4.Chase the ominous

 2人は翌日から昨日のことが嘘のように、素早く準備に取り掛かった。

 まずはかつてマッドが使用していた研究室を拠点にし、アーサーの能力を活かした人助けの方法を考えるところから始まった。

「さて、お前の鱗の特性である“とにかく硬い”ことを活かせる場は大きく2つだ。まずは先日みたいな凶悪犯罪の真っ只中。都市で使うような銃が効かないのは実証済みだ、どんなやつでも鎮圧できるだろう」

 想定する状況を視覚的に分かりやすくするために巨大モニターに表示されているアーサーの仮3Dモデルは、拳銃を所持した人間に四方を囲まれているが放たれた銃弾は中心のアーサーには少しも効かず、逆に彼らをノックアウトしていく。

「もう1つは災害・事故現場かな。上から降ってくる瓦礫がれきとか鱗があれば平気だし」

 崩落する古いビルの下で動けない人に覆い被さる3Dアーサーに大量の瓦礫が降り注ぐ。しかしそれが治まった後、瓦礫の中から人を抱えて3Dアーサーが立ち上がった。瓦礫がパラパラ落ちるもののどちらも血は流していない。

「お前の活動方針『街と人を守る』を忠実に行くとそうなるな。そうすると、俺からいくつか提案がある」

 マッドはスクリーンキーボードを叩き、新しい条件を追加する。

 まずは“重量ウェイト”だ。犯罪者と相対するアーサーは数人に圧し掛かられ、災害現場の方はより大きな瓦礫やコンテナなどが降り注ぐ。

「この通り、お前の鱗は硬いがぶっちゃけそれだけだ。何の関係もないお前の身体能力でできる以上のことはできない、つまり普通の人間と何も変わらない。どんな武器を防いでも数に任せりゃ組み敷かれ、重すぎる物の下敷きになりゃ身動きが取れずにあの世行き」

 どちらの3Dアーサーも何とかしようと必死にもがくが、どうにもならずに赤いバツが付けられる。

 しかし今度は3Dアーサーに“パワー”と入力すると、人を退け、瓦礫がれきの中から立ち上がってみせた。

「だからお前には超人的な力が必要になる。逆境を跳ね返すと同時に、誰にもお前が“超人”だと認識させられれば正体を隠すことができるわけだ。これに異論はあるか?」

「いやその通りだ。続けてほしい」

「オーライ。そこでこいつを使う。……ABCの業務用マッスルスーツだ」

 ABC――Alteration for Basis Corp.の頭文字を取ってそう呼ばれる、アルバスシティの西を実質取り仕切っている大企業だ。社名通り『常識の変革』を掲げ工学・生化学などで目覚しい成果を上げ続け、シティの繁栄にはABCの存在が必要不可欠だったほどの要石である。

 マッスルスーツは一般向け商品の中でも特に売れ行きが良い商品である、というのはアーサーも聞き及んでいる。筋力のおとろえた老人の補助を始め肉体労働の現場などで多く導入され、労働効率を劇的に改善した傑作とまで言われるくらいだ。

「待って、業務用ってそんな簡単に手に入るの?」

「その辺のツテはいくらでもある。そして入手したスーツをお前専用にカスタマイズすること。これがまず1つ目の提案だ」

「それは良い……いやちょっと待って。マッスルスーツって直接着こむ物だったはずでしょ? それを着たままじゃ鱗が出せない」

「そいつに関してはマーサから追加のデータが来たんだ、お前の細胞のデータ。それをスーツ表面に組み込んで、お前の皮膚に近い状態にしてやった上でお前が着用すると……」

「! 変化が伝わっててスーツ表面が鱗になるかもしれないってことか」

「まだ仮説だがな。これから試す必要がある」

 今した会話の内容がディスプレイに表示されていく。改めて確認してみて、これならば試す価値があると思えた。

「で、どうやって試す?」

「今日中にマーサが培養ばいようした人工皮膚の一部が届く、そいつで実験だ。ただなぁ、スーツの方に手を加えようにも機材がほとんどねえ。動き出せるのはもうちっとかかる」

「まあ、それは仕方ないさ。それじゃ他の提案に行ってみよう、次は?」

「至極簡単だ、体を鍛えろ」

「ゲッ、そういやそうか」

 モニターにはいつの間に組まれたのか、かなり詳細なトレーニングメニューが表示されていた。見ているだけで気が滅入ってくる。

「筋力はアシストできても体力まではそうもいかねえ。……自分からやるっつったのに、まさか苦労もなくできるとは思ってねえよなァ?」

「あーあー分かってる分かってる! やるよ! 体力作りもやる!」

「よし。あと格闘技の通信教育と免許取るための勉強もだ。金は俺が出す」

「……免許?」

 マッドは頷くと街の地図を表示し、更に公共交通機関の流れや渋滞情報などの大量の交通情報をオーバーライドさせた。地図上はあっという間に無数の線が交差し、何をどう見たらいいのかさえも分からなくなるほどだ。

 しかしこれから街の中をあちこち行くことになるが徒歩では時間が掛かりすぎ、交通機関では小回りが利かずに乗り継ぎの手間が無駄になる、ということは何とか理解できた。

「自分で動かせる別の“足”があった方が便利だろ? おまけに体力の消費を抑えられる、やらない手はないと思うが」

「って言っても車じゃ結局変わらないだろ」

「いいや、二輪だ二輪。この街、特に中央の入り組んだ路地も、上手く通り抜ければショートカットになる。移動の速さと小回りを加味すれば二輪が最適だ」

「なるほど……そういうことなら分かった」

 マッドの提案を受け入れられたのはスクーターやスポーツタイプのバイクに乗る自分を想像してみると悪い気分がしなかったのもあった。

「んで、最後に一つ提案じゃなく聞きたいことがあるんだが、いいか」

「何?」

「これから先、人助けのついでに犯罪者とやり合うこともあるだろう。そいつがもし度し難い人間の屑、あるいは人の皮を被ったケダモノとしか言いようのない『死んだ方が世のためになる』やつらだった場合、お前はどうする?」

 すなわち、生かすか殺すかについて。

「っ……」

 それは心臓を冷たい縄で締めつけられるような問いだった。

 強盗犯たちは警察に引き渡した。それ以外にすることを考えてはいなかったからだ。

 しかしこれからは違うかもしれない。普通の人間には危険な“誰か”を止めることがアーサーにはできたとしても、警察や法でまで止められるとは限らない。そうなる前に判断を下すこともできてしまう以上、その先をどうするかはすべてアーサーに委ねられているのだ。

「僕は……」

 去来する記憶。

 『かつての自分』は『今の自分』となった。変わることができた。それはアーサーのことを路地裏の生ゴミと同価値と見做さず、人間として信じてくれた人たちがいたからだ。

 しかし今考えるべきなのはあの頃の自分とは比べ物にならないような存在、自分の経験を引き合いに出してもあまり意味があるとは思えない。

 だから、言えることは一つしかなかった。

「……まだ判断できない。けど、できるだけ早めに決めておく」

「そうか」

 ちょうどそこでブザーが鳴った。誰かが来た合図にマッドはデスクを操作し来客を確認する。

「マーサからのブツが届いたみたいだな。頼む」

「了解」



「録画は大丈夫……だな。そんじゃこれから実験に移る。『特殊性質細胞の変化観察』とでもしておくか。被験者はアーサー、男性、20歳。皮膚を硬質の鱗に変化させる特異な性質を持っている。今回の実験では被験者の細胞から培養した人工皮膚3cm四方に触れ、皮膚の変化を実行した際に人工皮膚に及ぼす影響について観察・記録する。仮説、人工皮膚は変化後の細胞を元に培養されているため、変化は伝播し同様に鱗になるはずだ』

『こっちは準備OK、いつでも合図してくれ』

『よし、じゃあカウント5から行くぞ。4、3、2、……』

『……おおお、映ってる? 大丈夫だよね? この通りだよホラ!』

『よしもういい離せ。あー実験結果、仮説は実証された。人工皮膚には被験者の皮膚と同様の変化が認められた。よって次の実験内容を設定する。人工皮膚よりも再現度で劣ると考えられる、被験者の細胞データをインプットした人工素材で同様の現象が発生するか。……以上、記録終了』



『鋭いパンチを放つために必要なのは全身の筋肉から力が伝わることだ。その中でも特に大事なのは腰、腰の捻りだ。これがあるとないとじゃ力の伝達の具合が全く違う。それじゃあまず、正しい姿勢作りから始めていこう』

「フーーーッ……フッ、フッ、フッ!」

「やってんなぁ。首尾はどうだ?」

「大分……フッ! きついッ! パンチッ、一つにッ、こんなッ、打ち込むッ、なんてッ、はじッ、初めてッ、だッ!」

「そうやって初心者が必死にパンチの仕方を覚えるのを見てると『プロミス・リング』の第2幕を思い出すな」

「僕はッ、ナサニエルッ、ってわけッ!」

「いやぁヤツとは違うな。天才的な才能があったが、お前はそうでもない。ま運動神経の面で言うならイーブンかも知れねえが」

「そこはッ、一応ッ、褒めるッ、とこッ! キャラとッ! 比べるなッ!」

『いいパンチだったな! きっと基礎が身についたことだろう。そんな一歩ステップアップした今だからこそ覚えておいてほしい、その拳は誰かを傷付けるためではなく、守るためにあるんだ。技術は正しいことに使おう』

「だとよ。ハッ、振り上げた拳も降ろすしか無さそうだな」

「僕が、僕だったことに、感謝してくれよ、マッド」



『ややペースダウンしてきたぞ。大丈夫か』

「ハハッ、まだまだ、やれるさ」

『なら設定変更だ。3ブロック先の角を右折するまで20秒から17秒にする』

「ぐっ……いいや、それくらい!」

『あと10、9、8、7……おっと2秒早くクリアだ。アーサー、焚き付けといてなんだがジョギングを始めて1時間は経つ、一旦速度を落として身体を休めろ』

「何言ってんのさ、僕はまだできるよ」

『ジョギングならそりゃあな。だが実際に活動してる時のことを考えてみろ、多少の無理はすることになるだろうが、そりゃいざって時だけだ。お前も人間なんだから疲れりゃ動けなくなる、そうなりゃ守れるものも守れねえ。適度な負荷と十分の休息が身体を作る、休むべき時、温存すべき時はしっかり身体を休めることも覚えろ』

「……フフッ、体力の無さそうなマッドに体力作りについて説かれるとは思わなかったよ。分かった、言う通りにしよう」

『今の一言は必要ねえだろこの野郎! 三日は立てなくなるメニューでも組むぞ!?』

「あーあーやめてくださいトレーナー殿、どうか怒りを鎮めたまえー。ハハッ」



「アーサー、スーツが届いた」

「おー、ちょっと大きめのウェットスーツって感じ……かな? それにしてもこんなに身体に密着するような作りで筋力の補助ができるのか」

「使用時は電気信号でもうちょい膨張するが、内側に使用されてる人工筋肉のテクノロジーについてはダウンサイジングの結晶みたいなもんだぞ。代わりに駆動用のバッテリーを背中に背負う必要があるからちと不格好だが」

「それで、普通にこいつを着用しただけの場合はどれぐらいの重さまで持てるようになる?」

「業務用だからな、60kgぐらいは楽に持てる。お前だとそうだな……マックス130くらいか」

「よく分かんないんだけどそれって凄いの?」

「鍛えてない人間がこれ着るだけでそこまで出せるようになるんだぞ、十分なくらいだ」

「へえ……でもここから更に手を加えるんだろ」

「ああ。目標はトン単位のパワーを発揮できるようになることだ」

「……ごめん、更に分からなくなった。例えると何?」

「自動車を持ち上げられるくらいのパワーってことだな。ま、すぐにはできねえが何個か作ってきゃその内できるだろ」

「そこはマッドのエンジニアの腕がどんなものか、お手並み拝見と行こうかな」

「任しとけ。んじゃ着てみろ」



「おはよう……マッド? マーッド? ……保存せずに進めてたレポートが突然のフリーズで吹っ飛んだ」

「ハァッ! ああやめろやめてくれ……んぉ? なんだお前か……おおアーサーか! よく来たな」

「……起こしてごめん。もう少し寝てきた方がいい、今度はベッドで」

「あーいや構わん、でもできればコーヒーをくれ」

「ん、言うかもと思ってそこに置いといたから、良ければ飲んで」

「お前は本当に気が利くなぁ。じゃありがたくいただくぜ。……はぁ、あーこれこれ、何か目覚めていく気がする」

「徹夜したんだから後でちゃんと寝なよ。で、徹夜でやってたのは……おっ、スーツに僕の細胞データをインプットしてたのか!」

「一晩かけてあれこれやって、ようやくいい方法に辿り着いたってとこだ……ふあぁ。いけねぇ、やっぱ動くのだるい。アーサー、インプット作業を自動で進めるために、今から指示する通りに入力しろ」

「プログラミングとか分からないんだけど大丈夫?」

「大丈夫、便利ツールがある……それがある程度はやってくれるから、それを動かすための指示なんだ、くぅぅ……。いいからつべこべ言わずに言うこと聞けホレ。まずは……」



 準備に費やされ、時間はあっという間に過ぎていく。

 強盗事件から1週間後、マッドが手を出したものはほとんどが締めの段階に入っていた。

 アーサーも自分の身体を鍛えている。効果はすぐに出ないがいつか実を結ぶと信じ、地道に続けるのみと己に言い聞かせながら。

 その日の午後、マッドは研究室で険しい顔をしてモニターを見つめていた。アーサーでもすぐには声掛けができなかったため、同じようにモニターを見るとそこには思いもよらない映像が映し出されていた。

「ねえマッド、これって警察の取り調べの映像だよね」

「なんだ来てたのか。その通り、1週間前の強盗犯たちの取り調べだ」

「……どうやって手に入れたの?」

くだんの強盗ン時、銀行の監視カメラにハッキング仕掛けたことあったろ。アレだよ」

 それ以上は聞かないことにした。

 画面に映るあの日の強盗犯たちは警官の取り調べに対して明瞭に返答していく。

 しかし4人ともそろって言いよどむことがあった。

 それは“動機”。「なぜ強盗を?」と聞かれると、皆一様に口ごもってしまうのだ。

「話したくない理由でもあるのか? でもここまではっきりと答えてきたのにここだけ言えないってのもちょっとおかしいような……」

彼らが聞かれたことに100%正直に答えているとして、だとすると答えないのは『正直に言ったところで信用されないから』ではないか。

ならば何が彼らを犯罪に走らせたのか、それを考えるより早く、がっしりとした身体つきの男――おそらくあの日の「A」だ――が意を決した表情で口を開いた。


『俺たちはみんな南に住んでた。少ない稼ぎに見合うくれえのぼろいアパートだけど、路上生活より万倍マシだった。でも強盗の2日くらい前、深夜の2時ごろに突然そこが壊されたんだ。当然俺たちゃまとめて家を失くし、おまけに元々少なかった金の貯えも失くした。だから強盗したんだ、金が要るから』

『そうか、なるほど良く分かった。しかし、一つに落ちないことがある。君たちが住んでいたアパートは何故壊された? 普通、家賃を納めていた君たちに通告も無しにそんなことをするはずがない』

『……ああ。ああそうだろう、普通はそんなことありえねえさ。だからよ……普通じゃなかったんだよ。おかしいことが起きたんだよ』

『何が起きたというんだ? 詳しく話してくれ』

『いいだろう。だがもう一度前置きしておく、これは普通じゃない。常識を捨てろ。いいか?……よし、なら話す。俺たちが住んでたアパートが突然ぶっ壊されたのはな……』


――猫の仕業なんだよ。それもゾウかってくらいでけえ猫のな。


「……信じるべきだと思うか、アーサー」

「……わからない。でもあり得ないとは言い切れない」

 身体に劇的な変化があったアーサーからすれば、自分以外にそういう存在がいてもおかしくはないと思えるのだ。たとえそれが猫だったとしても。

『猫? それは本当か?』

『ああ。ガキの頃に家で猫飼ってたから分かんだよ。光が少しだけ当たったが、体毛は光も吸い込んじまいそうなくらい黒かった。それに闇の中で金色の目がギラギラと光って見えてよ……』

「しかしゾウ並みと来たか。ライオンでさえ体高は約1.2m、ゾウに匹敵する体高3m超えのネコ科動物は普通いない。もし見つかってりゃ間違いなく図鑑にデカデカと載るぞ」

 それに強盗の2日前ということは、彼らのアパートが巨大ネコに破壊されたのは今から9日も前のことだ。それだけの期間、それだけの巨体が昼間でも隠れ続けられる場所があるとは到底思えない。しかしその手のニュースは全く入ってきていなかった。

 真っ黒な毛だという謎の巨大ネコは、闇に溶けたかのように完璧に姿を消していた。

「どうやら僕たちがやるべきことは決まったようだね。マッド、この猫を探そう」

「おいおい、そりゃ探偵の仕事だって相場が決まってんだろ……なんてのはナシだな」

 方針は決まった。だが捜索は困難に思われた。

 周辺の監視カメラなどの時間を遡って捜索しようにも、まず南にそんなものはない。設置されて10分で破壊されるか、分解されて売られるかだ。

 また南に入って事情を知っていそうな人物を探し、話を聞こうにも危険が伴う。そこに集う者たちの気質からして嘘を言わないとは限らない、というか本当のことを期待するほうが間違いだ。

だが猫のことであれば街で一番情報が集まるだろう人物のことをアーサーは知っている。

「ジェフリー氏に聞こう。彼なら何か掴んでるかもしれない」

「案外やつのところから逃げた猫かも知れんぞ」

「だとしても何食べたらゾウ並みに大きくなれるのさ。突然変異とか遺伝子組み換えレベルの話でしょ」

「人食い化け猫なのかもしれねえぞ。その手のモンスターはB級パニック探せばいくらでもいる」

「はいはい分かったよ。とにかくここで駄弁ってないで行こう。彼のことが苦手なら話は僕がする、君は車から降りてくる必要もない。それでいいだろ?」

「……足代わりにされるのは気に食わないが、仕方ねえ」

 話がまとまり外出の準備に取り掛かる2人。その途中、研究室の一角を見つめてアーサーが質問する。

「スーツとヘルメットの調整はどうなってる?」

「ん? あー……80%、最終調整中ってとこだな、じき完成だ」

「そいつは朗報。猫退治には間に合いそうだ」

 見つめる強化ガラスの向こう、『調整室』に決定された部屋の中央に設置されているマッスルスーツと、フルフェイスヘルメットを改造しスーツ同様細胞データをインプットした専用ヘルメットに、床や天井から伸びるロボットアームの先端から火花が散っている。何が行われているのか詳しいことは分からないが、完成していく様には心が躍るものだ。

「見てても作業は縮まらねえぞ」

「分かってるって。じゃ、行こう」



 颯爽と車に乗り込んだはいいが、2人には忘れていることがあった。曜日の概念だ。

 この日は土曜で交通量が増えるため渋滞が発生していたのだ。2人もそれに巻き込まれ、北に移動しジェフリーの邸宅に到着する頃には17時を回っていた。

 それまでに車中でSNSから情報収集を行ったのだが、シティの公園や大通りでここ最近器物破損が相次いで発生しているのが判明した。写真がアップロードされているものを確認すると、猫の爪痕に見えるような大きな傷が残っている。

「人がいそうなところばっかりだ。やっぱり放置しておけない」

 ジェフリーから話を聞くべく車から降り、インターホンを鳴らす。一度では反応がないため数回鳴らしてみるが、やはり返事はない。

「出かけてるのかな」

 日を改めて、と振り返ろうとしたところでマッドから連絡がきた。

『特徴に一致する猫が出入りしていないか調べたところ、ジェフリーの方が10日前に出て行ったきり戻ってないことが判明』

「どういうことだ……?」

 反応のない邸宅に帰ってこない主人。何かしらの事件の可能性が頭を過る。

 さらにマッドからの情報が入ってきた。

『14日前の映像に、強盗の語った特徴と一致する『黒毛に金目の猫』を発見。やっぱりこいつの飼い猫だ』

「……」

 ならばもしやこの家の中に件の化け猫がいるのか。しかしいくら外から眺めても中の様子はうかがえない。

 ならば中に入って確認するしかない。アーサーは2m以上はある鉄柵に手を掛けた。

『今から屋敷の中を確認するから、周辺のセキュリティをダウンさせてほしい』

『少し待て』

 言われた通りにしているとノートPCを持ったマッドがやってきた。

「奴がいないなら話は別だ。セキュリティを落とすぞ、合図したら入って内からそいつを開けろ」

 十秒程度のタイピング音の後、マッドが屋敷を指さした。アーサーは間髪入れずに鉄柵をよじ登り敷地内に飛び降りたが、警報が鳴ることはなかった。

「OKだ、行こうマッド」

「さあて不用心に玄関でも開けてりゃいいが、ダメなら窓でも割ってみるか」

「なるべく穏便に行きたいなあ……」

 不法侵入しておいて何をいまさらな言い草ではあるがとにかくアーサーはドアノブに手を掛けてゆっくりと回してみた。

「……ホント?」

「冗談のつもりだったんだが……」

 すんなりと開いてしまった扉を前にして、2人は揃って生唾を飲み込んだ。

 引き返すならここが最後などとは言い合わなくても理解している。あとは確認だけだ。

「いいね?」

「今更だろ」

「……僕が前を歩く。何があっても後ろにいてくれ」

「言われなくても。俺も死ねないからな」

 念のため鱗を出してからアーサーは主人不在の屋敷に足を踏み入れた。

 それほど広くなく、調度品などにも凝っているさまは見受けられない。それは家族である猫たちに配慮してのことなのは想像に難くない。

 誰もおらずセキュリティも解除され、不安はほとんどないはずなのに自然と足音を抑え警戒しながら歩いてしまう。だがそれでもここは既に相手が大きく開けた口の中かもしれず、警戒さえ無駄なのではないかとも思えてくる。

 わずかな軋みや衣擦れの音でさえ、空間に縫い留められたかのように長く残っている。屋敷の中はそれほどの静寂に満ちていた。

 けれど、そんなはずはない。音を立てるのは彼らだけではないはずなのだ。

「……ねえマッド。猫、見かけた?」

「例の奴か? お前が見つけてないならまだだろ」

「いや、そっちじゃなくて、普通の猫だよ。24匹もいるって言ってたのにこんなに静かなことってある?」

「……みんな外に出かけたって考えるのは流石に都合が良すぎるか」

 いよいよきな臭さが鼻につくようになってきた。この屋敷は何かがおかしくなっている。

 そのまま廊下を進んだ2人は一枚のドアの前で立ち止まる。この先は恐らくリビングだ。

 互いに頷き合い、アーサーがドアを開ける。

 その向こうには予想だにしなかった光景が広がっていた。

「何だこれ……押し込み強盗でもされたのか?」

 無残に引き裂かれ中綿が一面に飛び散るソファ、床に叩きつけられ画面が傷だらけのテレビ、引き倒されたテーブルやイス、床に破片が散乱する高級そうな食器類。ジェフリー・ピアースの居城は見るも無残に荒らされ放題だった。

「マッド、この状況ができたのはジェフリーがいなくなる前後とかっていうのは分かる?」

「それはCSIに譲るな……いや待て、こいつは」

 倒れたテーブルの裏に黒い水たまりができている。そしてそこからほんの数センチ離れた個所には、同じく黒っぽいものが固着した皿があった。

「食事の跡……?」

「っ! マッド、天井見て!」

 今度は天井へと視線を移すと、そこには規則正しく並んだ4本の大きなひっかき傷が無数につけられていた。これが何なのかなど最早考えるまでもない。

「3mもある猫なら天井で爪とぎもするってか」

「やっぱりここにいたのか……」

 その後2人は散開して屋敷の中の捜索を行い、アーサーは書斎と思しき部屋から日記帳を発見し再びリビングに戻った。

 しかしマッドはまだ戻っていない。キッチンに何かありそうだと言っていたのでまだ探しているのか。自分の収穫を報告するため、アーサーもリビングの奥にあるキッチンに入る。

 ずらりと並ぶキャットフードの数々。スーパーマーケットで見る品揃えよりも豊富な数の取り揃えがあった。こういうところにジェフリーの愛の加減を窺い知ることができる。

 そこにもマッドの姿はなかったが、さらに奥にもう一枚開けっ放しのドアがあった。

 覗き込んでみるとそこは地下室だった。照明が切れかかっているのか、チカチカと点滅しここからでは中の様子をうかがい知ることはできない。

 そこにいるはずのマッドに向けアーサーは声をかけた。

「マッドー、そこにいるー? 何か見つけたー? 僕は日記を見つけたー」

 が、返事はない。仕方がないのでアーサーは自分から地下室へ降りていく。

「マッド? おーい」

 階段を下っていくと猫背の背中が見えた。だがその背中に声をかけても微動だにしない。

「ちょっと大丈夫?」

 後ろから声を掛けると、今度こそ弾かれたように反応した。

「――ッ! ……アーサー、そこで止まれ」

「え?」

「ここには見ない方が幸せなままのモノがある。それ以上来ないで引き返せ、今すぐ」

「……分かった。でも、悪いね」

 今更その程度の警告で止まるならこんなところまで来ていない。だが言われたことに対してしっかり腹は括って階段を下り切った。

「!?」

 そこには金属の作業台のようなものがあり、その上にはノコギリといった工具に加え、食肉加工用と思しきナイフが取り揃えられている。

 そしてその中央には四肢を丁寧に切断され、腹部を切開されて内臓を引き摺り出され、頭部と背骨に肋骨、あとは毛皮しか残っていない黒猫の死骸が放置されていた。

「な……こ、これって……」

 思わず後退り目を背ける。考えの甘い数秒前の自分を殴りつけてやりたくなった。

 先ほど見かけた食事の痕跡とバラバラになった猫の死骸。その二つが結びついてしまう。

 分かるけれど分かりたくない一心、口に出せばそれが確定してしまうような気がして、両手で口を塞いででも言葉が漏れないようにしなければならなかった。

 マッドはテーブルに近付き嫌悪感を隠さないアーサーの視線を死骸から遮り、それをあらためながら問いを投げた。

「アーサー、日記見つけたんだったよな。どこを読んだ?」

「さわり、だけ」

「よこせ。多分、お前が思った通りのことが書かれてるはずだ」

 手の中にある分厚い日記帳は今、やけに重々しく感じられる。まるで怨霊の取り憑いた呪物の如しだ。

 マッドはそれを渡すよう後ろ手を出し続けているが、アーサーはもう一度目の前の状況を頭に叩き込み、それから一度深呼吸し、ページを開いた。

「最初の日付は5年前、猫を飼い始めたことから始まってる……」

「おい無理すんな、俺が読む」

「大丈夫だ、ちゃんと覚悟はできた。ジェフリーが何をしていたのか、知らないと」

 アーサーは曲がらないと察し、マッドも日記帳を覗き込んできた。

 猫を飼い始めたことから始まる日記帳の内容はやはりすべてが猫にまつわることだった。

 街のどこで猫を見かけた、猫を飼っている家族と話をした、捨て猫を拾った、暮らし始めてから1年が経過した、等々の何の変哲もない記述が続いていく。

 だが飼っていた猫のうち既に成猫だった個体が家に来て半年、今から3年と10か月ほど前の日付に、ついにそれは書き記されていた。


 私は彼らを愛している。何より大切な家族だ。

 幼い頃に両親を亡くし家族の愛を求める私の記憶の中に、常に彼がいた。

 もう彼がどんな特徴をもった子だったのかなど思い出すこともできない。

 何故寄り添ってくれていたのかさえ思い出せない。私は薄情者だ。

 それでも彼は、猫は、私にとって家族、そして愛を思い出せる象徴だった。

 私がもっと若ければ愛する人を探し、両親と同じように家族を持つこともできただろう。

 けれど私は彼らを家族に選んだ。

 だから私の愛の全てを受け取るのも、私を愛してくれるのも、彼らだけでいい。

 愛している。だからより強く、深く繋がっていたい。

 想いを実現するため私が考えられたのは、彼らを食し自らの血肉とすることだけだった。

 今日、私は食べ頃だと感じた成猫を選び名前を付けてやった。

 最初の一匹だから「アルフレッド」。次の子はBからだ。

 名付けた彼を食した後、私はえも知れぬ多幸感を覚えた。味の方は然したる問題ではない。

 愛し、愛され、一つになる。

 これこそ本当の愛のカタチなのだ。


「……人の趣味に口出すのもアレだが、こういう思考と行動、俺は嫌いだぜ」

「クソッ」

 街いちの愛猫家ジェフリー・ピアースは、自ら育てた猫を食う趣味があった。

 こんなショッキングでエモーショナルな事実は、どこかのジャーナリストにでも適当に知らせてやれば大喜びで飛びつくだろう。

 知りたくなかった事実を腹の底に沈めつつ、アーサーは最新の記述を探すためにページをめくる。猫に関することしか書かれていないなら、ここの黒猫を拾った日と食った日のことが近いうちに書かれているはずだからだ。

「あった。14日前に黒猫を拾ったことと、11日前に――そいつが他の猫24匹をみんな殺したって」

 そして11日前の朝になって突然、成猫並みに身体が成長したことも記述されている。

「突然デカくなった猫が出てきたな。いよいよ核心に近付いてきたぜ……」

 このまま読み進めればきっとジェフリーが猫を食った記述が出てくるに違いない。そうすれば――

「――いや、ちょっと待って。強盗犯たちが事件を起こすきっかけになったのが巨大な黒猫で、それがジェフリーの飼ってた猫なのはほぼ間違いない。でもさ……ここで食べられてるなら、成立しなくない?」

「ん、ん? 何、急になんだ?」

「強盗たちのアパートが壊されたのが9日前。もし、もしだよ。次のページで猫を食ったことが書かれてて、それが9日前から後のことなら、ここにいる普通サイズの猫は何なのさ?」

「……確かにそうだ。大きさが一致しねえ」

 もし10日前などに猫を食っていたならそもそもその後に巨大な猫は現れず、逆にそれより後に食っていたならここにある死骸は3m以上なければおかしい。いずれにしても時間とサイズの辻褄が合っていないのだ。

 謎を解くため2人は慎重に次のページを開く。

 果たしてそこには――10日前の記述があった。


 あの子は私が出会ってきたどの子よりも素晴らしい。

 本当の“運命の出会い”とは、あの子との出会いを言うのだろう。

 あの子は味までも格別だった。

 そしてこの身体に愛だけではなく力が漲っていくのを感じている。

 あの子がいれば他に何もいらない。

 この思いを胸に私は余生を生きていくことすらできそうだ。

 あの子にも名前を付けよう。

 次の名前はPから始まることになっている。

 あの子に似合う素晴らしい名前は


 そこで記述は終わっていた。

 文字から、文章から、喜びが溢れ出ているかのような記述だ。同時に、興奮に任せて書きなぐったのか全体的には酷く汚い字で書かれている。

 他の情報はともかく、これで10日前に黒猫を食べていたことが確定した。

 ということは、アパートを破壊したのはここの猫ではないことになる。

「畜生、他人の異常嗜好を知っただけで終わりか。さっさと帰るぞ」

 アーサーも口を挟むことはなかった。

 けれど地下室を出てキッチン、さらにリビングに戻るとやはり疑問が湧いてくる。

――食われていなくなったなら、このリビングの傷は誰がつけた?

――どうしてジェフリーは死骸の片付けもせずに消えた?

――アパートを襲った猫は結局なんだったんだ?

もう一歩で全体像が見えてきそうなのに繋がらない情報をいくつも並べては延々と考え込んでいたアーサーは、間もなく玄関というところで先のマッドの言葉を急に思い出し、彼に質問した。

「――ジェフリーは10日前にいなくなったって言ったよね? それは9日前に日付が変わる頃のこと?」

「あぁ? えーっとだな……あーそうだそうだ、ほとんど0時に近い頃に家を出てった」

「よしよしよし。それでアパートが破壊されたのは9日前の深夜2時だ。因果関係があると思わない?」

「――は? いや確かに時間は繋がってるが、じゃあ猫はどうなんだ。まさに前の日に食われてんだぞ。2匹目でもいるってのか?」

 マッドは言外に“馬鹿馬鹿しい”というニュアンスを含め途中で言葉を切り上げ、玄関のドアを開いた。


 ここに到着したのが17時過ぎだったこともあって外はもう暗い。打って変わって眼下には輝く都市の光が見える。土曜日なのでどこも賑わいを見せているはずだ。

「辛気臭くなっていけねえな。なんか食って帰るか?」

「――? ――!」

 だがマッドの提案は右から左へと抜けて行ってしまった。

 なぜならマッドの奥、門の近くに人の姿を見たからだ。

 探していた、しかし今この瞬間には一番会いたくない人物。

「――おや。帰って来てみれば誰かいるじゃないか、んん?」

 この邸宅の持ち主、ジェフリー・ピアースが10日ぶりにそこに立っていた。

「ジェフリー……」

「おお! 君はこの前の……そうアーサー! 君はなぜここに?」

 にじり寄ってくるジェフリーを前に、アーサーの額から冷や汗が流れ出す。

 彼は柔和な笑みを浮かべているが、裏の顔を知ってしまってはそれが本心なのか仮面なのか一見しただけでは分からない。

 仮に何か起きたところで体格差だけで考えるならアーサーが負けることはほぼあり得ず、マッドも加えれば取り押さえるのは赤子の手をひねるようなものだ。恐れることはないはず。

 それでもジェフリーが一歩一歩進むごとに場の空気は重い緊張感に支配されていくようで、アーサーも身じろぎ一つできなかった。

 そんな中で両者の間にいるマッドが口を開いた。

「俺たちゃ見るからに怪しいわけだが、そこんとこ警告とかないのか?」

「私には盗まれて困るようなものなど何もない。金目の物などないと、見てきたなら分かるだろう」

「ほーう。だが知られたくないようなことはあんじゃねえのか、なあ美食家さんよぉ」

「!」

 足がピタリと止まり、表情が引きつった。知られたくないことなのは間違いないようだ。

「こっちはあんたの趣味のことも知ってんだ。愛してるから食う? 俺にはさっぱりだぜ」

 マッドはこれ見よがしに日記帳をぶらぶらとさせてみせた。

「それを、どうするつもりだ?」

「さて、どうしたもんかねぇ」

 ジェフリーはその場から動かずじっと地面を見つめている。一方マッドはなんの感慨もなく門に向かい、すれ違いざまジェフリーの肩を軽く叩いた。

 そして今度はアーサーが質問をする。

「あなたが最近食べた黒猫、それと似たような特徴の猫が南に出たって話、知ってますか」

「…………」

「僕たちは1週間前に起きた銀行強盗の理由がその猫だと知って調査に来たんです。でもどうしても地下で見た死骸と様々な時間が繋がらない。……あなたに聞くことではないかもしれませんが、何か知っていれば教えてくれませんか」

「……なぜそうまでして探すのかね?」

「生きてるか死んでるかは知りませんが、その猫が人の集まりそうなところに出ては物を壊した痕跡が残ってるんです。早く止めないと酷いことが起こる」

「そうか…………そうか」

 一瞬協力してくれるのかと安堵しかけたアーサーだったが、ジェフリーの身体が激しく震えているのに気付き、先ほど以上にえも知れぬ悪寒に襲われた。振り返ったマッドもその異様さに目を奪われている。

 まるで彼の内側から何かが飛び出そうとしているのを必死に堪えているかのような。

「あの子は、ペーニャは素晴らしい。あの子に出会い、あの子と一つになれたことは、私の人生における、何にも勝る幸福だった」

 滝のように汗を流し視線の定まらない彼の顔を見て、『このままにしておいてはまずい』という本能の叫びに従いアーサーは駆け出す。手遅れになる前にジェフリーを拘束しなくては、何か、何かが起きてしまう――。

 しかしその判断は遅かった。

 彼は全ての喜びを知るかのような恍惚の表情で、天上にいる尊きものに届かんとばかりの大声を張り上げた。

「君は私の運命だ!!!」

 その瞬間、全てが変わり始めた。

 手が、足が、大きく変化していく。丸太のように太くなり衣服を容易く裂いた手足は、闇に溶けるような黒い毛皮を纏う。胴体も頭も連続して変化を遂げ、暖かさを感じさせるはしばみ色の瞳も闇の中で煌々と輝く金色に変わった。

 2人が探していた巨大な猫――それはジェフリー・ピアースだったのだ。

「シャアアアアアァァァァッ!!」

 夜空に吼える黒猫。その瞳が天の星々の次に見据えたのは近くにいたマッドだ。

「あ――」

 大きな左腕がゆっくりと振り上げられる。その先端にある爪は多くの物を傷付けてきた最強の刃物、振り下ろされれば今度はマッドが地下室の猫と同じ死体になってしまう。

「ああぁぁぁああぁぁああッ!!」

 空気に飲まれてしまったのか呆然と黒猫の腕を見つめたまま動こうとしないマッドを助け出すため、アーサーも叫びながら全力で駆けた。黒猫の股下をスライディングで通り抜け、そのまま目の前のマッドの足を払って転ばせる。だがもう腕は振り下ろされていた。

「シッ!!」

「ハッ!」

 上半身をまるごと鱗で覆い、両腕を交差させて黒猫の左腕を受け止めるアーサー。感じたこともないパワーが重さとなって圧し掛かってくるのを地面に踏ん張って必死に耐える。

だがそれもいつまでも続くわけではない。

「あぁ……ぁあぁあッ!」

「ア……何!?」

 アーサーの銀色の腕から赤い血がしたたり落ちる。決して鱗への変化が間に合わなかったのではない。単に黒猫の爪は銃弾を弾きチェーンソーも効かない鱗にすら突き立ったのだ。

 これではアーサーですら多少耐えられるだけで、マッドとの差は死への遠近程度しかない。ここでボケっとしていれば彼はマッドを守るために死に、その後当然のようにマッドが死ぬだけだ。

「クソッ!」

 本当に仕方なくアーサーを置いて一目散に車へと向かいエンジンをかける。そしてライトを黒猫に向けてハイビームを照射した。

「ギャアァッ!?」

 化け物じみていてもそこは猫、強い光に弱いのは変わっていなかった。不意打ちを貰った黒猫は後退りながら前腕をぶんぶんと振り回している。アーサーは巻き込まれないように必死で地面を這った。

 狂乱状態に陥った黒猫はあちこちに威嚇のジェスチャーをした後、

「ウウゥウゥウ……ゥアアアァッ!!」

 唸り、塀を飛び越えて坂を下って行ってしまった。

「あっ――あいつ、中央に……!」

「おい大丈夫かアーサー!?」

 門に背中を預け呼吸を整えている彼の全身を急いで確かめたが、幸いなことに先ほど左腕を止めた際の傷以外はなかった。しかしその傷口からは未だに鮮血が流れ出ている。マッドは急いで自分のシャツの裾を千切った。

「元に戻せ。とりあえず処置だ」

「そんなことより奴を追わないと、街の人たちが――!」

 アーサーはすぐに立ち上がろうとしたが、マッドは傷口の近くに敢えて触れた。

「つっ」

「落ち着け。気が逸るのは分かるが今は手当てが先だ。それに俺たちはこんな状況に対処するためにこの1週間準備してきたんだろうが。忘れたのか」

 その言葉がアーサーの冷静さを取り戻すきっかけになった。

「今から戻って装備を整える、その上でジェフリーを……あの化け猫を仕留める。だから今は待て。思うところがあっても腹に貯めて、後で爆発させろ。……それにしても、こんなことになるとはな」

 腕を固く縛り応急処置を終えたマッドは急いで運転席に乗り込みカーラジオを点けた。助手席に乗り込んだアーサーはラジオを弄り情報を集めようと試みる。そうこうしている内に車は発進した。

「奴のはどうだ?」

「まだ流れてないけど多分、時間の問題だ」

 可能な限り飛ばしながら丘を下ると、眼下にあった光は数分で同じ高さに並んだ。現在走っているのはシティの中央を縦断するメイン中のメインストリートであるアスラン通り、ここで四方を見渡せば人の流れを掴むことができる。

 だがかなりのスピードで通り過ぎていく人波を注意して見ても、まだ大きな混乱の様子は無かった。

「まだ降りてきてない?」

「建物の上かも知れねえ」

 いずれにせよ南下する間に大きな混乱は発生していなかった。あるいはすでに過ぎた北の方で暴れているのかもしれないが、そこまでは分かるはずもない。

 やがて廃墟が近付いてきたが、マッドは殆ど速度を落とすことなく敷地に入りガレージに突っ込んだ。アーサーが急いで車から降りようとすると彼は手で制す。

「このまま中に入れる、少し待ってろ」

 そう言うと結構な揺れと共にガレージ内に置かれた様々な工具が天に昇り始めた――否、床がエレベーターとなって下へ進んでいるのだ。また出てきた知らない設備にはこんな状況でも驚くしかない。

 そしてもう一度揺れがありマッドが車から降りた。倣って車から降り、彼の後を追って地下道を進む。

「大型機材を搬入する時の通路だ。機材積んだトラックなんかがそのまま降ろせて便利」

 やがて辿り着いた壁面に埋め込まれたテンキーをいくつか押すとドアが開かれ、すぐ目の前には研究所があった。急いで中に入る。

「スーツを着る前に包帯を巻き直す、ちょっと待ってろ」

 マッドが救急キットを持ってくるのを待つ間、アーサーはデスクを操作してシティのラジオ一つ一つを聞き情報収集に努めたが、めぼしい情報はないまま先にマッドが戻ってきた。

「なんか分かったか」

「いいや。予想以上に静かだ」

 このまま何事もなく杞憂で終わってほしい、そういう思いも湧いてくる程には何も起こっていない。だが彼らの経験と勘が告げているのだ、『そう甘いわけがない』と。

 エタノールが沁みる痛みに耐え、包帯がきつめに巻かれる。この上からスーツを着こめば圧迫されて多少は効果が上がるはずだ。

「それでマッド、スーツは完成した?」

「おうよ、ほんの10分前に仕上がったようだぜ。……いよいよだな」

「ああ。できれば使う日が来ないことを祈ってたけど……やるよ」

 アーサーは気合を入れるために自分の頬を叩き、完成した装備が置かれているフィッティングルームに入った。と言ってもやることは簡単で、服を脱いで専用の下着に着替え、その上からマッスルスーツを着用するだけだ。完成前の試験時にマッドが『せっかくヒーローに変わるのに風情が無くて面白くない』と言っていたのが今なら少しだけ分かる気がする。

 とにかく、背中にバッテリーの重さを感じながらも改造されたヘルメットを抱えて部屋から出る。その姿に、こんな状況であっても興奮を抑えきれない様子でマッドが駆け寄ってきた。

「おお……! まだ不格好だが、いや中々どうして動くと悪くねえもんだ! どうだアーサー、思った通りに身体は動くか?」

「そこは君を信じて良かったところだよ。鱗もほら、この通り」

 軽く飛び跳ねながら両手両足を大の字に開き、腕の表面で鱗のウェーブを作ってみせる。レスポンスは全く問題なかった。

 完成した最初の装備を前に2人の間の空気が少し弛緩するが、そこに冷や水をぶっかけるようにラジオが緊急速報を吐き出した。

『ただいま速報が入りました。中央第4ブロック周辺にて詳細不明の大型生物が出現、通りで暴れ回っているとのことです。周辺区域にお住まいの方、お出かけの方は外出を控え、速やかに建物の中などに避難してください。繰り返します――』

 とうとうジェフリーが変貌した黒猫は人に牙を剥いた。2人は目線を交わして頷き合い、すぐさま元来た道へと走り車に乗り込んだ。


 車中、マッドはせわしなく車を操りながら口もまたせわしなく動かす。

「確認するぞ、スーツはフル稼働でおよそ30分がいいとこだ。傷の具合もあるだろうが全力を出せるうちに手早く片付けろ。メットには通信装置を備えてある、何かあればすぐ報告しろ、俺もできる限りバックアップする。パワーは全力で400kgは持ち上げられる、それでぶん殴ればいくらあの巨体でも耐えられはしねえだろう。問題は奴の爪だ、これについては躱せ、当たるな以外に言えることが無い。いきなりお前の強みが通じねえ相手だが、なんとかするしかねえ」

「ああ分かってる全部分かってる! それよりなんか作戦とかない? 正直このままじゃ大分無謀だよ!」

「今は何も言えねえ、向こうで実際に戦いながら考えるしかねえ。それ以外はお前のアドリブ力が頼りだ」

「結局前と変わりなしってことね……!」

 19ブロックから14ブロックに入り、2人は黙ってラジオに耳を傾けた。先ほどは4ブロックにいると言われていたジェフリーだが、今は9ブロックと変わっている。

「近いなっ」

 情報を裏付けるように対向車線を結構なスピードを出して走っていく車と、後ろから2人の車を追い抜いていくパトカーの数が次第に増えていく。

「東に行きでもしたらコトだぞ!」

「だな! そろそろ着くぞ、メット被っとけ!」

 それよりアーサーは具体的に9ブロックのどこでジェフリーが暴れているのか少しでも掴むためにできる限り遠くを、人や交通の流れを見るように努めた。そして9ブロックとの境も近付いてきた頃、人の流れが東から来ているのが見えた。

「マッド! 9ブロックに入ったら東へ!」

 言葉で答える代わりに車がさらにスピードアップした。今度こそアーサーもヘルメットを被りスーツのスイッチに左手を掛ける。

 9ブロックに入りマッドは言葉通り東へハンドルを切った。その通りにはいないが、更に2本先の北方向から恐怖に顔を歪め逃げる人々の様子がハッキリと分かる。

「――もうすぐだ。準備はいいか?」

「ああ。ぶっ飛ばしてくれ」

 右手でドアのハンドルを握り深呼吸。集中が深くなっていくのか、単にヘルメットを被っているからなのか、周囲の音が徐々に小さくなっていく。反して確かに聞こえる自分の心臓の鼓動の音だけはどんどん大きくなっていく。


 際限なく緊張感が高まっていく中で、何かが触れるのが分かった。

 マッドの右の拳が心臓の位置に重ねられていた。

「ビビんなアーサー。ヒーローの初陣ういじんってのはだいたい上手く行く、安心しろ」

「……それって強盗の時じゃないの?」

「あー、そうだった。でも大丈夫だろ、お前の力と俺の装備だ、きっと何とかなる」

「ハハッ。こんな状況ならいい作戦でも言って欲しかったよ。でも……そうだな」

 アーサーは自分の右手をマッドの拳に被せる。

「やろう、君と僕で。街と皆を守るんだ」

 心は強い決意で満たされた。思いは眩い鱗となってアーサーの身体を覆っていく。

 2本目の通りに差し掛かりハンドルを左に切って再び北を向けば、そこには間違いなく奴がいた。

 人間の営みの光の中にあって、それらすべてを向けてなお輝くことのない漆黒の巨体。変貌したジェフリー・ピアースが警官たちと睨みあっていた。

「僕の方を奴に向けてほしい。できる?」

「任せとけ」

 マッドはハンドルを握り直し、アーサーはドアを開けて身を乗り出す。逃げる市井の人も、遅れて合流する警官たちも、爆走するその車に目が釘付けになった。

「行くぞアーサァー!!」

 マッドは突き抜けろとばかりにブレーキを踏み込み、同時にハンドルを全部左へ切った。右の助手席が正面ジェフリーの方に向き、アーサーはスーツのアシストに車の勢いを受けて高く、長く、警官たちの頭上を大きく飛び越え、ジェフリーの眼前に着地してみせる。


「!?」

 パトカーを遮蔽にしていた警官たちは突然頭上から現れた銀色の人間に目を奪われ、


「シィィィィッ……!!」

 怪物と化したジェフリーはそれが何なのか理解し威嚇の声を上げ、


「――行けアーサー!!」

 ただ1人の協力者であるマッドはヒーローの名を強く、強く叫んだ。


 いくつもの視線が集まる中で、彼の瞳はひたすら真っ直ぐに目の前の脅威を見据える。


「この街を、皆を、僕が守る! ジェフリー! お前の相手は僕だ!!」

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