒いのか……」


 おれは鼻に近づけ匂いを嗅ぐ。強い魚介の香りと共に、ほのかに香る香辛料。


「いいからさっさと食え!」


 ツケで食っている身分でこれ以上店主を怒らせるのは得策ではなかった。おれは周りの誰も手を付けようとしていないのを見て、覚悟を決めた。



「これ……とんでもなくうまいぞ!」


 おれは一口食って、あまりのうまさに、残りを丸ごと口に放り込んだ。

 魚醤の他にワイン、オリーブ、胡椒なんかの香りが口いっぱいに広がる。しかし何よりすごいのはそれらの個性を引き出しつつも、しっかりと調和させる魚醤のまろやかさ、上質さだった。


「随分と上質な魚醤を使ってるとみたが、採算はとれるのか? そもそも魚醤なんて低級なやつでもアンフォラ一杯で結構な額するだろう?」


 おれが食ったのを皮切りに、ぞくぞくと食べ始める薄情な仲間たちを見て呆れながらも、ふと疑問に思ったことを店主に尋ねてみた。ただ食って美味い美味いと叫ぶだけじゃ芸がないしな。


「お前は会ったときから野蛮で意地汚い男だったが、その食事と芸術に関しての知識は捨て置けんところだ」


 店主は満足そうな顔で言った。


「聞いて驚くなよ、この魚醤はなんとジルダリア産だ」


「ということはオッピア港の工場で作られたやつか……」


 超高級とまではいかないが、十分上質な部類のやつだ。こんなしょぼい店で気軽に使えるような値段じゃないのは確かだ。


「さすが詳しいな。実はこの魚醤、格安で手に入れたんだ」


「どうやって?」


 食い終わったニーナが、口をもごもごさせながら会話に参加してきた。身を乗り出している。随分気に入ったと見えるが、まさかこの魚醤を自分で手に入れて、家で同じものを作る気じゃないだろうな……。


「議員のコルネリウスから貰った。二壺で5セステルほどだったかな」


 コルネリウス……威勢のいいパルミニアの市議員だったか。いくつかの商家を背景にした資産家で、帝国の元老院議員の席も狙っている野心家だという話だが。なぜ魚醤なんだ? 票集めにしては回りくどいやり方な気もするが。


「どうも、コルネリウスの新しい奴隷長が、魚醤の発注を間違えて、桁ひとつ多く注文しちまったらしい。それで捌ききれない分を、自分のところのクリエンテスに安く配ってるって話だ」


 魚醤の誤発注か……その奴隷の末路を考えると、なんとも切ない気持ちになったが、それも一瞬のことだった。


 人数分より一つ多めに料理を盛った店主のせいで、おれたちは皿に残った最後の卵を、いったい誰が手にするべきなのか。これから全身全霊を賭けて議論していかなればならなかったからだ。

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