3.Turning point

 アーサーの身体に変化が起こってから1週間が経った。あの日以来身体の調子には気を遣っているが特別変わったことは起きておらず、異変が起こった前後で生活が激変するというようなことはなかった。

 変わったことと言えばマッドの過去に対する興味くらいだが、ここから関係を崩壊させてしまっては双方にとって不利益という判断と彼の気持ちと契約の3つから意図的に聞かないようにしていた。

 午前10時。紙袋を抱えて今日も残骸ルインズに出勤してきたアーサーはハッチの前に辿り着くと、スマートフォンから7ケタのパスコードを送信した。普段はそれがカギで受信から10秒後にハッチが開くのだが、今日は何故かその前に開いていく。どうやらロックが掛かっていないようだ。

「あれ、マッド今日は起きてる。徹夜したかな」

 だいたい11時以降から正午にならないと起きないような生活をしている彼がそれより早く起きているのはかなり珍しい。というかよっぽどのことを除いて映画やゲームで徹夜して元々寝ていないような場合だけだ。

 とにかく彼の様子を見るために階段を下るアーサー。すると中頃でいつもとは下からの様子が違うことに気が付いた。

 いつもとは光源の向きが違う。普段通り下って行けば右側から光が差すはずだが、今日は正面から光が出ている。アーサーの知る限りそこには壁があるだけで、ドアはおろかライトなどもなかったはずだ。

 真実を知るため、階段を下る足が速くなった。そしてきっちり30段下り切った彼の視界に飛び込んできたのは――

「……何、これ」

 最低でも向こう30メートルはあろうかというほどの広大な空間だった。

 吸い寄せられるように足が進む。普段壁だと思っていた所には何もなく、彼の歩みを妨げるものは何もない。

 そのまま向こうへ行こうとしたが、突然甲高い警報が鳴り響いたかと思うと、爪先辺りから鉄格子が天井へ伸び上がった。事態が呑み込めないまま、急いで振り返ると既に背後の壁も閉じている。もう一度前を向くと右側まで鉄格子で囲われており、アーサーは理解もできないうちに閉じ込められてしまっていた。

「はぁ……なにこれ?」

 檻の中は1メートル四方程度の広さがあるので、やや狭いが床に座り込んだ。

 格子の隙間から外を見ると、広い空間の割に中にはほとんど何も置かれていなかった。精々彼から右にあって床とガッチリ固定された大型の会議テーブルのような物だけだ。位置関係からかんがみると、生活スペースでテレビが置かれている場所のちょうど裏側に当たる。

 周りを見るのもすぐに終わったので今度はこうなった原因を考え出した。

 といっても答えはすぐに出た。マッド以外に何が考えられるわけでもない。

 ――ハッチの件もそうだったけど、なんか妙だな、ここ。

 ――まあ、スクラップ置き場の地下に住んでる時点で妙だよね……。

 ふう、とため息を吐いたところで、どこか離れた場所からスライドドアが開く音が聞こえた。

「……ああ畜生、やっちまった」

 会議テーブルの更に向こう側、恐らくはベッドが置かれていた辺りからマッドが姿を現した。檻の中にいるアーサーの姿を見つけると急いでテーブルに駆け寄り、その上でタイピングでもしているかのように指を動かすと、彼を封じていた鉄格子が床へと戻っていく。

 一部始終をしっかりと頭の中に収めて立ち上がると、マッドもいよいよ観念したというような顔つきだった。

「おはようマッド。早速だけどここは何だか教えてくれ。……言い訳は聞かないよ」

「あー……仕方ねえか……。その前にブツの確認だけさせてくれ。中身は?」

「ルーベンの店のデラックスバーガーを『トリプルビーフクアトロチーズピクルス抜きケチャップ多め』とコーラ、オプションでポテトとナゲット10ピース」

「グッド。お前の分は?」

「取っといてある、あとでランチに使うから」

 紙袋を胸に押し付け一歩二歩と進んでみる。テーブルに近付いていくとその本質が見えてきた。

 テーブルトップには液晶画面が埋め込まれており、手前にはスクリーンキーボード、それ以外では様々なファイルが2メートル程度の画面の端から端まで並んでいる。真ん中にあるファイルに手を伸ばして触れてみると3日前にマーサの所で撮影された写真が出てきた。

「これは……」

「ストップだ。説明するからそれ以上何にも触れずにそこから離れろ」

 大人しくホールドアップし一歩下がる。間に割り込んだマッドが慣れた手つきで二、三操作すると全てのファイルが同時に消えた。

 一呼吸おいて再び操作すると、今度は正面の壁に埋め込まれた巨大モニターに光が灯る。そこに表示されているのが何なのか完全には理解できなかったが、化学式がずらりと並んでいるのは何とか分かった。

 そしてゆっくりと深呼吸をしてマッドは口を開いた。

「……ここは平たく言えば俺の作業場だ。『だった』が正しいけどな。一応こんなんでも昔はいっぱしのエンジニアだったんだぜ」

「エンジニアだった……ってことは、外のハッチとかは」

「あれに限らずここの設備は全部俺が考えたモンだ。できたばっかの頃は俺の城と思って趣味で研究も開発もしたんだが、今はこの通り空っぽよ」

 テーブルに腰かけて両腕を広げてみせたマッドの顔は少し寂しげだった。

「そうか……てことは、僕の写真のファイルは僕の身体について調べてたって事?」

「その通り。研究はマーサにも頼んだ……まあ押し付けたわけだが、俺も調べりゃ何かわかると思って、昨日の夜送られてきたばっかのデータを夜通し調べてた。んで久々にここを使って色々考え事をしてたせいでうっかりロックをかけ忘れて、さっきのお前のアレに繋がるわけだな」

「へえ……それで、何かわかった?」

「そう焦んな、まだ始まったばっかだ。ただ俺が分かってることが一つだけある。お前の鱗にはハンマーもドリルもバールもチェーンソーも効果が無いってことだ」

「……はっ? 何で工具の名前が出てくる……えっ、それを僕の身体に向けたってこと? いつ!?」

「変化が起こったあの晩だよ。って、ああそうか、お前には話してなかったか。あの晩、何とか助け出そうとしてその辺の工具を使ってみたんだが、まあ鱗の硬えのなんの。お陰でチェーンソーがオシャカな上にソファまで焦げちまった」

 自分の身にもう一つヤバそうな事態が起こっていたことを知ってちょっとしたパニック状態に陥ったアーサー。そう言えばあの日目覚めた自分の周りには工具が置かれていて壊れたチェーンソーもあったし、なんならそれらは自分で片付けたという記憶がここへきて一気に蘇ってきた。

 『俺はよくやった』と言外に伝えてくるマッドの表情に腹が立ち、同時に助け出そうとしてくれたことへの感謝の念が湧き、ごちゃごちゃで治まりのない頭の中がパンクする前に一気にまくし立てた。

「あああもう! 顔がムカつくけど助けようとしてくれてありがとう! でも身体にしたことは早めに言ってほしかったよ!」


 12時。マッドが特製のハンバーガーその他を食べ始めたのと同じころに残骸ルインズを出たアーサーは、ランチのために馴染なじみのある中央のダイナーを訪れた。

 昼時なのもあってそれなりの客入りが外からでも分かる。彼が店に入るとやせぎすなウェイター、ダグが肩を叩いてきた。

「ようアーサー。今日はなんとなくお前が来る気がしてたぜ」

「ダグって結構勘いいよね。今日は“どう”?」

「……ヘヘッ、言ったら台無しだろうが」

「それもそうだ」

 カウンター席に座ったアーサーの前に、今度は対照的に肥満体系のスコットがメニューを手にやってきた。

「やあスコット。今日のオススメは何?」

「断然サンドだな。いいベーコンが入ったんだ。たっぷりのマスタードとチーズも付くぜ」

「へえ……」

「…………」

 アーサーが今日のメニューをあれこれと見回すのを、スコットは微動だにせずに見守っていた。

 一瞬顔を上げてみると2人の目線がぶつかりスコットが目を逸らす。その反応に意地悪く頬を緩め、アーサーはメニューを返却した。

「決まったよ」

「……おう。何にする?」

 あえて溜めるアーサーと、メモを待つ手が震えるスコット。遠くでダグが笑う。

 たっぷり緊張感を高めてから、アーサーはオーダーを告げた。

「――おすすめのサンドをお願いするよ」

「……確認するぞ。サンドで間違いないな?」

「ああ。今日はサンドだ」

 はっきりと復唱し、2人の間には独特の沈黙が訪れた。

 そして――

「チクショウ! お前それ選ぶのかよチクショーーーッ!」

「ハハハハハ。どうやら今日は君の負けみたいだね」

 スコットはカウンターにがっくりとうなだれた。

 一方ダグはまたアーサーの肩を叩いてニヤリと笑った。

「ヘヘッ、お前に賭けて良かったぜ。サンキュー、アーサー」

 そう、ダグとスコットの2人はアーサーを使って賭けをしていたのだ。

 客がどのメニューを頼むか賭け、負けた方がその日の2人分のランチ代を出すという程度のものだが、これがなかなかクセになってやめられないらしく、行くたびにその話を聞かされていた。ちなみにどっちも外れた場合はノーゲームとなるらしい。

「スコット、今週は何戦何勝?」

「7戦2勝……」

「俺はこれで4勝になった。フフ、負ける気がしないぜ」

 3人が和気藹々と話していると、カウンターの奥からひげもじゃの男性がのっそりと現れた。

「今日も来てくれたのかアーサー。ゆっくりしてってくれ。そんで、お前らはまだ仕事の時間だろ! 仕事に戻りやがれ!」

「へーい」

「チクショウ、チクショウ……」

「うるせーぞスコット!」

 このひげもじゃの男性はここのオーナーのマクダネル、多くはマックと呼ぶ。がさつそうな見た目と裏腹に提供する料理はかなり美味しいと評判の料理人だ。味についてアーサーはもちろん身に染みて知っている。

 しばらく待つと、大きなクラブハウスサンドの皿が目の前に置かれた。

「ほらよ。お前は正しい選択をしたな」

「ありがとうマック。スコットにとってはそうでもなかったみたいだけど」

 食事時の癖で、腕時計を外してテーブルに置く。

「ったく、あいつらはまーだあの賭け事やってんのか」

「そりゃあオーナーがギャンブル好きなら、ねえ?」

「ゲッ、まだ覚えてたのか。バーバラには……」

「喋ってたらとっくにそのひげを刈り上げられてるでしょ」

 マックは肩を竦めひげを撫でた。

 彼のワイフであるバーバラはこの店の経営を一手に担っているため、夫婦間の財布事情もだいたい彼女に握られているのだ。だがアーサーは、マックが困ったことにギャンブルが好きで、度々彼女を言いくるめては金を引き出しそれに注ぎ込んでいるのをひょんなことから知っていた。

 アーサーがサンドを頬張っていると休憩に入ったダグとスコットが隣に座った。

「なあ、なんでサンドを選んだ? ダグになんか言われたのか?」

「スコットが悪いんだよ? 大方、ああやってプッシュされたら怪しんで選ばないのを期待してのことだったんだろうけど、口が下手ですぐ分かったからね」

「ヘッ。賭けに勝ちたけりゃ運以外にもいろいろ必要なんだぜ。そろそろ分かってきただろ」

「チクショウ……お前らなんか嫌いだチクショウ……」

「そこまでにしとけ。席塞いでねえでさっさと飯食いに行ってこい」

 マックに尻を叩かれて2人が店を出て行ったあと、入れ替わりでスコット同様肥満体系の女性が入ってきた。彼女はアーサーを見かけると、大きく両腕を開いて親愛の表情を浮かべながら近づいてきた。

「あ~らアーサー! 今日も来てくれたのねえ嬉しいわ~!」

「アハハ。こんにちはバーバラ」

 アーサーは彼女の贅肉を受け止めるようにハグを交わした。やや高めの体温と肉感に不快感を覚えてしまうもののそこはそれ、お得意様の機嫌を損ねないように感情のセーブはバッチリである。

「ゆっくりしていってちょうだいね」

 そう言い彼女はバックヤードに消えた。

 あとに残されたアーサーはサンドの最後の切れっ端を口に放り込み、水で口を潤した。

「はぁ、ごちそうさま」

「アーサー、この後急ぎの用事はあるか?」

「特には。どうかしたの?」

「いや、無いならまだここでゆっくりしていけ。こいつはサービスだ」

 そう言ってマックはアップルパイとコーヒーを差し出した。

「……あと口止め料代わりだな」

「ハハハ。別に言わないけど、貰えるなら有り難く貰っておくよ」

 食後のデザートを有り難く口に運ぶアーサーに対し、マックは穏やかな昼下がりにはあまり似つかわしくない結構に真剣な顔突きをしていた。

「どうしたのさそんな顔して」

「いや……俺もそろそろギャンブルから足を洗った方がいいのか、ここんとこ考えててな」

「おお……そいつは中々一大決心だね。なんでまた」

「ウチの娘がそろそろ大学に通うことを真剣に考えだしててな。どんなとこに行きたいって言い出した時、親がギャンブルで金使ったんで未来を潰しちゃ世話ねえ」

「そうだねえ。でもこれまでギャンブルが好きだったマックは辞める決心がつかないわけだ。それにもしかして、大勝ちしたら楽に稼げる……とか思ってる?」

「……今のは言わなかったことにしてくれねえか」

「おっと、ごめん」

「いや、お前は悪くねえ。悪いのはグズグズしてる俺だ」

 そこで2人の会話は途切れた。

 ばつの悪い沈黙を破ったのはバックヤードから再び出てきたバーバラだった。

「あんた、予備の現金が足りないよ。銀行行って降ろしてきてちょうだい」

「お、おおそうか。悪いなアーサー、そんなわけでちょっくら出てくる」

 そう言って店を出て行ったマックの後ろ姿を見送り、パイの残りを口に運ぶ。

 店内に流れる有線放送は特に面白そうな情報を提供してくれるでもなく、何事もない時間がただゆっくりと過ぎて行った。

 パイを食べ終えたアーサーはサンドの値段ちょうどと幾らかのチップを置いて立ち上がる。

「ごちそうさま」

「今日は世話になったなアーサー。またいつでも来てくれよ」

「今度は俺が勝つように選べよ? なあ!」

「さあ。そこはスコット次第だよ。じゃあね」

 ダイナーを後にしたアーサーはポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し耳に挿し込んだ。

 陽気というか気の抜けた感じのメロディ、同じ雰囲気の男性の歌声のポップスが鼓膜を震わせる。指先で小さくリズムを刻む程度には気分がノッてきた。

 美味しい昼食に穏やかな昼下がりの陽気とお気に入りの曲。それくらいが彼にとってはちょうどいい幸福感だった。あとは他愛もない話ができる友人でも隣にいればパーフェクトだ。

 南下するアーサーは現在時刻を確認しようとして、自分の左腕に時計がないことに気が付いた。

 時間の確認自体はスマートフォンでできるものの、その時計は18の時にお世話になった人から貰った大切な物のため、不注意で失くすにはあまりに惜しい。

 幸いマックのダイナーに置き忘れて行ったことをすぐに思い出せたため、急いで来た道を引き返した。

 再びダイナーのドアを開けると、カウンターの向こうのスコットと目が合った。

「スコット、時計忘れちゃったんだ」

「ああ、コイツだろ? ほら」

 彼のエプロンのポケットから出てきたのは確かにアーサーの腕時計だった。

「ごめん、ありがとう」

 左手首に巻き付けると肌に馴染んだ革の感覚がする。二つの針は問題なく時間を刻んでいた。

 スコットに礼を言ってアーサーは今度こそ帰ろうとしたのだが、

「…………」

 何も言わずにカウンターを指先でトントンと叩き続けるバーバラのことが気になって、いつものように声をかけた。

「どうかしましたか?」

「あの人の帰りが遅いのよ。何かトラブルに巻き込まれてるのかもしれないわ」

「どうですかねぇ。道草食ってるだけじゃないっすか?」

「いやねぇダグ、仕事の時間にそんなことするような人じゃないわよ」

「なら僕が見に行ってきますよ。マーカスの第3でしたよね」

「え? ちょっと!」

 このまま午後にしなければならないようなことも特には無かったため、軽い気持ちで飛び出して行く。バーバラはああ言ったが、彼のギャンブル癖を知っている者としては帰ってこないのも『もしかしたら』と思うところも少しはあったのだ。

 だがついさっき『止めようか』という相談を持ち掛けられたばかりで疑うのもさすがに失礼、まずは銀行へと向かった。

 腕時計を見ると13時も半分を回ろうとしている。この程度であればマッドも文句は言わないだろうと思いつつも、一応の状況報告のために連絡を取ろうとスマートフォンを取り出した、その瞬間だった。

 乾いた破裂音が二度、三度と耳朶を震わせる。

 ――銃声!

 穏やかな昼下がりに突然鳴り響いた銃声に、誰もが咄嗟に頭を抱えて姿勢を低くしていた。事態に対する理解の有無に関わらない反射的な防衛行動だ。

 しかし続けて二度、再びの銃声が響き渡った時、水滴が水面に作り出す波紋のようにパニックが一気に人々の間に広まり、中央は一瞬にして混沌に支配された。

 パニックに飲まれて我先にと駆ける若者、状況を呑み込めていない子供の手を引き必死に走る家族連れ、走ることも適わず地面にうずくまる老人。車道に飛び出してしまった人を避けようとしてそちらでも混乱が起きていた。

 人の流れに飲まれないよう端に避け、アーサーは必死に思考を巡らせていた。

 ――まさか銀行じゃ……!

 銃声は五回も聞こえたためにおおよそ発生源の方向が分かったが、それは彼が今から向かおうとしている銀行と同方向だった。その方向から恐怖に顔を歪めた人々が大挙して押し寄せてくるのが何よりの証拠となっている。

 ――銀行、銃声、銀行強盗……

 ――銃を持ってる、それを誰かに向ける?

――マックが危ない!

 連想ゲーム的に導き出された知人の危険。それはしばし動いていなかったアーサーの足を再び前へ進めるに十分なものだった。

「おっと、ああゴメン、君は速く逃げてね!」

 流れに逆らう彼は当然多くの人とぶつかってしまうが、その失礼をいちいち取り上げている時間と余裕は双方ともに無かった。

 動き出してすぐは10m進むのにも苦労したが、時間の経過と共に人の数は減っていき歩道に十分な隙間が生まれる。それを見逃さず人の間を縫うように大急ぎで駆け抜けた。

 息を切らして銀行が面する通りまで出ると、果たして銀行の正面はアーサーの予想通りの光景となっていた。

 シャツとジーンズというカジュアルな格好、そしてそれにはあまりにミスマッチな黒い目出し帽を被り拳銃を持った男が周囲を見回している。その後ろで同じような格好の人一人が銀行の正面の木製の扉を開いて中へと入り、それきり扉は固く閉ざされてしまった。疑う余地もなく、銀行強盗が今まさに行われている。

 アーサーはすぐさま近くの車を遮蔽にして身を潜めた。

 彼我の距離は推定50mだが、拳銃は決して見間違いではないという確信があった。それだけに、事態を治めるには銃を持った人間を最低でも2人は相手取らなければいけないことになる。

 ――銃。銃は強い。簡単に人を殺せる物。向けられたら絶対勝てない。

 ――それでも僕に銃を持った人を止められるか?

 ――無理だ。撃たれたら死ぬ。何か別の方法を……

 そこまで考えて、アーサーはふと、なぜか強盗を止めようとしている自分に気が付いた。

 ――そうだ、僕が行く必要は何もない。警察を待つべき場面だ。

 ――銃を持った人間の前に丸腰で立てばどうなるか、知ってるはずだろう。

 無茶をしそうになっていた身体を止めるのは、自身の中に焦げ付いて剥がすこともできないような経験だ。鮮明に蘇ってくる恐怖の光景は今、拳を握るための力を消し、立ち上がるための気力を奪い、意志をえさせ、しかし結果的にはアーサーの身を守るために機能している。

 けれど。行くべきではないと、行ったところで何もできないと分かっていても、彼は立ち上がらなければいけなかった。

 ――恩を返すんだろ。人を助けたいんだろ。だったらここで立たなくちゃ……!

 なんとか力を込めて震える足を殴りつけても、震えは一向に収まらない。気持ちだけでは何も解決できないと、アーサー自身深く理解しているからだ。

 だから自分を、脳を騙さなければいけない。立ち向かえると、銃口に身を晒しても平気だと、あるいはそれらを為す何かがあって命を守れると、自分に向けて“何か”を示さなければならない。

 ――銃から身を守れる何か……車? 運転方法知らないし、中に入れない、ダメだ。

 ――防弾チョッキでもあれば何とかなる、か、も……

 ――『天啓』というものがあるのならば、それは間違いなく、この瞬間、アーサーの頭のてっぺんから爪先まで駆け抜けた電流のようなショックのことを言うのだろう。

 何とかなる。正確には、それがどれほど丈夫なのかは聞いただけにすぎないが、チェーンソーにも耐えられることは確かだ。だから何とかなる“かもしれない”。

 その気付きは自分を騙すなどといった領域を軽く飛び越え、彼に活気と勇気、そして希望を与えてくれた。お陰で苦い記憶は隅へと引っ込んで行き、代わりに事態を治めるために必要なことまで少しずつ考えが及んでいく。

 そのためには協力が不可欠と悟ったアーサーは、耳にワイヤレスイヤホンを突っ込み急いでマッドに電話を掛けた。彼が出るまでの間ももどかしく、急いで上着を脱ぎ始める。

『今日はなんだ? バアさんの荷物でも――』

「銀行強盗だ。いいかいマッド、僕はそれを止めに行く」

『――――』

 たっぷりの絶句。無理もないが構ってもいられないので話を続ける。

「強盗たちは僕が止める。けど中の状況が分からないままじゃ銀行に突入できない。そこで君の力を借りたい。正直に言うけど、君に付き合って見た映画のせいで『エンジニアってのは機械に対して何でもできる人』って僕は思ってるんだ、つまり君もそうじゃないかと期待してる。だからマッドには監視カメラか何かで銀行の中の様子を探ってほしい。できる?」

『……ちょっと待て。銀行強盗をお前が止めなきゃいけない理由がどこにある?』

「中に知人がいる、彼も含めて中の人たちを助け出したい。あと、誰かがお金を奪われて不幸な目に遭うのも阻止したい」

『心の中で祈ってりゃいいことだろ! だいたいどうやって止めるってんだ!? 銃くらいは持ってんだろ!?』

「僕の鱗だ。直接見たわけじゃないけど、凄く硬いんでしょ? なら銃弾だって防げるかもしれない。それを纏って強盗に近付いて止める」

『な……っ!』

 電話越しに会話しながら車のサイドミラーを見ると、そこに映るアーサーの身体は既に銀色の鱗に覆われていた。

「……警察を待つべきなのはわかってる。助けたいと思うのは僕の我儘わがままにすぎない。それでも僕はこれまでの恩を返すために、この街と、街の人たちの幸せを守りたいんだ。人の役に立ちたいんだ! だから……」

 この場にいるのは彼だけなのだから、突入するのならここにいないマッドの返答など待つ必要はない。そのための準備だけなら既にできている。

 だが見張りを無力化し中へ入った後のことまで考えて動かなければならないこの状況で、中のことを何一つ知らないままであれば動かない方がはるかにマシだ。最低限、中には客と強盗犯が合わせて何人いて犯人たちが何人なのか、客は今どうされているのか、武器の有無程度は知る必要があるとアーサーは考えており、そのために頼れるのはどうしてもマッドしかいなかった。

 2人の間には沈黙が訪れた。それでもあまり時間をかけるわけにもいかず、アーサーはもう一度マッドに問う。

「お願いだマッド、力を貸してくれないか?」

 数秒間、また沈黙だけがあった。しかし今度はその後にマッドがため息を吐くのが聞こえ、そして彼は口を開いた。

『……監視カメラはぶっ壊されてるから録画データからの情報になるが、客と銀行員は合わせて13人。強盗と思しきやつは3人。目出し帽の奴らで間違いないよな』

「――うん、うん。正面入り口の前にもそれを被って銃を持った男がいる、間違いない。続けて」

『3人の内1人はライフル――いやショットガンだな、を所持、2人は拳銃だ。客は……入口の前にまとめられたようだな。突入したらすぐ右へ行け、広い』

「分かった。他に何か気を付けることは?」

『色々あるが後にしろ。それより、正面にも見張りがいるってんならそいつの様子を映せ。何か分かるかもしれん』

 アーサーは言われた通りにスマートフォンのカメラで見張りの男を捉える。

 すると少し前まで気付かなかったようなことが見えてきた。

「ビビってる?」

『違えねえ。そんだけキョロキョロしてるなら強盗も慣れてるわけじゃなさそうだな。それにヤツの銃……これはあくまで『俺なら』って話だが、こんなビビりに弾入りのは渡さねえ』

「連絡を取り合ってる様子もないし、ここで襲っても中には伝わらなさそうだ」

『襲うって、そういやお前どうやって止める気だ。チャンプ・ヴェルタスキばりにボクシングに強いとか?』

「ケンカはいくらか覚えがあってね。それに相手の攻撃を気にしなくてもいいわけだから、向かっていくことだけ考えられる」

 そう言い、スマートフォンを通話状態にしたままズボンのポケットにしまう。いつまでも話していたかったが、そろそろ動き出すべき時だ。

 車のミラーで顔を映しながら目以外を鱗で覆う。これでズボンを履いたままの下半身以外は――もちろんズボンの下も鱗に覆われているが――何処からどう見ても『鱗人間』としか言いようのない姿へと変貌した。

「……フウゥ。それじゃあ、そろそろ行くよ」

『俺たちの話は向こうの計画が杜撰ずさんと仮定した上に、都合のいい推測を並べてるだけだ。悪い事態はいくらでも起きうる。いいかアーサー、お前には辛いかもしれないが、何か不測の事態が起きたらすぐに逃げろ。絶対だぞ』

「……考えとく」

 立ち上がる前に腕時計を見る。そして腕から外して念のためヒップポケットにしまい、もう一つ大きく息を吐き出して、ついにアーサーは立ち上がった。


 ミックの人生には常に不幸が付き纏っていた。

 生まれながらにして父親がいなかった。母にミックをはらませてすぐ消えたらしい。

 4歳の時にミックの母親が蒸発した。元々頭の足りない女だったので新しい男を作ったのだろうと兄は言っていた。

 5歳の時にミックは住む場所を失くした。その日食うものにも困るようなミックには仕方のないことだった。

 6歳の時にミックは犯罪に手を染めた。生きるために仕方がなかった。

 それからミックは何とか生きていけた。全ては優秀な兄のお陰だった。

 兄はいつからかコンバットナイフを持ち歩くようにしていた。

 彼は言った。「こいつがあれば大抵のことは上手く行く。幸運のお守りさ」と。

 その兄も12歳の時にストリートギャングにあっけなく殺された。

 それからミックはナイフを受け継ぎ1人で何とか生き続けた。

 小心者だったがナイフに触ると兄を思い出し心が落ち着いた。

 兄が死んでも何とか上手くやっていけると思っていたのに、数日前突然家を失った。

 同じく家を失った者同士で銀行強盗を計画した。ミックは見張りを任された。

 ナイフは腰の後ろのベルトに挿しておいた。だが銃を持っているので触る暇がなかった。

 何事もなく、早く終わってほしかった。ただ失くしたものを取り戻したいだけだった。

 そう思っていたのに、その日ミックは人生で一番心臓に悪い経験をすることになった。

 

 すべては向こうから歩いてきた人影から始まった。


 建物の影の中に何か動くものがあった。ミックは人を警戒してすぐに銃を向けた。

 動いたのが人だと分かるとすぐに緊張して身体が強張った。

 そして影の中から人が出てきて姿が分かった瞬間、間違いなく彼の心臓は一度止まった。

 銀色に輝く人間がそこにはいた。

 上半身は日の光を浴びて眩く輝き、一方下半身には普通にズボンを履いていた。

 奇妙な出で立ちの誰かがこちらに迫る中、ミックは銃を向けて叫んだ。

 「近寄るな、近付けば撃つ」と脅した。空包だが効果はあると思っていた。

 ただ一つ、緊張のあまり声が掠れて聞き取れない声だったのは誤算だった。

 そしてミックも自分の声がまったく出ていないことに気付きはしなかった。

 銀色の人間は銃を向けた一瞬だけ身体を震わせ足を止めたものの、結局は向かってきた。

 あっという間にミックとの距離は縮まった。

 ミックはパニックに陥りながらも銃から手が離せなかった。

 銀色の人間は銃に手を掛けてひと息に引っ張り、ミックからそれを奪い取った。

 そして右腕を振るった。ミックは殴られたと気付くのにも時間が掛かった。

 左の頬がズキズキと痛みを訴える中、今度は腹部を殴られた。

 身体がくの字に折れ曲がり、心はすでに限界を訴え始めていた。

 まだ意識を保っていたミックは、無意識にナイフを求めていた。安心したかった。

 後ろ手にナイフのグリップが触れた瞬間、確かに心が落ち着いた。ような気がした。

 ミックはナイフをベルトから引き抜き、勢いよく突き出した。

 平穏に終わらせたいとか、痕跡を残さないとか、そんなの頭にこれっぽっちも無かった。

 だがナイフは仕事をしてくれなかった。

 ミックの手にはただただ固い手ごたえが返ってくるだけだった。

 手元を見ると、ナイフの切っ先は銀色の何かに阻まれていた。

 ミックは最後に「こいつは俺に幸運なんかくれやしない」とだけ感じ、意識を失った。


「ふぅぅぅ…………」

 銃のグリップの底で見張りの顎を思い切り殴打し気絶させ、白目をむいて地面に倒れるのを確認したアーサーは大きく息を吐き出した。

 銃を向けられた時とコンバットナイフが突き出された時は内心本気で恐怖したが、前者はともかく後者に関しては思った通りに鱗が防いでくれた。

「マッド、見張りは倒した。次は中だ」

『はぁぁ……今のところ上手く行ってるな。さて、中に入る前にドアの取っ手を見ろ。ケーブルタイなんかで留められてないか?』

「ん……ああ、外側は掛かってるね。でもちょうど見張りがナイフを持ってたんだ、それで切れる」

 話しながら奪い取った銃のマガジンを抜いてみると、中には予想に反して弾が入っているように見えた。しかしそれが空包であることは気付かない。

『多分内側も同じだろう。そいつは中まで届きそうなサイズか?』

「ああ、コンバットナイフだ。バッチリだね」

 アーサーはナイフを拾い上げようとした手を止め、手のひらから指先に至るまで鱗で覆った。万が一指紋が付着してしまってはいけない。

 注意して拾ったナイフでドアノブを固定していた外の結束バンドを切った。

 そしてドアの隙間に切っ先を挿し込みゆっくり下へ降ろすと何かに触れた感覚がした。内側の結束バンドだ。

「……内側のも確認できた。いつでも切れる」

『よし、その前に中の状態を改めて確認するぞ。強盗は3、1人はショットガン、2人は拳銃を所持。それ以外が13、入り口付近に纏められてる、突入の勢いを削ぐためだろうな。アーサー、お前はドアを開けたら右へ行け。そっちは広いし流れ弾のリスクを減らせるはずだ』

「分かった。他には?」

『中はどっちも緊張状態にあるだろう。お前が突入したら一気にパニックが起きかねない。そうなったら強盗に撃たれる可能性が高い客が危険だ。だから一気に解決しろ。最低限、銃を手から離させればリスクは格段に減る』

「どうすればいい?」

『……それはここにいるだけの俺には分からん。お前のアドリブ力だけが全てだ、想像力を働かせろ』

「……OK、なんとかやってみる」

 大きく深呼吸。一度ナイフを引っ込め、先ほどの拳銃をズボンの後ろに突っ込む。

 使えるものはなんでも使うだけで殺す気は無いが、最悪の場合にはこれを強盗に向けて引き金を引く覚悟もしておかなければならない。そうならないことを静かに祈った。

 アーサーは左手でドアノブを握り、ナイフを握る右手に今一度力を込めた。これを思い切り引き下げた瞬間、何もかもが始まる。その先で人を守れるかどうかは全てアーサーの判断にかかっている。

「――行くよ」

 覚悟を決め、ナイフを一思いに振り下ろす。

 直後にドアノブを引き、固く閉ざされていたドアはついに開かれた。

 開いた隙間に身を潜り込ませると、確かに彼の目の前には頭の後ろで手を組んだ銀行員や利用客が一塊にされている。その中で数十分前に見たばかりのマックの姿を確かに見つけることができた。

 だが安堵したのも束の間、中にいる全ての人間の視線がアーサーに注がれた。無論それは、今まさにカウンターの向こうにいて札束をボストンバッグに詰めようとしている強盗たちも変わらない。

「な……っ、なんだテメエは!?」

「な、な、な……」

 困惑、不安、恐怖、憔悴といった感情と共に、死をもたらす銃口も彼に向けられる。

 強盗はマッドの情報通り3人いた。全員体格からして男に間違いないだろう。

 彼らはカウンターの向こう側にいて、その内の1人がデスクに積み上げられた札束をバッグに詰めていた。残り2人はそれぞれデスクの左右を固めている。アーサーは判断のために金を詰めているのをA、デスクの左側にいるのをB、右側のをCと定めた。

 最も警戒すべきショットガンは金を詰めているAの傍らに置かれている。Aは一旦デスクを離れてショットガンを闖入者ちんにゅうしゃに向けた。

 ひとまず強盗たちの意識と視線がアーサーに集まったのは僥倖ぎょうこうだった。しかし突入して次のアクションに移るのは頭で考える以上の覚悟と決断を必要とした。

 下手に動けば強盗たちを刺激し、アーサーと彼より強盗たちに近い人質が銃弾の前に晒されてしまう。その後に待っているのは――

「……ッ!」

 想像以上にギリギリの状況で、それでもアーサーはマッドの指示通りに右へ跳んだ。

 着地、一回転して距離を稼いで片膝立ち。そしてズボンの後ろに突っ込んでおいた、先ほど見張りが持っていた拳銃を構える。

 

「ひぃぃっ……!」

 謎の銀色の闖入者ちんにゅうしゃに突然銃を向けられた人質たちは、許しを請うように身を縮こまらせ、あるいは床に頭を擦り付ける。一方の強盗を横眼でうかがうと意味不明な状況に対して目を白黒させていた。銃はアーサーに向けられたままだ。

 心臓がはち切れそうなほどに鼓動を打っている。正直なところ、この状況で一番パニックを起こしそうなのは他でもないアーサー自身だった。口を開けばそのまま叫び出し、みっともなく逃げ出すに違いない。

 それでも、ここいる理由のために精一杯の気力を振り絞って叫んだ。

「――伏せろ!」

 言葉の直後、銃を天に向けて引き金を引いた。

 行内を駆け巡る強烈な破裂音はその場の全員の鼓膜を震わせ、アーサー以外の全員の精神――強盗も例外は無く――を大きく揺さぶった。

『おいアーサー、今の音は――』

 瞬間、アーサーは床を滑るよう銃を手放し、駆け出した。マッドの声も耳に入らない。

 勢いを殺さぬようカウンターに手を着いて飛び越え、そのまま動けずにいたCを蹴飛ばす。

「お゛っ」

 突然の出来事に反応できず、手の中の銃は容易く宙に取り残され、そのまま落下した。彼自身も背中からデスクに激突、肺の中の空気が締め出されて床に崩れ落ちる。

「テメエこのっ!!」

 声がした左手の方向を見ると、残る2人は既にトリガーに指を掛けて銃口をアーサーに向けていた。

「くっ――」

 何とかしてまた一瞬だけでも隙を作らなければならない。僅かな時間、アーサーは周囲を見回し、ほとんど反射的にあるものを掴み取っていた。

「そら!」

 それは札束を詰め込んでいたボストンバッグだった。

 振るうと開いたままの口から札束が飛び出し、強盗たちの視界を覆う。

「あ――」

 身体が硬直した一瞬を見逃さずバッグをAの方へ投げ付ける。

 直後にBとの距離を詰め、札束のカーテンの向こうから鳩尾みぞおちにつま先を叩き込んだ。痛苦に負け屈み込もうとしてしまえば自ずと頭の位置が下がってきて狙いやすくなる。そこへ顎を狙いハンマー以上に硬い拳でアッパーカットを繰り出してやれば、後には動けない人間の出来上がりだ。

 ――あと1人!

 ここまで上手く行っている。そのまま最後の1人も無力化を――

 そう考え右へ向き直ったアーサーの目と鼻の先に、ショットガンの銃口がピタリと突き付けられていた。

「――っ!」

 身が竦み思わず後退ってしまう。どんなに硬い鱗があろうと心までは守れないのだ。

 そのはずみにバランスを崩してしまい、背中から倒れようとしているアーサーは、肩越しに見たのだ。床に伏せたままの人質たちが自分の真後ろにいるのを。ミスに気付いた時にはもう遅い。

「死んじまえボケがーーーっ!!」

 この男は間違いなくトリガーを引く、それも撃てなくなるまで。目出し帽から僅かに覗く目が血走り、口角から泡を飛ばすのを見れば、頭で判断するまでもなく直感で分かる。

 このまま散弾を乱射されれば後ろにいる人質は奇跡でも起きない限り無傷というわけにはいかない。その上、数人は死ぬだろう。確実に死ぬ。

 この数分間で幾度となく決断をしてきたが、この瞬間の決断は最も重要だった。

「――ぁぁああああああああっ!!」

 渾身の力で足を踏ん張り必死に上半身を起こし、アーサーは逃げることなく銃口の前に身を晒した。

『おいどうしたアーサー!?』

 自分のミスで危険に巻き込んで命を失うことなどあっていいはずがない。こうなってしまった今、そうなるくらいなら自分の命を盾にしてでも守り抜く。

 何とか体勢を立て直したアーサーは、精一杯の意志を込めた瞳で強盗の瞳を見据えた。


「うおわああああああーーーーーッ!!」

 そしてトリガーは引かれた。

 所詮は人の身体、撃たれた衝撃に耐えることなど適うはずもない。特に彼の身を打つのは至近距離で高い威力を発揮するショットガンの銃撃だ。銀色の男の足は地べたから離れ、浮いた身体に至近距離からたっぷりの弾がぶつけられる。

「ひぃいぃ……」

 だが次々と聞こえる発砲音を恐れ、身を屈めていた人質たちには幸いにも一発たりとも弾が届くことは無かった。

 音が止んで恐る恐る顔を上げてみると、木製のカウンターは数か所だけ傷付いていた。ショットガンの乱射にしては被害が少ない。

 そして、そのカウンターの上に上半身を投げ出している銀色の男と、ショットガンを持つ腕を力なく腕を降ろしている強盗犯。

 誰もが相関関係に気付いた。

 ついに起こってしまった惨劇に16人全員が言葉を失った。

 犯罪を起こした側である強盗犯たちも、次にどうすればいいのか分からなかった。衝撃的な出来事に、当初の目的すら一時的に頭から抜け落ちてしまっている。

 ――殺してしまった。――逮捕される? ――殺人罪? ――何年檻の中? ――だれの責任? ――こいつの身元は? 

 ――どうすれば、なにをすればいい?

 殺しの有無に関わらず強盗だけで逮捕モノなことさえも忘れてしまっていた。

 それほどに、考えてもいなかった殺人のショックというものは大きかったのだ。

 一方、人質たちもまた動けずにいた。

 強盗たちは呆然としたままで、後ろにあるドアは簡単に開けることができ、逃げ出すことは簡単だったが、目の前の状況のせいでいっぱいいっぱいになってしまい、同じくそこまで考えが回らなかったのだ。

 皆等しく思考がフリーズしていた。

 硝煙の臭いで満たされ時が止まった行内で、最初にそれに気付いたのは誰だったのか。

「……血は?」

 小さな呟きが瞬時に当事者間を駆け巡る。そして残る全員が見事に一致したタイミングで銀色の男を見た。

 確かに血が流れ出ていない。あれだけ撃たれたのにも関わらず、その後ろにあるカウンターはニスの光沢を保つほど綺麗なままだ。そもそも至近距離で何発も食らったのに人と分かるほど完璧に形を保っているのも奇妙な話である。

 おかしいと思うよりもいっそ不気味にさえ感じられるその光景は、全員の視線が注がれる中でさらに驚愕の光景へと装いを改める。

「――――――ぅ」

 声が聞こえる。

「――――ぁ、っく」

 銀色の上半身がゆっくりと動き始める。

「――あ、あ」

 頭を軽く振っている。

「……すごい、生きてる」

 そして上半身を完全に起こして立ち上がった銀色のヒトガタは、その場にいる人間の気持ちを見事なまでに代弁してのけた。


 自分の身体を見下ろし、見回してみてもどこにも傷は無かった。

 鱗はアーサーの都合のいい期待に終わらずに、本当に銃弾すら無力化したのだ。

 ただし至近距離から放たれたショットガンの衝撃だけはさすがに殺しきれずに吹っ飛んだし、アーサー自身撃たれたショックから気を失ってはいたのだが。

 とにかくアーサーは無事、後ろの人質たちも無事。彼が願った通りの結果になった。

「うう……」

 首を回してみると関節が酷い音を上げた。

 周囲をぐるりと見回すと、先ほど突入した時と同様に全員の視線が彼に注がれていた。ただし今度は緊張感は無く、誰もかれもが呆然としている。

 ――チャンスだ。

 呆然としたままショットガンをぶら下げているAの手からそれを奪い取る。何の抵抗もなく簡単に手放してくれたショットガンをカウンターの反対側に落としてみても、漫然まんぜんとそれを眺めているだけだった。

 しかしそれが床に落ちてがしゃりと音を立てた途端、再起動でもしたようにAの目つきが変わった。瞳の奥で憤怒ふんぬの赤い炎が揺らめいている。

「クソ……クソッ、クソクソクソッ!! 何なんだテメエは!! 余計なことしやがって……!! 俺たちにはどうしても金が……!」

「…………」

 彼に続くように、床でうめいていたBとCも息も絶え絶えながら立ち上がり、アーサーを睨みつけた。

「台無しにしたお前だけは……!」

「絶対に許さねえっ、ゲホッ」

 銃は既に失われているのに、それぞれの拳を武器にアーサーに襲い掛かる強盗たち。

 けれど怒りややるせなさといった感情をいくら拳に乗せて振るっても、ショットガンすら無傷で耐える鱗は揺るぎもせず、彼らの拳が少しずつ傷付いて行くだけだった。

「畜生、畜生ぉぉぉーーーッ」

「なんで上手く行かねえんだ!」

「俺たちだってこんなこと……!!」

 彼らの怒号は次第に涙声へと変わっていく。

 もはやアーサーを殴ろうとするより、ただ気持ちを吐き出しぶつけるためだけに拳は振るわれていた。

 そんな強盗3人の中心に立つアーサーもまた、手当たり次第にパンチを繰り出していく。

 普通は多勢に無勢でアーサーがあっという間に沈む場面だが、ここでの結果は火を見るよりも明らかだった。

 避ける必要が無く痛みもないアーサーの拳は、次第に目出し帽の下の強盗たちの顔に青アザやこぶを作り上げていく。酷く理不尽かつ奇妙で一方的な展開だった。

 やがてもっともダメージを受けていたBが最初に諦め、Cが抵抗の意志を失くして諦め、最後まで拳を振るっていたAも渾身のパンチを鼻っ柱に叩き込まれ、ニット地の下で鼻血を流しながら床に膝をつく。その目から一粒の涙が零れ落ちた。

 間違いなく心が折れている。もう彼らは再び事を起こす気になどなれないだろう。

 力なく項垂うなだれる強盗犯たちを前に、アーサーには思うことがあった。

 最初は中の人質たちを助けることと、お金、ひいては誰かの生活を守ることが突入した目的だったが、今は少し違っていた。

 何か事情があって犯行に及んだと思しき強盗たちも助けてやりたい。ただし、それはそれとしてやったことに対する償いはさせる。

 そのために、アーサーは息を整えて口を開いた。

「君たちは罪を償い、自分の行いを反省すべきだ。そしてまた新しくやり直せ」

「……?」

「ほら、聞こえるだろ」

 言われて気付くサイレンの音。警察の到着までは間もなかった。

「……フン、俺たちみたいのがやり直して何になるってんだ。どうせ南で生きるしかないグズの俺らが……」

 自嘲するAの前にしゃがみ込み、その肩を優しく叩く。

「……大丈夫。変わろうと思って行動するなら、きっと人は変われるさ。それとも君たちは、いつまでも自分で自分を縛り付けて生きる?」

「…………」

「この街には人を傷つけて何も思わないような奴らがたくさんいる。でも人を大切にできるような、優しく強い人もたくさんいる。そういう人たちは、本気で変わろうとするのならきっと助けてくれる」

「…………」

 迷い、瞳が揺れた。

 そんな彼らにあえてそれ以上のことは言わずに立ち上がり、拳銃二丁を拾い上げてカウンターを乗り越えショットガンと一纏めにして離れた場所に置いた。突入の時に持っていた拳銃は見つからなかったが、間もなく到着する警察ならすぐに見つけるだろう。

 手を払いひと息吐くと後ろから声を掛けられた。

「あの……」

「あ、はい」

 振り返ると感謝や畏敬の念を湛えた26の瞳がアーサーを見つめていた。

「あなたは何者?」

「なんと勇気ある行いだ! 素晴らしい……」

「その身体……鱗? え? そういうアーマー?」

「アンタすげえよマジ! マジのヒーローみてえ!」

「ぜひお礼を……」

 一斉に詰め寄られ口々に全然内容の違うことを言われては、アーサーには対応のしようがなかった。今度は数分前の強盗たちと同じく彼が目を白黒させる番だ。

 とりあえず何か答えようとしていると、こんな状況がなにかと結びついたのか彼の中の映画の記憶が突然脳内で再生され始めた。


『待ってください! あなたは何者? ちゃんとお礼をしたいのです、せめてお名前を――』

『よしなさいお嬢さん。私は風のようなもの、風に名はなく、留まることもない。ただ一刻、君に寄り添っただけです』

『……分かりました。けれど私は忘れないでしょう、私を空へいざなってくれた風のことを……』

『――君に幸せあれ。さらば!』


 確か「ワールウィンド」というアクション映画のラストシーンだ。

 近世末頃のヨーロッパを舞台に、さすらいの老剣士が巧みな剣術と老獪ろうかいな知恵を駆使して悪と戦う人気シリーズ。80年代末期に公開され4作目まで作られて一度は完結したが、若かりし頃を描いたプリクエルが後年公開され、更につい5年ほど前に設定を近未来へと大きく変えたリブートまで公開された。


 いや、そんなことはどうでもいい。重要なのは思い出したラストシーンが役に立ちそうということだ。

 アーサーは咳払いして、マックに正体がバレないよう気持ち声を低めに意識して声を出した。

「んんっ……私は名乗るほどの者じゃありませんよ。街と皆さんを助けたい、ただのボランティアですから」

「ですが……」

 映画のように綺麗に話を打ち切ることはできなかったが、ちょうど良いタイミングでパトカーのサイレンが言葉をかき消した。どうやら銀行の前に到着したようだ。

「警察が来たみたいです。皆さん、もう安心ですよ」

「あーその前に、ちょっと待ってくれ」

 ドアを開けようとしたアーサーの前にマックが立ちはだかった。

 背筋がぞくりと冷たくなった。もしや正体に気付かれた?

 密かに緊張しながら次の言葉を待った。

「……俺はマクダネル、この近くでダイナーやってんだ。あんたが誰かは知らないが、もし店に来てくれたらこっそり教えてくれ。なんかサービスするからよ」

「……フッ、フフフ。ええ、いつかお会いできれば」

 そう言って、アーサーはドアを大きく開け放った。

「警察だ! 抵抗はやめて大人しく……? あ?」

 拡声器を手にした黒人警官の困惑の表情に、思わず小さく笑ってしまう。

 そりゃあそうだ、そこには銀色の鱗に覆われた人間がいて、その後ろから何事もなく人質たちが出てくるのだから。映画的に考えるなら、銃をこめかみに突き付けられた人質と共に犯人たちが出てきて、人質の命と引き換えに逃走を邪魔しないよう要求するようなシーンであるはずだ。

 警官たちは驚きながらも銃を降ろし、人質の保護を行い、他は現場を検めるために銀行の方へ近付いてくる。

 彼らが人質に向ける目は優しいものの、アーサーを見る目は相変わらず困惑と警戒に満ちている。

 しかしアーサーが口を開いて事情を説明するまでもなく、13人の人質は中で何が起きていたのか熱心に警官たちに向けて説明してくれた。

「私たちの窮地に彼が飛び込んできて……」

「すげえよアイツ、マジで身体かってえの! タマ弾いたんだぜ」

「自分の身を挺して私たちを守ってくれたのよ」

 それを聞く警官たちは相変わらず頭の上にハテナを浮かべたままだ。

 アーサーは踵を返し、再び銀行の中を覗く。

 強盗たちは観念したのかもう目出し帽は脱ぎ捨てていた。顔は涙の痕と血とアザとで赤と青のまだらに彩られている。

 彼らはのろのろと立ち上がり、ゆっくりとドアに向けて歩を進める。

 そしてすれ違う瞬間、格好からしてAがアーサーに聞いた。

「なあお前。さっき言ってたこと……覚えがあるのか?」

「……身体に鱗生やしてショットガンに耐えたヤツの言うこと、どこまで信じてみる?」

「ハッ……今更ンな下手なコト言ったって遅いんだよ、ったく」

 再び歩き出した彼らの後ろに続き、アーサーもまた銀行の外へ踏み出す。

 両手を上げて中から出てきた3人を警官たちが一斉に取り囲み、手首に手錠を嵌めていく。先に御用になっていた見張りと合わせ、昼下がりの平穏を壊した強盗グループは全員がお縄となった。

 そして彼らの後は当然アーサーの番だ。人質たちの話が効果を上げたのか幾分警戒は薄れているものの、突き刺さるような視線は相変わらずである。

 一応両手を上げたまま、今度は現場の指揮を執る壮年の白人警官に向けて歩いて行く。

 車内無線に向けて話かけていた白人警官は、アーサーの接近に気付くと話を切り上げ会話のために向き直った。

「やあヒーロー殿。中では大活躍だったそうじゃないか」

「それほどでもありません」

「そうかい? ……ふむ、じゃあ早速本題に入ろうか。君の身分は?」

 やはり、来た。

 当然の質問に対し、アーサーはこう返す。

「その前に、私の身体を見てください。どうですか、これ」

「鱗、かね? 聞いた話では銃撃にも耐えたそうだが、そんな優秀な防弾チョッキを持っているのなら是非とも購入先を教えてほしいものだ」

「残念ながら私の地なんです。お売りできません」

「なんと。それがあれば現場に出る警官たちに安全を保障してやれたのだが、いやはやなんとも惜しい」

 ――乗ってくれている。もしかしたらいけるかもしれない。

 ちょっとした賭けだが、アーサーは思い切って続けた。

「それで、そんな鱗を生やして喋る人間なんて、いると思います?」

「ほう?」

「そう、私は一刻の幻、幻想です。皆が助けを求めたから現れたファンタジー。だから誰でもありません」

「ほう。ほうほう……」

 無理やりにもほどがある話の運びだが、土壇場で思いついたのはこれだけだった。何を言ってるんだと言われればそれでおしまい。

 けれど無用な注目を集めることは避けたい、正確には自分には過ぎたものと思うアーサーにとって、あまり身分は明かしたくないものなのだ。

 さて、アーサーの全身をじっくりと観察していた警官は姿勢を直し、とても真剣な表情でアーサーの目を見てきた。

「ッ……」

 生唾を飲み込んだ。やはりダメだったか――

 諦めかけるアーサーに対し。真剣な表情のままで警官は口を開いた。

「――そうだな、そんな人間はいない。なら君はみんなが見た幻想だった。そういうことなのだろうさ」

「!」

 彼はいたずらっぽく笑って見せた。

「――だがダメだ。君にも話を聞こうか」


 アーサーはそのまま白人警官のパトカーに乗せられてしまった。

「リーフさん、そいつは……」

「重要参考人だからな、私が直接連れて行く」

 それから外の警官たちと二、三やりとりをし、窓を閉めてパトカーが発進する。

 後部座席に座るアーサーはどうにかするのをすっかり諦め、いっそ開き直って何もかも話そうかとも考えていた。

 しかしパトカーは通りを一本外れ、警察署とはだいぶ方向が違う小道に入り込んでいく。

 そしてあまり人気のない道端でパトカーが停車した。

「……?」

 今日は散々人を困惑させてきたアーサーが今度は困惑する側になる。

 そんな彼に向けてリーフと呼ばれた警官は振り返りこう告げた。

「行きなさい。後はなんとか誤魔化しておこう」

「えっ……」

「幻想だというのなら、突然姿が消えてもおかしいことはないだろう。それとも気を惑わせることにでもするかい?」

「……いえ。ありがとうございます」

 急いでパトカーから降りて路地に消えようとしたアーサーだったが、ふと立ち止まりパトカーに一礼し、今度こそ路地裏に消えた。

 リーフはハンドルを握り直し、1人呟いた。

「……助けを求めたから現れたのなら、また会うこともあるだろうさ、坊や」



 何度か角を曲がり入り組んだところに入ったアーサーはようやく全身の鱗を戻した。

 しばらくは白い肌を見下ろしたまま動かなかったが、自分の行動が実感を伴って思い出せるようになってくると、自然に雄叫びを上げていた。

「やった……やった! やったんだ! ハハ、やった……!」

 同時に先送りにされていた疲労がどっと押し寄せてきたため、壁に背を預けた。

 そういえば、と途中からマッドと通話していなかったことに気付きスマートフォンをポケットから出してみると、ショットガンにやられて見事に風穴が開いていた。

 一気に力が抜け、ずるずると地べたに座り込む。

 すると尻に硬い感触があった。瞬間、ポケットに入れていたものを思い出す。

「あぁ……」

 アーサーの手の中で、腕時計はしっかりと時を刻んでいた。



「……アーサーか?」

『良かった、分かってくれて。すまないマッド、頼みがあるんだ』

「ちょっと待て、その前に何があったか聞かせろ。強盗が捕まったのは分かってるから、何で知らん番号から掛けてきたのかからでいい」

『中で撃たれて、その時にスマートフォンがドーナツになったんだ。で今はどこかの路地で親切なおじさんから電話を借りてるとこ』

「その程度なら自分で帰って来られるだろ」

『それが……今、上の服が無くってさ。正体が分からないよう脱いだんだけど、その後警官に離れたところで降ろされたもんだから』

「はー……なら替えの服でも持って迎えに来いってことか。現在地は分かるか?」

『えーっと、14ブロックだって。到着したら連絡をくれ』

「へいへい。まったく世話が焼けるぜ」


 そしてマッドの運転する車は指定区に到着し、少し経って2人は数時間ぶりに合流した。

「ヒーローさまも街を歩けば一転、白い目で見られるとありゃあ出歩けもしないか」

「そういう言い方されると困るな、はは」

 目で車に乗るよう促されアーサーは助手席に、マッドは運転席についた。

 走り出した車の中、早速マッドは切り出した。

「そいじゃあヒーローインタビューといこうか?」

「いやいや、そんな大したことじゃないって。僕は――」

「おいおい、んなつれねえこと言うなって。一生酒の席の話題には困らねえような話なんだ、謙遜けんそんで終わらせんにはもったいねえ」

「ええ? そんな面白いかな」

「それが面白くなかったら何が面白いんだよ! ハッハッハッハッハ!」

 マッドはいつになく上機嫌だった。以前オンライン対戦ゲームで15連勝した後、負け惜しみに中傷メッセージが来た時に見せた顔よりさらにいい顔をしている。

「ねえマッド。……何がそんなに嬉しかったの?」

 思い切って聞いてみたが、マッドの返事は素っ気なかった。

「後でな。なことよか音楽でも聴くか、あぁん?」

 カーラジオを弄り音楽番組に合わせると図ったかのように陽気な音楽が流れだす。

 マッドはそれに合わせて歌い出し、少しは黙っていたアーサーも結局雰囲気に流されて歌い出し、気付けば車内は男2人の馬鹿っぽい歌声で満たされていた。

「ハーッハッハッハ! そうだそうだ、何か上手く行った時はとにかく笑って歌って騒ぐもんだ! ほれもっと声出せアーサー! Oh!」

「君の声が大きすぎるだけだっての! Ah!」

「「Yeahhhhh!!」」

 移動カラオケボックスは残骸ルインズに到着するまで続き、2人のテンションは車から降りても続いていた。

 ハッチから階段を転げ落ちるように下っていったマッドに続いてアーサーも中に入ると、冷蔵庫の前で屈んでいた彼は振り返ると共にエールの瓶を投げ渡してくる。

「おっと!」

「今日はとにかく飲むぞお前! ピザも取ってやるよ!」

「……ああ!」

 フタを開けて中身が吹きこぼれるのも構わずに2人は瓶を打ち合わせた。

 そのまま直に飲むと冷えたエールが喉を潤し全身に行き渡るのを感じる。

「――くぁーッ! うまいッ!」

「あぁ……明るいうちに飲む酒ってなんでこんなに美味しいんだ……」

 それを皮切りに男2人の酒宴が始まった。

 冷蔵庫の中からはとにかくエールが出てくる。置かれている冷蔵庫のサイズと収納量からすると明らかに釣り合いが取れておらず、そんなにあるのも見たことが無かった。

 ――僕も見たことない量があるのはきっと……なんだっけ。

 酔いが回ってきたせいで、何が関係しているのか上手く思い出せない。

 普段通りならこの冷蔵庫も何か手を加えられているのではないかと勘付き質問しているところだが、思い出せたとしても酒の場で聞くことでもないので結局変わりはない。

 ――まあいいか、大したことじゃない。

 気にせずエールをあおるが、それでもふと湧き上がった疑問が口をついて出た。

「……ところで、何で普段酒は飲まないのに今日は出してきたのさ」

 その言葉に、既に顔が赤くなり始めているマッドは酒の影響を受けているとは思えないほどに神妙な表情で返した。

「……昔を思い出した。お前みたいにどっかの誰かのために色々やってて、上手く行ったら今みたいに酒で騒いだ。でも全部奪われたから『そんなことと酒はもうやめる』って誓ったんだ。でもよ……お前はすげえ奴だよ、アーサー。強盗を止めるとか意味わかんねえこと言い出したくせに、ちゃんと成功させた。そんなの知ったらよ、なんか昔の自分もそんなんだったって思い出しちまってさぁ……」

 遠い目のまま、エールを一口あおり、続ける。

「お前は俺にもう一度希望を見せてくれた。誰かのために自分を役立てるのも、やっぱり捨てたもんじゃねえ、そう思えた。お前なら信じられる、だから手を貸した」

 彼の顔が赤いのは、その手が震えているのは、きっとアルコールのせいだけではない。

「……その感謝の印っつーか、あー、まあなんだ。うまく言えんが……そうだな、お前と酒を飲みたいと思った! そういうこった!」

「……ッフ、ンフ、ンフフフフ。そっか、そういうことなら……飲まないとね」

「そうさ、我が友よ。今夜は大いに飲み明かそうぜ」

 2人はもう一度手にした瓶を高く掲げて、大きくあおった。



 翌日、マッドは頭痛と尻の痛みで目を覚ました。

 床に雑魚寝していたと気付くのに十数秒もかかり自分の不調をこれ以上なく実感した彼は、一緒にいるはずのアーサーを呼びつける。

「つあぁ……アーサー、おいアーサー……」

「あーおはよ……はい水……」

 先に起きて片付けに取り掛かっていたアーサーもまたグロッキーだった。

 室内にはアルコールの臭いが充満し、テーブルには食べかけのピザや空の瓶が乱雑に置かれている。あちこちにあるシミはエールを零した跡か。

 酷い有様の室内を見回してため息を吐き、水を飲んで気分だけでもマイナスからゼロに近付けようとするマッドを刺激しないよう、アーサーは指差しだけで彼の意識を音量ゼロのテレビに向けさせた。

 いぶかしむ彼の顔はすぐに得意げなものに変わった。そこに映し出されていたのは昨日の強盗事件とそれを鎮圧した謎多き「鱗人間」だったからだ。

『謎のヒーロー現る? 鱗人間は何処へ』

「へっ……気分はどうさ、ヒーロー」

「不思議だし、ちょっと恥ずかしいかな。でも……」

 アーサーはゆっくりとソファから立ち上がり、続けた。

「昨日、誰かの生活を守ることができた。それから君と浴びるように酒を飲んで、凄く楽しかった。それで思ったんだ、僕はこの鱗でそういう幸せを守りたいって」

「つまり?」

「昨日みたいに、この街と、この街の人たちを守るための活動を始めようと思う。できれば君に協力してほしい。無理にとは言わない、時間をかけて考えて――」

「俺は昨日なんて言ったか覚えてるか? 覚えてんならそれが答えだ」

「――――ああ。ああ、もちろん。やろう、君と僕で」

 2人の新しい始まりに決意表明代わりの握手をしたいと考え、床に座り込むマッドに向けて手を差し出す。

 マッドも勿論手を伸ばして――だがアーサーの手を取らずに手のひらを空に向けた。

「えっ?」

「……悪い、水。まずは体調を戻さねえと何もできねえ……」

「あー……了解」

 かくして、1人の明日追う青年と1人の夢を取り戻した中年は、酒瓶だらけの汚い部屋の中で二日酔いに苦しめられながら、何とも締まらない新たな出発を迎えたのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る