第28話 ヴンダール迷宮 第3層 ③
おれはカレンシアに駆け寄った。二人がかりで多重障壁を張って攻撃を受けきるか? それとも装剣技の干渉阻害の能力で立ち向かう? 一瞬いくつかの戦闘行動が脳裏をよぎったが、どれも無意味だということは分かりきっていた。出来ることはただ一つ、右か左か選んで、あとは神に祈るだけ。
おれはカレンシアを抱き寄せると、すぐさま横に飛び退いた。
宙に身を任せて、床に肩から着地するまでのほんの刹那が、どこまでも長く感じる。
目を強く閉じ、おれの胸にこめかみを当てるカレンシア。
ニーナを庇い立ちながら、盾を構えて何か叫び続けるダルムント。
水面から姿を現す巨大な影。そして8つの目。
ついでに必死なアホ面さげたおれ自身の姿も……真下に見える。
なんだこれ。おれはどこからこの瞬間を見てるんだ? まさか、これから起こる強い死の予感を感じ取り、気を利かせた魂が、一足先にとんずらしようとしてるとでもいうのか。言っとくが抜け駆けを許す気はないぞ。
おれは心の中で、怖気づいている自分自身に喝をいれ、ついでにこの状況を作った元凶でもある、貯水湖の主に悪態をつこうとしたときだった。
(――フルドラの子よ、まだ願い足らなかったのか?)
おれの耳元で誰かが囁いた。
その瞬間、おれの視点は元に戻り、耳の中をかきむるような甲高い笑い声と、心臓を揺らすほどの鳴動が、まるでジルダリア半島に訪れる夏の嵐のように、おれの足先をかすめていった。
「くそったれ! このくそったれの畜生が!」
おれは捨てられた子犬のように身をかがめながら、心が恐怖で塗りつぶされないようにわめき散らした。そしてまだ体の感覚があることが分かると、恐る恐る首だけで振り返ってみた。
まさに間一髪だった。あと数センチずれていたら、足を食われていただろう。
おれは馬くらいなら丸ごと1匹ペロリといっちまいそうな、その巨大な口に涎が滴っているのを見て、震える足を必死にバタつかせて、カレンシアと一緒に柱廊内へ逃げこんだ。
「ロドリック!」
ニーナが横から抱きついてくる。
「リーダー、無事でよかった……それで、ここからどうする?」ダルムントが言った。
湖畔から身を乗り出した化物は、蛇のように長い胴体をくねりながら、おれたちを八つの瞳でじっと品定めしていた。まだ湖畔から体のすべてが出てきていないにもかかわらず、その大きさは既に10メートルをゆうに超えている。
「とりあえず、今は動くな」
おれは全員に向け言った。もうこれ以上『リヴァイアサン』を刺激したくなかったし、顔の左右に4つずつ付いた瞳がぎょろぎょろと動く度、小便をちびりそうになっていた。
本物の『リヴァイアサン』は長年帝国の海運業を苦しめた挙句、当の昔にプラトニウスという魔術師に討伐されていたが、今でも人々の心に畏怖の象徴として残っているのだろう。それっぽい生物を見つけると、帝国人はすぐリヴァイアサンという名前を付けたがる。
目の前の蛇と魚を掛け合わせたような化物も、同じようにして名付けられたのだが……少なくとも他と違って、その名を冠するにふさわしい強さを持っていることだけは確かだ。
「ロドリックさん……」カレンシアが囁いた。
おれは口に指を当て、声を出さないようジェスチャーする。
しかし、それがリヴァイアサンの気に障ったらしい。
巨大な口を広げ、喉の奥から絞り出すような低い唸り声を響かせた。
生ぬるい風が頬を撫でる。
「なんだこれ……ひでえ臭いだ」
息が臭すぎておれは思わず咳き込んじまった。ニーナは隣でえずいている。カレンシアは吐いた。
「私は、大丈夫、大丈夫です。構わないで、ください」
カレンシアは吐き終わると、えずきながらそう言った。これ以上足手まといになりたくないという気持ちの表れだろうか、おれは彼女の背中に置いた手をそっと離した。
「おい、帰っていくようだぞ」
ダルムントに肘で突かれ顔をあげると、リヴァイアサンがゆっくりと湖畔に戻ろうとしていた。急にどういう心境の変化だ? まさか、自分の息が臭いことに気付いて、ショックを受けて帰っていったとか?
理由はともあれ、おれたちはリヴァイアサンの姿が見えなくなってからも、湖面の波紋が収まるまでは動けなかった。
「おれたちも、帰るか……」
しばらく経って、おれはうなだれるカレンシアを見ながら言った。大した収穫もなかった上に、久しぶりに死にかけたことで、全員が参っているのは疑いようのない事実だった。
「そうだな」
ダルムントも賛成のようだ。おれたちは荷物を担ぎなおすと、各々ため息を片手に踵を返した。
「近いうちに、ギルドレイドでもありそうね」
どこかから聞こえたガルムの遠吠えに対して、ニーナがぼそりと呟いた。
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