Farsa
跳世ひつじ
Farsa
広げた新聞の片隅に、暴行事件のニュースが載っていた。若者の集団が、一人暮らしの老人を殴り殺した……写真もなく、取り扱いも小さい。けれどその記事が目に付いたのは、被害者であるその独居老人の名前に見覚えがあったからだ。
事件の舞台はフィルトレロ地方ミルティッロ村……父方の縁戚が、たしかその地に住んでいる。だが僕の意識はそんなささやかな縁故よりも先に、一枚の絵画へと向けられていた。巡業で立ち寄った、どこかのギャラリーで見かけたきりの絵だ。ほとんど無名の画家が描いた、半世紀ほど前の――僕を強烈に惹きつけて止まない一枚の絵画だった。
題もよく覚えている。「il pagliaccio」だ。油彩のおどろしいタッチと陰影が鑑賞者を無明の闇へと引きずりこむような、暗い絵だった。見世物小屋のやせ細った半裸の少女と、小人症の男、そして粉々に割れたビスクドール……あまりにも貧しく、あまりにも惨めな絵だ。それは描かれた対象が、というよりも、描いた画家が、といったほうが正確だった。
その一枚の絵をいつまでも記憶していたのは、自分がサーカス団員だからかもしれない。その絵を見た時に確かに向けられたように感じた、描いたものの蔑みの視線が、忘れられなかったのだ。
それから僕は自分でも理解しきれない怒りや不安を抱えて、その絵を描いた画家を追及した。
画家の名はジャンマリア・パヴォーネ。
大戦前から大戦後にかけて数枚の絵を残しただけの、ほとんど無名といってもいい画家だ。美術学校を出ているわけでもなく、師匠があるわけでもない。
新聞紙をぐっと顔に引き寄せる。インクのにおいが鼻をつく。やはり記事にはしっかりとジャンマリアの名が書かれていた。これは、僕の見たあの絵を描いたジャンマリアなのだろうか、それとも――?
彼の生家は、たしかミルティッロ村にあったはずだ。こうなれば俄然気になってくる。誰も知らないような画家が、こんなおぞましい最期を迎えていたとするならば、それはあまりにも劇的と言わざるを得ない。
僕は公演日程を思い出す。今度の巡業では、フィルトレロ地方でも公演があったはずだ。もしミルティッロ村へ行けるなら……一度訪ねてみてもいいかもしれない。
――ジャンマリア。あなたは、あの絵に描いた人々を、いったいどんな苛烈なまなざしで見つめたんだ?
(一)
――首都。
ジャンマリアは首を巡らせて、人でごった返す駅のホームをぐるりと見渡した。探し人とすれ違う可能性はひどく低いだろう――なにせ、弟はもう一年も家に帰らない。終戦からはきっかり一年、祖国が降伏してからを数えれば二年あまりが経とうとしているというのに。
人々の顔にはまるで貧困と疲労とが張り付いているかのようだった。誰もが病んだ顔をして背を丸めている。堂々としているのはたいていが外国人だ。ホームの端にはたくさんの物乞いがずらりと並んでいる。ジャンマリアはなるべく彼らを視界にいれないようにしながら、足早に駅をあとにした。
革靴を高く鳴らして街を訪ね歩く。大戦がはじまる前に撮影した、家族四人の写真を携えて。同じようにしている人間を幾人も見かけた。ジャンマリア自身も、やれロレンツォを知らないか、アンジェロを知らないかとたびたび声をかけられる。いずれも自分と同じような人間――ではなく、そのたいていは女だった。戦争にとられて帰らない家族か、あるいは夫を捜し歩いているのだろう。ジャンマリアは時折とげとげしい視線を向けられる。若い男が――その顔色はいささか青白いのだが――傷ひとつなく、背を伸ばして歩いているから……。
弟を見付けたのは、首都に到着してから一週間が経とうとする頃だった。
見知らぬひとびとに弟の行方を尋ね歩くことにうんざりして、ジャンマリアは掲示板にくだんの写真を貼ってからというものの、宿にこもって手すさびに素描をしてばかりいた。愛すべき弟・マウリリオのすがたを。そんな折に安宿の薄いドアが叩かれたものだから、ジャンマリアはもしやと思い跳びあがった。
だがドアを開けて見えたのは、輝くばかりの笑顔を浮かべた弟ではなく、きつい体臭と襤褸をその身に纏った、みすぼらしい乞食の男だった。彼は顔をしかめたジャンマリアを見て、手を揉む。
「探し人の掲示板を見て、飛んできたんで。うちの一座にマウリリオって男がいるもんで、それもちょうど、一年くれえ……そうそう、終戦してからしばらくのときに来たもんでして。つっても貼ってあった写真とはずいぶん人相が違うようでね、勘違いで旦那を喜ばすのもあまりにも酷ってもんでしょう、だから、その、俺がひとまず案内するってえことで……」
ジャンマリアはすぐにでもこのドアを閉め、宿を変えたいという気持ちを抑えるのに必死だった。とにかく耐え難い臭いなのだ。がんがんと目の奥が痛み、吐き気が込み上げる。
「……マウリリオの特徴を言え」
男の目の前にもかかわらず、ジャンマリアは精一杯顔を背け、口を手で覆った。浅く呼吸をしながらそう言うと、乞食の男はもじもじと躰をひねった。
「そりゃあ、いいですけど……でも……」
「言えと言っているんだ」
ジャンマリアは叩きつけるようにそう言ってから、乞食の表情――へつらうような薄笑いと、怒りのにじむ眉――を見て、我に返った。ポケットから取り出した硬貨を弾く。
乞食は驚いたように身を引きかけ――硬貨が床に落ちる音を聞いて、慌てて這いつくばった。「ありがてえ、ありがてえ」。いそいそと拾い上げた金を握りこむと、彼はふたたびへつらうような笑みを浮かべる。
「マウリリオは、盲目なんです。包帯で顔を隠してるもんだから、顔の上半分は見えねえんですけど、鼻が高くて、唇が薄くて、旦那にちょいと似てますね」
「盲目……?」
「へえ。旦那の弟さんも、兵隊だったんでしょう。そんなら、毒ガスのせいで……」
「盲目だと。僕のマウリリオが?」
「へえ、へえ」
乞食の男はなぜか恐怖するように顔を引き攣らせた。ジャンマリアはそれどころではなかった。
(マウリリオが、盲目に? なぜ)
なぜ、自分の家族が。
乞食の男に視線を戻す。ジャンマリアよりもいくらか背の低い男は、上目遣いに彼を見ていた。
「……嘘ではないだろうな」
「本当です! ですけど、その、旦那に確認していただかないことには、旦那の弟さんかどうかまでは、そのう……」
それもそうだ、と思い直す。人違いであってほしい。そんな願いが湧き出てくる。家に弟の負傷や死亡を告げる届はなかった。マウリリオからの手紙は、最後の一通までいつも調子で――つまり、家族を案じ、己は元気だと伝え、はやく帰りたいという願いとともにキスを送る――、彼が重大な怪我をしただとか、そんな報告どころか、泥沼に陥った戦況を悲観するような文句のひとつも出てこなかった。それでこそマウリリオだった。ジャンマリアの知る、天使の如く優しく清らかな魂を抱いた弟だった。
ジャンマリアはすばやく上着を羽織り、帽子を頭に乗せる。そして高圧的な口調で告げた。
「案内しろ、今すぐに」
コンパートメントは、重苦しい沈黙に包まれていた。ジャンマリアは幾度も幾度も足を組み替え、新聞を取ったと思えば置き、飲み物を運ばせ、席を立ち、荷物を確認し……なるべく、目の前の現実から逃避しようと努めた。無駄な努力だ。
「……兄さん、鉄道は苦手だったっけ」
マウリリオの、かすかな微笑を含んだ声に、ジャンマリアは動きを止めた。喉元までせりあがった溜息を飲み込み、頷く。
「兄さん?」
マウリリオが首を傾げる。ジャンマリアははっと眉を開き、「ああ、そうだね」と短く答えた。
はたして乞食の男の指すマウリリオは、ジャンマリアの血を分けた弟、マウリリオで間違いなかったのだ。
盲目のマウリリオ――そして義足の。
汚れた木の棒がマウリリオの左足、膝から下にとって代わっている。その足とも呼べぬ足に目をやって、ジャンマリアはすいと目を逸らした。首都を離れる前に、杖を買ってやった。黒檀で作られた立派な仕立ての杖は、新しい服を着て身ぎれいにしたマウリリオにぴったりと合っていたものの、その膝下の“足”とはどこまでも相容れない。
ズボンで隠れているとはいえ、ジャンマリアにはどうしても、ひらひらと布を遊ばせるその左脚の、木の棒――どうあらわそうとしてもそれは単に木の棒だった――がちらつくのだ。
(本当ならば、首都の医者に新しい足を作らせた方が良かったのだろうが……)
ジャンマリアはこれ以上、あの薄汚い人々が肩を寄せ合って暮らす市街に留まりたくはなかった。連日宣伝ビラや演説が彼の頭をひどく叩くのだ。あの街にはあまりにも、情報が多すぎる。彼の目や耳や鼻は、疲弊しきっていた。
「どうしてすぐに帰らなかったんだ」
「ごめんね、兄さん。俺もすぐに帰ろうと思ったんだけど……なにしろこんな有様で。しばらくは動けなかったんだよ。それに目が見えなくて、手紙を書こうにも……読み書きできるひとを見付けるのも一苦労で……。兄さんの躰はどう? 最近は調子がいいの?」
またしてもジャンマリアは頷き、一拍置いてから口を開く。
「……いいんだ、マウリリオ。僕はしばらく調子が良かったから。それに、おまえに会いたかった。ずいぶん心配していた。けれど死んではいないだろうと、信じていたよ」
「うん。うん……」
「足は……」
「大戦中に。従軍してすぐだった。へまをして、撃たれて……治ると思ったけど、壊死が始まったから。切ったんだ」
思わず弟の顔を見る。だが彼の唇は、やさしいカーヴを浮かべていた。足を切り落とすなど、考えるだけでもぞっとする。ジャンマリアは静かに深呼吸をした。……この顔をマウリリオに見られないことを、今だけは、さいわいだと思って。
「もう……痛まないのか」
「うん。ただ、家に帰ったら……」
「もう少しましな義足を作った方が良いだろうね」
「そう。俺もそう言おうと思ったところ。これじゃあんまりみっともないって、自分でもわかっているんだ。それにあの村は泥濘が多くて、歩きにくいだろうから……」
マウリリオの笑い声は、かつてと変わらない穏やかなものだった。ジャンマリアは少しだけ落ち着くのを感じた。どうにかなってしまいそうだったのだ。自分の足を失ったわけでも、視力を失ったわけでもないというのに。
弟は損なわれてしまった。
まるでジャンマリアの身代わりのようにして――そう思いかけて、苦々しい味が口中に広がる。
(まるで、ではない。真実マウリリオは、僕の身代わりになったんだ)
今はたまたま調子がいいとはいえ、ジャンマリアは幼少時から原因不明の病に苦しめられてきた。徴兵されなかったのも、当時一日のほとんどをベッドで過ごさなければならないくらい、躰が悪かったからだ。
「……うれしいな。もう、故郷へ帰れるとは思ってなかった」
マウリリオの声に引き戻され、ジャンマリアは窓の外へと視線をやった。青々と茂るグリーンのすがたで、何故かわかる。もうしばらくで、故郷に着く。
「降りる支度をしておけ、マウリリオ。もうすぐだ。おまえは帰るんだよ、僕たちの家へと」
弟の顔を真っ直ぐに見つめた。鼻から上には包帯が巻かれている。彼はもう見ることが出来ない。ジャンマリアもまた、マウリリオの透き通る美しい灰色の眸を見つめることが出来ない。
「包帯を取らないのか」
「……ああ、見苦しいだろうから。兄さん、手を」
「立ちたいのか」
「違うよ」
弟の手が、彷徨うように宙に伸ばされる。いたいけなその様子に胸を打たれて、ジャンマリアはぎゅっと彼の手をとらえ握った。ずいぶんと痩せた。自分と違って、彼の手は大きく、いつだって力強かったというのに――。
「兄さんの手だ」
「……そうだよ、マウリリオ」
「恋しかった」
流れてゆく山々の景色が、ひどく寂しい。
車窓の外に広がる、春ののどかな景色を、美しい故郷の光は、マウリリオの世界から永遠に喪われてしまった。
「僕もだ」
荒れた手を優しく撫でながら……ジャンマリアは安堵から一転して訪れた唐突な喪失感に、ただ惑っていた。
(二)
――フィルトレロ地方ミルティッロ村。
駅からは自動車でしばらく、ジャンマリアは弟の手を引き、導くものとなった己をようやく飲み込み始めたところだった。言葉少なな帰路だったが、家に近づくにつれ――見えるはずもないのに――マウリリオがどこかうれしげに顔をほころばせ、躰から力を抜くのが伝わる。
「……わかるのか、マウリリオ」
そう問うと、弟は静かに二度、首肯した。
のどかな村だ。極端に首都から離れているというわけでもないが、喧騒とは無縁の田舎。富裕層の避暑地としても人気が高く、一年の一時期だけをこの村で暮らす人間も……大戦前までは多かった。今では、傷病兵の療養院が建てられたりはしたものの、大半の富裕層は富裕層でなくなり、荒れ朽ち果てた別荘も増えた。そこに浮浪者が住み着き、村は多少その姿を変えた。……暗くなった。
大戦中に爆撃を受けたことも一度や二度ではなく、ジャンマリアとマウリリオの生家であるパヴォーネ邸が残ったのは、単に運が良かったのだろう。
錆びひとつない新しい門扉をくぐり、玄関までつづく石畳を踏む。ジャンマリアの革靴のこつこつという小気味いい音と、マウリリオの奇妙な足音、そして杖が石畳をさぐるいささか慎重な音が重なる。その音たちを聞いて、ジャンマリアは胸が締めつけられた。
彼が鍵を取り出した時――そのじゃらりといささか大仰な音を聞いて――鍵束の持ち主はかつて彼ではなかった――マウリリオが困惑したように口を開いた。
「……ジゼッラ姉さんは?」
ジャンマリアは答えなかった。
玄関扉を開けて、ひとまず広間へと……家族団らんが繰り広げられていた広間へと、マウリリオを通す。大きなソファに彼を座らせて、自分は上着を脱ぎ、帽子を掛ける。
コーヒーを淹れてカップを弟に手渡し、ようやく自身もソファへと腰を落ち着けた。
「兄さん。ジゼッラ姉さんは……死んだの」
今まで聞かれなかったことのほうが、ジャンマリアには意外だった。なにせこの弟は、ジゼッラによくなついていたから。母を早くに失くした彼を、ここまで育てたのはジゼッラだった。ジャンマリアとマウリリオの姉で……ただひとりの、パヴォーネ家の女だった。
「爆撃で」
短い言葉に、マウリリオは沈黙した。
やがてかたかたと小さな音がして、彼の手が震えていることに気がつく。ジャンマリアは眉を上げて、弟の手からカップとソーサーを取り上げた。
マウリリオが、痩せた両手で顔を覆う。
尖った肩が震える様を静かに見つめて、ジャンマリアは細い溜息を漏らした。
「…………」
ジゼッラが死んだ。
ジャンマリアはおめおめと生き延びた。
もっとも出来の悪い子どもであるはずの自分が、五体満足で、ひとり、この邸の主となった。
「……マウリリオ」
弟の肩に手を置く。彼は顔から離した手で、ジャンマリアの手を掴む。かつてと変わらぬ力強さで、兄の手をきつく握りしめる。それは鉄道での触れあいとは何もかもが違う。もっと絶望的なものだった。
ジャンマリアは立ち上がり、弟を抱き締める。こわごわと背中に回される両手の、その力に……ジャンマリアは目を瞑る。
「どうして……姉さんが……」
「運が悪かった」
「どうして」
嗚咽を聞いているのは辛い。
(だが、どうしてだろう? どんな風の……)
ふと弟の目は涙を流すのだろうかと気になった。髪を探り、包帯の留め金に手をかけると、マウリリオは大きく震えた。
「やめてくれ、兄さん」
「おまえの容貌が変わろうとも、僕の弟であることに変わりはない。……泣きたいのなら、泣くべきだ。涙を流して。そんなふうに、苦しみを押し殺すのはやめて」
はらりと包帯が解ける。おののくように息を吸うマウリリオの顔を、自らの肩に押し付ける。やがてじわりとシャツを通して湿り気を感じた。嗚咽は低い慟哭へと変わり、果ては神を呪う言葉へとなった。
ジャンマリアは弟を抱き締め、背後の窓から荒れ果てた庭を見やった。オリーブは奔放すぎるほどに茂り、その葉はほとんど白い。毎年この季節には食卓に並んでいたいちごも、今年はすべてだめになってしまった。ローズマリーも、バジリコも……いちじくも……ざくろの木は、根本から折れ、焼け焦げた小さな切り株だけが残されている。
そうだ、ジゼッラが死んだ。
ジゼッラが死んだせいで、あらゆることがうまくいかなくなってしまった。庭も、今日まで弟を迎えにゆけなかったことも、己の画業も、また。
「今は週に三日、通いの家政婦を雇っている。ベルタという。村の女だ。同じ空襲で、夫を亡くした」
「兄さん……?」
「悲しむだけ悲しめばいい。そして忘れるんだ、マウリリオ。おまえの受けた痛みも、ジゼッラの死も。家で、今までの暮らしを取り戻そう。おまえはきっとすぐに慣れるよ。それにこの家ならば目が見えなくたって……わかるだろう? マウリリオ。おまえの部屋だって変わっていない。ちゃんと掃除もさせていたんだ。あとで行ってみるといい。ペンの一本だって欠けていない。おまえの日記の隠し場所もね」
父の部屋も、姉の部屋も、手付かずだ。
埃避けのシーツをかぶせてそのまま、ドアは固く閉ざした。使わぬ部屋だ。
だがマウリリオは生きていると信じていた。彼の部屋はきちんと掃除をさせて、いつ帰ってきてもいいように……しっかりと整えてある。冬になれば暖かな寝具を出したし、暖炉だって使えるようにしてあった。春となったいまは、彼のかつての服を残らず洗濯させ、すべてアイロンを当ててある。マウリリオは昔から、ぱりっとしたシャツが好きだった。それだけが彼の我儘だった。だからジゼッラは、アイロン当てが一番得意な家事だといつも笑っていた。ジゼッラとジャンマリアの、かわいい弟……たったひとりの天使。
「姉さんの墓は……どこなの」
ふと現実に引き戻されたのは、のっぺりとしてあまり聞いたことのない弟の語調のせいだった。
「え?」
ジャンマリアは抱き締めていた腕を解き、瞬いて身を離す。そして――まざまざと、弟の顔を見た。
「おまえは……」
両目が……かつては灰色の両目が埋まっていた部分は、ひどく焼け爛れたようになり、もはや糸のように細い線が二本、引かれているだけだった。周辺の皮膚は変色して引き攣れている。睫毛もなければ眉もまばらで、すっと張り出していた額までもが、歪な凹凸と赤紫色のなにか……潰れた果実のような有様に成り果てていた。
「誰だ?」
己が口に出してしまったかと思い、ジャンマリアは息を飲んだ。だが違う。今の言葉は、マウリリオのものだった。
(おまえは、誰だ?)
弟は自嘲するように唇を曲げた。
薄い唇はかつてと変わらない。だがそんな風に……嘲るように、卑屈さをにじませた笑みを浮かべる唇ではなかった。ジャンマリアの弟の唇ではなかった。
「兄さん……ジゼッラ姉さんの墓は、どこなの」
繰り返された質問に、ジャンマリアは首を振った。
「ないよ」
ジゼッラが死んだのを、ジャンマリアは見ていた。
ひどい発作を起こしたジャンマリアのために、隣町まで徒歩で出掛けて行ったジゼッラ……彼女が帰る時にはもう発作は収まっていた。門扉に手をかけた彼女が見えたのだ。だからジャンマリアは、今いるこの広間の窓から、片手を上げた。そして……閃光、後発して爆音が轟き、がたがたと家が揺れたのを覚えている。窓ガラスが割れて、ジャンマリアの額を裂いた。驚くほどたくさん血が流れて、シャツがぐっしょりと濡れた……。
「ない? なぜ」
またしてもジャンマリアは首を振った。
どうして弟は、そんなことを説明させるのだろうと思って。
「ないよ」
繰り返す。弟が手を伸ばし、ジャンマリアの胸倉をつかんだ。荒々しい仕草ではなかった。縋るようでもなかった。ただどこにやればよいのかわからず……迷子のように、ジャンマリアの胸倉をつかんでいた。途方に暮れた顔を、きっとしていただろうと思う。かつてのマウリリオであったなら。今の彼の顔を、ジャンマリアはよく読むことができなかった。
「マウリリオ?」
「……忘れていた。俺が忘れていたんだ」
「どうしたんだ」
「どうした……? そうだったね。兄さんはいつもそういうひとだった。身勝手で……どうしようもなくて……一人じゃ何もできない……」
マウリリオの、細い目の線から、つうと涙が流れる。ジャンマリアの眸は、じっとその条を見つめた。そうだ……この涙。この涙はマウリリオの涙だ。彼は慟哭しない。静かに涙するマウリリオだ。目を赤くすることはなくなってしまったけれど……この目とも呼べぬ目から流す涙は……確かにマウリリオの。
衝動が躰を突く。
ジャンマリアは胸倉をつかみ上げる弟の手を乱暴に外した。
「どこへ行くんだ、兄さん!」
「絵を描くんだ」
「絵なんて……どうして。ねえ、どうして!」
マウリリオの悲痛な声が背中にぶつかる。
だがそんなことはどうだっていい。
筆を取らねばならない。胸が燃えるように熱く、疼く。
「待って……待てよ、ジャンマリア!」
いささか乱雑な口調だったせいで、思わず足を止めた。
振り向くとそこには、不器用に立ち上がるマウリリオのすがたがあった。がたりと大きな音がなる。ローテーブルに木の足を引っかけて、「ああ……っ」、マウリリオが転倒する。ぐしゃりと絨毯がよれて、マウリリオを中心に渦を成した。顔を上げたマウリリオ。顔を……鼻から上が……涙を流して……。
「僕はジゼッラという家族を愛していた。だが死んだ。それだけだ。そしてジゼッラを愛したように、おまえのことも変わりなく愛している。なにが、どうして、なんだ。僕にはおまえの言うことがわからない。ただ今は絵を描きたいんだ。僕は描くんだ。邪魔をしないでくれ。アトリエにいる」
混沌。闇。暗すぎるほどに暗い画面にただ、塗り重ねる。置く、といったほうが正しい。置く。夜を……なお黒々としておどろしい絶望を。惨めさ、醜さ、生まれたままの完全を失った人間、――銃声!――、人間ではなくなった人間、――砲声!――、損なわれたものに美しさを求めるのは無理な話だった。眸……はまだいい、そこにあるのだから。あるのだろうか? 引くことのない腫れに苛まれた、ぶあつい瞼に覆われているだけ。《A mali estremi estremi rimedi.》真珠のように?真珠のように、だ。彼の眸はガラスには喩えられない。そして……そう、左脚だ。切断されたその足は、――呪いのかけられた、赤い靴を履いていたか?――、いったいどこへ? もうこの世界にはないのだろう。だから失われてしまった。失われてしまった。損なわれてしまった。悲しい……とても悲しくて……置く。置いた。どうしてだろう? 病がちな己の躰でさえ――いや、それは相応しくない。ジゼッラ。《Chi dice donna dice donna.》ジゼッラだ。ばらばらの湿った肉片に成り果てて、搔き集められて、打ち棄てられて、そう。永遠に喪われてしまったジゼッラ。土の下にさえ残っていない。何故――燃やされてしまったから。たくさんの死者たちの肉片と混じって……大きな暗い穴――穴――穴のなかで……墓? 墓はあるのかもしれない。そうだ、村人たちは慰霊碑を立てた。小さな、けれど、そう、あれは墓だ。いけない。途切れてしまうから置く。途切れてはいけない。こわいんだ……抱き締めてくれ――強く、背骨を折るほどの力で――何かを封じ込めるのはどうだろう? ああ……《Vivi e lascia vivere.》失われてしまったものの……失われるより以前の、歯がある。抜け落ちた乳歯、完全の欠片、変態するまでの儚い時間を象徴する何か。《Che tutti riconoscono come dittatore benevolo.》闇のなかへ塗りこめて隠して……滑稽だ。滑稽きわまりない。滑稽だが、それが、そう――《farsa》。ぼくたちの、カンバスの、ぼくの、ジャンマリア・パヴォーネ……熟れないまま・売れないまま・得られないまま幕引きを待つ――《farsa》。
大きな音がした。ばたばたと……カンバスが倒れる音だとすぐにわかった。いつの間にか眠っていた。カウチで、埃よけの布にくるまって、片手にパレットを乗せたまま。
疲れていたのだ。
「…………」
かたわらに人の気配がある。
温もりを感じた。
(僕はもう一人ではない……)、ジャンマリアはようやく覚醒しはじめ、マウリリオを見上げた。
部屋すでに真っ暗で、明りひとつ入れていない。アトリエによく出入りしていたはずのマウリリオがジャンマリアの作品を倒してしまうなどという失敗をしたのも、そのせいだろう。
「マウリリオ……今のはゆるそう。だが慣れるまでおまえはアトリエに入るんじゃない」
「兄さん」
「文句は聞かない。……聞きたくない。いま、僕は疲れているんだ」
「ジャンマリア。これは、俺?」
「見るな」
「見ていない――見えないから」
「……なるほど、そうだったね。では先程の質問の意味は?」
尋ねかけながら、ジャンマリアはゆっくりと身を起こし、マッチを擦った――アトリエには電灯をつけていない。ランプに火を入れれば、マウリリオが眩しいとでも言いたげに腕を上げ、顔を覆う。
その手の先に、乾いていない絵具が付着していることに気が付いた。黒く汚れた油絵具が、マウリリオの骨ばった手さきを染めている。「……ああ、そういうことか」、ジャンマリアは立ち上がった。
ぱちん、と間の抜けた音がした。マウリリオの首が振れる。
「……兄さん?」
「画に触れたな」――(汚い手で)。
「そうしないと見えない」
「僕がそれをゆるしたのか?」――(わかりきった否)。
「いいえ、でも、俺は……だって兄さん、むかしは俺がアトリエに入っても怒らなかったじゃないか。いろいろな画を見せてくれた。……俺を招き入れてくれた」
ふと弟の声音に涙が混じった気のして、ジャンマリアはかなしみに胸をつかれた。弟がかつてより幼くなったような気がした。溜息とともに、躰に重く渦巻いた倦怠が首をもたげ……ジャンマリアはそのままマウリリオの胸に額をつける。
「マウリリオ……」
「兄さん、具合が悪いの?」
「違う。どうしておまえは泣くんだ」
マウリリオの手が、後頭部に当てられる。
そっと髪を撫でられて、ジャンマリアはもういちど溜息を吐いた。
「俺は泣いていないよ。ただ少し、悲しかったんだ」
「僕は悪くない」
「……うん、そうだね」
すこしの間に滲んだマウリリオの嘘をかぎつけ、ジャンマリアは鼻先を彼の胸に擦りつけた。猫か何かのように幾度か首を振り、瞼を上げる。唇が見える。鼻も。そこにかかる包帯も……何もかも。
「どうしたの、兄さん。くすぐったい」
「おまえが嘘を吐くから」
「嘘なんて吐いていないよ。カンバスを倒した俺が悪かった。たしかに兄さんは悪くない」
なだめすかすような口調と、やはりやさしく髪を撫でる手に、不意に不安になる。それはマウリリオの穏やかさというものが、さきほどから、ずっと、ジャンマリアへの諦めのようにどこか遠く、ぼんやりと響いていたからだ。彼の胸の深いうごめきはまるで幾度も溜息を吐く疲れた母親のようで……それはもっともジャンマリアの恐れるものだった。マウリリオは天使であった。けして、聖母ではなく。
「僕は間違っていたのか? 先程おまえは、僕のことを責めた。ジゼッラが死んだのは僕のせいなのか? そしておまえが視力と……足を失ったのも? 父さんが消えたことまでも、僕のせいなのか? 僕が弱いからなのか」
「……何故そんなことを。誰かが兄さんにそう言ったの」
「おまえが言ったんだ」
「え?」
顔を上げれば、あらぬところを見つめる弟が見える。うつくしかった(……損なわれてしまったすでに……)マウリリオ。
顎に唇を押し付ける。あわい音を立てて離れる。
「…………」
息を呑んだマウリリオの手を掴み、ジャンマリアは己の頬へと導く。頬を包むその手のさきは黒く染まり、今まさに闇の地から這い出てきたようだった。包帯を巻いた、片足のない、怪物が……。
「口づけを」
「……あなたは、まだ」
「マウリリオ。僕に口づけるんだ」
言いながらジャンマリアはもうマウリリオを待つことはなかった。しゃにむに弟の唇に噛みつき、薄く開いたその隙間に舌を差し入れる。ミルクを舐める子猫のようにぴちゃぴちゃと音を立てて口腔をつつきまわし、歯列をなぞり、頑として動かないマウリリオの舌に誘いかける。
「ん……、ん」
マウリリオの手はジャンマリアの頬をやさしく包むばかりで、ジャンマリアがいま悩ましく思っている熱情のひとかけらさえも持っていないように見えた。それがあまりにも切なくて、ジャンマリアはマウリリオの首に抱き着いた。唇を合わせたまま、不思議な味のする弟の口の中を舐めまわして、かつてと違うそのかおりに、たまらない興奮を覚えて……。
不意にマウリリオの手の平がするりと滑り、ジャンマリアの口を柔らかく覆った。
首を傾げる彼に、マウリリオは唇をすこしだけ開き、閉じて、ぺろりと舐めてからもう一度開いた。
「……俺がいないあいだ」
ジャンマリアは目をつむる。
(きっと眉を下げて、困った風の笑みをうかべて、それでもなにかの――愛されているという――確信をもって……僕を見下ろしている……いた)
「俺がいないあいだ、兄さんは……」
弟の声だ。
低くひびく。フェルトのような、すこしこもった声だった。そのやわらかくやさしい調子が、ジャンマリアはなによりもすきだった。どこにも触れず、なにも見ずにおりさえすれば、かつてと変わらぬ弟がそこにいる。それは確かだった。だが実際に視力を失ったのは弟で、ジャンマリアは変わっていない。変わらずに見ることができる。目を開けばそこには包帯を巻いた弟が、手を伸ばせば以前よりも短く、固くごわついた傷んだ髪の感触が、そして唇は荒れて、いやなにおいがした。饐えたかおりが。
「兄さんは、ジゼッラを抱いたんでしょう」
マウリリオの腕が、ぐっと腰に回される――そのままゆっくりと、カウチに押し倒された。何に触れるにもさまようようためらうよう確信を持たなかったマウリリオの手が、ジャンマリアのシャツのボタンを躊躇なく外していく。開かれた襟、裸の胸に手が置かれ、ざらつくその感触にジャンマリアは小さく震えた。
「答えてくれ、兄さん」
ジャンマリアは手を伸ばす。ゆるゆるとマウリリオの腿を撫で、股間を掴んだ。びくりと大きく肩を揺らし、マウリリオが鋭く息を吐いた。
「僕も聞きたい」
片手で彼のズボンのホックを外し、下ばきの上からそこを擦った。ゆっくりと、慈しむように――厭うように。
「俺があの人たちと寝ていたかって? そんなことあるはず――」
マウリリオの声には怯えが滲んだ。
ジャンマリアは唇を曲げた。
「それはないだろう。僕以外に誰がいまのおまえを抱く? 違う。むかしのことだ」
頭をもたげ、硬くなるペニスを依然として擦りながら、ジャンマリアはゆるく首を振った。マウリリオの顔は強張っていた。唇を見ればわかる。
「…………」
「おまえはジゼッラを愛していたのか?」
そう聞いた瞬間、ぱしりと手を払いのけられる。
「……兄さんだって、さっき、愛していたと言ったじゃないか――いややめよう、こんな話。兄さんはすぐに愛しているとか、愛していないとか、そういうことを聞きたがる。でも、それに意味はある?」
「あるさ。言葉にしなければわからないだろう。だから僕は聞くんだ。おまえはジゼッラを愛して……ジゼッラを特別に愛していたのか。僕よりも?」
「……言葉にしなければわからないと言ったね」
「ああ」
「言葉にしなくてもわかることがどれほどあるのか、兄さんは少しもわかっていない」
マウリリオがシャツを脱ぎ捨ててジャンマリアに覆いかぶさる。ジャンマリアは笑った。彼は弟のことを、愚かだと思っていたから。
――純真な、純潔の、天使。
かつては。淫らな。僕の。
――そして今は?
(三)
「マウリリオ、食事は……」
「大丈夫、自分でできるよ。兄さん、そんなに心配してくれなくても、俺はもうずいぶん慣れているから。首都いたときも、初めこそ大変だったけど……皆親切にしてくれたし、助け合っていたんだ」
「……そうか」
「マウリリオ、一緒に散歩にいかないか? 今日は晴れている。おまえに会いたいと言っている連中もいる」
「行きたい。兄さん、待って。いま上着を取ってくるから」
「気にしないでいい。……ほら、おまえこそ薄着だ。新しい服を買ってやらねばならないな」
「マウリリオ、コーヒーを淹れてくれ」
「え?」
「アトリエにいる。三十分ほどしたら持ってくるんだ」
「うん、わかった」
「兄さん、兄さん、ベルタがいないけど……」
「解雇した」
「どうして? ――困るでしょう、だって、色々……」
「おまえがいるから」
「俺が? だって俺は」
「僕はおまえがいてくれればそれでいいんだ」
「マウリリオ!」
「……ん、兄さん……?」
「出掛ける。コートを取ってくれ」
「え……だって、真夜中で……」
「外の空気が吸いたいんだ」
「冷えるよ」
「だからコートを取れと言っている」
「でも」
「マウリリオ、早くしろ」
(五)
夜明けの薄い光がカーテンの隙間から射しこみ、マウリリオの裸の胸を青白く照らしていた。眠る弟は、帰ってきたあの日から一度も、ジャンマリアの前で包帯を外すことはない。かすかな光の変調さえとらえられないことが盲目のひとにとっては不便であろうと知ったのはずっとあとになってからだ。
服を身に着けて、伸びてきた髪をひとつにくくる。春はそろそろとその熱を育て、いずれ訪れる夏を予感させた。
夏は嫌いだ。己の生まれた季節だったから。
「兄さん……?」
「もう起きろ、マウリリオ。僕は今日は村に出る」
「俺は……」
「おまえは来なくていい」
「違うよ。俺は家にいるから、って言おうとした。医者にかからないと。兄さんが頼んだんだ、新しい義足を」
「ああ……そんなこともあったね」
「今日、来るはずだったでしょう」
ジャンマリアは首を傾げながら、上着に入れたままの手帳を開いた。たしかにそこには、マウリリオの医者、という簡易な走り書きが残されていた。
「よく日付を覚えていたね。いや……カレンダーは見えないのに、まさか数えていたのか? 毎日を?」
「知らなかった? 俺は戦争が始まってからずっと、数えているよ。あの日からいったい何日経って、いまがいつなのか……見えなくなったって変わらない」
「今も?」
「そうじゃないと、医者の日付を覚えていないでしょう」
ジャンマリアは驚いていた。
(戦争が始まってから、……今も? 終わりは、いつ?)
何か嫌な感じがして、気だるげに横たわるマウリリオを見下ろした。視線を感じたように、彼は小さくみじろぐ。「何?」と問う声に棘があるような気がした。
「別に」
村で二、三の用事をこなす。画材を買ってから、仕立て屋へ顔を出す。マウリリオの服ができていることを確認して、あとで届けるように言いつけた。そして湖のほとりにあるカフェで、画商を待つ。
「…………」
ジャンマリアの画は売れない。
今待っている画商とて、本心では彼の作品を認めていないことを知っていた。それが我慢ならないと思えど、彼はほかに手段を持っていなかった。人付き合いは苦手だった。父の知人である画商の男に、縋って……何とか、置いてもらっている。かつて言われたことがある。「おまえの画は、ただ侮蔑的なだけだ」と。
その指摘をもらったのはちょうど大戦中だった。すぐあとにジゼッラが死んだ。とんと筆は乗らず、体調も悪くなる一方で、筆をとらない日が続いていた。ジゼッラが死んだのは……辛かった。彼女の絵を描こうと思ったし、実際に描きもした。だが納得のいくものはひとつもできなかった。彼女の人生に、魂に、描くべきものはなかった。ジゼッラはパヴォーネの女で……ただの女だったから。
「やあ、ジャンマリア」
「遅かったね」
「悪いね、ちょっと色々、面倒を見てることがあるもんでさ」
「面倒? あなたが?」
「ああ。サーカス団がくるんだよ、村に。それでまあ、おれは団と村との橋渡し役をやってるんだ。小さいサーカス団だし、面白くもなんともないがまあ……ほら、療養院の慰問なんだよ」
「ああ……なるほど。どうせなら映画でも招けばいいものを。なぜサーカス団など。今のこの村がいったい何のせいで沈んでいるのか、わかっていないのか」
ジャンマリアのぼやきに、男はひょいと肩を竦めた。道化師のような仕草が気に障ったが、ジャンマリアは目を細めるだけに留めた。
「そういや、マウリリオが帰ってきたんだって? おまえが連れ戻したとか」
「首都に留まっていたらしい。帰れずに」
「……目が見えないんだってな」
「それに左脚がない」
「そりゃ……惜しいこった。むかしはおれに弟子入りするだのなんだのって、かわいいもんだったのに。どうして戦争なんか行っちまったか。マリオのせいかねえ」
「さあな。僕はあいつが何を考えているかなんてわからないよ」
そう言うと、男はすこしだけ驚いたように目を見張った。首をかしげて、それから何も言わずに、煙草に火を点ける。咄嗟に息を詰めた。煙草は苦手だ。
ふか、と紫煙を吐き出して、男は目を伏せた。
「……どこも、暗いな」
ジャンマリアは首肯し、開かれることのない己のカルトンに目をやり、うんざりとしていた。この無駄話につきあって、さらにちょっとした接待をしなければ――ジャンマリアにとり、その労働は愉しみでもあったのだが、今日はその気ではなかった――マウリリオの話題のせいだろうか?――やはりこれは開かれないままだ。
疲れ切って帰るのに、邸には明りひとつ入っていないことが、ジャンマリアの気に入らなかった。(僕の目は見えるというのに)、と思った。
「兄さん、サーカス団が来るんだって?」
「そのようだね。療養院の前の広場に、いま、小屋をかけていた」
「見たの?」
「帰りに、少し」
画商の男と会ったことはマウリリオには言わなかった。なにか……むかしのことを語る羽目になりそうで、不意にそれが厭わしく思えたから。
「行きたいな。切符はどこで買えるのかな」
居間のソファに腰掛けたマウリリオが、どことなく浮かれた調子でそう言う。電灯をつけながら、ジャンマリアは重たい首で振り返る。膝に手を乗せたマウリリオ。唇に弧を浮かべている。
「…………」
なにも言わないジャンマリアに何を思ったのか、マウリリオの唇から不意にそのまろいカーヴが消えた。その様子を目撃してしまったという事実に、なにとなく、傷つく。
ジャンマリアはそれでも言葉を見つけられなかった。何かしてやりたい――本当に?
「……だめかな。俺が行っても意味、ないか」
「なぜだ?」
「え?」
「なぜ?」
「……行ってもいいの?」
「僕はおまえの行動を制限したことなど一度もないが」
「…………」
黙り込むマウリリオに近づき、頤をつまむ。顔を仰のけると、彼の唇は薄く開いた。素早く口づけて、ジャンマリアはにこりと笑った。
「切符なら僕が用意してやろう。広場までも連れて行ってやる。おまえの手を引いて」
療養院の慰問、そこで回復を、あるいは死をまつ兵士たちのためのサーカス。ジャンマリアはおもしろくなかった。彼のマウリリオはこうして帰ってきた。もうあの、暗澹とした人間たちとは関わって欲しくなかった。兵たちにしろ、サーカス団員にしろ。
マウリリオはジャンマリアの手を両手でぎゅっと握った。その唇にふたたび笑みが戻るのを見て、ジャンマリアはもう一度弟に口づける。
(五)
突貫工事でかけられた小屋のなかには、饐えた血膿のにおいが充満していた。それでなくても、どことなく暗い顔をした人間の顔がずらりと並び、同じ方向を見つめ、同じとき同じように手を叩く様は、ジャンマリアにとってはひどく気味の悪いものに感じられる。
小人の男女が淫猥な動きで性交のそぶりをする。猛獣のいないサーカス。かわりに犬が、厚化粧の女の股間にむしゃぶりつく。シャム双生児の奇妙な芝居、両足がねじくれた畸形の女が演じる人魚。マジシャンもいたが、その手つきはたどたどしくお粗末――それを見て手を叩く観客。慰問、という言葉の響きからすると、いささか猥雑で下品なその見世物――そう、見世物としか呼びようがない――だったが、観客の兵士たちとわずかな村人は、面白がっているように見えた。
ふと玉乗りの少女が登場する。小柄な、まだ十代の前半であろう少女のすがたを見たとき、ジャンマリアは思わず身を乗り出しかけた。
「さあ、あわれこの少女は雨あられと降り注ぎます鉄の欠片をその身に浴びて、ご覧くださいこの有様、吹き飛ばされてしまったのでございます右足が。その爆撃で老いた父が死に老いた父が娶った若い母が死に若い母と折り合いの悪かった姉が死に姉と通じた腹違いの兄も死にそして家の地下室に巣食っていた鼠の一家とこの少女、命からがら逃げだしてなんと生き延びたのでございます。花びらのようでしょう、愛の痕のようでしょうこれは火傷、少女が身に受けた鉄の欠片の数だけの愛撫がございました。少女は歩くことができず、ふとある日思い立ったのです」
「そうだわ、わたし、玉乗りすれば、いいのよ」
あどけない高い声が、ことさらたどたどしく用意されたせりふを叫ぶ。
どっと観衆が湧く。大きな玉からより小さな玉へとどんどん乗り移る少女は、パラソルを回したり、リボンをしたねずみを頭に乗せたりと忙しなくくるくると踊る。長口上をうたい上げた座長らしき男は、その様子をどこか満足気に見つめていた。
片足のない少女。腿の中程から下は、陶器で作られたような、球体関節が剥き出しの(エロティックだ)義足をつけていた。あれでいったいどのようにバランスをとり、玉乗りをするのか、ジャンマリアにはわからない。ただ少女の軽快な踊りと、その肌を彩る花びら――火傷の痕だというが、それにしてはうつくしすぎた――が、ジャンマリアの気に入った。
束の間悪臭と不気味な観衆を忘れて少女に魅入った折、ふと低い呟きが耳に入った。「帰りたい」と。
「……マウリリオ?」
ひといきに現実に引き戻されて、ジャンマリアはほとんど浮いていた腰を硬い座面に落ちつけた。「なにを?」。
マウリリオはこちらを向かなかった。家の中でジャンマリアを見る時よりもよほど真剣で、かつ、正確な視線で、彼は玉乗りの少女を追いかけていた。見えないはずの目で、一心不乱に。どこか追い詰められた風でさえあった。
「何を言ったんだ、マウリリオ。……何と」
「帰りたい。サーカス団に」
ばん――と、音に、一瞬劇場内が静まり返り、何十組もの目が、思いきり座面を叩き、立ち上がったジャンマリアに向けられる。
そのいっせいの視線を感じてなお、ジャンマリアは怒りに燃えるまなざしでただ、まじろぎもせず、マウリリオだけを見つめていた。
「たわけたことを」
「俺は本気だよ、兄さん」
座長の男が揉み手をしながら――だがその双眸には不快さが露わだった――近づいてくる。彼が何かを言いかけたとき、どすんと大きな、そしてマヌケな音がして、ついでがしゃんがしゃんとなにかが割れる……哀愁のある音が小屋じゅうに響き渡った。
玉乗り少女が落ちたのだ。転げて落ちて、陶器でできた義足を割った……。
「――こんなこと」
少女の割れた右足を見て、ジャンマリアは確信した。ああ偽物だったのだ、こんなことは。
「こんなことは、みじめな人間のすることだ」
座長の男の顔色が変わる。だがジャンマリアは取り合うつもりはなかった。どうせ互いに理解することができないとわかっていた。吐き捨てたまま小屋を出た。優雅な身のこなしで。みじめさとは程遠い高慢をその身にまとい、うつくしいかんばせをぐうと反らしてひとり……このサーカスの団員そして観衆の兵士たちとすべての村人たちの敵意を……一身に浴びて。
しくしくと泣く玉乗り少女の嗚咽だけが、耳の底に張り付いていた。彼女が割れさえしなければ――(損なわれてしまったものの在り方を僕は見付けられたのかもしれない)――だがもう遅い――ジャンマリアは奥歯を食い締め、怒りを押し殺そうと努めた。そんなことは、彼には向いていないにもかかわらず。
マウリリオはああじゃないと思いたかったのだ。
――〝ああ〟――〝じゃない〟――と。
あとの演目は、いったい何があったのだろう?
パヴォーネ邸に帰りつき、ジャンマリアはひとりアトリエで丸くなった。カンバスがひとつかけられていた。画商の男が実にめずらしいことに、悪くない、と言った画。先日マウリリオを描いた暗い何か――ではなかった。裸婦像だった。灰色の眸、透明感のある黒髪、薄い唇……青褪めた肌は血管を透かしそうに薄くて、どこか不吉な雰囲気を漂わせていた。顔立ちは整っているのに疲れ切っていた。だが目元だけはやさしく和んでいる。マウリリオを見つめるときこの灰色の眸はもっと快活で幸福な色を浮かべる。だがジャンマリアを見つめるとき彼女の眸はもっと深く、暗く、そして重苦しいような色を湛える。
裸のジゼッラ。
なぜ彼女などを描いたのかはわからない。いや、わかっている。死んだからだ。納得がいかずしまい込んでいた画。マウリリオが倒したときに見つけてしまった。そしてふと筆を乗せてしまった。
――マウリリオが彼女の死を嘆き悲しんでいることを知って、ジャンマリアは不思議な感慨を覚えたのだ。そしてマウリリオはジャンマリアに抱かれながら幾度も口にした「ジゼッラ姉さんと寝ていたのでしょう」と。それは不思議なことだった。なぜジャンマリアとジゼッラが寝るのだろう? そんなことがあるはずがないのに。なぜ未だに彼はわからないのだろう?
――あれは女だ。
ジャンマリアは認められたという事実にたしかによろこびながらも、画家としての自負心の一部分では、目の前の画を耐え難く思った。
先程のサーカスで目にした偽物の玉乗り少女、そしてマウリリオ……醜い兵士たち、善良で愚鈍な村人……ジャンマリア自身。
あの場においてマウリリオに言ったことは間違っていたろうか?
否、そうは思わない。近しくて遠い。サーカスなどと。
ジャンマリアは目をつむる。
短い夢を見た。
首都で暮らすマウリリオの夢。はじめマウリリオは乞食をしていた。彼とよく似た物乞いがたくさんいる。すなわちもと兵士で、帰る場所も手段もなく、あわれなだけのものとなり果てて道々で鉤のように強張った手を差し出していた。ほとんど詐欺まがいの行為をはたらくこともあった。そうでないこともあった。襲われたのも一度や二度ではなかった。幾度か重い病に罹りそのたび何故か回復した。やがてマウリリオは小さな鈴を拾った。金の鈴だ。鍍金じゃない。正真正銘の金でできた鈴。目の見えないマウリリオがどうしてその鈴が金の鈴だとわかったのか、それは物乞い仲間がそう言ったからだった。ほんとうは金ではなかった。だがその鈴を金の鈴だとすっかり信じ込んで、マウリリオはちりちりと鈴を鳴らす毎日だった……まるで痴呆のひとのように……ちりちり、ちりりと……ならしていた。そのときひとりの男と出会った。「一体どうして鈴を鳴らす?」「これは金の鈴だから」「そうかそうか」と男は笑った。そしてマウリリオを誘った。
「俺はサーカス一座を持ってるんだ。おまえも仲間に入れてやる。テントを買う為に、パレードをする毎日なんだ。すこしでも賑やかしがほしい。金は出せないが飯は出せる。物乞いなんざやめちまえよ、それよりももっと面白おかしく暮らそうぜ。あんた、どうせ――もう――…………」もう、何だ? どうせこれはすべて夢。
真夜中を過ぎてもマウリリオは帰らなかった。ジャンマリアはアトリエを出て、すでに夜が明けようというう時間だということに愕然とした。罪悪感はなかったが苛立ちと困惑が彼をさいなんでいた。何故マウリリオは帰らないのだろう。まさか?
ジャンマリアは馬鹿げたことだと首を振った。だがあの弟は……変わってしまった彼ならば。ジャンマリアに何も告げず、どこかへふらりと、猫のように、消えてしまうかもしれないという不安があった。
迎えに行くべきか。
ジャンマリアは居間を行ったり来たりした。誰も居ないパヴォーネ邸の寒々しいことはジャンマリアの躰にとり良くないことだった。マウリリオが必要だった。
結局彼はもう数往復、居間の飾り棚と暖炉との間を行ったり来たりして――上着を取った。
(六)
「兄さん?」
「帰るぞ」
「どうして迎えに来たの? わざわざ? ……本当に」
低く付け足されたその質問に、ジャンマリアは目をすがめた。
「それが僕の責任だ、マウリリオ」
マウリリオは誰もいなくなった小屋のなかで、ぼうっとしていた。硬い板の座面に腰掛けて、じっと動かずに。ジャンマリアが出ていったあの時から、石のように、ほんのすこしだって、身じろぎさえしなかったのではないかと思わせるほどだ、マウリリオの様子には異様な静けさがあった。ジャンマリアはその静けさに既視感と親しみを覚えていた。いったいいつこのようなものを見たのか、彼は思い出せなかったのだが。
「……兄さんは、どうしてあんなことを? 皆の前で言ったんだ」
玉乗り少女が玉から落ちて足を割る。
その原因となったジャンマリアの言葉を指しているのだとすぐにわかった。だが質問の意味は分からなかった。
「いったいなにを落ち込んでいるんだ」
「……そうだね」
「おまえがおかしなことを言うからだ。ただ僕も、かっとなって……大人げないことをしたと思っている。座長にはあとで見舞金でも渡そう。あの少女に新しい、もっと良い足を誂えるようにと」
「ああ……そうだね」
「そして答えよう。見世物になるくらいなら、死んだほうがましだ。マウリリオ」
「……そうだね、兄さん」
マウリリオは笑った。
そして――もの凄い力で、その場に引き倒された。
「いっ……!」
木組みの枠に頭をぶつけ、目の前に星が散る。痛みに涙が滲んだ。ジャンマリアを見下ろすマウリリオは、何も言わず、ただおそろしいほどの強い力で彼を押さえつけていた。
「兄さん……ジゼッラ姉さんが嫌いだったね、あなたは。ジゼッラ姉さんは喋ることができなかったから……」
「おまえは勘違いをしているよ、マウリリオ。僕がジゼッラを嫌いだったのは、あれが女だったからだ」
「おなじことだよ……」
マウリリオは悲しげにそう言うと、ジャンマリアの唇を塞いだ。性急な舌が舌を絡めとるのと同時に、彼の痩せた手がジャンマリアの性器を探る。すぐに熱くなった。すでに求めていた。
ジャンマリアは笑った。
先程マウリリオが浮かべたのと、そっくり同じ笑みを。
「僕を抱くのかマウリリオ。おまえが僕を?」
「そうだよ、兄さん」
「面白いことを言うね。何のつもりか知らないが……もし僕を傷つけようと思っているのなら意味がない」
ジャンマリアは膝を立て、足を持ち上げてマウリリオの股間に当てた。硬くなって膨らんだそこにぐりぐりと膝を押し付けると、マウリリオが唇を噛む。薄い唇に、汚れた歯があたり……そこが少し白くなる。「僕に抱かれるときよりも、おまえは興奮するらしい。なぜだ?」。「さあ、どうぞ。僕を好きに犯すといい。下賤な物乞いに相応しいやり方で、僕の嫌悪に文句をつければいいだろう。おまえだからゆるしてやる……マウリリオ……」
なげやりに言って――両腕を伸ばし、弟の首へ引っかけた。気のない娼婦のようにして。躰を這いまわる手や舌の感触に、ただ、もう、何も感じない。ジャンマリアはおもしろくなかった。心底から。この交わりにどんな快楽も見出そうとは思えなかった。最初で最後の情けとして己の躰を差し出しただけだ、本性を露わにしてしまった、弟を名乗る何かに向けて……あの晩みた、手ゆびの先の黒い、怪物に向けて。
貫かれても、揺さぶられても、悲鳴のひとつも上がらなかった。彼が心から愛する悦楽は影さえ見当たらずただ、ただ、ただ空しい。失われたのはマウリリオの目でなく、足でなく、ジャンマリアの弟だ。ジャンマリアの愛だったのだ。
ふとぱたぱたと腹や胸に液体が落ちるのを感じて、ジャンマリアはうっすらと目を開いた。未だ彼の腹の中へ侵入したままのマウリリオが、びくびくと躰をひくつかせている。射精しているのかと思ったが違った。涙かとも思ったがそうではなかった。血と吐瀉物が糸引きながらジャンマリアに降りかかっていた。
「マウリリオ?」
呆けたように瞬いてジャンマリアは弟を見た。彼は汚れた唇を曲げた。
「もう長くない。兄さんは本当に何も知らないんだね。なんで俺の目は見えないんだ? 毒ガスのせいだよ、兄さん。もう長くないんだ。だからほんとうは、ここへ帰るつもりじゃなかった。でも、兄さんが迎えに来てくれたから……また……信じたくなったんだ……」
「どういう意味だ、マウリリオ。冗談だろう? 病で死ぬなら僕が先だ」
「ジゼッラ姉さんの墓がないなら、きっと俺の墓も作ってはくれないでしょう? あなたはすぐに俺の代わりを見つけるでしょう」
マウリリオはジャンマリアの腰を掴む。ぐっと突き入れられて、ジャンマリアは「あっ……、あ!」呻いた。
「はは……今更……」
幾度も幾度も突き上げられた。硬い座面のせいで、躰が痛かった。マウリリオがぐうと背を丸めて射精を迎えるまで、ジャンマリアはむっつりと耐えた。
「ああ……」
柔らかく穏やかだったフェルトのような声はかすれていた。演劇じみた、感嘆のせりふのようだった。「ああ……」とただその一言。吐精の瞬間、感極まった彼の薄い唇、無事な唇から漏れ出でる最期の吐息だと感じた。
マウリリオが腰を引き、嫌な感触とともに完全に彼が姿を消す。追いすがるようにそこから零れ落ちる精が、どうしようもなく滑稽だった。もう長くないと言いながら、彼はいったい何を?
ジャンマリアはマウリリオの髪を梳いた。
「もう、死ぬんだ、俺は」
やはり泣いているのだと思う。
マウリリオは。
「おまえの墓を作るくらい造作ない――キリストが……いや僕とジゼッラでもいいが……くっついているやつだっていい――が、おまえが死んだら僕は悲しいよ、マウリリオ。どうして勝手に死ぬなどと? 死ぬとわかっていてなお僕から離れて……サーカス団に帰りたいなどと……そんなことを言ったのか?」
包帯がじわりと色を変えた――ように思った。
「おまえは僕のものだ。だから僕はおまえを守ってやりたかったのに。おまえが役目を放棄したんだ。勝手に傷ついて……勝手に醜くなって。挙句おまえは足まで失くした。僕がどれだけ我慢したと思っている? どれだけ傷ついたと思っている。おまえがおまえを損なったから、僕は辛い思いをしたんだ。おまえのせいだ、マウリリオ。勝手なことを」
マウリリオがどさりとジャンマリアに重なる。二人の胸の間で、血交じりの吐瀉物が塗り広げられた。いやなにおいのするサーカスの小屋で抱き合って。
「……いやだよ、兄さん、ジャンマリア。兄さんは長生きしてくれないと困るよ。病気で死んだらだめだ」
「そう言われたって、どうしようもないだろう。僕は五歳ごとに余命を宣告されて生きてきたんだぞ」
ジャンマリアはふと横目で舞台を見た。
白い欠片が落ちている。
玉乗り少女の足だと気が付いて、すこしだけ笑った。
何もかもが、馬鹿げていた。
(マウリリオの墓にキリストだって? ほとんど死人みたいに生きてきた僕が。ミケランジェロのように?)
(七)
小屋はあっという間に解体された。療養院からは先週、五人の亡骸が運び出されていった。未だ帰ることの出来ていなかった兵士たちは、つまり、もうどこにも家族がいないとか、自分の消息を知らせたくないだとか、そういうことだった。
また一体、運び出されていく。
ジャンマリアはぼんやりと広場に立っていた。
昨日……昨晩までここにあった小屋はもうない。まるで嵐のように過ぎ去っていった。サーカスも、あの性交も。マウリリオもまた。
広場の石畳の一枚が、少しだけ浮き上がっていた。どうやら柱をここに突き立てていたらしい。苦笑して、ジャンマリアはその煉瓦のでっぱりを踏んだ。
すると中にはどうやらごみでも捨ててあったらしい、なにか粘つく液体がびゅっと勢いよく飛び出して、ジャンマリアの靴を汚した。
「…………」
彼はむっとして唇を引き結ぶと、通りに座り込む靴磨きの少年を、高圧的な口調で呼ばった。
「早くこちらへ来い」
Farsa 跳世ひつじ @fried_sheepgoat
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