ドラゴンスケイル

藤田幸世

1.His life

「うう……ひぐっ、ぐすっ……」

 買い物を終え公園を通り抜けて帰ろうとしていた青年は木の下でうずくまって泣いている小柄な少年を見かけた。

「そこの君、どうかしたの?」

 目元を赤くらせた少年は黙って木の方を指す。そこには木の枝に絡まってしまった赤い風船があった。

「あれは君の?」

「うん……でも僕じゃ届かなくて……」

 少年の服のあちこちには芝が付着していた。きっと取り戻そうと木に登っては失敗してしまったのだろう。

 もう一度見上げる。木の枝は高さ4メートルほどの位置にあり、幹からまっすぐに伸びた太い枝から無数に分かれた細い一本の枝に絡まってしまっていた。そこへ登るまでとっかかりになるような他の枝はない。風船を取りたければ自力で4メートルを登らなければならず、小柄な少年が登れないのも無理はなかった。

 状況を一通り確認した青年は少年の肩を優しく叩いた。

「ねえ、僕と君の仕事を取り換えっこしない?」

「取り換えっこ?」

「僕は風船を取りに行って、君はその間僕の荷物を見張るんだ。どうかな?」

 少年は風船と荷物を交互に見て頷いた。

「分かった、いいよ」

「よし! じゃあこいつらを頼むよ。中のお菓子は食べちゃダメだからね」

 少年は自分の目の前に降ろされた紙袋を見張り、青年は木から少し離れた場所まで移動する。

 身体を動かしやすいように軽く跳んだりして筋肉をほぐした青年は、自分に向けて小さく手を振る少年に手を振り返してから、木を目指して思い切り駆け出した。

 飛び出した勢いから更に加速し、垂直な幹を3歩分駆け上がり、太めの枝に向かって跳躍ちょうやくしてしっかりと枝をつかむ。見たこともない早業はやわざを目にして少年は呆気に取られてしまった。

 青年の方はぶら下がった状態で風船の下まで進み、体勢を整えて腕の力だけで一気に上半身を持ち上げ素早く風船をキャッチした。

「わあ!」

 少年は思わず立ち上がり木の下へ駆け寄った。枝を手放した青年は微笑ほほえんで風船を少年に手渡そうとしたが、受け取ろうとした瞬間さっと手を上げてしまった。

「何するんだよ!」

「荷物を見張る約束だろ? 最後までちゃんと見張っててくれなきゃ」

「あっ」

 間の抜けた表情になった少年は慌てて振り返るが、幸い狼藉者ろうぜきものはいなかった。そんな彼の頭に青年の大きな手がぽんぽんと触れる。

「なんてね。ほら」

 しかし今度は少年の方が風船を受け取らなかった。代わりに紙袋をえっちらおっちらと運んできて、青年の目の前に置く。

「約束した」

「ふふ、ありがとう」

 風船と紙袋が交換され、2人はどちらからともなく笑い合った。


「ところで家族とか友達とかは一緒じゃないの?」

「……ママと一緒だったんだ。おもちゃを見てからお昼ご飯を食べて、その後……」

 そう言って目元をごしごしと拭うのは、そのせいで泣いていたなんてカッコ悪いことを不器用に隠そうとする、彼なりの男の子の意地の表れだろうか。少年の精一杯の意気が微笑ましくて、青年の頬が緩んだ。

「家はどのあたりにあるの? この近く?」

「丘の辺り。ママの車で来たんだ」

「なるほど……」

 “丘”の辺りに住んでいるということはそれなりに裕福な生活を送っている証左しょうさであり、そう言われるとまったく注意していなかった少年の服装などもなんだか高級なもののように見えてくる。青年には値段による物の良し悪しの区別がつかないが、もしそれが備わっていればきっと少年が裕福な暮らしをしていることにもっと早く察しがついたのではないかと、自分の生活環境がちょっとだけ恨めしく思えた。

「ママ、きっと僕のこと探してる」

「連絡できるものは……持ってたらこんなことになってないよなぁ」

「いつもはママにうんざりするくらいに言われて持ってるんだけど、今日は車の中に置いて来ちゃった」

 丘の辺りに住んでいる人間らしく母親の方は防犯意識もしっかりしているのがうかがえる。息子の方は言いつけの意味を完全には理解し切れていなかったのがやや惜しいところだった。

 声を掛けたのが自分で良かった、と青年は肩をすくめた。完全に善良な人間などと自惚うぬぼれてはいないが、犯罪に手を染めるつもりもない心がけでいる自分でなく、例えば“南”に住んでいる誰かが彼の価値を知ったらどうしていたか、考えるとあまり良い気分はしなかった。

「なら一緒にお母さんの所まで行こう。僕が力になる」

「いいの? 僕、おつかいの後はまっすぐ帰って来なさいって、ママに言われてるんだ。そっちは?」

「おおっと、それもそうだ。でも僕におつかいを頼んだ人は結構いい加減さんだから、ちょっと帰るのが遅れるくらいなんてことないさ。だから君の方がどうしたいが大事」

 少年はちょっと迷った。手を貸してほしい、と一言言えば青年は迷いなく自分と一緒に来てくれるはずだと思える。だが彼の母は常に他人に迷惑を掛けないようにと言い聞かせてきたし、やっぱり助けを求めるのはカッコ悪いなんて小さなプライドが邪魔をするのだ。男の子だから。

 けれど――

「僕のことなら遠慮はいらないよ。さあ、行こう?」

 差し出された手のひらも体も、何ならその心も、青年のそれは全部が全部少年よりもずっとずっと大きかった。

 そんな彼の優しさを前にしては、ちっぽけな気持ちも何処かへ消え去ってしまった。そして少年はその手のひらに思い切り自分の手のひらを打ちつけた。

「いたっ!」

「よろしく、お兄ちゃん!」

「ハハ……それじゃお母さんを探そう。おっとその前に、君の名前を教えてもらえるかな」

「いいよ、僕の名前はマルコ」

「マルコ。僕はアーサーだ、短い間だけどよろしく」

 迷子の少年――マルコと、手を差し伸べた青年――アーサーは、拳をこつんと打ち合わせた。

「さてマルコ、一番素早いのは君がお母さんの連絡先を知ってることなんだけど……覚えてるかな?」

 マルコは首を横に振った。

「スマホに登録しといただけで覚えてないや」

「あちゃあ……じゃあ次だ。いつどこでお母さんとはぐれちゃったのか、思い出せるかな?そこへ戻ればお母さんが君を待ってるかもしれないし、お母さんも君を探しに行ってても、また戻ってきた時に会えるでしょ?」

「そっかぁ。うーん……」

 マルコは腕組みして記憶を辿り始めた。それを邪魔しないように、アーサーは自分のスマートフォンを引っ張り出して彼の雇い主に電話を掛けた。

「もしもしマッド? 買い物終わったよ」

『ご苦労。トウモロコシは忘れずに買ったか?』

「勿論だけど、自分でるなんて面倒なことするより、既製品買った方が楽じゃない?」

『お前は相変わらず分かってねえな。家で映画見る時はってる間からお楽しみの時間なんだよ、徐々に気持ちを高めていって映画を見るのがいいんだろうが』

「熱弁してもらって悪いけど、そのこだわりは何回聞いても分かんないかな……ああそうそうもう一つ。今、迷子の子と一緒にいて、彼のお母さんを探そうとしてるところなんだ。だから帰るのはちょっと遅れると思う」

『またかお前。1セントの得にもならないのに毎度よくやるよ』

「行動に報酬が必要だっていうなら、僕はそれをとっくに貰ってるよ。その恩返しなだけ」

『それも何回聞いたか分かんねえ……まあいい、19時までには帰ってこい。雇用者の命令だからな、絶対に守れよ』

「分かってるって。じゃあマッド、また後で」

 1分ほどの通話を終えてマルコの方を見ると、彼はいかにも困っているようだった。

「どこではぐれたのか思い出せないんだ」

「なら今日行ったところへ戻ろう。おもちゃを買いに行ってお昼ご飯を食べたって言ってたよね、それはどのあたり?」

「ええっと確か……おもちゃを見たのはディック・マートだったと思う」

 その場所はすぐに分かった。アーサーがマルコと遭遇そうぐうする前に買い物をしていた、まさにその店だったからだ。

「そのお店なら……この公園から南に1.5キロくらいか。お昼ご飯はどこで?」

 これには黙って首を横に振った。

 となれば今ひとまずの行き先はディック・マート以外にない。

「よし、ディック・マートへ行こう。何か思い出したことがあったらどんなことでも教えて」

「うん」

 マルコは風船が簡単に離れて行ってしまわないようにヒモをしっかりと手に巻き付け、南に向かって歩き始めた。アーサーは目を離さないことを意識しつつ彼の2歩分後ろを追うようにして歩く。

 歩きながらもアーサーの質問は続いた。

「お母さんはどんな格好をしてる? 服の色とか髪型とか、特徴的なものが分かれば見つけやすいかも」

「髪はブロンドだよ、毎朝キレイにかしてるんだ。服は白いやつで……それ以外はよくわかんないや」

「ふーむ……」

 それだけの情報では“そんな女性はごまんといる”以外の言葉がなかったが、見分ける手掛かりにはならないとは言えなかった。根気よく行くしかない。

 それから2人は他愛のない話をいくつかしながら20分ほど歩いてディック・マートに到着した。今日が休日なのもあってか広めの駐車場は50以上車で埋まっているように見える。

「……もしかして、車はこの内のどれかだったりする?」

「ううん、別の場所だよ。混まない場所に停めたんだ」

「その場所は覚えてる?」

「何度も道を曲がったからよく覚えてないや」

 母親が見つからなくても、最悪そこへ向かえば何とかなる場所への望みがなんともあっさりと断たれてしまい、アーサーは少し落胆した。しかも当の本人は割とケロッとしているため、自分の発言がどんな意味を持っていたのかにも気付いていないように見える。これには母親が“うんざりするほど”注意をしたというのも納得だった。

「小さいうちは、その理由も中々わからないけどさ……」

「どうかしたの?」

「なんでも。さて、ここにしばらくいてみる? それとも別の場所に行ってみる?」

「……しばらく待ってみる」

 腕時計を確認すると時間は15時になったばかり。アーサーの方もまだ時間に余裕があるのでその提案に乗った。

「ねえ、お兄ちゃんはここで色々な買い物をしたって言ってたけど、何を買ったの?」

「ほとんどは保存の利く缶詰だよ、“いい加減さん”はあんまり外に出たがらないし簡単に済ませられるものが好きみたいなんだ。今夜はピザとコーラだって言ってたけどね」

「いいなあ。僕のママ、どっちもあんまり僕にくれないんだ」

「それはきっと君の健康や成長を考えてのことだよ。いい加減さんなんていい歳になってきたのにまだそんな食べ物が好きなんだから、健康のことなんてお構いなしさ」

「でも、お腹いっぱいピザを食べても、トイレに何回も行っちゃうくらいコーラを飲んでも誰にも叱られないんでしょ? それって羨ましいよ」

「それは好きなものを好きなように食べられる“自由”の代わりに、体にどんな不調が起こっても自分で“責任”を取るからこそできることなんだ」

「……???」

「……そうだなあ、マルコは今パパやママと一緒に暮らしてるだろ? それできっと2人とも君に『ああしなさい』『こうしなさい』って言ったはずだ。『いつでもスマートフォンを持ち歩きなさい』って」

「そうじゃないよ。『あなたはまだ子供なんだから、何かあってからじゃ遅いのよ!』だよ」

「ははっ、そっか。それで、君はあれこれ言われるのが嫌になったかもしれない。でもそれは仕方のないことなんだよ、だってマルコはまだ子供なんだから」

「よくわかんない。どういうこと?」

「例えばマルコ、今ここに悪い大人がやってきて君をどこかへ連れてっちゃおうとした時、君に何ができる?」

「……何もできない」

「そう、それが答えだよ。できないことが多い君の代わりに責任を取ってくれる……“何とかしてくれる”のがパパとママなんだ。それと一緒に、君が“何とかできないこと”をさせないのも君を守るため。マルコが子供でいられるうちは、パパとママは必ずそうしてくれる」

「どうして?」

「それがパパとママの責任だからさ。そしてマルコのことが大事で、大好きだから、厳しかったりうんざりするようなことを言うんだ」

 そこまで話したアーサーは、ついつい身の丈に合わない説教臭いことをまだ小さい子供相手に長々と語ってしまったのを反省した。特にマルコはその手の説教を嫌うような子供なのはそれとなく感じ取っていただけに、余計なことを言ったという自覚も大きくなる。

 だが謝罪しようとした彼の予想に反してマルコは神妙な顔つきをしていた。呆気にとられ言葉が喉元で消えていく。

 そしてマルコは真剣な表情で、かつ少し目を潤ませながら、言った。

「……僕がいけなかったんだ。ママに謝らなきゃ……」


 16時になって、2人は再び公園にいた。今は先ほど出会った場所とは違う、露店や屋台が銘々めいめいに広がる広場の外縁で、過ぎ行く人々の流れに目をやっている。

 あれからマルコは一言も発していない。ただ黙って歩き回りつつきょろきょろと辺りを見回し、アーサーがそれについて行き、時々休憩を挟んで、それを繰り返しながらまた公園に戻ってきた。

「マルコ。どうして謝らなきゃいけないのか、良ければ教えてくれないかな」

「……」

 何も喋ってくれないマルコの隣に居続けて数分後、彼がアーサーの服の裾を引っ張った。

 マルコの指さした方を見ると、風船をたくさん持った中年ほどの男性が通りかかる子供に一つずつ風船を渡してあげていた。

「君のもあの人から?」

 こくりと頷いたマルコは意を決して何か伝えようとしたが、上手くまとまらないようで金魚みたく口をぱくぱくさせてしまう。やがて何とか吐き出すようにぽつぽつと話し始めた。

「ママを……困らせたかっただけなんだ。見つからない所に行って、ちょっと隠れて、それで……ママと一緒にいた時におじさんに風船をもらって、それから人ごみの中に入ったんだ。ママがどこにいるのか分かってたつもりだったのに、気が付いたらいなくなっちゃってて……」

「えっと、たまたまはぐれちゃったんじゃなくて、君がお母さんからわざと離れようと思ったら本当に会えなくなっちゃったってこと?」

「うん……」

 それから母親を探しに色々公園を歩き回っているうちにうっかり風船を手放してしまい、もう母親に会えないと悲観して泣いていた、というのが事の顛末てんまつだという。

「そっかぁ……それは謝らないといけないね」

「僕が、僕がっいけなくてっ、うっ、ひぐっ」

「マルコ、マルコ。落ち着いて、深呼吸をして、僕の方を見て」

「うっ、ううっ……」

 しゃくりあげながらポロポロと涙を流すマルコの前にしゃがみ込んで目線を合わせようとするが、一向に落ち着く気配がない。そこでアーサーはまた隣に移動し、小さな背中をゆっくりと撫でて落ち着かせようと試みた。小さな子供が泣いていた時はだいたいこうやってなだめていたという経験が活き、マルコの嗚咽おえつは次第に小さくなっていく。

 機を見計らってアーサーはできる限り優しく語り掛けた。

「ママに会えたら何て言って謝ろうか。僕も一緒に考えてあげるよ」

「僕、わ、分かってるん、だ。か、勝手に、いなくなっちゃったこと……ママの言う通り、して、なかったこと……」

「……そっか、なら後はママに伝えるだけだね。大丈夫、マルコは反省できるいい子だ、きっとまた会えるよ」

 そしてよしよしと頭を撫でて立ち上がったアーサーの目は、こちらを見る誰かの目に吸い寄せられるようにぴたりと交わった。

 女性、綺麗なブロンドヘアー、白いガウンを羽織ったその姿は――

「マルコ!」

「ママ!」

 一目散に駆け出して彼女の胸に飛び込むマルコ。女性――マルコの母は自分の下に戻ってきた息子の体をひしと抱きしめた。

「ああマルコ……無事でよかったわ……あなたから目を離してしまった私を許してちょうだい……」

 整えられたメイクが崩れるのも構わずに大粒の涙をこぼして許しを請う母親に、マルコは答えない。その真意をマルコ以外に知っているアーサーは、彼が今、母の胸から脱する勇気を出そうとしているのを理解していたために、何も言わずに事態を見守る覚悟でいた。

 自分の非を認めて謝罪することは非常に大きな勇気がいる。大人でさえ簡単にできない――あるいは大人“だから”できないのか――ことを、子供がするとなればなおさらだ。見守るアーサーもその苦しみを自分のことのように感じていた。

 けれどマルコならきっとできる。近くで自分の行いを振り返る彼を見続け、それは疑うことではなかった。

 やがて涙を拭った母親は今度はアーサーの方を見つめた。応じるように歩み寄ってきた彼に、彼女は丁寧に頭を下げた。

「あなたがマルコの面倒を見て下さったのですか?」

「ええ。放っておけなくて」

「すみません、あなたにも事情があったはずでしょうに……」

「いえ、自分で決めたことですから。お気になさらないでください」

「本当になんとお礼を言えば良いか……マルコ、あなたもお礼を」

「あっとその前に、失礼。マルコ、言いたいことがあるんだろう。ちゃんと言ってみようよ」

 マルコはズボンをぎゅっと握りしめ、小さく震えてていた。アーサーにも分かる、あれは自分と戦っている証拠だと。

 そんな彼の背中を押すために、そっと隣にしゃがみ込んでささやく。

「君ならきっとできる。僕に言えたんだ、ママにもきっと言えるさ」

 少し無理があると思わないでもない言葉だったが、マルコはこくりと頷き、母親を見つめた。

「ママは悪くないよ、僕がいけなかったんだ。いつも色々なことを言われるのがイヤで、ママの事、困らせたくなったんだ。でも、そうしたら本当に会えなくなっちゃって、それで僕……」

 頑張ってこらえていた涙が目尻から零れ落ちたが、それをぬぐって必死に続ける。

「でもっ、お兄ちゃんと話して分かったよ、ママが僕のことを好きだから言ってくれるんだって! だから……ごめんね、ママ」


 マルコと母親は涙で真っ赤になった互いの顔を指して笑い合っていた。自分には決して手に入ることのない本当の家族の温もりを少しだけ羨ましく思いながらも、2人が無事に思いを伝え合えた喜びを我が事のように噛みしめ、アーサーはきびすを返す。

「待ってお兄ちゃん!」

「ん?」

「ありがとう、お兄ちゃんがいなかったら僕、ママのことが嫌いなままだったかも」

「今はどう? ママのことは好き?」

 問いに対しマルコは自分の耳を指した。指示された通りに腰を低くして耳をマルコの口元に近付ける。

「……ママにちゃんと言うのは恥ずかしいけど、僕もママが好きだよ」

「よーし。なら今度はマルコが大好きなママを助けてあげられるようになるんだ。できるかな?」

「うん!」

 大事な約束を交わすように、マルコの小さな拳とアーサーの拳がこつんとぶつかりあった。



 ここは“アルバスシティ”。ここ30年で発展を続け国内で注目を集める街だ。

 街の形は正方形に近く、それぞれの特色を持つ東西南北と中央の5つのメインブロックで分けられている。

 小高い丘陵地帯きゅうりょうちたいに築かれた富裕層たちの高級住宅街、北。

 多く人や物が集い行政が置かれているシティの心臓部、中央。

 内陸の他の都市にも通じる経済と工業の中心地、西。

 海に面しマリンリゾートなどを中心に栄えた観光の目玉、東。

 そして、他からはじき出された者たちが集う最底辺の南。

 発展による利益を享受きょうじゅする新興都市という顔の裏で、貧困にあえぐ南の住民による犯罪も起こる犯罪都市でもある。

 将来的な発展を見越して移住し勝ち馬に乗ろうとする者もいれば、行き場を失くして流れ着く者もおり、人口は年々増加の一途をたどっている。

 アーサーは喜びも悲しみもあるがままに流れ行くこの街を強く愛していた。犯罪都市という負の面を知っていてもなお。

 北から来たマルコたちを見送った後、彼は中央から南下していた。雇い主の住処すみかであり一応の彼の職場は、南の貧民街につま先くらい突っ込んだ位置にあるからだ。

 中央は街で一番多くの人が住む地区のため、大通り沿いにはアパートと様々な商店の入った雑居ビルが多い。そしてそれらが立ち並ぶことで形成された迷路のような路地裏は、南で生きるには非力な浮浪者やストリートチルドレンたちの居場所として、あるいは人目に付きにくいのを良い事に犯罪の温床と化している。わざわざ近付く者はそういない。

 帰路に着いたアーサーもまた同じだった。帰るのがやや遅くなりそうな現状、人通りの多い通りを避けて路地裏を通ればいくらか早く帰ることはできるし、そのための道もいくつか知っていたが、万が一トラブルに巻き込まれてしまった時のことを考えるとそれは下策だ。ゆえに通りを人の流れに乗って歩いていた。

 だが彼の足は突然止まってしまった。

「……ん?」

 数十メートル先で若い男が2人、路地裏へ入って行った。それだけならまだしも、2人の一瞬前に老人が押し込まれるようにしてそこに入って行ったのを見かけてしまったのだ。

 周囲の同じタイミングですれ違った人々は一瞬だけそこを覗くが、巻き込まれるのを嫌い足早に過ぎ去ってしまう。こうして一瞬の出来事を知るのはアーサーだけになった。

 自分もまたそこを覗き込んだせいで喉の奥にじわじわとせり上がってくる嫌悪感を帰ろうとする気持ちと共に何とか飲み下し、短く息を吐き出したアーサーは路地裏に足を踏み入れた。

 足音を立てないよう、物を蹴飛ばさないよう、足元に気を付けながら歩を進める。既に3人の姿は見えないが、やけにゆっくりとした足音――恐らくは老人の足音だ――がしっかりと聞こえてくるため、耳を澄ましてそちらへ向かっていく。

 建物の角を曲がった回数は5回から先は数えていない。それほどにあちこちへ行った足音がようやく止まった。アーサーも建物の角に隠れて様子をうかがう。

「うん? 君たち、案内してくれるはずでは……」

「クッ、ハハハハハハ! おいおい爺さん、あんなのマジで信じてたのか!? ハハハハハッ、思った以上に警戒心のない爺さんだ!」

「バッカじゃねーの!? その歳にもなってよおー、ここに1人で入ってく怖さが分かんねえなんてボケてんだろアンタ! ハハハハハ!」

「そんな格好したジジイがこっち来るなんて頭足りてねェな! このボケジジイ!」

 老人の声と若者の声が3人分。ここで待ち構えていたのか見えなかったが先頭に1人がいたようだ。

 若者たちは聞くにえない下品な言葉遣いで老人をなじっている。一方の老人はこんな状況に陥った割には冷静さを保っているように感じられる、落ち着いた言葉遣いで何とか事態の収拾を図っている。その老人の声にはどこかで聞き覚えがあった。

「私はただ探しものをしたいだけで……」

「こんなとこに何の用だよ? 昔捨てたガキでも探しに来たか!?」

「おーおー見た目によらず遊んでんじゃねえか爺さんよぉ! この街じゃ珍しくもねえもんなァ!」

 言葉を聞いているだけで不快感と怒りで叫び出しそうだった。相手は3人、1人ではどうやっても敵わない数と理解していなければ後先考えずに飛び掛かっていたかもしれない。

 落ち着くために深呼吸を三度行い、息と共に気持ちを吐き出す。脳に酸素が行き渡るような気がして徐々に思考がクリアになっていく。

「君たちは何の目的で私をここへ……」

「単純だよ、お・か・ね。地味だけどいいもん着てんじゃん爺さん。北住みだろ? なら多少若者に上げても問題ないくらいあるだろ?」

「いやそれほどは」

「とぼけんな。あ? 年取った身体じゃ骨なんか簡単に折れんだろ?」

「痛ェ思いしたくなきゃ金出せよ。ジジイになりゃ健康のために何万ドルも使うのと一緒だ。ケガしねえためだよォ……」

「勘弁してくれ、そんな物を向けられても出せないものは出せないんだ。諦めて離してはくれないか……!」

 老人の声が若干上ずったものになった。言葉からするに何らかの凶器を突き付けられている可能性が高い。

 もう事態を静観することはできない。アーサーははやる気持ちを抑え、スマートフォンを取り出した。

「やめてくれ、私には君たちが求めるような大金などないんだ! 話を聞いてくれ……!」

「ゴチャゴチャと……仕方ねえな。金出すよう言わねえなら、言うまであんたの顔の皮でも剥ぐか。たるんで無駄なとこが多そうだから俺たちが除去してやるよ」

「な……うっ!」

「さァて何センチで喋るかな……ッ」

 老人の皮膚にナイフの切っ先が触れる。しかし言葉の通りの凶行には至らなかった。

「警官さんこっちです!」

「!?」

 若い男の声と複数の足音が路地裏に響き渡った。徐々に大きくなっていく足音は聞こえた言葉通りであれば警察官が来た証拠だ。

『くそっ、なんて歩きづらい道だ』

『つべこべ言うな、もうすぐ出るぞ』

 さらに2人の男の声までもが聞こえてきた。それが決め手だった。

「……チッ! 逃げんぞ!」

 その手のことには慣れっこの若者たちは、素早く老人から手を離し路地裏に消えて行った。後には老人がへたり込んでいるだけだ。

『ようやく見つけたぜこの野郎。さあ俺のマグナムを食らいやがれ!』

『馬鹿言うんじゃねえ、捕まえんのが仕事だろうが!』

「……?」

 そこで彼はハタと気付いた。聞こえる台詞と状況が一致していない、そして聞き覚えのある“台詞”だと。

『イカレた悪人はみんなこのマグナムでイチコロよ。それがこの俺――』

「――『ザック・アンダーソン捜査官だ』。おお、これは……」

「“ザック・マグナム”です」

 角から顔を出したアーサーは老人の言葉を継いだ。

 アーサーが思いついたのは実に馬鹿馬鹿しいアイデアだった。警察映画のワンシーンを流して、あたかも警官が迫っているかのように思い込ませることだったのだから。しかし急場しのぎの作戦にしては上手く行った。

 マッドに付き合って様々な映画を見てきたのも中々無駄にはならなかったと安堵あんどしアーサーは老人に近付く。そしてその顔を見て彼が何者なのかを瞬時に思い出した。

「ミスター・ジェフリー! お身体は大丈夫ですか?」

「ありがとう、君のお陰で何ともない。それと私はただの愛猫家あいびょうかだ、ジェフリーで構わない」

 老人の名はジェフリー・ピアース。このアルバスシティで一番の愛猫家あいびょうかと言われる老人だった。ちょっとした有名人である彼は、その分ローカルメディアへの露出もいくらかあった。それで声に聞き覚えがあったのだ。

 アーサーはジェフリーの手を引いて立ち上がらせた。

「それではええと、ジェフリー。あなたほどの人がなぜ路地裏へ?」

「今日はテレビ局へ行って、最近撮影された映像の確認をしていたんだ。その帰りに、つい捨て猫でもいないかと覗き込みたくなってしまってね。そうしているうちに若者に囲まれてこの始末だ。まったく『好奇心は猫を殺す』となるところだった。本当にありがとう」

「では行きましょうか。いつまでもここに居ては家で“ご家族”が心配なさるでしょう」

「はは、それもそうだ。早く顔を見せてやらないと。だが……」

 路地裏は入り組んでいて、どこをどう進めば元の通りに戻れるのか、彼には見当もつかない。

 しかしアーサーは大丈夫、と言った。

「僕もここに詳しいわけではないですが、こういう路地の歩き方はそれなりに心得ています。任せてください」

「分かった、君を信じよう」

 アーサーは分かる範囲で来た道を引き返していく。それ以外は来た時に確認しておいた地面の舗装ほそう・建物の壁面・室外機の位置といった様々な特徴と照らし合わせながら歩く。

 程無くして2人は正面に人の往来と車が行き交う大通りを見つけることができた。

「ジェフリー、もう大丈夫そうです」

「何から何まですまない。君は私の恩人だ」

「いえいえ。お役に立てて何よりです」

 無事に路地から通りへと抜け出た2人に道行く人々がぎょっとした視線を向けてくるが、共にそんなものは気にならなかった。

「……そうだ、君の名前を聞いていなかった。君の名前は?」

「別に名乗るほどの者ではないのですが……一応。アーサーです」

「アーサー。君のような勇気ある若者が街にいるというのはこの街の誇りだ。そんな君に私は何のお礼もできないが、せめて君の幸福を祈らせてくれ」

「ハハハ、それは大げさですよ。では僕はここで」

 軽く頭を下げてきびすを返す。ジェフリーもアーサーとは逆方向を向いて、今度こそ2人はそれぞれの帰路に着いた。

 きっとこれきり会うことはないだろうと、その時は漠然と思っていた。


『マッド もうすぐ着くから鍵開けといて』

 メッセージを送り、アーサーは『 “残骸ルインズ” 関係者以外立ち入り禁止』と掲げられたスクラップ置き場の中に入っていく。

 無造作に転がるスクラップやガラクタ、濡れてぬかるんだ地面に足を取られないように注意しながらガラクタの間を縫うようにして進むと、やがて地面にハッチが埋設されている箇所に辿り着いた。前で少し待つとハッチは独りでにせり上がり、地下へと続く階段を露わにする。

 階段を下るアーサーの足音がハッチの閉まる低い音で一瞬かき消される。そしてぴったり30段下り切った彼の右側の壁が横へスライドし、中の光を浴びせた。

「ただいま。遅れてごめん」

 だらしなくソファに寝そべっていた雇用者――マッドはのろのろと起き上がった。

「……18時半か、予想よりは大分早かったぞ。映画が始まるまでに帰ってこれないと思ってた」

「じゃあ19時ってのは別に本気じゃなかったわけだ?」

「目標を設定しとけばそれまでに終わらせようと努力するだろ」

「その通り」

 雑談しながら、買ってきた品物を手際よく所定の位置に置いて行く。最後に乾燥したトウモロコシの袋をキッチンに置くと、マッドは待っていたとばかりに立ち上がった。

「もう作るの?」

「いけないか?」

 首を横に振る。さっさとコンロ前からどいて冷蔵庫の中を確認すると、外出前には5本あったはずのコーラの2リットルボトルが既に1本無くなっていた。

 ――毎度言ってるけどアレじゃいつ死んでもおかしくないなぁ……。

 ため息を吐き、ソファ周辺に転がっていた空のペットボトルを拾ってプラスチックゴミの箱に投げ入れる。注意したところで「それならそれで結構」と言われるだけで一向に改善する様子は見られないので、いつからか心配しつつも注意することはなくなってしまった。友人として正しい行いではないとアーサー自身承知しているものの、マッドは本当に死んでも構わないという捨て鉢の雰囲気をまとっているだけに、踏み込むこともできなかった。

 ――自由と責任、か。

 マルコに語ったことをリフレインし深みにハマりそうだった思考を頭を軽く振って追い出し、気分転換にマッドに問いかける。

「今日やる映画、なんて名前?」

「『怪奇! 人食い植物の恐怖 ~絶海の孤島に生きる恐怖の原生植物~』」

「えぇ……」

 タイトルが長すぎる。“恐怖”がダブっている。人食い植物の正体がタイトルでほぼバレている。その辺りからアーサーにすらわかる、まごうこと無きB級オーラ。

 そのタイトルをネットで検索して出てきたあらすじを読んで静かに目頭を押さえた。


『ヨットで沖に繰り出した7人の若者たちは嵐にい海へ放り出されてしまう。彼らは絶海の孤島で目を覚まし生き残るために島の探索を始めるのだが、原生林の中には恐るべき人食い植物が蔓延まんえんしていた! さらに植物と戦い続ける原住民からも追われる若者たち。果たしてこの島に未来はあるのか!? 衝撃のサバイバル・スリラー!』


 あらすじを読んだだけでは原住民が若者たちを追いかける理由がさっぱりわからない。生き延びるか島を出たい彼らと原住民たちは人食い植物という共通の敵を相手に団結できるはずなのに、追いかけっこしてどうするつもりなのだろうか。ちょっとため息が出た。

「……ねえマッド、正直に言うけどこれ地雷じゃない? そんなにワクワクして待つような内容?」

「『画面の向こうに違う世界が広がってるのを体験すること』そのものが俺にとっての映画体験なんだ。内容は何でも構わない、ここじゃない世界を見られればいいんだよ」

「同じだけ時間がかかるなら面白いもの見た方がずっと得だと思うんだけど」

「それこそお前のお節介と同じだ。役に立てればプラスのお前、映画を見る時点でプラスが決まってる俺。プラスの振れ幅は内容次第、だろ?」

「おおっと、まさか映画の話から僕のことを言い当てられるとは思わなかったよマッド。君、メンタリストとかやってる?」

「なわけあるか。暇人なのはお前が一番知ってるだろ」

「だから僕の給料が一体どこから出てるのかも大いに興味があるね」

 アーサーが“マッド”と呼ぶ人物については、出会って半年になる彼でもまだ知らないことが多い。本名、年齢、家族、仕事などの基本的なステイタスは一切不明。見た目からして40代後半から50代くらいかもしれないように見えるが、子供っぽい嗜好しこうや言葉遣いがノイズになるせいで予想の域を出ない。

 逆に出会ってすぐに分かったことは“大の映画好き”ということだった。その次は“ジャンクフードが好き”。

 あまり役に立たない情報を思い出しながら、嬉々としてポップコーンを作る友人を見ていたアーサーは不意にまぶたが重くなるのを感じた。

「ふぁ……マッドごめん、ベッド貸して……」

「好きに使え。19時半にピザが届くからその時間でいいか」

「んー……」

 今まで感じたこともないような強い眠気が全身にまで広がり、ほとんど床を這うようにして何とかベッドに転がり込んだ途端、アーサーの意識はまどろみの向こうへ連れていかれてしまった。


       ×          ×


「~~♪ ~~♪ ♪~~~♪」

 同じころ、ジェフリー・ピアースは鼻歌を歌いながら街の北西を歩いていた。

 猫を愛する老人として街ではそれなりに名が知られているが、それ以外では物質的・精神的にも中央に住むような人々と大きな違いはない。違う点があるとすればそれはやはり猫に注ぐ愛情だけだ。

 彼は時折こうやって街を散歩する。運動、気分転換、人との交流など様々に理由を挙げることはできるが、本当の理由はやや特殊なものだ。

「~~~、……おや?」

 聞き慣れた音が彼の耳に飛び込んできた。歳を取っても聞き間違えることのないその音を辿って、前へ右へ左へと慎重に歩いて行く。徐々に近付いて行く音の出所は手付かずの空き地、更にそのやぶの中のようだが、もう日が暮れたこともあって中ははっきりとはわからない。

 そこでジェフリーは予め持ってきておいた懐中電灯でやぶを照らし出した。

 果たしてそこには彼の愛してやまないもの―子猫がうずくまって鳴いていた。

「おお~よしよし。お前も捨てられたのかい? だがもう心配はいらない、これからは私がずぅっと一緒だ」

 身体の大きさからして恐らく生後1か月前後。親の猫が生んだはいいものの、飼い主が育てきれなくて捨てた可能性を思うと胸が痛んだ。

 闇に溶けるような黒い毛の子猫を抱き上げ愛おしそうに頭を撫でる。しかしそれは彼女のお気に召さなかったらしく、威嚇の唸り声を上げて腕を振り回したが、短い腕はジェフリーに届かずに空を掻いた。

「おおっと、中々お転婆てんばさんだなぁ。それくらいの方が育てがいがあるというものだ、ははは」

 腕の中で子猫をあやしながら立ち上がり周囲を見回す。

 ここ北西部はつい2年前まで西の経済団体と北の富裕層との土地を巡る折衝せっしょうの争点となっていた地区だった。その争いには西が勝利し、今は新たなビジネス区として急ピッチで開発が行われている。

 今ジェフリーと子猫がいるこの空き地からも建設中の高層ビルや工場が見える。我が物顔で街を見下ろすような威容いようは、発展以前からこの街に住んでいるジェフリーにはやや受け入れがたいものだった。

「……私が愛し共に歩んできたアルバスの街は変わってしまった。だが私は変わらないぞ。最期の時まで私らしく生きてみせるとも」

 先ほど出会った青年、アーサーの顔が脳裏によぎる。彼は今の街を愛しているのだろうか――、知ったところで意味のない疑問が泡沫うたかたのように浮かんでは消えた。

 彼の悲しみと寂しさ、そして少しの怒りが籠った言葉が終わるのと同時に、それに同調するかのように子猫がいっそう強く唸ってみせた。

「分かってくれるのかい? 嬉しいねえ、おおよしよし……」

 ――こうやって出会った子らとは特別な関係を築けたことが多かった。それゆえ彼は街をうろついては野良猫や捨て猫を探しているのだ。ひとえに“運命の出会い”などというものを信じて。

 新たな一匹との運命の出会いを果たした老人は濃さを増した夜の闇の中に歩き出す。その中で、子猫の目だけが燃え盛る炎のように爛々らんらんと光を灯していたことに、彼はまだ気付かない。



 ――よお“アーサー”。今日は何かつかめたか?

 ――ほぉーう。そいつはお手柄だなアーサー。働き者にはチップも弾んでやんないとな。

 ――ハハッ、俺はどこにも行ったりしねえよ。今更ここからどこに行けるってんだ?

 ――そうそう、笑ってくれや。人間笑顔が一番って良く言うだろ。


 ――こっちだ! あいつ一人で危ねえことに……アーサー!?

 ――やめろ! それ以上行くな! お前まで――

 ――『銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声』

 ――『***だったものが崩れる。血が流れる。光を失った目と視線が交わる』


「ハァ……ッ!!」

「……よう。だいぶ調子悪そうだな」

 跳ね起きたアーサーに驚いたのか、隣にいるマッドは大分引きつった顔をしている。そんな彼に差し出されたタオルを素直に受け取り額を拭った。

「…………」

 マッドは何か聞きたそうな表情をしていたが、しばらくはそうせずにいた。やがてアーサーが見た目だけでも落ち着いてから、ダメ元で聞いてみる。

「お前すごいうなされようだったぞ。どんな夢だった?」

「……契約違反」

 ベッドから降りてソファに腰かけ直す。コーラを一杯もらって気分転換にテレビを点けると、ちょうどローカル報道番組が始まった。

 街で起こった事件・事故や天気予報、株の推移などの一般的な内容が一通り終わり、次の『気になるあの人にインタビュー!』が始まった途端、マッドが舌打ちをした。

 今日のインタビュー対象は、アーサーはつい2時間ほど前に一緒だったジェフリー・ピアースの何度目かの特集だ。ちょっとした有名人である彼には、ある通り名がつけられていた。

「何が『猫男爵』だよだっせえな。てかどうせ偽善だ偽善。『捨て猫を保護して一匹一匹大事に育ててるなんて素敵なご老人だわ!』とか言われてぇだけだろうが」

 先ほどまでのどこかぎくしゃくした空気をぶち壊すように、殊更ことさら大声でマッドがまくし立てる。いつもの空気を取り戻そうと努力する友人に協力するため、アーサーもまた努めていつものように言葉を紡いだ。

「……なんでそんな難癖付けるのさ」

「善行なんざいくらやっても無駄だからだ。あの年頃のジジイがそんなことも分かってねえわけねえだろうにやってんのがムカつくんだよ」

 マッドの言葉は適当に聞き流してテレビに集中する。

 ジェフリーは数年前から捨て猫の保護を始め、現在は北に自宅と猫たちを自由に遊ばせてやるための土地を持っているという。

 彼の家の中に踏み込んだカメラに早速ネコが映る。どこを向いてもネコ、ネコ、ネコ。今ここには何匹のネコがいるのかという質問に対し、氏は答えた。

『24匹です。皆、私の大事な家族だ』

『なんと! 驚きの数ですね。ではお名前などはどうされているのでしょうか?』

『皆に平等に愛を与えられるよう、名前は付けていません。それに……お恥ずかしながら、歳を取って名前を覚えるのもだんだん困難になってきたもので』

 レポーターもコメンテーターも、ジェフリーのジョークに小さく噴き出した。

『ですが亡くなってしまった子には名を与えます。私からの最後のプレゼントであり、彼らが主の元へ向かわれた際に名を呼んでもらわなければ困ってしまうと考えたのです』

「はぁー。正直に名付けがめんどくせえって言っちまえばいいのにな」

穿うがちすぎでしょ」

 その後もマッドは特集が終わるまでグチグチと悪態を吐き続けた。

 そんな彼の行動に少し疑問を抱いたアーサーは、自分で作ったポップコーンを面白くなさそうな顔でもう口に運んでいる彼に聞いた。

「誰かを助けるのが偽善だって言うけど、僕にだけは一度もそう言ったことなかったよね。どうして?」

「ああん? ……それはあれだ、あー……黙秘権を行使する。黙秘黙秘」

「ケチ」

「はん、何とでも言え。っと、そろそろピザが届くな、取りに行ってくれ」

「分かりましたよー」



「ふあぁ……ピザだけもらって帰るべきだった」

 時刻は22時を過ぎた。映画を見終わった2人は、結局頭を抱えることになったアーサーと、未だに気分よさそうにポップコーンを頬張り続けるマッドとで対照的な表情だった。

 眠気と心理的疲労からか全身が重くなっていくのを感じ、アーサーはソファに倒れ込んだ。

「今日は帰らないのか?」

「なんだかすごく身体が重いんだ……ここでいいから寝させて……」

「なら」

「明日の朝食の準備でしょ……やっとくから……」

 マッドがソファを離れ、空いたスペースの分まで使って横たわる。彼が投げたブランケットを受け取ることも適わずにアーサーの意識は二度目の眠りに落ちて行った。


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