2.Scales grow up


「……!?」

 最初に違和感を覚えたのは爪先だった。何かが自分の身体の末端に発生し、それはゆっくりと皮膚を塗り潰すように広まっていく。それに伴うように皮下の肉や骨までもがじわじわと侵食されていく。身体が異物に塗り替えられていく感覚を、アーサーは余すことなく感じ取ってしまっていた。

 ブランケットを剥ぎ取り異変を確認しようと自分の足を見た瞬間、彼は絶句した。

 爪先から脛までが鋼鉄のような銀色に、人体にはあり得ない色へと変化していた。

 しかも見た目だけでなく中身までも――関節や筋肉、骨さえも――鋼鉄のように硬く、自分の意志で動かすことができなかった。

「なっ、なんだこれ……!?」

 異変は終わらない。それどころか彼が認識したことがきっかけとでも言うかのように、急速に全身を這い上がり始めた。一気に膝、腰までが硬化し再びソファに倒れ込んでしまう。

「マッ、マッド! マッド!! あああぁぁぁあぁ……っ!!」

「ああ……? ……ああッ!?」

 アーサーの悲痛な叫びで目覚めたマッドは一目見て異変を察知した。

「おいっ、何だこりゃあ!? 何が……」

「たす、けて……! いき、が……っ」

 変化はすでに首元まで進行しアーサーの呼吸は速く浅くなっている。何が起きているのかを理解する猶予はなく、何らかのリアクションを取らなければ友人を失うというアラートだけがマッドの脳内にけたたましく鳴り響く。

「クソッ! 何とかしねえと……!」

 アーサーの体は銀色に硬化していくだけでなく、更にその上を鱗のようなもので覆われ始めていた。隙間なく並ぶ鱗はまるでまゆか卵の殻の役割を果たそうとしているようにも見える。それはいよいよ彼の頭部にすら及び口や鼻などの呼吸器まで塞がれようとしていた。

「畜生っ、これしかねえ!」

 マッドは工具の棚の中から金属製の漏斗ろうとを取り出しアーサーの口に急いで突っ込んだ。直後、鱗が完全に全身を覆いつくし、ここに横たわっているのがアーサーだと分かる特徴は何一つとして無くなった。

「アーサー? アーサー!? 聞こえるか!? おい!!」

 漏斗ろうとの逆円錐部分に耳を近付けても呼吸の音は聞こえない。それは呼吸があまりに弱いからだと信じるしかなかった。

 なんとかして友人を助け出すため、マッドは工具を一通り用意した。鱗を何とか割るなり剥がすなりできれば助け出せると考えて挑んだが、片手ハンマーで殴っても大型ハンマーで殴っても衝撃が彼の手に返ってくるだけで鱗にはへこみも傷一つも付かず、ドリルはただ表面を撫でただけで、バールを使って無理やり剥がそうとすればバールの方がひん曲がる有様だった。

「何だこれ……一体何が起きてんだ」

 人体から発生した物体のはずなのに傷一つ付けることができない。常識外れの硬度を誇る鱗を前にしてマッドは呆然とすることしかできなかった。

 しかしここで行動を止めればアーサーは死んでしまうかもしれない、そう思うといくら息が上がっていようと彼なりの救助活動を止めることなどできなかった。

「何かあっても許せよ……お前のためだ」

 そう言って彼はチェーンソーを手にした。

 エンジンが唸りカッターが高速回転を始める。もしこれが鱗を破るのに成功すればアーサーの体にも被害が及ぶと脳裏によぎったが、たとえそうなったとしても助け出さなければならないと封殺した。

 カッターが鱗に触れ火花と甲高く嫌な音が撒き散らされる。ソファが焦げ付くのもお構いなしに押し付け続けるが手応えは少しもない。そしてチェーンソーの方が先に音を上げ、チェーンが弾け飛んだきり動かなくなった。

「畜生……」

 チェーンソーが手からこぼれ、ごとりと音を立てた。かなり過激な手段に出たつもりだったがどれも通用せず、自分の無力さにうなだれるしかなかった。

 床にへたり込んだマッドには最早無事を祈ることくらいしか思いつかなかった。普段は考えもしない主の姿を必死に思い描き、この時ばかりは敬虔けいけんな信者もかくやとばかり一心不乱に祈りを捧げる。新たな若い友人を救ってくれますように、と。



 きぬれの音を拾い体がピクリと反応する。

 そこでマッドの意識は覚醒した。祈りを捧げるうちに眠りに落ちてしまっていたことに気付き、少しずつ五感がハッキリしてくる。

「ん……ん?」

 床にあぐらをかいたままの体を包み込む様にブランケットが掛かっていた。

 そりゃあ眠っている人間に何か掛けてやるのは当然だ。彼でもそう思う。

 ならこれは一体誰が彼に掛けたものだというのか。

「な……っ」

 反射的に勢いよく立ち上がろうとするが、あぐらのせいで固まっていた体の方がついてこれずにバランスを崩してしまう。倒れる先にあるのはテーブルの角、それも頭部が直撃するコース。

 彼は自らの不幸で間抜けな死を覚悟したが――

「危ないっ!」

 すんでのところで後ろから腕を掴んで引っ張られ、頭蓋骨陥没は避けられた。

 いや、それよりも。そんなことよりも。

 急いで振り返ったマッドの前には間違いようもなく彼がいた。

「……お前、生きてたのか」

「ご覧の通りさ」

 アーサーは大きく両腕を広げ得意げに笑ってみせた。



 時間は朝の7時を少し過ぎていた。いつもマッドが目覚める時間よりは早かったがどちらも眠気はないため早めの朝食となる。

 アーサーはトースト2枚とスクランブルエッグ、それと焼いたベーコン。マッドは皿に盛られたコーンフレーク。

 アーサーがれたてのコーヒーを2人分注いでテーブルに着いた。

「で、何がどうなった? あぐ、わかる範囲で頼む」

「その前にまず食べようよ。食べながらじゃ行儀が悪い」

 促され、マッドはコーンフレークを急いで掻き込む。数回だけ咀嚼そしゃくしては強引にコーヒーで押し流し、ひたすらにその繰り返しで皿はあっという間に空になった。

「終わったぞ。話せ」

 対照的にアーサーはトースト1枚も食べ終わっていない。

「……ノド傷付かない?」

「この食い方には慣れてる」

 そう言ったマッドの目は並々ならぬ興味で満ちていた。新しいおもちゃを買ってもらったばかりの子供のように、純粋で濁りの無い、磨き抜かれたガラスのように光輝いている。

 こんな彼を見たのは初めてのことだった。

「じゃあ……君が何かを口に突っ込んだ後は『何だか妙に身体がふわふわしていい気分』と『身体をてっぺんから爪先まで細胞一つまで作り変えられる苦痛』をずっと味わってた。快感と不快感を一緒に味わい続けておかしくなるかと思ったよ。そのうち苦痛は段々と引いていって、快感が身体中に浸透していく……いや馴染んでいく? ような感じがして。それも全部落ち着いたら目が覚めたんだ」

「病気……だよな? 身体があんな風になるのは経験ないが、風邪ひいて寝込んでる時に妙な気分になったりするのは俺にも経験がある。とりあえず今のお前には影響は無さそうだが」

「さて、あれは病気だったのかな」

「……どういうことだ?」

 するとアーサーはおもむろに着ていたシャツを脱ぎ捨てた。アスリートやスポーツマンほど筋肉はついていないが、鍛え上げれば良いものになると思わせる肉付き。

「よく見てて。絶対目を逸らさないで」

 まさかお前、と言うより早く、彼の考えた通りのことが起こった。

 アーサーの白い肌が昨夜見た銀色の鱗へと変わっていく。胸から腹、腕もどんどんと鱗に置き換わり、ついには頭部以外見える部分がすべて鱗で覆われてしまった。

 予想していたとはいえ、あまりの出来事にマッドは口をあんぐりと開けてしまう。まるで映画の良くできたCGシーンでも見ているかのようだが、目の前でリアルタイムに起こった出来事ゆえにこれが現実だと認めざるを得なかった。

「……この通り。目が覚めた後、夜のことを思い出そうとしたらこうなったんだ。どうもこいつは僕の思った通りに変化させられるらしい。ほら」

 次の瞬間にはアーサーの体は元通りになっていた。そしてまた数秒かけて鱗を纏う。

「……なんてこった。お前の身体は一体どうしちまったんだ?」

「僕も知りたいよ。こいつは何なのさ?」

 自分の身体を見下ろすアーサーと彼の身体をまじまじと見つめるマッド。2人の間には奇妙な沈黙が訪れた。

 その間にアーサーは静かに朝食を再開する。ほとんど味が分からなかったが、それが自分の身体に起きた異変のせいでないことくらいは分かっていた。

 数分後、アーサーはぬるくなったコーヒーを飲み干し朝食を綺麗に片付けた。その頃合いを見計らい、彼の食事中はずっと瞑想めいそうしていたマッドが目を開け、告げる。

「俺の知り合いで中央に診療所を構えてるやつがいてな。そこへ行く」

「……色々驚いた。特に、知り合いがいたことと、映画以外で外出する気になったことが」

「どうでもいいだろ。それより早く準備しろ、開く前に済ませたいんだよ」

「え? 普通に診療してもらうんじゃないの?」

「信頼できる医者だが、万が一お前の身体を見て妙なことにならないとも限らない。診療時間中にそんなことになったらお互い大変だろ? だから今のうちに行く」

「なるほど」

「もういいか? ぼやぼやしてないで行くぞ」


 朝8時。2人は中央にあるというマッドの知り合いの病院を目指してヒルソン通りを北上していた。この通りはシティを縦断できるメインストリートの一本で、その名前はシティの黎明期に数多くの道路を敷いた施工業者社長から採られている。

 移動手段は徒歩ではない。車、それもマッドの運転だ。

「まさか離れたところにあった倉庫がガレージだったとはね……」

 しかも車だけではなくスクーターやバイクなどの二輪まで置かれていた。

「昔そういう趣味があったんだよ。売り払わなくて正解だった」

 普段の態度とは裏腹にマッドの運転は驚くほど落ち着いていた。まだ車は分からない助手席のアーサーにも相当なドライブ経験があると確かに感じ取れる。

「……」

 マッドの横顔を眺めるアーサー。今見ているのはもう見慣れた彼の顔だが、今日はまた違った彼の“顔”ばかり見ている。

 子供のように曇りのない表情ができること、医者に友人がいるらしいこと、過去に車を始めとした乗り物の趣味があったこと。

 歳に不相応な老け顔でもない限り、見た目通りに彼にも過去があった。それも間違いなく相当羽振りが良く、医者とも知り合えるようなかなりの人脈があったはずだ。

 これまでに生きてきた人生があった。ただそれだけの当たり前のことが、何故かどうしようもなく新鮮で、同時に奇妙にも思えてしまったのだ。

 ――過去に何が?

 恐らく輝かしい人生を生きてきた“過去の彼”と、それらに封をして地下で死に急ぐように生きている“今のマッド”。その断絶に何があったのか気にならないと言えば嘘になる。

 アーサーの視線に気付いたマッドは視線を前に向けたまま呟いた。

「そろそろ着くぞ」


 『マーサ・ヘンドリクス』という表札の上に赤十字のマーク。奥にはいかにもな清潔感を醸し出す白い建物がそびえ立つ。

 適当なところに車を停め、2人は敷地に足を踏み入れた。

 赤レンガが敷き詰められた歩行者用通路を歩きながら、アーサーがふと思いついたことを口にする。

「そういやアポ取ってないけど」

「必要ねえだろ、普通の診療じゃねえんだから」

「ついでに君の身体も見てもらったら? 歳知らないけどいつまで健康でいられるか分かんないよ」

「お前のために来たのになんで俺が掛かんなきゃなんねえんだよ」

「あだっ」

 くだらないやりとりをしていた2人は診療所のメインエントランスに到着した。当然だが人っ子一人いないので静かなものだ。

 マッドの足はそこで止まらず右手側へ歩いて行く。

「プライベートでの入り口はこの裏だ。さっさと歩け」

「はいはい」

 刈り込まれた芝生の庭に赤い道が続く。診療所という場所からアーサーは何となく動脈を連想した。

「レンガの道が動脈みてえだって思ったろ」

「……本当にメンタリストとかやってないよね?」

「ヘッ。まあタネは簡単だ、俺もそう思ったことがあるし、そもそもヤツがそういうイメージでやったんだ」

「ふーん。ねえ、今から会うつもりのドクター……マーサだっけ? とはどこで知り合ったの?」

「それ関係あるか?」

「君の過去に興味が出たからね」

「プライバシーに関わんぞお前。契約した時にそういうのはタブーって言っただろうが」

「……さあて、半年も前のことだから覚束おぼつかないな。それにさっき自分で趣味がどうこうって言ってたじゃないか」

 マッドが睨み上げてくるがとぼけた顔で無視する。何回か手や足を伸ばして引っ叩こう蹴っ飛ばそうとしてきたが、アーサーは上手い事すべてかわしてみせた。

「畜生、相変わらずいい動きしやがって」

「どうも。おっと、アレがそうかな?」

 5メートルほど先に青いドアが見える。それを一瞥したマッドは小さく舌打ちし、アーサーの方を見てから地面を指さしそちらへ歩いて行った。

 『Stay here』の指示通りに足を止め、アーサーは空を仰いだ。


 ドアの前に立つ。来る前はマッド自身もう少し葛藤かっとうがあるのかと思っていたが、そこは彼も年を取ったらしく、何の感慨かんがいもなくインターホンを押せた。

 腕時計を見ながら秒数を確認する。12、13、14、15……そして26秒目にスピーカーから声が聞こえてきた。

『……驚いたわ。また外に出る気になったのね』

「驚いてたのは本当みたいだな。出るのが10秒遅かった」

『最後に会ったのが8年も前なのによくそんなこと覚えてるわね、

「……世間話がしたくて来たわけじゃないのは分かるよな? お前に頼みがある」

『……』

「用があるのは俺じゃない。友人だ。ちょいと難ありでな」

『友人? 今のあなたに友人ができたの?』

「ああそうだよ。だから力になってやりたい」

 返事はない。代わりに数秒後にドアが開いた。

 久しぶりに見た旧友の顔のシワは8年前より増えていた。それに鮮やかだった栗毛色の髪にも白髪が増えている。

「ようマーサ。直接会うのは久しぶりだな」

「ええ、久しぶりねグラッシー。それであなたの心を晴らしてくれた友人は……あら、若いわね。まだ子供じゃない」

「言っとくが身体に何かしたとかじゃないからな。そこまでひん曲がる気は無いからな」

「分かってるわ。さ、中に入れてやりなさい。あなたは――」

「外で待ってりゃいいんだろ、分かってるよ」

「何言ってるの、あなたも中に入りなさい」

「……本当か?」

「お互いに歳をとったもの」

 マッドは気恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻き、振り返ってアーサーを呼んだ。


「初めましてアーサー。私はマーサ・ヘンドリクスよ、よろしく」

「こちらこそよろしくお願いします」

 裏口から所内へ入り診察室へ。マーサは使い捨てのゴム手袋とマスクを着け、握手を交わして2人は椅子に腰かけた。

「それじゃ、あなたのデータを記入しましょう。身体に関わることだけでいいわ」

 マーサから受け取った個人情報記入用紙にペンを走らせる。

 性別:男、年齢:20、身長:180cm、体重:68kg、アレルギー:なし、入院経験:なし、家族の病歴:

 簡単に記入して返しマーサが目を通す。滑るように動いていた目が最後の項目の時だけ一瞬止まった。

「……分かりました。それで、グラッシーが私を頼るほどのことがあなたの身体に起きたのよね? 見たところ健康体そのもののようだけど、一体何が?」

「はあ。えーと、こういうことなんですけど……」

 そう言ってシャツの袖をまくり二の腕を露出する。彼女の視線がしっかりと向けられていることを確認してから、皮膚を鱗へと変化させた。

「……なるほど。見たまま質問するけれど、その鱗はあなたの皮膚が変化したもの?」

「そうです。『変われー』って意識すると皮膚が変化していって……」

「……表皮だけの変化? 真皮はどうかしら……」

 マーサの目つきが鋭くなった。アーサーの腕に向かって手を伸ばし、指先でそっと鱗に触れ表面を撫でる。

 指を離した彼女は手袋を外して密閉容器に入れて新しいものと交換した。

「ひじの部分を変えて、何度か腕を曲げて」

「はい」

 言われた通りに肘の周辺の皮膚を変化させ、何度か曲げては戻してを繰り返す。

 その様子を興味深く見つめるマーサ。

「ふぅむ。どうやらその鱗の性質は爬虫類のものに近いようね」

「……ということは僕も脱皮とかするようになるんですか?」

「フフッ、いいジョークね」

 立ち上がったマーサは棚を開けて採血用の道具一式を取り出した。それとスマートフォンをアーサーに向けた。

「写真を何枚か撮らせてちょうだい」

「分かりました」

 腕や胸、背中などを鱗のあるなしで数回に分けて写真を撮り、次は採血道具に手を付けた。

「あなたの細胞を調べるために採血を行いたいの。構わないかしら」

「もちろん。僕の身体のことが分かるなら喜んで」

 採血は痛みもなく素早く済んだ。子供の頃に行ったそれは結構な痛みがあったうえに何度もやり直す羽目になったが、まったく別次元のような手際の良さに思わず感嘆のため息が漏れる。

 マーサは採取した血液と先ほどの手袋を保存するためそれらを持って診察室を出た。その前に、何か飲み物を出すと言われたので水でいいと答えた。

 数分後、マーサはコーヒーと水を両手に戻ってきた。

「今日はこれで終わりよ。あなたの身体は追々調査をしていくわ」

「すみません、本当にありがとうございます」

「いいのよ。困っている人の力になるのがドクターの本分だもの。それに私は彼から受けた恩を返さなきゃいけなかったから」

 コーヒーを一口すする彼女から視線を移し、先ほどまで注目していなかったデスクを見てみると、隅に置かれた写真立てには彼女とマッドのツーショット写真が飾られていたことに気付く。

 アーサーは思い切って過去について質問した。

「あの。マッドとはどういう知り合いなんですか? ……というか、彼は何者なんですか?」

「その質問に答えてもいいけれど、その前に私にも教えてほしいことがあるの。あなた、彼とはいつ、どうやって出会ったの?」

「それに答えれば、ちゃんと僕の質問に答えてくれますか」

「ええ。減るものでもないし、できる限りはいくらでも」

「……分かりました。僕が彼と出会ったのは半年前です」

 アーサーの記憶は少し前に飛ぶ。マッドと呼ぶ謎の人物と出会ったばかりの頃。その記憶は少しも埃を被っておらず、次々と思い出すことができた。



 僕が彼と出会ったのは今から半年ほど前、だいたい10月の中頃だ。

 あの頃の僕は日雇いの仕事を転々としては日銭を稼いで生きるだけで、風が吹けばそれに乗って飛んでいく綿毛のように軽い存在だった。もちろん落ち着ける場所なんてあるわけがなくて、中央の安いホテルを転々としたものだ。お陰で東の高級ホテルリゾート以外のホテルに関する知識はそれなりに蓄積されたけど。

 育ったところの人たちはいつでも戻ってきていいと言ってくれたけど、そうする気はなかった。大事な場所だったからこそ、ちゃんと巣立って自立しなきゃいけないと強く感じていたからだ。そうすることが育ててくれたみんなに示せる僕なりの成長の証だという考えは今も変わっていない。

 そんな生活を送っていたある日、求人広告を見ていた僕の目はある広告に吸い寄せられた。

 家事代行という最初の仕事内容はいたって普通だけれど、続く内容がちょっと不思議だったんだ。

 友人、と書かれていた。その広告で、広告主は家事代行兼友人を求めていたんだ。

 それが求人ってことは、広告主は金を払って自分の友人になってもらいたいってことだ。意味不明さに敬遠したっておかしくないし、この街の住人ならそれが何らかの犯罪計画に加担させられるということまで考えるかもしれない。とにかく何が言いたいかって、そんな求人は普通なら僕だってスルーしてたってこと。

 まあこんな言い方をすれば分かるだろうし、そもそももう結末を知っているけど言わせてくれ。その時の僕は多分普通じゃなかったんだ。その求人に飛びついたんだから。

広告に記載されてた通りの住所へ行くと、そこはスクラップ置き場だった。まさに僕たちがいた“残骸ルインズ”さ。

 この時になって、これはいよいよまずいかなって思った。というか住所を見た時点で南に近いことぐらいわかっても良さそうなものなんだけど、やっぱり僕は冷静じゃなかったってことだね。

 それで帰ろうとしたんだけど、奥で動く人影が見えたからついついそっちへ入って行っちゃったんだ。その人に何か話を聞こうとしてね。

 ぬかるんでた地面に滑らないよう気を付けながら近付くと、その人が何故か白衣を着てることが分かった。相当ここを歩き回ってたのか、白衣とズボンの裾が泥まみれだったことは今でもはっきり覚えている。

 それから僕が近付いたことに向こうも気が付いて、仏頂面を向けられた。明確な拒絶の意思表示だ。何の目的も無かったらやっぱりここで回れ右をしてたに違いない。

 でもそうじゃなかったから、僕は彼に聞いたんだ。ここが求人広告に出てるけど、あなたはこの場所について何か知らないかって。

 そうしたら彼はすごく目を瞬かせて、それから僕の顔を見て、手に持ったままだった新聞をひったくった。本当に速くて少しも反応できなかった。

 そしてもう一度僕の顔を見て、一言。

 ――お前、採用。

 そう、もう分かってただろうけど、この人がマッドだ。つまりこれが僕と彼のファーストコンタクトなんだ。

 それから地下に案内された。彼の家らしい地下空間は、それはそれはゴミであふれていた。そのままにしてたらゴミで埋もれて地上に出ることもできなくなりそうだった。だから家事代行を雇おうとしたのかって一発で理解できた。

 そのゴミの中にある、使用感ゼロのテーブルに座らされて契約について話をした。普通の家事代行らしく、掃除・洗濯・炊事・雑事を請け負うこと。それと並行して、基本的にここにいて彼と忌憚きたんなくやり取りできる関係の友人でいること。そしてお互い昔の話と詮索せんさくをしないこと。それを守る限り金を払う、そう言われて僕は進んで契約をした。給料は十分だし、何より僕も昔の話はそんなにしたくはなかったからだ。

 彼に名前を聞いたのはその時だった。人と会うと名前を聞こうとするのが僕のクセだったりするけど、その時もそうだった。意識してとかじゃなく、本当に自然なこと。

 ――名前なんざどうでもいい。呼びたいように呼べ。

 彼はそう答えた。自由にしていいと言われると逆に困ることってない? 僕はそんな状態だった。

 友人になるんだから「ご主人様」じゃそぐわないし、かと言ってどう見ても年上の彼に「お前」と呼びかけるのも気が引けた。だから何とかちょうどいいあだ名が必要だったんだ。

 それで彼の特徴を何とかつなげようとした。こんな辺鄙へんぴなとこに住んでる白衣の人っていうのがなんとなくマッドサイエンティストを連想させて、それから白衣に付いた泥のことを思い出した瞬間、自然に言葉が出たんだ、「マッド」って。

 ――マッド、マッドね。ハッ、悪くない。

 どうでもいいとか言っておきながら割と気に入ったみたいだった。

 それ以降、僕は彼の代わりに家事をしつつ友人をやっている。最初は仕事で友人をやるってことに違和感があったけど、割とすぐになくなった。少なくとも僕は本当に彼のことを年の離れた友人と思えるようになったからだ。それくらい不思議と上手く行っている。


 これが僕とマッドの出会い。どうだろう、少しは分かってもらえたかな。


「……へえ、そんなことが。彼も思い切ったことをしたのね」

「それじゃあ次はドクター・マーサ、あなたの番です」

「ええ……でもね、ごめんなさい。実は一つ言ってなかったことがあるの」

「え」

「もし誰かにグラッシーと一緒にいた頃の話を聞かれてもはぐらかしてほしいって頼まれてるの、彼直々に。だから1から10までというわけにはいかないわ」

「別に構いませんよ。話せるだけでも聞かせてください。それで、そのグラッシーというのはマッドの……?」

「その通り、あなたと同じく彼に付けたあだ名よ。気になったことを調べようとする時はいつでもEyeがガラスのように輝いていたわ。それで『Glass E』って呼んだの」

 写真立てを手に取って愛おしそうに眺めるマーサ。思い出話も、その表情も、彼女は昔のことを今でも美しい思い出として大切に持っている。それが少し羨ましかった。

「本名は?」

「教えられない。あなたに名乗らなかったのも、彼が名前を呼ばれることに苦いものがあるからよ」

「じゃあ彼の職業は? あなたと知り合いということは、過去は彼もドクターを?」

「いいえ。同じ職場にいたけど、その頃は私もドクターじゃなかった。この仕事に就いたのは彼と別れてからのことよ」

「別れたというのはどういう意味ですか?」

「私が前の仕事を辞めたとき、彼はその仕事を続けたの。その別れ」

「えーと……じゃあさっき言ってたマッドへの恩というのは」

「この診療所を開設するための準備段階で、彼は相当な便宜べんぎを図ってくれたわ。その恩は一生忘れない、たとえ彼が腐ったとしてもね」

「彼の過去に何があったのか、教えてもらうことはできませんか」

「……ごめんなさい」

 ダメ元で聞いたがやはり聞き出すことはできなかった。だが分かったことも多い。

 ドクターへと転身したマーサの件から考えて、恐らく過去には何らかの研究機関などに勤めていた。結構な稼ぎがあって、金のかかる趣味にも手を出せた。だがそこで何かが起きて地下にこもるようになった。その問題は本名を呼ばれることにトラウマを植え付けるほどのものだった。

 それらの情報を頭の中で反芻はんすうしていると、不意にアラーム音が鳴り響いた。

「時間だわ。そろそろ開ける準備を始めないといけないの」

「じゃあ、最後に一つだけお願いします。……彼に起こったのは人間関係の問題ですか?」

 するとマーサは苦虫を噛み潰したような顔で重々しく頷いた。

「……そうだったと聞いたわ」

 ――やっぱり。まあ当然と言えば当然だけど……。

 約束通りにそれ以上は質問しなかった。とっくに空になっていた紙コップを握りつぶし、アーサーは帰り支度を整える。

「急に押し掛け診察してもらったうえに、マッドの昔の話までしてくださって、本当にありがとうございました、ドクター・マーサ。それで診察費用は……」

「フフッ、彼に請求するからあなたは気にしなくていいわ。それからあなたの細胞に関する調査もやってみる。仮に結果が出なかったとしても責めないでちょうだい?」

「何から何までありがとうございます。またここへ来ても?」

「グラッシーの話と一緒になら、ね」

 彼女は言葉と一緒に、今度はゴム手袋をしていない素手を差し出す。

「分かりました。ますます彼を死なせるわけにはいかなくなったな」

 責任の重大さを噛みしめたアーサーは困ったように笑い、しっかりと握手を交わした。

 診察室のドアを開けると、外で待っていたマッドが大きな欠伸あくびをしていた。

「おう終わったか。さっさと帰るぞ」

 マッドはおもむろにアーサーの背中に手を回し、思い切り前へと押し出した。そして転びそうになるのを必死に堪える彼の後ろで、一枚のメモを黙ってマーサに手渡す。

「あなた」

「じゃあな。診察料はまけといてくれよ」

 振り返らずにひらひらと手を振って去っていく後ろ姿は、活力にあふれていた昔の彼に少しだけ戻ったように見えた。

「……いい友人と出会えたわね」

 目尻に浮かんだ涙を拭い、マーサもいつも通りの生活へと戻っていった。


       ×          ×


 ジェフリーの家には現在25匹のネコが住んでいる。北の住人らしい立派な邸宅なのは外見だけで、中は爪とぎの跡などが多く残されておりお世辞にも綺麗とは言えない様相だ。

 だがそれすらも家族の成長の印として見ている彼には愛おしいものだった。

 25匹目との出会いから3日後の朝、いつものように5時に目覚めたジェフリーは寝室を出てすぐに我が目を疑った。

「どういうことだ……!」

 床や壁に飛び散った血液。剥がされた毛皮。抉り取られた肉。そして点々と転がるむくろ

 彼の家族たちが一晩のうちに虐殺されていた。

「そんな、どうして……」

 諸々を踏まないように気を付けて廊下を進み、リビングルームへのドアに手を掛ける。多くの家族はここで眠っているため、向こうを確認しないわけにはいかなかった。

 果たして、そこには地獄があった。

「ああ、私の、私の……」

 惨状を前にジェフリーは床に崩れ落ちた。フローリングを濡らす、まだ乾ききっていない血液がべっとりと手や足に付着するが、何も気にならなかった。

 子猫こねこから成猫せいびょうまで様々な年齢層と種類が集まっていた。どれも等しい愛を注いでいた。

 しかし今となってはそれらは全て意味を持たない。ここにあるのはただの肉塊にくかいだ。

「誰がこんなことを……! 私の幸せを奪ったのは……!」

 零れ落ちた悔恨かいこんの涙が血と混ざりあう。

 猫は共食いをする生き物だ。こうなってもおかしくはないが、彼はそうならないように常に配慮していた。故に彼は半ば確信していた、共食いは起こりえないと。

 ならば人以外にありえない。しかし、それなら家族たちは不審者に気付いて大声で鳴くなり威嚇の唸り声を上げるなりしただろう。そうであれば彼も夜中に目を覚ましていたのに、そうはならなかった。例えば薬物などを使えば声を上げさせずに殺すのも可能かもしれないが、ここにある死骸はほとんどが切り傷を負っているため、その可能性は低いと考えられる。

 その時、彼の記憶と目の前の惨状が少し結びついた。

 3日前、路地裏で若者たちに襲われた時に突き付けられたナイフ。まさしく切るためのものだ。おまけに彼らの内の1人は『皮を剥ぐ』とも言っていた。状況と合致する。

 そしてジェフリーの頭の中で1つの仮説が組み立てられた。

 ――以前私を襲った若者たちは、どうにかしてここを突き止めたのだ。そして侵入を果たし、私の家族を襲った……。

 それは穴だらけだったが、一応の辻褄さえ合っていれば後はどうでも良かった。彼の頭にはもはや復讐のことしかなかった。

 キッチンでナイフを手に取る。

 絶対に探し出しこれで同じ目に遭わせる。そのどす黒い気持ちに支配され、リビングを出ようとしたジェフリー。

「……?」

 その足がぴたりと止まる。

 声を――鳴き声を聞いた気がしたのだ。

「誰か……誰か残っているのか? 返事をしてくれ!」

 力いっぱい叫ぶと、再び鳴き声が聞こえてきた。恋しさのあまりの幻聴では無かったのだ。

「おお……どこだい? もう怖いことはないんだ、出てきておくれ!」

 だが声はすれども姿が見えない。注意深く耳を澄ませると、キッチンの奥から続く地下室の方から聞こえていた。

 急いで地下室の階段を駆け下り電気を点けると、そこには見たこともない黒い成猫がたたずんでいた。

「お、お前は……?」

 恐る恐る近付いて触れようと試みると、それを嫌がるように前足を繰り出してきた。

 その気性、そして外見。共につい先日拾ったばかりの黒い毛の子猫と一緒だった。

「この前の……? だが見た限りではまだ1か月程度だったはず……」

 身体つきは成猫と遜色なく、1年以上生きているかのようなしっかりした身体が完成されている。こんな急成長はあり得ないことだ。

 あり得ない。頭では理解していても、ジェフリーの反応は正直だった。

「素晴らしい……! やはり君との出会いは運命だった!」

 歓喜かんき感動かんどう恍惚こうこつ快感かいかん。甘美な情動の全てが全身を満たしていく。

 この瞬間、ジェフリーは奇妙な黒猫に心の底から魅了されてしまっていた。

 自らが破滅へ向かって転げ落ちている事すら知らないままに。




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