5.Decisive battle

「シャアアアアアァァァァッ!!」

 間髪入れずに黒猫がアーサーに襲い掛かった。大きく右腕を振りかぶりその身体を引き裂かんと迫る爪を、アーサーは数歩下がって容易く躱す。

「ハアァッ!」

 そして目の前の右腕に思い切りキックを叩き込んだ。

 見た目相応の重さがある腕に対して、普段通りのアーサーがキックしても彼の足が痛むだけだろう。しかしパワーアシストが付いている今なら決して打ち負けはしない。

「ギャアアッ!?」

 予想だにしなかった反撃に黒猫がたじろぐ。その様子はヘルメットに内蔵されたカメラを通してマッドにも伝わった。

『よし、パワーは十分だ。そのまま押せるか?』

「……そう上手く行くといいけど」

 黒猫の毛が逆立ち、ふくらんだ尾がまっすぐに天を指す。今の一発だけでもう頭に血が上ったようだ。

「ギイッ!」

 そして奇声を上げるが早いか跳び上がった――だけでなく、器用に周辺の建物の壁を蹴りながらどんどん高くへ上っていく。光が届きにくい高所に身を潜められては発見も容易ではない。

 それは同時に奇襲にはうってつけとも言える。

「シャッ!!」

「ッ!」

 左方から飛び掛かってくる黒猫の気配を察知し、鋭い爪の突きを何とか躱す。だが相手の動きは軽く着地と同時に姿勢を正し、対照的に姿勢が崩れたアーサーに容赦なく襲い掛かる。

「くっ!」

 アーサーはあえて地面に倒れることで再び攻撃を躱した。そこへ今度は虫でも潰すかのように手のひらが迫ってくる。この手に捕まれば押し潰されたままもう片方の爪でバラバラにされてしまうだろう。

『転がれ!』

 そこへ入ったマッドの指示通りアーサーは地面を転がった。後を追って何度も腕を突き出してくる黒猫から逃れるべく、近くに停車しているオフロード車の方へ転がりながら向かう。

「ギシャアアアッ!!」

 相も変わらず腕を突き出すが、爪を出していれば切り裂けた車体もそのままではいくらか押し潰すだけだ。一方アーサーは車の下を転がり抜けて立ち上がり、ボンネットを踏み台にして高く跳び上がった。

「ぅあァッ!!」

右腕を引き絞り、目と鼻の先にある黒猫の顔面に渾身の力でパンチを叩き込む。

「ッ――」

 叫び声を上げる間もなく黒猫の上半身が浮き、後ろ足がアスファルトを滑った。

 体勢を立て直し四つ足で地面を掴む黒猫と再び睨みあうアーサー。

 その後方で、まさにフィクションの世界から飛び出してきたかのような、銀色の鱗に覆われた超人と漆黒の毛並みの化け猫の戦いに巻き込まれぬよう、警官たちは車を盾に必死に身を隠すしかなかった。

 しかし彼らの間によく通る声が掛け抜ける。

「諸君! 銃弾の装填そうてんは済んでいるか! まだなら急いで済ませ! そのまま隠れてくれていて構わないが、次に私の合図があったらなけなしの勇気を振り絞りあの化け猫を撃て!」

 その声、アーサーには聞き覚えがあった。強盗事件の後で彼を逃がしてくれた壮年の警官、リーフの声だ。

「警部! 猫はともかく鱗の奴はどうするんですか!」

「心配いらん、ショットガンだろうが彼には無意味だ! 仮に頭を撃ち抜いても責任は私が取る!」

『とんでもねえこと言われてんぞ』

「多分大丈夫だよ。それより警察は僕を味方だと思ってくれてるってことでいいかな」

『向こうだってこんな状況なら猫の手も借りたいだろうよ』

「猫は相手だけど、ね!」

「フギャアアッ!」

 軽口の途中で黒猫は再び仕掛けてきた。先ほどの意趣返しなのか、爪ではなくまっすぐ腕を突き出してのパンチを両腕でブロックする。ダメージはないが衝撃は大きく、アシストされていてなお身体が揺らいだ。

「ぐっ……」

「シッ!!」

 その隙を逃さず黒猫が跳び掛かった。何とか身をよじって爪を躱すことはできたが攻撃は一度だけでは終わらず、周囲を縦横無尽に跳ね回って執拗にアーサーを攻め立てる。持ち前の運動能力、反射神経、危険に対する自分の勘を頼りに必死に対処するが、肉が抉り取られるのだけは避けようと爪を鱗に掠らせて外へと逸らさせるのがやっとだ。手痛い当たりはないが細かい傷が増えると共に出血量が増し、逸らす際に少しずつダメージは蓄積していく。

「……っ!」

「ヒぃギャァァァーーーーーッ!!」

 優勢を悟った黒猫は一際大きく跳び上がった。自分に直接仕掛けてくると考えたアーサーは地面にしっかりと両足を付けて反撃の機会を窺うが――。

『っ、ダメだ躱せ!!』

「え!?」

 相手の狙いを理解したマッドの指示は僅かに遅く、攻撃の体勢を整えていたアーサーでは反応できなかった。どころか、一瞬どっちの行動をするべきかで思考に迷いが、致命的な隙が生まれてしまう。

「フアッ」

 まるで全て読んでいたかのように、黒猫はその隙間にするりと付け入った。

 黒猫は予想に反し何もせずに着地したのだ。だが直後にその巨体を低く屈め、アーサーの足を払う。

「なっ――」

 直接仕留めようとはしていない、だが次の一手で確実に仕留めるための繋ぎのアクション。まさかそんなものを、先ほどまで頭に血が上っていたような短気な相手が仕掛けてくるとは露ほども予想していなかったアーサーの身体は容易く宙に浮いた。

『ア――』

 マッドの声が遠い。死が迫る。見上げた相手の顔には三日月型の口が、嗜虐的しぎゃくてきな笑みに歪んでいた。


 けれど、その場にいるのはアーサーと黒猫だけではない。

「――撃て!」

 その瞬間、警官たちの銃が一斉に火を吹いた。無数の弾丸が次々に黒猫の身体に到達するが、例外なくその肌を破ることは適わず雨粒のように弾かれていく。

 しかし傷付けることができなくてもただただ鬱陶うっとうしい感触に黒猫の気は散った。

「わぶっ」

 受け身も取れずに背中から地面に落下したアーサーはその衝撃で自分がまだ生きていることを実感する。見上げた頭上にある黒猫の頭部、その目は彼を見ていなかった。

「フーーーーッ……」

 苛立ちを湛えた金色の瞳が警官たちを睨みつけ、ゆっくりと迫っている。決死の覚悟で放った銃弾が無意味に終わり、今度は迫られているとあれば警官といえど誰もが恐怖し後ずさるのも無理はないだろう。

「まずい……!」

 アーサーは急いで立ち上がろうとしたが、出血のせいか足元がふらつき地面に膝をついてしまった。それでも何とか状況を変えるべくあちこちを見回す。自分で考えるだけでなく映像を見ているマッドにも託して。

『……! 右前方!』

「……なるほど!」

 意図を理解しアーサーはふらつく身体を何とか支えて立ち上がる。指示されたものを最大限活かすにはタイミングと一定以上のパワーが肝要なため、そのまま後ろに下がり始めた。

「下がれ! 逃げても文句は言わない!」

 もちろんその様子は1人と1匹の戦いを一番近く、警官たちの最前線で見守っていたリーフ警部にも見えていた。それゆえ二重の意味を込めての指示だったわけだが、後方を見るとどうやらその指示が聞けない者がいる。まだあどけなさが残る若い警官は恐怖に歪んだ顔に玉のような汗をかき、全身をがたがたと震わせ動くことができずにいた。

 動けば黒猫を刺激するかもしれないと考えると、迂闊うかつに彼の元に行くこともできない。それでも死者を出さないために必死に声を張り上げる。

「そこで震えている新人、聞こえるか! 聞こえているなら、家族でも友人でも好きな女でも愛車でも、何でもいいから君の大切なもののことを考えなさい! 何か思いついたらそれのために今この場から退くんだ! 若いうちから仕事に命を懸けて死ぬ必要なんてないぞ、人生これからじゃないか!」

 落ち込む若者にかけるような言葉を必死に叫んでみると幸い彼に届いたらしく、恐怖に支配されていた顔が若干変わった。そして数秒後には足をもつれさせながらも後退を開始した。

「警部も早く!」

「老人のことを気にするもんじゃない!」

 リーフは決して鱗の男が逃げたとは考えていなかった。だったら最初から来ていないはず、きっとなにか思いついたことがあるに違いないと。そして同時に黒猫の意識が部下たちに行かないように、彼は二重の理由で囮となるべく自発的に残ったのだ。

 こちらを睥睨へいげいし通りを我が物顔で闊歩かっぽする黒猫を前に、何とか軽口でも叩いてみる。

「ハハッ……妻と孫は猫が好きだったかな。だがこんな大きな子は飼えないな、残念だ。語って聞かせてあげる程度にしよう……」

 虚しい独り言にため息を吐くが、その瞬間、鱗の男がこちらに向けて猛然と走ってくるのが見えた。しかし黒猫もまたリーフに腕が届くまで僅かの距離に迫っている。

「土産話と保険金、家族にはどっちをやれるかな……!」

 金色の瞳を見据え拳銃を構える。いよいよ腕が届くのに十分近付いた黒猫は虫を潰そうとするかのような気軽さで腕を振り上げた。

『よくやったジイさん!』

「うあーーーーッ!!」

 絶対にやらせない。そのために全力の助走で十分な勢いがついたアーサーのキックは道端に備えられている消火栓に命中、栓が吹っ飛び高圧の水が勢いよく噴き出し、黒猫の右後ろ足をさらった。

「シャアッ!?」

 体勢が崩れ地面に投げ出される上半身。再び走るアーサーは無防備となった右上腕目掛けて渾身の力でドロップキックを叩き込んだ。

「ぅああァッ!」

「グギャアアッ!?」

 確かな手ごたえ。骨まで響いたかもしれない一撃のダメージを裏付けるように黒猫の身体が大きく震え、初めて苦悶の叫び声を上げた。

 だが向こうの反応も速い。身体が柔軟に曲がり、地面のアーサーは後ろ足で蹴飛ばされた。

「ガハッ……!」

「シィィィッ!!」

 建物の壁に激突したアーサーを追って黒猫が駆ける。地面に崩れ落ちたアーサーはまだ立ち上がれない。

『アーサーッ!』

「うっ……!」

 思わず目を背けてしまうアーサー。今度こそ万事休すか。

 しかしその場に留まっているのは彼だけではない。つい先ほど窮地を救われたリーフも同じだ。そして助けられたからにはこちらも相手を助けるのが道理というもの。

「世話焼きは老人の特権だ!」

 彼は近くのパトカーに乗り込み、マッドがしたのと同じようにハイビームを1人と1匹目掛けて照射し、クラクションを目一杯押し込む。音は両者の耳に届いたが、光の方はアーサーが偶然顔を背けていたために黒猫の目にのみ突き刺さった。

「ギャッ!」

 咄嗟に飛び退きアーサーと光から距離を取る黒猫。着地の際に若干身体の右側がぐらつくのがマッドには見えた。ダメージが残っている証拠だ。

『間違いなく今までの攻撃が効いてる。このまま行けるぞ』

「後は、ハァ、時間と僕のっ、体力勝負、か……」

『っ……辛いだろうが――』

「心配しないで、やるって言ったのは僕だ、必ず――!」

 身体の限界は近いが心はまだ折れていない、そして危機も去ってはいない。ならば何度だって立ち上がるだけだ、この鱗、この身体で街と人を護るために。


 一方黒猫は自分の邪魔をする人間2人をどちらから仕留めるか選別するように目をギョロギョロと動かしている。その爪の前ではアーサーもリーフも大して差はないがリーフの方を先に、と黒猫は判断したようだ。再び金色の瞳がリーフを睨みつける。

「ケガ人ならいつでもやれるということか……!」

「クソッ、待てよッ!」

 アーサーが動き出すのを時間は待ってくれない。黒猫が跳び上がった瞬間、リーフは急いで運転席から転がり出た。アスファルトに転がる彼の目の前で黒猫がパトカーの天井に降り立ちフレームがひしゃげ、運転席があった場所を爪が切り裂いた。

「っ!」

「ゥシャアッ!」

 再び目が合い黒猫の口が三日月型に歪んだ。急いで走り出すリーフとその後を追う黒猫の光景は、猫のサイズが並だったなら愛らしかったかもしれない。現実には驚異のモンスターであるそれが繰り出す金属だろうが紙のように引き裂く恐ろしい爪を、彼は何とかパトカーの間を縫うように走り車体に引っ掛けて躱し続ける。『猫が年月を重ねると怪物になる』とニッポンでは言われるようだが、ここではリーフの年の功が勝った。

 しかし死の鬼ごっこの終わりはすぐ近くに迫っていた。遮蔽しゃへいになるパトカーも減っていき、苦し紛れに使う電話ボックスや道路標識なども軽々と切り裂かれていく。

「うわっ」

 気が付けば背中は何かの建物の壁についてしまっていた。そこへ間髪入れずに迫る黒猫の右手の爪。その瞳にもう嗜虐や遊びの色は無く、見つめられるだけで心臓が止まりそうなほどの冷酷さを湛えていた。

 しかし金の次には銀が来るもの、すかさず横合いから何かを手にしたアーサーが割って入る。それはマンホールのふただった。

「フッ!」

 掲げられたそれに向けて爪が迫る。そして鉄の蓋にずぶりと先端が食い込み、それきり動かなくなった。右だけとはいえ、ついに必殺の武器が無力になったのだ。どれだけ腕を振り回してもダメージから無意識に全力で腕を振り回せないままでは抜けようがない。

「もらったッ」

 アーサーは切り裂かれて半ばから地面に転がっていた道路標識のポールに手を掛ける。

「ふッ……んあぁぁぁぁッ!! ぅうあッ!!」

 裂帛れっぱくの気合いと共に持ち上げることに成功したそれを、ダメージが残る右上腕に狙いを定め力を振り絞って振り抜く。命中の瞬間、強烈な振動がアーサーの手まで駆け上がった。

「グギャアアアアアアアッ!!」

 激痛が全身を駆け巡った黒猫は大きく上体を仰け反らせ、天高くへ叫び声と共に苦痛を吐き出す。全身が何度も痙攣し、完全に骨を砕かれた右腕が力なく垂れた。

 巨体はアスファルトに倒れ込み力のない呼吸が続く。恐るべき爪を備えた四肢がアスファルトにしな垂れた。元のジェフリーの姿には戻っていないが恐らく限界を迎えた、そう考えても良い状態だ。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」

 それでも万が一のことを考え、アーサーは道路標識を左腕の方にやや傾けて手を離した。重力に引かれて落ちる標識が左腕に激突すると、黒猫は鈍い悲鳴を上げたがまたすぐに動かなくなった。

『終わった……か?』

「だといいけど……」

 さすがにアーサーも疲れ果てていたが、やはり万が一のために黒猫の左手に腰かけた。ジェフリーの身体に戻るまではこうしているつもりだ。

 そこへ汗で髪の毛がぐしゃぐしゃに歪んだリーフがやってきた。

「やぁ……Mr.ファンタジー? 今日もお手柄じゃあないか」

「お互い様ですよ、僕も随分助けられました、ありがとうございます。あと以前逃がしてくれたのも感謝してますが、その呼び方はやめてください」

「適当なことを言うからさ。それでは何と呼べば?」

「僕は……あ、そういえばこの格好の名前考えてなかった」

『そういやそうだった……』

 最初に笑ったのは誰だったのか、そんなくだらない会話で笑いが起こった。張り詰めていた緊張の糸が少しずつ解れていく。

 しかしまだ仕事の残っているリーフは額を拭いアーサーの方を向いて言った。

「申し訳ないがもう少しそいつの面倒を見ていてくれないか? やらないといけないことが多いんだ」

「分かりました。猫じゃらしでなんとかできる奴だといいんですけど」

 リーフはひらひら手を振ってほとんど廃車のパトカーの方へ戻って行った。

『事後処理もめんどくさそうだなァ、俺なら絶対ほっといて帰るぜ』

「ハッ。それより、消防はまだかな」

 戦っていた時は頭からすっぽ抜けていたが、ここは通りのど真ん中で周囲には駐車中の自動車が多くあった。もちろん今は黒猫があちこち飛び回り爪を振り回したせいでほとんど使い物にならないのだが、中のガソリン漏れと切れた電線の接触による爆発・火災などの問題が残っている以上、建物の中に避難しただろう人たちのことを思うと一刻も早い消防の到着が望まれる。

 とは言え、人が考えていることなどそう簡単に分かってもらえはしないもので。

「終わった……終わったー! 助かったァーッハッハー!」

「えっ」

 驚いて顔を上げると軽装の青年が周辺を見回しては馬鹿みたいにはしゃいでいた。楽しいはずの土曜の夜を恐怖と緊張の夜に変えてしまった謎の怪物が倒されたとあれば、その反動で一気に浮かれ気分になるのも分からなくはない。しかしまだ事態が収拾し切っているとは言えないこの状況で1人がそういう行動に出ればどうなるか、それは火を見るよりも明らかだ。

「もういいのか……主よ、あなたのお導きに感謝いたします……」

「大丈夫……っぽい? あーホッとしたらお腹空いてきた!」

「あなた? ええ大丈夫、私もこの子も無事よ……」

 最初の青年が出てきたのと同じ建物から人が続々と通りへ出てくる。それが反対からも見えれば同じことが起きるだろう。一度動き出した人の流れはそう簡単には止められない。

『おいおいおい、大丈夫かこれ?』

「せめて避難誘導があれば……」

 しかしリーフが逃げるよう指示していたのが裏目に出てしまい警官もいない。人の行動は無秩序だ。

「んっ、眩しっ」

 さらにさっさと逃げ出すならまだしも、こうやってアーサーと黒猫を撮影しようと寄ってくる者までいるから始末に負えない。また黒猫が暴れ出すのを恐れてあまり近付いては来ないが、そんなことを気にするくらいならやはりさっさと逃げ帰ってほしいところだ。フラッシュの中心、ヘルメットの下でそっと嘆息した。

『なんかポーズでもしてやったらどうだ?』

「そんな気分じゃないって」

 激しい運動と出血による体力不足でとにかく身体が重く、背中に負うバッテリーが鬱陶しくてたまらなかった。息苦しさの方が勝ってきたためヘルメットも早く外したい。

「人助けって大変だね……」

『他人のための苦労だからな。自分からやりたがるなんて俺もお前もどうかしてる』

 2人してやれやれとため息を吐いた。

 黒猫もといジェフリーはもうほとんど力もないようだが未だに元に戻らない。危険が完全に去ったとは言い難いのにも関わらず、9ブロックで起きた世紀の出来事を見物しようと徐々に野次馬までも集まり始めていた。

 無数の声が集まり喧騒を作り出す中でアーサーの耳は1つの声を拾った。

「ママー! ママ、どこー?」

「この声……」

 周囲を見回しても座り込んだままでは野次馬に視線が阻まれてしまい声の主が見つからない。確かに知っている声なのに。

 仕方なしによろよろと立ち上がり腕を足で踏んづける。彼が立ち上がった瞬間野次馬たちがどよめきまたしてもフラッシュに晒されるが、何とか辺りを見回し通りの西側にその姿を見つけることができた。

「僕はここだよ、ママー!」

 いつぞや出会った少年、マルコだ。人混みの中、小さな身体で必死に声を張り上げる彼は1人だった。叫んでいることからして避難中にでも母親とはぐれてしまったのだろう。それにどこかで捻ったか踏まれたのか、左足を庇っているため動きが遅い。助けに行きたいが動いてもいいものか決めあぐね、結局その場で彼の母親を探してまた周辺を見回すだけになってしまう。

 それも一応は実を結んだ。マルコの反対側、通りの東に母親を見つけることができた。けれど声を上げてもどっちにも聞こえそうにはないし、ここから動かずにどうやってお互いのこと位置を教えてやればいいのか、いい案が思い浮かばない。

「ジェフリーが元に戻ってくれたらなあ」

『こいつとことんまで迷惑かけるな』

 あとは2人が上手く再会できるよう祈るくらい、などと思っていたら上手い具合に2人とも通りの真ん中に向けて歩き出した。マルコの方が上手く歩けない分、母親の方がより早く西に辿り着くだろう。

「よかった、……?」

 母親の歩みがどこか浮足立っている。周囲の様子は見えても頭に入っていないのか、人に何度もぶつかってはその度に少しずつ前へ進んでいくのだが、危なっかしくて見ていられない。

 

 その時、後方で轟音が響いた。振り返ると車が一台爆発炎上していた。

 またしても発生したアクシデントに人が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。けれどマルコも母親もまだ相手を探すことを諦めきれていないようだった。

「あっ――」

 そんな中でついに母親の視線が定まった。ようやく愛しい息子の姿を見つけて積もる想いが爆発した母親は、人波を必死にかき分けてマルコのところへ急ぐ。しかし彼のことしか目に入らないのが災いし、その先に壊れた車があるのと切れた電線が垂れていること、そして連鎖的に起こり得ることに彼女は気付いていない。

「――逃げろ! 早く逃げるんだみんな! 何が爆発してもおかしくない!」

『おいアーサー!?』

 気付けば身体が動いていた。ジェフリーのことも頭から抜け落ちていた。逃げろとか危険だとか、そんなことを叫び続けながら彼もまた必死に2人の方へ向かう。

 そしてマルコも母親の方を見つけていた。2人の視線が交わり無数の感情が行き来する。

「ママー! 来ちゃダメー!!」

 マルコはあらん限りの力を振り絞って叫んだ。周囲を確認していた彼には危険が見えていたからだ。

「マルコ――あっ!」

 声は届いた。危険に気付いた母親は咄嗟にその場で立ち止まり、またあっという間に人の流れに飲まれ姿が見えなくなる。

 母親を守ったマルコだが、彼は足のせいで逃げることができずにいた。取り残された彼を何とか救うために、アーサーは地を蹴った。

 

 ――間に合えっ、届けぇぇぇ……っ!!


 そして、火花が散った。

 夜の闇を引き裂いて赤々とした炎が立ち上る。爆発の衝撃波によって窓ガラスが割れ、黒猫が吹き飛ばされて建物に激突した。意識を失って地面に横たわる巨体は徐々に縮小していきようやくジェフリーに戻ったのだが、そんなことを意識する者などいない。

 恐るべき衝撃の前に誰もが呆然として言葉を失う中、愛する子を残してきてしまった母の口からかすれ声が漏れ出す。

「あ――ま、マルコ? マルコッ、マルコーーーー!! あぁ……っ!」

「なっ、待ちなさい! そのまま進んではあなたが!」

「いやっ、マルコ! マルコ! 私の子が向こうにいるんです! そんな……!」

「だからって……!」

 炎の中に飛び込もうとする彼女を必死に周囲の人々が抑え、宥めようとする。真っ赤な炎を一心に見つめそこへ手を伸ばして慟哭する姿は、見る者聞く者すべての心を暗澹たるものへ塗り潰していく。誰もが小さく罪のない命が消えてしまったことに絶望した。


「ゲホッ、ゲホッ」


 何かの聞き間違いなのだと思った。その咳は炎の向こうから聞こえてきたような気がしたのだ。だが人が爆発に呑まれたのなら――だからありえない。

 ありえない。しかし何が一体「ありえない」というのだろう。この日、アルバスシティには3mを超えるありえないほど巨大な猫と、それと戦うありえないほど硬い鱗を纏った誰かが現れ死闘を繰り広げていたというのに。『ありえないこと』こそ“在り得ない”、そうやって認知を広げる出来事が、確かにここで起こっていたのだ。

 だから、罪なき命が失われるなんて絶望をひっくり返すことだってきっと――


 炎の向こうから、子供を抱きかかえた銀色の人間が現れた。


 子供はところどころ煤けてはいるが見る限り火傷の痕は見られない。

 銀色の方はその鱗に炎の光が反射して煌めいている。

「ああ、あぁ……!」

 銀色の人間が子供にそっと耳打ちをすると、彼はハッと顔を上げて自分を待つ者を見つめる。

「ママ!」

 喜びで弾けるような笑顔をマルコが見せるとそれはすぐさま周囲にも広まり、一気に歓声が湧いた。絶望は希望に変わったのだ。

「マルコ、マルコ!」

 地面に降ろされたマルコに母親が駆け寄って抱きしめた。あの時と同じように滂沱の涙を流す彼女をマルコもそっと抱きしめ返す。脅威を乗り越えて愛を確かめ合う親子の姿にもらい泣きする者もいた。

『感動の再会ってのもたまには悪くないか』

「本当に良かったよ」

 マルコに覆い被さって炎から守ったアーサーはまたも鱗のお陰で無事だった。炎の耐性は確認していなかったが上手くいって安堵するばかりだ。

「マッドぉ、マーサに連絡しといて……」

『オーライ。そろそろいいタイミングで離脱しろ』

「ん……」

 重い身体を何とか騙し騙し引き摺って歩く。とっくに体力の限界を迎えて力ない彼の背中をそれでも多くの歓声と拍手が送る中で、マルコの声が呼び止めた。

「待ってヒーロー!」

「……なんだい?」

「助けてくれてありがとう!」

 足を痛めている彼に歩かせるのも忍びないので自分から近寄る。マッドが隣にいたなら「お前の方がはるかに重症だけどな」などと言っていただろう。

 アーサーを見上げるマルコの瞳はあの日より少しだけ大人びているように見えた。そこに成長を感じ、アーサーは身体を低く屈めて頭を優しく撫でた。

「約束通りよくお母さんを守ったね。偉いぞマルコ」

「えっ? ……もしかして、お兄ちゃんなの?」

「あっ。あ、えっと、うーん、そのね」

 先ほどまで格好よく活躍していたのに、気が抜けた途端に墓穴を掘ってしまい慌てふためく“お兄ちゃん”が可笑しくてマルコは笑ってしまった。どう言って取り繕うか必死に考えていたアーサーも、彼が笑うのにつられて小さく噴き出した。

 平和なひと時を共有し合った2人はヘルメット越しに視線を交わす。

「……僕はお兄ちゃんじゃないよ。少なくともこの格好の時は」

「じゃあなんて呼んだらいいの?」

「それが困ったことにまだ決まってないんだ。まあいつか付けるさ」

 やれやれと頭を振るアーサーに対して、マルコは両手をポンと打ち合わせた。

「そういえば前に読んだ本で、お兄ちゃんみたいにすごく硬い鱗の動物が出てきたんだ」

「え、そいつの名前は? なんて動物?」

「ドラゴン!」

 その瞬間、アーサーの中で朧気だったもう1人の自分の輪郭りんかくが定まった。この鱗が使えると気付いた時以来、2度目の天啓。

「――そっか。ドラゴン。うん、それいただきだ」

『お? 名前が遂に決定か?』

「よしマルコ、君に僕の名前を教えよう。これからの“この”僕の名前」

 普通、人が生まれて最初に与えられるプレゼントは名前だ。言い換えれば、人は名前を与えられた瞬間に『自分』を定義されるのに等しい。そして今、アーサーは自らもう1人の自分を定義しようとしていた。


 誰より硬い鱗を持ち、宝を抱いて守る者こそもう1人の自分。すなわち――



「――ドラゴンスケイル。それが僕の名前だ」

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ドラゴンスケイル 藤田幸世 @fujita_hw

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